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アナザーエンド?
注)絵理シナリオのネタバレを含みます




Stroller 1st track "Defloration"


 あの日は、腹立たしい程の快晴だった。

 ELLIEセンパイの、いや、ネットアイドル世界の存亡を賭けた闘いが、
今にも始まろうとしているというのに、御天道様は素知らぬ顔で地上を照らしている。
決戦の舞台は、秋葉原UDX。ここで、ネットアイドルELLIEと
876プロダクション所属のR-A、もとい秋月涼との対決が行われる。
そのオーディションのタイトルは、「ネットアイドル戦国時代:勝つのはどっち?」という
実に趣の無いものだった。

 この舞台はセンパイにとって、死地といっても過言ではない。
このオーディション、主催者は876プロ、公平な審査は望むべくもない。
ただ、今回に限っては、審査員だけでなく、一般観客の票も結果を左右する。
そうでなければ、試合として成立はしなかっただろう。
センパイや私の信者に動員を掛けてきたが、観客席に座る人間は主催者側が判断するため、
どこまで効果があるか自信を持つことはできなかった。

 それに、何よりも、どんな妨害工作があるかわからないということが問題だった。
今までも数々の卑劣な工作で敵を潰してきたあの女のことだ。
観客にサクラを送り込んでブーイングを浴びせることぐらいは平気でするだろう。

 だが、本来、こんな対戦を受ける義理は無かったのだ。
もうセンパイは876プロダクションとは何の関係もない。
アイドル水谷絵理は存在しない。いるのは電子の妖精ELLIEだけだ。
オーディションは必要ない。要るのはネット上の視聴者だけだ。
こんな勝負は、あの女の私怨に基づくものでしかない。
それでも、センパイはこの闘いに応じなければならなかった。

 きっかけは、876プロダクションがネトアの世界を侵略したことだった。
ELLIEセンパイが876プロダクションと契約を解除し、ネトア生活に戻ってから一年、
R-Aという安直なハンドルネームで、秋月涼がネトア活動を始めた。
ネトアをやるだけならいい。誰にでもその権利はある。
リアルでアイドルをやっている人間がネットを活用したらいけないということはない。
だが、876プロの取った戦略は許されざるものだった。

 金に任せた広告攻勢、それに加えて景品を使った集客、
工作員を利用した自作自演など、どれもネチケットに反する無法行為だった。
ネットアイドルの文化は、一種の清貧さというか、
プロに負けないアマチュアという所に依拠しているから、
企業がプロを使って、金にものを言わせた広報活動をすれば、
ネトア世界が壊されてしまう。

 876プロの意図は、ネットを商業利用することよりも、
ネトア業界そのものを破壊することにあると読み取ったセンパイは、
その仕掛け人が誰であるかも見抜いていた。
こんなことを仕出かすのはあの女しかいない。
センパイを現実世界に引き摺り出したくせに、
自分の卑怯な悪事を暴かれると、言い訳もできずに、
愛想を尽かされた尾崎玲子という女。
かつて水谷絵理をプロデュースしていた彼女が、
ネットに自分のアイドルを攫われたと感じ、
ネットそのものを壊そうと企んだ、それは十分にありえることだった。

 センパイは、尾崎と話をつけにいった。
私は反対だった。無視すればいいと思ったが、彼女の決意は固かった。
恐らく、自分の居場所が奪われるというだけでなく、
ネトア全体に迷惑を掛けているという状況を見過ごせなかったのだろう。
それに、まがりもなにも自分のプロデューサーだった人間が
このような事態を引き起こしたことに、自責の念も感じていたのだろう。

 私は二人の交渉の場には居合わせなかったが、
後から聞いた話によると、尾崎は憎しみを露にし、
この工作活動を止めてほしいなら、オーディションでR-Aと勝負するよう迫ったという。
こちらが勝てば、尾崎が芸能界を去り、負ければセンパイがネトアを辞める。
それが勝負の条件だった。

 全く馬鹿げている。その話をセンパイから聞いた時、
内心そう思わずにはいられなかった。こんなことをしてセンパイに何の得がある。
尾崎が芸能界からいなくなろうがなるまいが、ELLIEには何の関係も無いことだ。
だが、センパイはその果たし状を受け取った。

