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「もう!こんなんじゃいくらレッスン続けたって意味がないわ!やめよ!やめ!」

 一方的に言い捨ててレッスンスタジオを飛び出す。後ろでPが呼び止めていたけど聞く気はない。
何度目だろう、こんな風に私が一方的にレッスンを打ち切って飛び出したのは。確かに今度の新曲は今までとイメージを変える為に
色々とハードルが高くなっているけど、それだって今の私達にとってはそこまで難しいことじゃない。でも、上手くいかない。
上手くいかないからイライラするのか、いらだっているから上手くいかないのか分からないが、とにかくここ最近の私はひどく苛立っている。
 イライラの原因もはっきり分かっている。でも、その苛立ちを解消するために原因の相手にぶちまけることなんてできない。
結果として、私のイライラはユニットを組んでいるやよいに八つ当たりとして爆発する。やよいには一切責められるいわれなんてないのに。
だからイライラをぶちまけた後はすぐに自己嫌悪に陥るのだ。そしてその自己嫌悪にますます苛立つ――我ながらひどい悪循環。

「それもこれも、あいつが今更のうのうと出戻ってくるからいけないのよ……!」

 あいつ――秋月律子が765プロに戻ってきてからと言うもの、私の調子は狂いっぱなしだ。
私がお父様の伝を使ってこの事務所の扉を叩いた時高木のおじ様はあいにくと不在で、戻ってくるまでの間、私の対応をしたのが律子だった。
なかなか戻ってこない高木のおじ様に不満をこぼす私に、律子は一言「子供ね」と呟いたのだ。
 聞き捨てならない一言に食って掛かる私と、それを一々正論でねじ伏せる律子。おじ様が戻った時、私は被るべき猫をすっかり脱ぎ捨てて
事務所の応接室で律子に噛み付きかねない勢いで歯を剥いていた。

「思えば最悪の出会いよね!それからだってあいつはいつもいつも……」

 その後、律子も765プロのアイドル候補生だと知った時には驚いた。
事務所で会ったときはただの事務員だと思った相手が実はアイドルの先輩で、それもすでにデビューを果たしていてCランクアイドルだと言う。
ただ、驚くと同時にその事実は大いに私を発奮させた。律子でもなれるCランクアイドルなら、私ならきっとすぐにもっと成功できる。
そうなったらあの理屈で固めた高慢ちきな眼鏡を平伏させてやる――そんな風に夢想していた。
 そんな私の認識の甘さは、そう時間をかけず思い知らされる事になったけれど。
 いっこうに決まらない担当プロデューサー、他のアイドル候補生が次々とデビューしてスケジュールを埋めていく中、事務所に通って
自主トレをして帰るだけの毎日。腐ってやめてしまおうと思ったことも何度もあったけど、その度に私を踏みとどまらせたのは律子の存在だった。
いつの頃からかそれは敵愾心と言ったものではなくなり、自主トレに事務所に顔を出した時、律子の顔が見られると喜んでいる自分が居た。
律子も律子で時間があると私の自主トレに付き合ってくれたりして、それは事務所の先輩アイドルとしての心遣いだったと分かってはいても
私の中の律子への気持ちを変化させるには十分で。その気持ちが私の中で特別な意味を持つと自覚するのにそう時間はかからなかった。

「でも――だからこそ……わかっちゃったのよね」

 私が律子に向けている特別な気持ちは、決して律子から私に向けられることはないと気付いてしまったのだ。
私が求めてやまなかった律子の視線の先には、いつも違う相手がいるとこに気付いてしまったから。私が律子を見るのと同じ想いのこもった目で
律子は他の人を見ていた。ずっと律子を見ていたからこそ、一番知りたくないことを知ってしまった。
 結局、私の想いは当たって砕けることすらなく、とても中途半端な形で終わってしまうことになる。
 そうこうしているうちにも律子はアイドルとして着実に実績を積み重ねてAランクに到達、その後765プロから独立して事務所を立ち上げた。
私もその頃には担当Pが決まってやよいとのデュオで活動をはじめていて、その準備やレッスンに奔走しているうちに律子への気持ちも
自分の中でどうにか落ち着きはじめていた。最近では活動も順調に軌道に乗りランクアップも好調、次の新曲で新たな面を見せてさらなる
ランクアップを目指すはずだった――だと言うのに。

