当wikiは年齢制限のあるページです。未成年の方は閲覧をご遠慮下さい。

「千早ちゃんは、どうしてアイドルになろうと思ったの?」

「え?」

唐突に彼女、萩原さんがそんなことを言った。
私は、一瞬内心が見透かされたような気がして、ぎょっとして言葉を噤んだ。




萩原雪歩。
所属アイドル0、従業員3人という、冗談抜きに倒れそうだった765プロというアイドル事務所を
”天下の”765プロ、と言わしめるまでにした伝説のアイドル、それが彼女。

現在の所属アイドルは11名だが、その全員の先輩に当たり、また頂点にいるのが彼女だ。
物腰が穏やかで優しく、繊細で、それでいてステージの上では誰よりも力強いパフォーマンスで魅せる。
完璧なアイドル。そんな彼女に憧れて765プロの門を叩いた人は多い。


でも、私は少し違っていた、と思う。
私は歌う場所を、機会を求めていたから。その為に765プロに入ったのだから。

私の歌を、一人でも多くの人に聴いてもらいたい。その為の手段は選ばない。
だから、別にアイドルになりたかったわけではないのだと。


「歌う機会が欲しかったから…たまたま、765プロで候補生の募集をしていて。それで…
 何でもよかったんです。私には歌しかないから、アイドルでも何でも。私の歌を誰かに届けることが出来るなら、何でも」


「そっか」

彼女は、柔らかく微笑んだ。
どうしてだろう。他の人に同じ質問をされたのなら、もっとはっきりと言えるはずのことが、どもってしまう。
本当に、それだけの理由なのに、何かを誤魔化すみたいに答えてしまう…。

萩原さんは、どこか不審に思っただろうか。


「千早ちゃんらしい」

そう言ってくすくすと笑う。
どうやら、彼女はそのままに受け取ってくれたらしかった。




今、ここには私と萩原さんの二人しかいない。
所用で出た音無さんに暫時の留守番を頼まれたのだ。
私はレッスンに行きたかったのだが、そうすると多忙の合間の一時の休息を取っていた萩原さん一人に、留守番を押し付けることになる。

柄にもなく気を使って逡巡していたところ、萩原さんの「千早ちゃんも、たまにはゆっくりしていきなよ」の言葉で
ソファーに腰を落としてしまった。

「詰めすぎて体調を崩したら元も子もないよ」と言って、お茶を煎れてくれる彼女の背中に「でも」とは言えなかった。

765プロで彼女の言葉は社長、プロデューサーに次いで力があり、説得力もある。
やっとDランクになったばかりの私にはトップアイドルである彼女に意見することなど到底できない。


…いや、本来の私ならば、相手が誰であろうと、立場がどうであろうと自分の考えをただの一言で曲げるなんてしない。
やはり、認めるしかない。私も、彼女に憧れて765プロのドアを叩いた一人であるということを。





偶然だった。
たまたま、好きなヴォーカリストの出演する音楽番組を視ていて、そこに彼女が出ていたのだ。
「アイドル」という冠だけで、私は興味も持っていなくて、トークでは細い声で遠慮がちに喋っていただけだったので
私の求める世界とは無関係の人だと思っていた。

彼女が一度ステージに上がり、マイクを握った瞬間、その印象は一変した。
滑らかで力強いダンス。それに負けない、強く、張りのある声で歌い上げる彼女のステージからは
ただの歌ではない、それ以上のエネルギーを感じた。

声、音色、音程だけではない、”伝える”為の何かを、彼女は確かに持っていた。

その時から「萩原雪歩」と「765プロ」そして「アイドル」という存在が、私の心に強く刻み付けられた。


何故アイドルになったか、という先程の問い。
「歌うために」は確かに根本的理由ではあるけれど、「アイドル」を選んだ理由は間違いなく萩原さんの所為。

だから実際のところ、私も萩原さんに憧れていたという春香や伊織たちと変わらないのかもしれない。




萩原さんは、ゆっくりとお茶を啜りながら、またときどきクスクスと笑っている。

「そんなに可笑しいですか?」

思わず問いただした私に、萩原さんは少し目を上げて、それから首を振った。

「ううん、そんなことない。ただ…」

「ただ…?」

「千早ちゃんはすごい。かっこいいな、と思って。私とは大違い」

よく、わからない。
すごいのもかっこいいのも、私が、いや誰もが彼女に抱いている印象だ。


「萩原さんは…どうしてアイドルになろうと?」

私の問いに、彼女は湯のみをテーブルに置いて、それから指を顎に当てて少し考えるように上を向いた。
こういう可愛らしい仕草も、私には真似の出来ないことだ。


「教えてもいいけれど…聞きたい?」

「是非」


「千早ちゃんになら、いいかな…でも」

そんなに、重大なことなのだろうか。
事務所は静かで、だから彼女の悩んでいる姿が音に変わって耳に届くような錯覚を覚える。



「じゃあ、私のこと、これからは雪歩って呼んでくれるなら、教えちゃうよ」

「…へ?」

「だって、『萩原さん』ってなんだか他人行儀だし、それに敬語も。皆は普通に雪歩って呼んでくれるよ?」

意外な話の展開に、思考が固まった。


「でも、その萩原さんはその、先輩だし、それに年上ですし…」

「真ちゃんや律子さんも年上だよね?それに春香ちゃんも先輩だよね?」


萩原さんは、いつも通り穏やかに笑っている。でも、何故だか、怖い。

思えば真や律子とは、衝突したり、とにかくいろいろあって今の関係にもなったわけで。
それに春香は先輩と言ってもタッチの差で、殆ど同期と言っていいわけで。
「春香さん」なんてどう考えても「何か違う」わけで。


