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春香が一人暮らしを始めた。

実家で暮らすよりも学校と事務所に近い場所。
私の家とも一駅。
今までより、逢いやすくなった。

「ゆっくりできるのはいいね」
いつもの喫茶店で春香は笑う。
時間にゆとりがあると、ついつい会話に花が咲いてしまう。
それなのに。
いつも、帰り際に春香は笑わなくなる。
一人暮らし、一週間。
少し寂しい時もあるのだろう。
「電話とかしてきていいのよ」
寂しさを紛らわせられるなら、それがいい。
私も、本当はいつまでも春香と話していたい。
「千早ちゃんの迷惑になっちゃうじゃない」
「遠慮するような間柄だったかしら?」
俯いて、カップに残ったコーヒーを飲んで、それから春香は目を閉じた。
「よし」
小さく呟く。
何かを決心したのか。
瞳を開いて私に向き直り、

「じゃあ、千早ちゃん。今日泊まりに来て?」

「……はい?」

突拍子もない事を言い出した。

春香依存症


家に寄り、着替えなどを用意した。
今日は帰らない事を書き置きして玄関を開けるとニコニコ顔の春香。
「お待たせ」
「うん。じゃ、行こう」
二人並んで一駅の距離を歩く。
夕方の風に、春香のにおいが乗っていた。
汗と、春香。
それに気がつくと、胸が鳴った。
「千早ちゃん?」
春香の顔がすぐ目の前にあった。
「っ! な、なに……?」
「ぼーっとしてるから。もしかして、泊まりに来るのいやだった?」
「そ、そんなこと無いわ」
「そう? ならいいんだけど」
にへら、としまりなく笑う。
亜美からスライムみたいと笑われていた、愛嬌のある笑顔。
無防備な時にしか見せない、そんな表情。
「千早ちゃんはこの辺、詳しいんだよね?」
「ある程度なら」
「それじゃあ安いスーパーとか知ってるよね」
「春香の部屋の近くが一番安いわ」
おお、と春香は感嘆している。
十五年も暮らしてるのだ。
そのくらいは把握している。
「じゃあ、今晩は何にしようかなー」
「ラーメンがいいわね」
「ええー。私が作るよ?」
春香の手料理。
なんと期待と不安の入り交じる響きか。
「転んでひっくり返さないでね」
「うっ……前向きに検討するよ」



「散らかってるけど、その辺でくつろいでてね」
そう言った春香の部屋は、意外と片付いていた。
「すぐにご飯の支度しちゃうから」
「手伝うわ」
私の申し出を春香は手で制して、
「ごめんね、キッチン狭いから」
「……そう?」
キッチンを追い出された私は仕方なく、リビングに落ち着く事にする。
築五年の1LDK。
春香らしいピンクの小物はあるけれど、実家のようにそれ一色とはなっていない。
これから揃えるのか。
それとも、一人暮らしを機に大人の部屋を演出するのか。
春香ならどちらもあり得る。
ソファの上、無造作に置かれていたクッションを手に取る。
実家から持ってきたらしく、少し使い込まれたものだ。
抱く。
顔を埋めると、春香のにおいがした。
心臓が急に仕事量を増やす。
それと同時に、春香に抱かれてるような、安心感が私を襲う。
ずっとこうしていたい。
春香にこうされたい。
「はるか……」
「なぁに、千早ちゃん?」
呟きが聞こえたのか、キッチンから顔を覗かせる。
顔に何かがついているのは、なんだかカワイイので指摘しない。
「なんでもないわ」
「お腹すいちゃった? もうちょっとだから待ってね」
待つのには慣れてる。
だけど、こういう……幸せな時間は、ちょっと慣れていない。
春香のクッションを抱いて、キッチンから聞こえる何かを焼く音をBGMに──



「──! ちはやちゃーん! ごはんだよー」
「んぅ……」
声に目を開けると、視界一杯に春香の顔が映った。
「はっ!」
思わずのけぞりそうになって、ソファの背もたれに頭をぶつける。
「わ、千早ちゃん! 大丈夫?」
痛くはないけれど、驚きで目の前が真っ白になった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「ホント? 大丈夫? 眠たい?」
「大丈夫だから、本当に。大丈夫よ」
身体を起こすとようやく、春香は安心したようだった。
「それじゃ、食べよっか?」
「ごちそうになるわ」
テーブルには焼きたてのハンバーグ。
女二人で食べるには少し多いかもしれないくらいのポテトサラダ。
そして、インスタントらしいコーンスープ。
「豪華なディナーね」
「えへへ。千早ちゃんが来てるから、がんばっちゃった」
決して贅沢なメニューではない。
だけど、
「春香が作ってくれるなんて、私は幸せね」
「おおげさだよ」
はにかむ春香に、自然と頬が緩む。
「それじゃあ、いただきます」
「召し上がれ」
まず、ハンバーグを一口。
箸で割ると肉汁が滲み出る。
堅すぎない焼き加減はまさに絶妙の一言。
和風のソースはあまり味が濃くなく、ふわりと香るのはタマネギの甘み。
「どうかな」
「美味しいわね」
「よかった」
ほっと一息ついて、春香もハンバーグを口に運ぶ。
ふと、気づく。
春香のハンバーグが焦げていることに。
「うん、おいしい」
失敗した方を自分で食べて、私には上手く出来たものを出してくれた。
そしてそのことを表情に出さない。
「……春香」
「ん? あ、何か足りなかった?」
「ううん。その……」
言葉に詰まる。
言いたい。
形に、したい。
「ありがとう」
たったそれだけが言えなかった。
それなのに。