「なんで今更私の前に戻ってくるのよ!……それもよりによって失恋の原因まで一緒に連れて!」

 失恋の原因、と言っても実際には告白すらすることなく終わったのだから、失恋と言えるかどうかすら怪しいのだけど。
私の失恋の原因、つまり律子が想いを寄せていた相手は少し前まで同じ765プロに所属していた如月千早その人だ。抜群の歌唱力を持った
新人として765プロでも早いうちにデビューした一人ではあったけど、デビュー後1年を待たずに担当Pが降板、その後についたPも
数ヶ月の活動後Pの職を辞している。そのせいで悪徳あたりに好き放題書かれてしばらくの間活動を休止していた。
 そんな千早のPとして独立した律子が名乗りをあげ、千早は律子の事務所に移籍、そこからの千早の躍進ぶりは凄かった。持ち前の歌唱力は
さらに広がりを見せ、歌以外の仕事にも積極的に取り組むようになった彼女は当然の様にAランクアイドルに登りつめる。
 最初に千早の歌を聞いたときは『上手いけど、でもそれだけ』と思ったものだけど、今の千早はそれだけじゃないのが私にも分かる。
なによりもとてもいい顔をして笑うようになった。悔しいけれど幸せなんだろうと思う。以前の常に張り詰めた顔をしているのを見ると
イライラさせられていた私としては、今の千早は素直に祝福もしたい。その笑顔を生み出している要因のかなりの部分を占めるのが律子だと言うのは
苦い思いもあるけれど誇らしくもある。
 その千早が今回海外挑戦をすることになったのだ。海外挑戦をするにあたって新進の秋月事務所だけではさすがに手が足りず
社長が765プロとしてサポートを申し出、それを受ける形で律子と千早は現在765プロに戻ってきているのだ。

「あーもー、ほんと最悪……今から引き返してやよいに謝ろうかしら……」

 無論、そんなことなどできる自分ではないことは分かっている。それでも、せめてやよいにだけはちゃんと謝っておこうとメールを送ろうと携帯を
取り出した瞬間、着信を知らせる振動に思わずびくっとする。

「やよいから!?」
『件名:ごめんね
 伊織ちゃんごめんね、私まだ上手く出来なくて伊織ちゃんの足引っ張っちゃって
 でもでも、次のレッスンまでにはちゃんとついていけるように練習頑張るから
 次のお仕事の日は一緒に頑張れたら嬉しいかなーって…。       やよい 』
「やよい……」

 届いたメールの文面に胸が締め付けられて、携帯を握り締めたまま動けなくなる。本来やよいが謝る理由なんてどこにもないただの八つ当たりなのに。

「やっぱり、今からでも戻ってやよいに謝らないとっ……」

 何度もそう思ったのに私の足は結局レッスン上に戻る方向へは動いてくれず、新堂の待つ車へと向かってしか動いてくれなくて。
結局、私はレッスン場に戻ることも無くそのまま家に帰り、自室に戻って何度もメールを送ろうと携帯を取り出してはやめてを繰り返した。

(明日よ明日!明日またレッスンがあるんだし、その時にはちゃんとやよいに謝ればいいのよ私!)