 開演が近い。そろそろオーディションが始まる。
駄目元で出した観客席への応募は認められた。そればかりか、最前列の席へと案内された。
まるで、お前のセンパイが負ける姿をよく見ておけと言わんばかりだった。
だが…センパイは負けない、そう信じたい。あれほどの妨害工作にも拘らず、
動画再生数もコメント数でもR-Aに負けていなかったのだから。

 先攻はELLIEセンパイ。壇上にゆっくりと人影が上がっていく。
「ELLIEセンパイ、ガンバレー!」
 声を張り上げる。センパイはステージに立ったまま身動ぎもしない。
「センパイ…?」
 緊張している?いや、そんな馬鹿な。今まで、数々のオーディションを受けてきたが、
堂々強敵と渡り合ってきたではないか。

「ELLIEセンパイ、ファイトデスー!」
 再度励ます。しかし反応が無い。顔からは表情が消えていた。
まるで生気を抜かれたように。
「ELLIE!」
 会場に潜り込んだ信者が声援を送る。しかし、センパイは凍り付いたままだ。

 曲が始まる。「GO MY WAY」だ。ネトア時代にも演じた経験がある。
これなら安心して見ていられそうだ。そして、踊りが始まる。歌が始まる。
しかし、演奏が始まるや否や不安は的中した。
「センパイ…」
 何かがおかしい。踊り歌っているセンパイの顔からはアイドルに必要な
愛嬌というものが微塵も感じられない。
 踊りにキレが無い。歌にノビが無い。まずい。この展開はまずい。
信者たちも乗り切れてない。戸惑いがありありと見て取れる。

 まるで、もがくように、何かに苦しんでいるように、歌うセンパイ。
駄目だ。そんな姿でとても人は惹きつけられない。壇上で喘ぐセンパイの姿を見て
悪寒が走る。なんで、どうして、センパイが苦しまなければならないのか。
ここで勝てば、あの忌々しい尾崎とも縁が切れるというのに!
だが、私の祈りは届かない。弱弱しい歌声のまま曲は終局へ向かう。

 センパイが歌い終わった時、拍手はまばらだった。信者たちが歓声をあげていたが、
いかにも無理やりな感じが否めなかった。私は顔を覆った。
「みんな、聞いてくれて、ありがとう…」
 消え入りそうな声で謝辞を述べると、センパイは逃げるようにステージを降りた。

 秋月涼のパフォーマンスについては、ほとんど覚えていない。
あちら側の信者たちが時折歓声を上げていたがどうでもよかった。
席に座って、センパイにとって不幸な結果にならないことだけを祈っていた。

 審査の結果は、センパイの負けだった。
 私はすぐさま楽屋に向かいたかったが、警備員に阻まれ果たせなかった。
ステージの傍らで立ち尽くす自分。センパイは傷ついているだろうに、
何もできないことが腹立たしかった。

 センパイが関係者用の扉を開けて出てきた時、その顔は死人のようだった。
「センパイ!」
 反応が無い。
「センパイ、あんな奴の言うことなんて聞く必要ないですよ!」
 反応が無い。
「続けましょうよ、ネトア。みんなが待ってますから」
 反応が無い。肩を揺する。
「センパイ、しっかりしてください!」
「捨てられちゃった…負けたのに…」
「えっ?」
 捨てられた、とはどういうことか?一体誰に?
尾崎か?なら、何で「負けたのに」と来るのだろう。
「捨てられたって、どういうことですか、センパイ」
「サイネリア、一人にして…」
「センパイ!」
「お願いだから…」
 塑像のように固まったセンパイの顔、それを見ると手が竦んだ。
ふらふらと覚束ない足取りで去っていく少女の姿を、私はただ見送ることしかできなかった。

 私は何だか胸騒ぎがして、帰宅するとすぐさまライブチャットでセンパイに連絡を取った。
応答は無かった。メールも打ってみた。返事は無かった。

 その日を境に、ネットアイドルELLIEは姿を消した。

 次の日も、次の日も、私は連絡を取ろうとし続けた。だが、繋がることはなかった。
blogも全く更新されていない。前はあれほど頻繁に更新されていたのに。
僅かな希望を求めて、ニコニコ動画を探ってみたが、新作が投下される気配すらなかった。
ネット上では動揺が広がっていた。誰もがあんな理不尽な約束を
センパイが守るとは考えていなかったからだ。