「どういたしまして」

春香は笑う。

ああ。
あなただけにはいつも心が読まれる。



食後。
いつもと違う場所で、いつもと同じようにおしゃべりして。
お風呂も借りた。
いつもと違うシャンプーの香りにとまどってみたり。
「一緒に入ればよかったね」
お風呂から上がってスポーツドリンクを飲みながら、春香がそんな冗談を言う。
「何をばかなことを言ってるの」
「えー。せっかくお泊まりしに来てくれたんだからいっぱい話したいじゃない」
私もそうは思う。
だけど、物事には順序というものがあるのだ。
まだ春香とお風呂に入るほどの心構えは、私は出来ない。
「お風呂より、こうしてゆっくり話がしたいわ」
「千早ちゃん……えへ、そうだね」
照れているのか、頭をごしごし乱暴にタオルでこする。
「痛むわよ」
「いつもこんな感じだよ?」
「アイドルなんだから、ちゃんと気にした方がいいわ」
「えー?」
別にいいじゃーんと言いながら、私の隣にどすっと座る。
もうちょっとおしとやかな仕草を気に掛けた方がいいと思うけれど、
「ん? あれ」
私をじっと見つめながら春香は首をかしげた。
「どうかしたの?」
「うーん。ちょっとごめんね」
と、突然。
春香は私の髪を手に取ってにおいをかぎ始めた。
「え、ちょっと、はる、な、なにっ?」
「お風呂場のシャンプー使った?」
「え、ええ。使わせてもらったけど……」
何か悪いことをしてしまったのかしら。
わからない。
どうして、春香は突然こんな事をして、私は何をしたらいいのか、わからない。
「……へー」
意味深に頷いて、
「新発見」
にまり、と笑う。
「な、何が……?」
「同じシャンプー使っても同じにおいにならないんだね」
「…………」
あ、でも自分のにおいわかんないやとかなんとか言いながら春香はうんうん唸って、
「千早ちゃんも確かめてみて?」
と自分の頭を突き出してきた。
「……えっと?」
「あ、ひょっとしてくさい?」
「そんなことないわ春香いいにおい! ドキドキするくらいよ!」
「え?」
あ──。
言葉が、途切れた。
心臓が高鳴る。
どうか、していた。
こんな事を言ってしまうなんて。
「……どきどき、する?」
春香の手が私の胸に触れた。
とくん。
とくん。
速いリズムで胸を叩く鼓動に、春香はにまりと笑う。
「……ええ。少し。ドキドキしたわ」
「まだしてるよね?」
「……して、ます」
胸に置かれた手に力が籠もって、ソファの肘掛けに押し倒される。
口から心臓が出る。
そのくらい、暴れ回られて、どうにかなりそうで。
目の前が白い。
「なーんてっ」
ぱっと素早く私から離れて、春香はスポーツドリンクに口を付けた。
「どきどきした?」
「……知らないわ」
顔を背ける。
きっと今の私はゆでたてのタコみたいに真っ赤だろうから。
「あー、怒らないでよー」
「怒ってないわ」
「緊張したの?」
「……しらない」
ごめんごめんと春香は笑う。

人の気も知らないで、笑う。



「あ、もうこんな時間」
もうそろそろ日付も変わろうと言う時間。
いつまでも話題が尽きない私たちにも、明日はある。
「千早ちゃんは何時からお仕事?」
「お昼に取材が入ってるわ。春香は?」
「私は九時からボーカルレッスン」
「それじゃあ、そろそろ寝ないといけないわね」
名残惜しいけれど、体調管理もアイドルの仕事のうち。
休むときはしっかり休まないと、体力も保たない。
「あーっ!」
突然、春香が奇声を発した。
何事か。
「大変……お布団、無い」
「……は?」
それはどういう事なのか。
まさか春香は、いつも雑魚寝なのか。
それとも寝袋? ハンモック?
「どういうこと?」
「あの……お客さんようのお布団用意してないの」
「……ああ、そう。びっくりしたわ」
「千早ちゃん、あの……私のベッドで良かったら使って?」
春香のベッド。
はるかの、ベッド……。
「だ、ダメよっ! 春香はどこで寝るつもりなの!」
「私はソファで寝るから。千早ちゃんかぜひいたら大変だし!」
「春香だってかぜひいたら大変よ。明日ボーカルレッスンでしょう?」
「うーっ。でも……」
頭を抱えてしまった春香はそのままうんうんうんうんと唸って、
「あっ」
その表情がパッと明るくなった。
「千早ちゃん、一緒に寝よっ」