 胸に抱えたうさちゃんに明日私がやるべきことを誓って眠りに落ちる。そう、明日はちゃんと謝って仲直りするのだ――

 
 そう固く誓って事務所に顔を出した次の日、私の決意はいともあっさり揺らぐことになった。
まず事務所のドアを開けて中へ入る、次に全員の今日の予定が書いてあるホワイトボードをチェックして自分とやよいのスケジュールを確認する。
昨夜確認した通り私とやよいは今日もレッスン、事務所の奥からはやよいの元気な声が聞こえてくる。あとはこのまま自然に挨拶をしてから
やよいの所へ行って『昨日はごめんなさいね、私もイライラしてたみたいで、今日からまた一緒に頑張りましょ』そう、これよ、これ。
昨夜ベッドの中で何度も繰り返した言葉を伝えて仲直り。またいつもどおりに戻る予定だったのに――

 やよいが話している隣の人物を見た途端、私はわけもなく近くのデスクの陰に隠れてしまう。

(なんで律子がいるのよ!あんた今日は千早と営業ってなってるじゃない!)

 デスクの陰からやよいと律子のほうをのぞき見る。我ながら怪しいのは重々承知だけれど、一度隠れてしまった都合上
出て行くにもタイミングが重要になるのだ。

(そう、あくまで自然に挨拶するところから始めなきゃいけないのよ、ちょっとしたイレギュラーに対応するためにもここはチャンスを窺うべきなのよ!)

 誰に言うでもない言い訳を心の中で言いながら、2人の会話に耳を澄ませる。どうやらやよいは律子に何か相談をしているらしい。
私が事務所に入ってきたときは元気に聞こえてきたやよいの声が、律子と話している今、ここからだと聞き取れないくらい小さくなっている。

「もー、一体何の話してるのよ!て言うか、やよい元気ないけどやっぱり昨日の私のせいかしらね……」

 やよいはいつになく真剣な顔で律子に何かを話している。聞いている律子も時折うなずきながらちゃんと聞いているようだ。

(あ、やよい笑ってる……良かった、って律子あんた何やよいの頭撫でてるのよ!私にはそんな顔見せたことないのに!やよいも嬉しそうにしてるし!)

 やよいに優しく笑いかける律子と、律子に頭を撫でられて少し照れくさそうにしているやよいをデスクの陰から地団駄を踏む思いで盗み見ていた私の肩を
申し訳無さそうに誰かが叩いた。

「あの〜、伊織ちゃん」
「あ?うっさいわね、今ちょっと大事なところなんだからむこう行ってて!」
「いやあの伊織ちゃん、お邪魔したくないのは山々なんだけどね?お姉さんも仕事しないと怒られちゃうかなーと」
「あーもー、何よしつこいわね!今大事なところだって何度言えばって小鳥!?なんで小鳥が私の背後にいるのよ!?」
「ひどいわ伊織ちゃん、なんでも何もここ私のデスクなのに……」

 振り向くとそこには小鳥が人差し指を突きあわせながらいじけていた。

「そりゃあね、お姉さんも律子さんとやよいちゃんのスイートな時間を邪魔しちゃダメだとは思ったのよ?事務所の先輩で仕事もできる才媛と
 それにほのかな憧れを抱く後輩アイドル……とかとか、そりゃもう考えただけでご飯3杯いけそうなシチュじゃないですか!」
「なに言ってるのよこのダメ事務員!そうやってすぐ妄想に走るから現実で男っ気が遠のくのよ!」
「うっ……伊織ちゃん、むき出しの言葉のナイフがグサグサ突き刺さって、お姉さん立ち直れそうにないわ……」
「何が言葉のナイフよ!どうせ『言葉責め……アリね!』とか思ってるんでしょうに!この変態事務員!」
「凄いわ伊織ちゃん、いつから人の心が読めるように」 
「まったく!つきあってられないわ……」