「本気であんな約束守る気なのかよ」
「やべえよ、やべえよ」
「876DQNすぎるだろ、これ」
「運営仕事しろ」
「ELLIEさんカワイソス(´・ω・)」
「これでELLIEが潰れたら、おれらが負けたってことになるじゃねえか」

 2ch、ニコ動、blog、twitterといったネット上の各種媒体では、
総じて、876プロダクションのやり口を非難する声と、
ELLIEを擁護する声で満ちていた。事実、センパイの動画が、支援活動の一環として
多くのユーザーに視聴され、ランキングの上位を占めることとなった。
運営は企業による工作活動の禁止を訴える声明を発表するなど、異例の事態となっていた。
この突き上げが堪えたのか、あの一件の二週間後、秋月涼は所属事務所を通じて謝罪文を公表した。
以下に要約を示す。

一、自分がネトア活動を始めたのは、突然アイドルを引退した水谷絵理氏を心配して、
  彼女と接点を持ちたかったからで、彼女を傷つける意図は無かった。
二、オーディション形式での対決は、健全な競争による相互の発展を図る目的で
  行ったものであり、水谷氏の活動を妨害する意図は無かった。
三、一部の過剰な宣伝行為については、インターネット上のマナーについて、
  熟知していなかったことが原因であり、初めての挑戦に気負いすぎたことを
  率直にお詫びしたい。
四、自分の担当プロデューサーと水谷氏との間で交わされた約束に関しては、
  自分の関与しない所で行われたものであり、自身もこのような事態となり驚いている。
  この約束は、真剣勝負を行うための方便であって、実際に履行されるとは思わなかった。
五、このような事態になったことの責任を取り、自分はネットアイドルとしての
  活動は無期限に停止する。
六、秋月涼は、水谷絵理氏の友人であり、彼女がネットアイドルとして、
  早期に復帰し、更なる飛躍を果たすことを心より願っている。

 以上、どうでもよい社交辞令が書き連ねられていた。
ネットユーザーは必ずしもこの弁護を素直に受け取ったわけではなかった。
実際、秋月涼の関連動画が荒らしコメントで炎上し、
更に、文中の「担当プロデューサー」についての検証が開始され、「祭り」の様相を呈していた。
だが、私にとっては、それすらもどうでもよいことだった。
R-Aの背後には、尾崎玲子がいたことは明白であり、今更取り立てるようなことではなかった。
犯人探しに比重を移し始めたネットユーザーには、冷めた感情しか湧いてこなかった。
私はただただセンパイが心配だった。

 センパイの行方はようとして掴めなかった。いっそ、センパイの家に足を運ぼうとすら思ったが、
この時点では住所を把握していなかったので、手の打ちようがなかった。
日本中に水谷姓の人は五万といるのだ。その中から、センパイの住所を探し出すことは、
沼から落し物を拾い上げるようなものだった。

 だが、事態の打開は意外な所から生じた。
 センパイがネトア界隈から姿を消してから、三ヶ月が経った頃、
センパイからライブチャットの接続があったのだ。

「サイネリア、久しぶりだね」
「センパイ…!」
 私は頬に熱いものが流れるのを感じた。
「心配したんですよ!急にいなくなったりして」
「サイネリア、泣いてる?」
「えっ、あはは、汗ですってば、汗」
 私は狂喜した。センパイは無事だった、それだけでもう十分だった。
「それでね、サイネリアに言っておきたいことがあって」
「何です」
「さようなら、って言おうと思って」
 希望は打ち砕かれた。

「ど、どういうことですか!しばらく休んでネトアに復帰するんじゃないんですか!
ネットのみんなはセンパイを待ってるんですよ。誰もあんな約束なんて守る必要はないって…」
「尾崎さんとの約束は関係ないの。尾崎さん、もうわたしに興味ないみたいだから」
「だったら何で」
「もう、ネット使えなくなるから」
「えっ」
「わたし、あの後ずっと塞ぎこんでた。何もやる気がおきなくて、部屋に引きこもってた。
そしたら、父さんと、母さんがとうとう愛想を尽かしちゃった。だから、
引きこもりを『更正』する施設にわたしを入れるつもりみたい。そしたら、ネット、もう使えない」
「そんな…」
「本当は、今だってネット使うこと、禁止されてる。けど、友達にお別れしないといけないって言って
何とか許してもらった」
「そんな」
 どうしてセンパイには過酷な運命しか残されていないのだろうか。