「…………は?」



桜色のシーツには春香がいっぱいしみこんでいた。
少し甘くて、柔らかくて、優しいにおい。
けれどそれは落ち着くようなものじゃなくて、私の頭をかき回すアブナイクスリのよう。
「おじゃま、するね」
寝る支度を済ませた春香が、遠慮がちにベッドに入ってきた。
シングルベッド。
女同士とはいえ、小柄なわけでもない二人。
スプリングが、きし、と音を立てた。
「枕、本当にそれでいいの」
「大丈夫よ。変わっても眠れるから」
私の頭の下には、ソファに置いてあったクッション。
これだけで頭がクラクラしてるのに、春香に包まれて、どうにかなってしまいそうだった。
「んしょ。ちょっと狭いかな? 大丈夫?」
肘と肘がぶつかり合う。
少し寝返りを打てば、それはもう密着と呼べるくらいの至近距離。
だから、
「大丈夫よ」
口から出てきた言葉は心とは裏腹な強がり。
身体中が心臓になったようだった。
「電気消すね」
言葉と同時、照明が落ちる。
暗闇の中、もぞもぞと動く気配。
すぐ側に体温を感じて、
「……なんか、照れるね」
えへへと笑う春香の吐息が頬にかかる。
甘い、リップのにおい。
「ちはやちゃん」
「……どうしたの?」
「今日は、ありがと」
泊まりに来てくれて、と。
春香は私の右肩におでこを押し当てる。
「やっぱり、ちょっと寂しくて」
「まだ一人暮らしして一週間じゃない」
「それでも、寂しいんだ。ご飯もおいしくないし、テレビもつまんないし」
数秒。
沈黙の後、千早ちゃんの出てる番組は別だよと慌てる。
「いいのよ、そんなフォロー」
すっと左手が伸びて、私の手のひらが艶やかな髪に触れた。
あまり気にしなくても、綺麗な髪質なのか。
自分の肌や髪を気にし始めた私には羨ましい。
「寂しいときは私が側にいるわ」
「うん……千早ちゃん、だいすき」
「友達として?」
「ううん……ちがうよ」


「それ、って……」
すう、すう。
春香のまぶたはすっかり落ちて、規則正しく小さな寝息が零れていた。
「……寝付きがいいのね」
肩にシーツを掛けてあげようとして、今更ながらに自分の右腕が動かせない事に気づいた。
二の腕が、柔らかいものに当たっていて。
肘は、滑らかな肌に絡まり。
手のひらは小さなそれと重ねられて。
指と指はもう、解けない。
いつの間に、春香は──
「甘えん坊なんだから」
左手だけで、春香を起こさないようにシーツを掛けて。
指先で、おでこに掛かる前髪をそっと持ち上げて。

「おやすみなさい、春香」

ちゅ、と。
わざと音を立ててみた。





日が昇っていた。
昨夜は不思議なほど眠れなかった。
春香の吐息が、体温が、絡まる身体が、私の眠りを阻害していた。
「あいた……」
少し無理な姿勢だったからか、寝違えてしまった。
のそのそとベッドから降りて原因を探す。
「……いない?」
リビングに出てみると、理由が分かった。
七時半。
もうそろそろ事務所に向かってもいい時間だった。
……つまり、春香が出かけてすぐ私は目覚めたのか。
テーブルの上にはまだ暖かいスクランブルエッグと焼いたソーセージ、ししとう。
そして、スペアキーらしき鍵が手紙の上に置いてあった。
『先に行ってるね。
パンは冷凍室に入ってます。
好きなだけ焼いて食べてください。
鍵は郵便受けに入れてください。
いってきます。
はるか』
「……気を遣わせちゃったわね」
どことなく春香に似た顔つきのわんこのキーホルダー。
その視線が私に「おはよう」と言ってるように見えて、

「おはよう、春香」

そっと、口づけしてみた。

昨日、今日と。
なんだか春香分の過剰摂取をしてしまった。

「明日から禁断症状が出たらどうしようかしら」
呟いて、冷凍室からパンを取り出して、そして気がついた。
「電話をすればいいのね」

このままだと春香依存症になってしまいそうだけど、

「それも、いいかな」

春香も千早依存症になってくれたら幸せになれる。
そんな風に、考えてしまった。

このページへのコメント

はるちは依存症

0
Posted by 名無し 2013年06月14日(金) 09:44:55 返信

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