「このさいだから言っちゃおう」

私の頭が混乱している間、萩原さんは何事か呟いて言葉を続けた。

「私ね、羨ましかったんだ。千早ちゃんが765プロに入ったときからずっと。
 歌声がすごく綺麗で、凄く可愛くて、だけど人を遠ざけるみたいな空気も持ってて」


言いながら、ちらりと上目に私の様子を伺っている。
どんなに怒っている人でもその顔を見ればたちどころに許してしまいそうな表情で。


「いつも寂しそうにしてた。どうにかして、千早ちゃんの近くにいけないかって。
 でも私が何も出来ないでいるうちに、春香ちゃんや真ちゃんが千早ちゃんに簡単に近づいて
 気がつけば千早ちゃんの笑顔も、いろんな表情も見られるようになって」


簡単に、とういうわけでは無かったと思うけれど。
春香とも真とも、いろいろあった。今となっては、悪いと思っていることも、いろいろ。


「だから私嫉妬してたんだ。春香ちゃんたちに」

萩原さんは、言葉とは裏腹な会心の笑顔でそう言った。



「えっと…その…」

「千早ちゃんと、もっと近づきたいの。だから、千早ちゃん、雪歩って呼んで?」


最早何が何やら、わからなかった。

私が彼女に抱いていた感情は、漠然とした憧れで、自分に無いものを無数に持った人。
私自信が目指すべき人ではないとしても、765プロに入ってからは、その強さ、美しさ、優しさ、全てに強く惹かれた人だ。
自分が彼女を見ていたとしても、彼女の目に私が映りこむことなんて無いと思っていた。

それが今、よくわからないけれど、名前で呼べと、敬語をやめろと。よくわからないけれど。


「あの、その…じゃあ…」

「うん、うん」

よくわからないのに、促されるままに、私の口は勝手に動く。

「雪…歩…これで、いいですか…?」

「ぶー、敬語ー」

「くっ…雪歩。これでいいの!」

「うん、ありがとう、千早ちゃん!」


未だに、何が何だかよくわからない。
でも、彼女の満面の笑みを見ると、恥ずかしいやらそこはかとなく嬉しいやらで、どうでもよくも思えてきた。

と、突然雪歩が立ち上がって、机を回って、私の隣に来て、座った。

「ど、どうしたの?」

「ふふふ、何だか嬉しくて」

言って私の肩に肩を寄せる。
触れた部分の体温が上がっているのが分かる。

「これからはちゃんと、そう呼んでね。千早ちゃん」

「ええ…。と、ところで、それはいいとして。
 約束通り、教えてちょうだい、は、雪歩…が、アイドルになった理由」


彼女は一瞬キョトンとして、それからポンと手を打った。

「ああ、そういう話だったよね。ごめんね」

…なんだか、玩ばれているような気がする。



「実は私、アイドルになりたいなんて思って無かったんだ。友達が勝手に候補生に応募しちゃって。
 でも、アイドルになれば、引っ込み思案で何をやってもダメな自分が少しは変えられるんじゃないかって思って」

「…は?」

「『こんなダメダメな私は、穴を掘って埋まってますぅ…』」

「…へ?」

「ふふふ。昔の私の口癖だよ」

「………」

言っていることの意味がまるでわからない。
765プロの頂点で、アイドル界のトップに君臨する「萩原雪歩」のイメージからは、あまりに遠すぎる。

「…嘘?」

「本当だよ。プロデューサーに聞けばわかると思うけど。昔は男の人も苦手で仕事で会う度に隅に隠れてたり…
 ほんとに、問題児だったんだよ」

「正直、あまり想像ができないわ…」

「今はいろいろ経験もしてきたし、みんなの前ではしっかりしなきゃってやってるけど
 本質的なところはあんまり変わってないと思う。今日まで千早ちゃんに名前で呼んで貰うことも
 できなかったくらいだしね」

彼女はそう言うと、こともなげに自分の湯のみを取ってお茶を啜った。
私は彼女の方に身体を曲げたまま、未だ混乱している。

「私に憧れて、って言ってくれる皆には、それは凄く嬉しいんだけれど、そういう自分って見せちゃいけないのかなって思って。
 でも千早ちゃんになら、言ってもいいのかなって。千早ちゃんの理由を思うと呆れちゃうような理由だと自分でも思うんだけどね」

私もそのうちの一人です、とは今更言えない雰囲気だ。
と、彼女が湯のみを置いてこちらに向き直った。近い。

「だから、その、もし千早ちゃんが嫌でなければ…私の相談相手になってくれないかな…なんて」

「私に出来ることなんて殆ど無いと思うけれど…」

「ううん、私、千早ちゃんとお話できるだけで嬉しいから」

「そう、なの?」

「うん」

「それなら、私も、いろいろと話たいわ。その…雪歩と」

「うん!ありがとう、千早ちゃん!」


言うなり、私の身体は彼女に抱きすくめられた。


どうやら私の知る彼女は、ほんのごく一部だったようだ。
そして、それ以外の部分を少し垣間見て、もっと彼女に惹かれている自分がいるのを認めない訳にはいかない。
さらに、もっと深く彼女を知る機会が与えられつつある。

歌の為、にはならないかもしれない。それなのに私の心は酷く浮ついていて、上がった鼓動は収まりそうに無い。
思えば初めて彼女の姿を見たときから、私は少しずつ、変わってきていたのかもしれない。

私は、雪歩のことを―――




ガチャ

「ただいま〜ごめんなさいね。雪歩ちゃん、千早ちゃ……ピヨ?」

「あ」

「ごゆっくり〜」

ガチャ




越智梨

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

どなたでも編集できます

メンバー募集!