「センパイ、そんな親、ひどすぎデス!そんなの親じゃありません!家出しちゃいましょう!」
「でも、どこへ?」
「だったら、アタシの家に来てください。すごく狭いですけど、ネットだって使い放題ですし」
「でも、わたし邪魔だから」
「そんなことないです!センパイがいてくれるだけでいいんです」
「でも、わたし、いらない子」
「何でそんなことを言うんですか!じゃあ、センパイを信じてるアタシや信者はなんなんですか!」
「それは…」
「親に何言われたか知りませんけど、センパイの動画を見て癒されている人がいるんです!
ヒッキーやニートやニコ厨にとってセンパイみたいなネトアは救いなんです。
そんな自分に価値が無いなんて言わないでください」
「でも、わたしじゃ、救えない…」
「無理に救う必要は無いんです。ニコ厨なんて勝手に人の動画を見て、勝手にコメントしていく
だけなんですから。センパイも気ままにやればいいんですよ」
「それでも…サイネリアに迷惑かけられない?」
「迷惑だなんて、アタシが好きでやってるんですから、そんなこと気にしないでください」
「じゃあ、何でサイネリアはそこまでしてくれるの?」
「えっ…それは…センパイが凄い人だから」
「じゃあ、わたしが凄い人じゃなかったら捨てるの?」
「あっ…それとこれとは話が」
「わたし、人に捨てられるのもう嫌。親にも尾崎さんにもわたし捨てられちゃった。
だから、人ともう関わりたくない。サイネリアには、いい友達のままでいてほしいから、
わたしを捨ててほしくないから、貴方とも話したくないと思った。わたしはただの引きこもりだから。
けれど、黙って行ってしまったら貴方が悲しむから、声をかけた。でもこれで最後」
「待って下さい!切らないでください!違うんです!そうじゃないんです!
センパイが凄い人じゃなくたっていいんです。ただの引きこもりだっていいんです。
私にはセンパイが必要なんです。ただ、ただ、いてほしいだけなんです。
好きです。愛してます。一緒にいてください!」
「…」
「アタシはセンパイの動画を初めて見てから、虜になってたんです。
実際にこうして話してみると、ますますセンパイのことが愛おしくなりました。
センパイが欲しいんです。アタシ、レズビアンですから」
「そう…」
「だから、センパイを失いたくないんです。このままだと、センパイが
どこか遠くにいっちゃいそうで…こんな話をしてスイマセン。気持ち悪かったですよね?」
「サイネリア」
「はい」
「サイネリアはわたしを必要としてくれてる?」
「はい」
「本当に?」
「ホントにホントにです」
「そう…わかった、じゃあ、サイネリアの言う通りにするね」

 勝った…私は一世一代の賭けに勝った。気が緩み、力が抜けて椅子に倒れこむ。
告白した?そう、これは告白だ。それも、世間から後ろ指を指されるかもしれない性癖の告白だ。
それが通った。受け入れられた。センパイが受け入れてくれた。本当によかった…

「サイネリア」
「へ?」
「なにか、緩んだ顔してた。いわゆるヘブン状態?」
「エヘヘ、センパイが家に来てくれるってだけで、うれしくて、うれしくて」
「そう?ふふっ、ありがとう」
「い、いやあ、そんな照れちゃいマス」
「いつ、行ったら、いい?」
「いつでもいいですよ。センパイの好きな時間で」
「そう、でも、詳しい時間はわからない?どのぐらい、離れてるか、知らない」
「ああ、住所は、後でメールで送りますから」
「もし留守でも、来るまで、待ってるから」
「えっ、そんなの悪いですよ」
「時間、あまり残されてない。もうすぐ施設に入れられちゃう」
「あっ…じゃあ、電話番号も一緒に送りますんで、いなかったら電話してください」
「わかった。できるだけ、急ぐから、今日はお休み」
「センパイ、アタシ待ってますから、気をつけて。お休みなさい」
 ライブチャットは落とされた。急いで、自分の住所と電話番号を送る。
返信はすぐ来た。
「こんなわたしのために、ありがとう」
 メールにはそう書かれていた。私は興奮冷めやらぬ中で眠りについた。
時は丁度、八月の始まりで、連日猛暑日が続いていた頃だった。