 ついいつもの癖で小鳥に突っ込みを入れてたら――

「おはよ伊織、挨拶もそこそこに小鳥さんと朝から漫才?」
「伊織ちゃんに小鳥さん、おはようございまーすっ!」

 やよいと律子に見つかって挨拶までされてしまった。イレギュラーに対応どころか躓きっぱなしで泥沼にはまる一方だ。

「おはようございます、律子さん、やよいちゃん」
「あ、おっ、おはよう二人とも」
「まったく、伊織も相変わらずね。元気そうなのはなによりだけど」
「相変わらずってどういう意味よ!?そこはこの際置いておくけど、あんた今日は千早と営業じゃないの!?」
「それが先方の都合でスケジュールが午後からに変更になってね。午前はぽっかり時間ができちゃったってわけ」
「それでね伊織ちゃん、律子さんが私たちの午前中のレッスン見てくれるって!」
「はぁ!?あいつはどうしたのよ?私たちのPは!?」
「伊織たちのPさんは飛び込みのオファーが入ってそっちの調整で午前は不在だそうよ。それで、時間の空いたわたしが付き添いを頼まれたの」
「なにやってんのよあのバカ……よりにもよってこのタイミングで……」
「ん?まあ午後には戻ってくるしあくまでそれまでの付き添いよ。2人のPにはまだ遠く及ばない駆け出しPのわたしが変にアドバイスして
 方針が食い違っちゃったりしたらそれこそ申し訳ないしね。だからあくまで見てるだけだから心配しないで」
「うぅ〜、伊織ちゃんは律子さんに見てもらうのいやだった?私がお願いしたんだけど、迷惑だったかな……?」

 私と律子のやり取りを聞いていたやよいがションボリしながら聞いてくる、これはまずい。

「べっ、別に迷惑でもないし嫌でもないわよ。海外挑戦を控えた秋月律子Pのお手並みを拝見させてもらおうじゃない」
「よかったー。えへへっ、やっぱり律子さんにお願いして正解だったかもっ」
「ふふっ、やよいに頼まれたら断れないわよね。さて、それじゃそろそろスタジオに移動しましょうか」

 こうして、私が前夜なかなか寝付けないベッドの中で何度もシミュレートしたことは一切役に立つことなく終わった。
スタジオに向かう二人の後姿を見ながら、私は誰かが言った『運命の女神は意地の悪い老婆の顔をしている』って言葉を思い出していた。



 レッスンスタジオについてから練習用のジャージに着替えてまず体を温めるためのストレッチ、それから基礎的な発声練習と下準備を済ませて
本格的なレッスンにはいる。今度の新曲『relations』は今までにリリースした曲よりダンスに重きを置いた曲だからまずはダンスレッスンから。
たしかにこれまでの曲に比べるとダンスの難易度は高くなっているけれど、こなせないとか出来なくて癇癪を起こすほどのものじゃない。
 問題は歌詞の内容のほうなのだ。特に後半の歌詞がどうしても引っ掛かりを感じて感情移入ができない。

『私のものにならなくていい そばにいるだけでいい』

 そばにいてくれるだけでもいい、その気持ちはわからないではない。でも、自分にとって唯一の人には自分も相手にとって唯一であって欲しい。
私のものにならなくてもいいなんて言うのは私には逃げとしか思えない。

『アノコにもしも飽きたら〜』

 飽きたらってなに?飽きるまで待つつもりなの?飽きなかったらずっと待ち続けるの?そんなの私だったら耐えられない。でも――
歌詞を否定すればするほど、どこかでその内容を理解し共感し、そうであってくれたらと思ってしまう自分に気付かされるのが堪らなかった。
結局のところ私は律子のことを少しも吹っ切れてなどいないのだ。やよいと一緒に充実した日々に忙殺されていることで吹っ切った気になっていただけ。
だから律子が目の前に戻ってきた途端、いとも容易く私の心は乱されてしまう。
 雑念にとらわれたままのレッスンで結果が出せるはずもなく、この日のレッスンの出来も散々なのが自分でも分かる。
律子は事前の宣言どおり私達に一切口を出すことはせず、レッスンスタジオの隅に立ってじっと私たち二人を見ているだけ。

(なんなのよ!これだけひどい出来なんだから説教の一つ位してもいいじゃない!それとも、私のことなんてもうどうでもいいってわけ!?)