 翌日の目覚めはチャイムの音で始まった。今、何時だ?
5時30分。デジタル時計はそう表示している。誰だこんな朝早くに…
「センパイ?」
 まさか。こんな時間に来るとは予想外だ。慌ててベッドから降りる。
寝巻き姿のままドアを開けた。
「おはよう…ございます?」
「センパイ、どうしたんですか!?すっごい調子が悪そうですけど…」
 センパイの顔は酷く青ざめていて、肩で息をしていた。
「夜中から、ここまで、歩いてきた」
「なんでそんな無茶を」
「親が寝てる時しか、抜け出す、タイミング、無かったから」
 そう言うと、背負っていた重そうなリュックサックを床に置き、
私の方に倒れこんだ。
「大丈夫ですか!?センパイ」
「今日は、寝てない。もう、だめ」
 センパイは私の胸元で喘いでいる。荒い息遣いを身に感じながら、
少女の体をおんぶして、どうにかベッドまで運んだ。
「ありがとう…」
 弱弱しい声に不安が煽られる。
「センパイ、今はゆっくり休んでください。後のことはアタシがなんとかしますから」
「うん…」
 センパイは布団の上に寝そべると、すぐに目を閉じた。
センパイは死んだように眠りについた。寝息すら立てないほどに。

 そうだ、後のことは私が何とかせねば。まずは、リュックサックの中身を確かめる。
ノートパソコン、iPod、携帯電話、財布、それだけだった。それが全てだった。
服や化粧品もなかった。そういえば、今センパイが着ている服も、
もう通っていない高校の制服だった。まともな私服は無かったのだろうか?
そんなものすら買い与えられなかったのか。私は初めてセンパイの両親に嫌悪を覚えた。

 センパイは8時を回っても、眠り続けた。何時間重い荷物を担いで歩いたのか、
およそ見当もつかない。か細い体で休むことなく、熱帯夜の空の下を歩き続けた、
その辛苦は想像を絶する。汗をかかない体質のせいで、却って熱が引かずに辛かっただろう。
私は、センパイがまた元気に笑えるようになれることを祈るだけだった。
しかし、それは、携帯の着信音によって中断された。自分のじゃない。センパイの!

「はい、もしもし?」
「絵理、絵理なの?一体、貴方どういうつもり!」
 女性の切迫した声が聞こえてきた。
「いえ、違います」
「えっ、じゃあ、まさか、貴方が絵理の言っていた友達…」
「そう、サイネリアです」
「私は絵理の母よ。でも、何で貴方が絵理の携帯を持ってるの?絵理はどうしたの」
「セ…絵理さんは、今寝てます」
「は?寝てる?」
「夜通しここまで歩いてきたんです。今朝まで一睡もしてなかったんですから、当然でしょう」
 自然と慇懃無礼な口調になる。
「まさか、そんな…」
「蒸し暑い外をずっと歩いてきたんですよ。さぞかし大変だったでしょうねえ」
「それは、貴方が絵理を唆したからでしょう!」

 唆す、だと?この母親らしきものは何を言ってるんだ。
「唆したというのはいささか心外ですね。こうなったのは貴方たちが
絵理さんを追い込んだからでしょう?」
「私たちは追い込んでなんか…ただあの子に立ち直って欲しかっただけで」
「それが、娘を牢獄みたいなところに入れるということなので?」
「でも、私たちにはこれしかなかったのよ!尾崎さんが来て一旦は良くなったはずなのに、
あの人と別れてから、あの子、ますます部屋に引きこもるようになっちゃって、
もう私たちには打つ手なんか…」

 あの忌々しい女の名前が出ただけで虫唾が走ったが、ここは努めて平静を装う。
「尾崎のような悪人を信じている時点で、貴方たちは親失格ですよ。
そもそも、手を尽くしたと言う割には、娘を愛していなかったように見えますが」
「な!一体、何を根拠に…」
「服、ですよ」
「服?」
「彼女の私服、多分高校の制服だと思いますが、それしか見たことないんですよ。
この年頃で制服しか着るものが無いなんて考えられないんですよ。
けれど、外着に使えるのがそれしか無かった。貴方方が服を買ってあげなかったからです。」
「それは…あの子、部屋に閉じこもってるし、買ったって着る機会がないもの」
「そういう、現金な発想が絵理さんをうんざりさせたんでしょう?
貴方たち親は、彼女が引きこもりになった原因を考えもせず、解決もせず、
ただ部屋に放置していた。それじゃあ、引きこもりが治るはずがないでしょうね」
「そんな、こっちにだって事情が…」
「言いたいことはわかります。でも、もうそういう段階じゃないんですよ。
監獄に放り込もうとしている所に、私は彼女を送り返すことはできませんね。
絵理さんのことは私が面倒を見ます。どうぞご安心を」
「そういうわけにはいかないのよ!もし絵理の身に何かあったら私たちだって責任というものが…」

 結局それか。腐っている。この親どもは。
「くだらない」
「は?」
「貴方たちの都合とか体面は私には全く関係が無い。私は絵理さんを愛していますので、
そもそも、ご心配するようなことにはならないと思います」
「愛してるって、女同士でおかしいんじゃない!?」
「じゃあ、男だったらよかったんですか?」
「そ、それは」
「実の娘を『更正』施設に叩き込んだと言うよりは、女友達とルームシェアしていると
言ったほうが、波風が立たないと思うのですがねえ」
「…」
「まだ、何か?」
「わかったわ…とりあえず、今はそういうことにしておく。
けど、夫とも相談しないといけないし、絵理と直接話したいから
また後で連絡するわ」
「そうですか」
 溜息が電話越しに聞こえた後、回線は切れた。自分も溜息を吐く。
渡さない。センパイは絶対に渡さない。こんな人たちに、センパイを渡すわけにはいかない。
施設などに入れさせなどはしない。私はそう固く決意した。

 センパイが目覚めたのは、正午を過ぎた頃だった。
「おはよう、ございます?」
 第一声は、いつものセンパイだった。
「センパーイ、すっごく心配したんですから、あんまり無茶しないでクダサイネ!」
「うん、サイネリア、心配かけて、ごめんね」
「あ、いやあ、謝ることないですよ」
 私はキッチンへ向かう。もう自分のおなかも限界だ。センパイもそうだろう。
「昼ごはん、ちゃっちゃっと作っちゃいマスから」
「ありがとう」
「ああ、それと」
「ん?」
「センパイのお母さんから電話が来てましたよ」
「それで?」
「起こしたら悪いと思って、代わりに出たんですけど、
センパイが家出したことにびっくりしてたみたいで、
物凄い剣幕でまくしたてられました。けど、私が娘さんの面倒を見ますって言ったら
とりあえず引き下がりました。ただ、また後で電話するって言ってましたけど」
「それなら、わたしが電話、するから」
「えっ、いいんですか?」
「大丈夫」
 センパイは微笑んだ。

 昼食を摂ってから、時間はあっという間に過ぎていった。
夢にまで見たセンパイとの同居生活に舞い上がっていたのもあるが、
センパイは生活に必要最低限の生活用品すら持ってきていなかったから、
まず服に、パソコンラック、ネットに接続するためのル−タ、必要なものは
他にもあった。センパイを久しぶりに外へ引っ張り出し、
買い物を楽しんだ。

 家に戻ったときは、既に空は暗くなっていた。買ったものを降ろし、
私は小型のラックを組み立て、ルータの設定をしていた所、
センパイはじっと自分の携帯電話を見つめていた。

「センパイ、電話かけるんデスカ?」
「うん…」
「あんまり、無理は…」
「サイネリア、大丈夫だから、大丈夫」
「センパイ…」
「これは、わたしが、ケリをつけないといけないから」
 もう一度、センパイは笑った。

 私はただ見守るだけだ。それしかできることはない。
「もしもし、わたし、だけど」
 センパイの顔が険しくなる。
「嫌…」
 内容は窺い知れない。しかし、穏やかなものでないことは確かだ。
「もう、嫌なの」
「どうして今更、わたしを見捨てたくせに」
「わたし、サイネリアと一緒に生きていくことにしたから、
もう戻るつもり、ないから。戻っても、施設に入れるんでしょ?」
 徐々に声のトーンが下がり、口ぶりが冷たくなっていく。
「もう、いい加減にして。貴方たちはもうわたしの親なんかじゃない」
 センパイのこんな冷酷な声は初めて聞いた。
「警察?警察に何をしてもらう気なの?」
「警察を呼んだら、わたし、自殺するから」
 冷え切った声。鳥肌が立つ。
「センパイ!?」
 センパイは左手の人差し指を唇につけた。黙るしかない。
「わたし、本気だから、貴方がそんなことを考えているなら、
自殺するから。絶対。」
 自殺するだと?何を考えているんだセンパイは。
「もう私たちは親子じゃないの。そんな関係は終わったの。
だからもう二度とかけてこないで。わかった?
それが守れないようなら、ここで今すぐ自殺するから」