 湧き上がるイライラをぶつけるように何度も頭から曲を浚う。ぶっ通しでやっているから手も足も上がらなくなってきているし
声だってろくに出てこない。それでも、律子に何か言われる前にやめてしまったら負けてしまうような気がして止められない。

「『じゃあね』なんて言わないで 『またね』って言――っ!」
「伊織ちゃんっ!」

 自分でも何度目か分からなくなってきていたサビの部分に差し掛かったとき、ステップを踏み変えるはずの足から完全に力が抜けて
大きく体勢を崩して倒れそうになる。硬い床とぶつかる衝撃を覚悟した私に訪れたのは、意外にも何か柔らかいものとぶつかる感触だった。

「大丈夫伊織ちゃん!?どこかぶつけてたりしない?」
「ええ、大丈夫……って、やよい!?」

 柔らかい感触の正体はやよいだった。倒れる私を抱きかかえて床との間でクッションになってくれたらしい。

「えへへー、よかった。伊織ちゃんが怪我とかしなくて」
「ごめん、すぐどくわ!それよりやよいは平気なの?!」
「私?私は平気だよ。伊織ちゃんびっくりするくらい軽いし、何より私は丈夫なのがとりえだしっ」
「そ、そう。なら良かったけど。あっ、ごめん、今どくわ――痛っ!」

 やよいの上に乗っかったままでいるのに気付いて慌てて立ち上がろうと足を付いた途端、足首の辺りに鈍い痛みが走って立ち上がれない。

「痛ったぁ……さっきので捻っちゃったのかしら……」
「はわっ、伊織ちゃん無理しないで!ほら、肩貸すからつかまって」
「ごめんねやよい……ほんと、何やってるのよ私……」
「平気平気っ、律子さん!伊織ちゃんが足捻っちゃったみたいで、その、えと」

 ここまでずっと黙っていた律子がはじめて口を開く。

「そうね、ここで休憩にしましょ。ごめんやよい、小鳥さんのところに行って救急箱とか貰ってきてくれる?」
「はーい、わかりましたーっ!すぐ行ってきますねっ」
「ありがとう。伊織、あなたはここに座って。捻ったところ見るから」
「平気よこれくらいっ」
「そんな顔してて平気なわけないでしょ。いいからそこに座る」
「わかったわよ……」

 強がってはみたけれど、本当は立っているだけでも辛いほどズキズキと痛むので、不承不承といった顔で勧められた椅子に腰を下ろす。

「こっちの足よね?ちょっと触るけど、痛かったらごめん」

 律子の手が手早く私の靴と靴下を脱がして痛む足に触れる。レッスンで動きっぱなしだったのと、痛めたところが熱を持っているからなのか
そっと触れた律子の指先の冷たい感触が心地良い。

「捻ったところは下手に触らない方が良さそうね。そこ以外のところもオーバーワークで悲鳴を上げてるからマッサージだけしておきましょ」

 私が何か言う前に、患部から離れた律子の手が私のふくらはぎのマッサージを始めてしまう。
ずいぶんと手馴れているそれは確かにたいした効き目で、無茶をさせて張り詰めていた私の足をゆるゆると弛緩させてくれた。
二人きりになってしまったレッスン室に、どこか気まずい沈黙が漂う。
我慢しきれずに私が口を開く前に、足を揉みながらの律子が視線を下に向けたままポツリと口を開く。

「ねえ伊織、あなたわたしに何か言いたいことがあるんじゃない?」
「なっ!?別にあんたに言いたいことなんてなんにもないわよっ」
「そう?ここのところ順調そうだった伊織の様子がおかしくなったのって、わたし達がこっちに戻ってきてからでしょ」
「そんなこと、あるわけないわっ!自意識過剰にもほどがあるんじゃないの!」
「伊織…………」

 それまで下を向いていた律子が真剣な瞳で私を捉える。目が――逸らせない。

「あんたに言いたいことなんてなにもっ、なにもないわよっ!」

 これ以上何も言わせないで欲しい。これ以上口を開いたら抑えていたものが全部あふれ出てしまう。

「伊織……わたしはそこまで鈍い女だと思われてる?それとも、わたしはもう伊織の気持ちを吐き出す相手にすらなり得ない?」
「…………え?」
「ごめんね伊織、わたしはあなたの気持ちを知っていた。知っていてそれでも、その気持ちには応えられないのもわかっていた。
 だから伊織が何も言わずに居てくれたことに正直ほっとしていたの。ひどい女でしょ……」
「りつ、こ……?」
「独立した後、伊織がやよいとデュオを組んで楽しそうに活動しているのを見て安心してた。きっと伊織は吹っ切ってくれたんだって。
 でも、そうじゃなかった。そんなのはわたしの勝手な願望。現に伊織はこうして苦しんでしまっているものね……」

 律子の両手が私の頬をそっと包む。

「こんなに悲しそうな涙を流しているのに、それでもわたしは応えてあげられない……ほんとひどい奴よね、わたしは……」
「あっ、あんたなんかっ!地味でおさげで眼鏡で、自分のことはいつも過小評価ばっかりしてるいじけたやつでっ、第一印象は最悪で
 その後だって碌な印象はなくてっ、でも、それなのに、いつの頃からかあんたのことばっかり目で追うようになってて、気付いたら
 あんたのことばっかり見てて……そうしたら……どうして、あんたなんかっ……!」
「伊織……」
「どうしてあんたなんか好きになっちゃったのよ……どうしてっ、うっ、くっ、うわああぁぁぁっ…………!」

 もう止まらなかった。今まで自分の中にたまっていたもの全てが涙と一緒にあふれ出して止められそうもない。

「ごめんね伊織…………」
「謝らないでよ馬鹿ぁっ……謝られたりしたら、うっく、惨めになるじゃない……」
「そう、そうね……でも、ごめん……」

 そう言って律子は涙でぐしゃぐしゃの私の顔をそっと胸に抱いてくれる。今だけ、今だけはこの暖かさに全てゆだねてしまおう。
この暖かさが本来は他の誰かのものだったとしても、今この瞬間だけは私に与えられたものだ。
どのくらいそうして泣いていただろう、顔をうずめていた律子のスーツの胸元は私の涙でかなり大きな染みができていた。

「もう……もう、大丈夫。大丈夫だから離して」
「伊織」
「なっ、なによ……」
「ううん、なんでもない。ほら、やよいが戻ってくるまでに涙だけ拭いちゃいなさい、またやよいが心配するわよ」

 律子の言葉に慌ててタオルで顔をごしごしと少し乱暴に拭く。こんな顔をしてたらまたやよいに余計な心配をかけてしまう。
まだ少し失恋の痛手に胸が苦しいけど、以前の澱の様にたまったままの気持ちよりずっと清々しているだけましだ。何よりこの方がずっと私らしい。

「ふんっ!いまに私を振ったこと後悔させてあげるわ。あんな可愛い子をなんで私は選ばなかったんだろう、ってね」
「ふふふっ、期待してるわ」
「律子さーんっ!救急箱持ってきましたーっ」

 ちょうどいいタイミングでやよいが戻ってきた。

「ありがと、やよい。はい伊織足出して、捻ったところテーピングして今日はこのまま病院に寄って帰ったほうがいいわ」
「大丈夫よって言いたいところだけど、ちょっと厳しそうだし、今日のところは素直にそうするわ」
「うぅ〜、大丈夫伊織ちゃん?」
「大丈夫よ、元々わたしがペースも考えずに無茶した結果なんだから。とは言うものの、ちょっと歩くのもしんどいわね」
「じゃあ、私が新堂さんの車のところまで肩貸すから一緒にいこっ」
「それじゃあやよい、伊織のこと頼むわね。わたしは二人のPに連絡しておくから。ついでに監督不行き届きのお説教もされておくわ」
「律子さん怒られちゃうんですか?」
「平気よ、私達のレッスン放り出して仕事入れたあいつに文句なんて言わせないわ」
「ほらほら、わたしのことは良いから二人とも早く帰って病院に行きなさい。やよい、伊織のことよろしくね」
「はいっ!まかせてください!」