 沈黙が部屋を支配する。
 センパイが携帯を閉じた。
「もーう、センパーイ、自殺だなんて、はったりにしても言いすぎですよー。
アタシ心臓が止まるかと思いましたよ」
「えっ?」
 センパイは実に意外という顔をしていた。
「えっ?」
「ふふっ、そうだね、サイネリアを心配させちゃったね」
「も、もう、ほんとーですよー」
 私は笑顔を作った。
「でも、これで、サイネリアだけになっちゃったね。
ふふっ、うふふっ、あはははっ」
 センパイは乾いた笑いをあげる。
「セ、センパイ、どうしたんですか、急に」
「あはは、あはは、くう、ふう、ふふふふふ、あははははは!」
 息切れを起こしながら、センパイは笑い続ける。
「な、何がそんなにおかしいんですか」
「ねえ、サイネリア、キス、して」
「へ?キ、キス?そ、そんなの早いですよまだ」
 今度は、一体なんなんだろうか?
「センパイ、何か変ですよ。急にそんなこと言い出すなんて」
「ふふっ、変?わたし変?でも、サイネリア、わたしに告白したじゃない」
「いや、あれは、その」
「レズビアン、だよね?」
「はい、で、でも、そんな邪な目的で呼んだんじゃ…」
「いいの、我慢しなくても。こんなわたしでも必要としてくれるなら…
わたしはサイネリアのもの。だから好きにして、いい」
「でも…」
「たんと、召し上がれ?」

 タガが、外れた。
 目の前の少女を抱きしめ、唇を奪う。すると、舌が絡み付いてきた。
センパイは本気だ。自分も舌を差し出し、互いに唾液を味わう。
「ん、ふう」
「ぷふう、はああ」
 長い長い接吻の後、思わず溜息が漏れた。
「センパイ、本気にしちゃいマスヨ」
「いいよ、わたしをサイネリアだけのものにして」
 センパイはするすると服を脱ぎだす。自分もつられて生まれたままの姿に還る。
胸が高鳴る。だが、目にしたのは、幾つも赤い線が走ったセンパイの左腕。

「どうしたんですか、それ!まさかリスカ…」
「うん、こうすると、あの人たちは黙っててくれたから」
 センパイは笑って答えていた。
「そ、そんな…嘘ですよね」
 冗談と言って笑ってほしい。だが、センパイは曖昧な笑みを浮かべるだけ。
「どうしたの?サイネリア。ちょっと腕を切っただけ。
別に大したことじゃない。それよりも、続き、しよ?」
 ちょっと?いや、ちょっとどころではない。
無数の傷痕は、傷の上に傷を重ねたことを意味している。
それは、彼女の凄絶な家庭環境を如実に物語っていた。

「サイネリア…早く、来て」
「センパイ…やめましょう、こんなこと…」
「どうして?」
「こんな傷だらけのセンパイを抱くなんてできませんよ!」
「あなたも」
 センパイの声が、また冷えていく。
「あなたも、わたしを捨てるの…?」
「そんな、つもりは」
「わたしに、魅力、ないから?傷だらけだから、要らないの?」
「違います!そうじゃなくて…」
「なら、わたしを、犯して。お願い。サイネリアにしてあげられること、
それしかないから。誰にも必要とされない人生なんて、もう嫌。
あなたの欲望を満たすことで、わたしに『役目』を与えてほしい。
そうじゃないと、生きている、意味、無いから。だから、わたしに、生きる実感を頂戴」
 センパイは、泣いていた。涙が頬を伝い、雫となって滴り落ちる。
サイネリア、腹を括れ。
「センパイ、愛してます」
「ありがとう…」
 私は、センパイを、押し倒した。

 夏の暑い昼間に、私たちは大人への階段を上った。
蝉が鳴く声が部屋まで響いていた。

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