 それからやよいの肩を借りて待たせてあった車までどうにか歩き、そのまま付き添ってくれたやよいと一緒に新堂が手配してくれた
近くの整形外科に。診察の結果は軽い捻挫で、湿布を張られて今日一日は安静にしているようにと言い渡されて無事終了。
救急箱を取りに行った時にやよいから話を聞いていただけだったからか、新堂が必要以上に心配していたのがちょっとおかしかった。
診察も終わったのでそのまま車をやよいの家に向かわせる。やよいの家に向かうまでの車中、所在なさげにしていた私の手をやよいがそっと握ってきて
なぜだか無性に気恥ずかしくなってしまったけど、それ以上にやよいの手の暖かさは私の心を満たしてくれるようで。

「あ、ここで大丈夫ですっ、それじゃ伊織ちゃん、またお仕事のときにねっ!」
「ええ、またね、やよい」

 車のドアを開けて半分体を出しかけていたやよいが、不意に体を戻して私をぎゅっと抱きしめる。

「ふぁ!?や、やよいっ!?」
「伊織ちゃん、こうしてぎゅっとされると痛いのも苦しいのも悲しいのも全部吹き飛んじゃうから、だから大丈夫だからね」
「やよい……」
「えへへっ、元気でたかな?それじゃあまたね!新堂さん、送ってくれてありがとうございましたーっ」

 私をふっと放すと、車の外へ出てから新堂に大げさにお辞儀をして自分の家に駆けていくやよい。
その後姿を見つめていたら、さっきまでやよいに抱きしめられていた感触を思い出して、自然と胸が温かくなる。

「帰りましょう新堂、流石に今日は家に帰っておとなしくしているわ」

 私は家に帰るとそのまま自室のベッドにもぐりこんだ。今日、私を包んだ二つの暖かさを忘れたくなかったから。
どうやらそのまま眠ってしまったようで、新堂が夕食の用意ができたのを知らせにきてようやく私は目を覚ました。ベッドサイドに放り出した携帯に
着信を知らせるランプが点灯している。一件はやよいからで、心配していることや今度の仕事で合うのが楽しみなことがいつものやよいのまま
メールに書かれていてつい笑みが浮かんでしまう。もう一件はPからで、今日のことへの謝罪やら色々あったけど少し読んで携帯を閉じた。

「律子に逃がした魚が大きかったって思わせるためにも、しっかりこき使ってやるんだから覚悟してなさい、にひひっ」



 それから一月ほどして律子と千早が海外挑戦のために出発する日がやってきた。
本当なら事務所総出で見送りに来るはずだったらしいのだけど、まがりなりにも売れっ子アイドルを抱える765プロ、スケジュールの都合がついたのは
私たちと春香、亜美真美、あとはそれぞれの担当P達だけだった。もっとも、当の本人達が大仰な見送りを遠慮したのもあるのだろうけど。

「千早ちゃん、律子さん、体にはくれぐれも気をつけてね、生水飲んじゃダメだよ、えっと、それからそれからー、とにかく頑張ってね!」
「「律っちゃん、千早お姉ちゃん、おみやげよろ→」」
「律子さん千早さん、頑張ってきてくださいねっ!私も日本から応援してますからっ」
「あんた達が居ない間に日本は私とやよいが牛耳っておくから、ゲストに呼んでも恥ずかしくない程度にはなってきなさいよねっ」
「ありがとう、他のみんなにもよろしくね」

 しばし出発ロビーでそれぞれに別れを惜しんで話に花を咲かせている中、私は自分の心が落ち着いていることを確認する。

(大丈夫、律子と千早の前でもちゃんと自然に笑えるようになってる。もう――大丈夫)

 律子が時計をちらっと気にする。そろそろ時間が近いようだ。

「それじゃあそろそろ移動します。初の海外挑戦で飛行機に乗り遅れたじゃかっこ悪いですからね」
「私達も飛び立つのが見えるところに移動しましょうか。ほらほらPさん達も行きますよ!」
「悪いわ春香、出国審査からフライトまではまだ時間がかかるし」
「気にしないでいいよ千早お姉ちゃん、単純に亜美たちが飛行機が見たいだけってのもあるんだから。じゃあレッツゴ→」
「いおりんにやよいっち、置いてっちゃうよー」
「あ、待ってよ亜美、真美。どうしたの伊織ちゃん?」
「ごめんやよい、みんなと一緒にちょっと先に行ってて。律子、ちょっといい?」
「ん?わかった。ごめん千早、少し先に行っててくれる?」

 千早を先に行かせた律子が私のそばにやってくる。

「なに?伊織」
「あんた達のことだから大丈夫だとは思うけど、一応これ、渡しておくわ。水瀬グループのむこうでの連絡先。なにかあったら使って頂戴」
「ありがとう。でも、せっかく呼び止めてまで渡してくれるなら、もうちょっと勇気付けられるもののほうが良かったかな」
「何よ、勇気付けられるものって?」
「んー、たとえば伊織からのお別れのキスとか」
「はぁっ!?なに言ってんのよ!公衆の面前でそんなことする訳無いでしょ!」
「あはは、冗談よ冗談。本音を言えば一番勇気付けられるものはもう貰ったから」
「……なによ?」
「こうして伊織が見送りに来てくれたこと。それだけで十分むこうで頑張る勇気をもらえたわ」
「なに恥ずかしいこと言ってるのよ……」
「ふふっ、本当にありがと伊織。っと、そろそろ行かないと。伊織もやよいと仲良くね」

 最後ににっこりと笑って律子が小走りにゲートに駆けて行く。

「あっ、律子っ!」
「ん?なに?」
「千早に言っときなさい、浮かれて左手薬指に指輪なんてつけてるとパパラッチが寄って来るわよって!」
「えっ?!いや、指輪は今朝わたしがお揃いのチェーンで首にかけたはず――って、伊織ーっ!」
「ふん!幸せボケしてるからこんな簡単なカマかけに引っかかるのよ!せいぜいお幸せにっ!」

 思いっ切り舌を出して言い捨てて、後ろでまだ何か言っている律子を置いてみんなの方へ走り出す。少し行った所でやよいが待っていてくれた。

「伊織ちゃんお別れはすんだ?」
「やよい……ええ、綺麗さっぱり済ませてきたわ。待っててくれてありがと、やよい」
「えへへっ、じゃあ、みんなと一緒に律子さんたちを見送りに行こうっ!」

 すっと差し出されたやよいの手を握って、私たちは他のみんなのところへ駆け出していった。


「ねえねえはるるん、あの飛行機かな?」
「多分そうじゃないかな、あっ動いた、千早ちゃーん、律子さーん、頑張ってねー!」

 動き出した飛行機が徐々に加速してゆっくりと舞い上がっていく。春香や亜美たちが手を振ってそれを見送っている横で
私とやよいは互いの手を繋いだまま、段々と小さくなっていく飛行機をただ見つめていた。
失恋の古傷は時折ちくりと胸に刺さるけれど、今は繋いだこの手の確かな暖かさを信じて頑張れる。

「伊織ちゃん、一緒に頑張ろうね」
「もちろんよやよい!あの二人が帰ってきたら驚くくらいビックになってやるわよ!その為にもそこのアンタ!いつまでも手なんか振ってないで
 さっさとわたし達がビックになれるようにプロデュースしなさい!」
「いおりんがいつになく燃えてるよ、真美」
「あれはきっと悪いものでも食べたに違いないね、亜美」
「黙りなさいそこの二人!そうと決まったら明日からといわず今日からバリバリ行くわよ!
 日本中をこの伊織ちゃんの魅力の前にひれ伏させてやるんだから、覚悟してなさい!にひひっ」
「うっう〜!わたしも頑張るよ伊織ちゃん!」

 
 きっとこれが一番私らしい。繋いだ手を離さないようにしっかりと握って、私たちは振り返らずに走り出した。


 (了)

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