入院第04週

入院第04週(DAY22〜DAY28)

入院第04週のあらすじ
  • 部屋が移動に。
  • 入院中の洗濯について。
  • 外出について。
  • 運動不足解消の方法。
  • 記憶力の低下について。
  • 退院時について。
  • ある入院患者について。

念願のお引越し(DAY22)

この日は部屋の移動だった。
そう、念願かなって、大部屋への移動が決まったのだ。
大部屋の人数は4名。
「大」部屋だけど人数はそんなに多くは無い。
そのせいか、差額ベッド代は完全にはゼロにはならないのだが、2人部屋よりはマシである。

あまりコミュニケーションを取らなかったので、特に同室の人への感傷などはなく、淡々と部屋を移動する準備をした。
ばいばーい!

新しい部屋で私のベッドの位置は、またしても廊下側だった。
つくづく窓際とは縁が無い。
部屋の窓から見える景色は前と少し変わったが、病院の向かいの棟が見えるだけで、外の世界が見えないことには変わりがなかった。
残念である。

この日は良いことがもう一つあった。
「外出」の許可が下りたのである。
常にコンタクトレンズをしている私だが、調子の悪い時用にメガネを作りたいと前から申し出ていた。
その希望が通ったのである。
これでようやく「外の世界」を確かめることができる!
ただし、単独ではなく保護者の同伴が必要だという。
そのため、夫に電話を架けて外出について連絡する必要があった。
しかし、一度架けた電話は繋がらずに留守電になってしまった。
「なんだか、さいさき悪いなぁ」
電話は次の日にすることにして、私は部屋に戻った。

部屋では新入りなので、全員とあいさつをした。
「よろしくお願いしますね」
他の3人とも、まともな人そうだったので安心した。
うるさかったり、文句を言ってくる人たちではなさそうだ。

部屋を移動して所用を済ませると、私は落ち着いた。
ちょっと気分転換してリフレッシュもしたし、眠くなってきたので、そのまま寝ることにした。
明日は夫に電話が繋がるといいなと思いながら。

洗濯日和(DAY23)

入院中のお金の管理は基本的には病院に預けることになっていた。
預けたお金を引き出したい時は「出金伝票」を書いて出金する必要がある。
この出金手続きは不便なことに週に一度水曜日にしかできなかった。

この日は出金伝票の日だった。
私はそろそろ洗濯を自分でやろうと思っており、洗剤も差し入れてもらっていたので、必要なお金を引き出すことにした。
出金伝票に、名前と金額と使用目的「洗濯代」を書けばお金を受け取る手続きは完了だ。
病棟内のコインランドリーは100円玉しか使えないので、全部100円玉で出金をお願いした。

病棟にはコイン式の洗濯機と乾燥機が3台ずつ備えてあった。
使うときは壁にあるホワイトボードに名前を書くというルールがある。
また、洗濯物には名前を書かなくてはならないという決まりもあった。
そのため、私のTシャツや下着は全て洗濯表示のタグのところに油性マジックで名前が書いてある。
退院した後も、そのタグを見るたびに入院していた時のことを思い出してしまうのだ。

引き出したお金を持ってコインランドリーに向かうと、運良く洗濯機は空いていた。
私は溜まっていた洗濯物を洗濯機いっぱいに入れて、洗剤を投入すると洗濯機のスイッチを入れた。
洗剤は1袋ずつ個包装になっているものを差し入れてもらったので、こういう時には便利である。
ウィーンウィーンと洗濯機が回り始めた。
洗濯中は何もすることがないので、ホワイトボードに名前を書くと病室にいったん戻ることにした。

さて、私は昨日夫に電話を架けたのにつながらなかったことを思い出した。
外出の際の同伴をお願いしなくてはならない。
ナースステーションで自分のテレカを受け取ると、公衆電話から電話をすることにした。
今度は電話が繋がり、明日の外出の相談をすることができた。

そうするうちに、洗濯が終わったので、今度は洗濯機から乾燥機に洗濯物を入れ替える作業に入った。
乾燥機もコイン式である。
看護師の説明によると、1回では乾かないので追加でお金を入れる必要があるという。
洗濯1回にやけにお金がかかるものである。
確かに、1回目では生乾きになってしまった。
仕方なく、追加で100円玉を投入し、ほどなく洗濯物の乾燥が仕上がった。

自分で自分のことが少しでもできるということは、やはり嬉しいものがあった。
私は今度からは洗濯は全部自分ですることに決めた。

初めての外出(DAY24)

とうとう初めての外出の日が来た。
これで、自分の目で「外の世界」を確認できる。
私は少しドキドキしていた。
今、元いた病院にいると良いのだけれど、寝ている間に動かされていて別の場所だったらどうしよう?

外出の時間は10時から16時と決まっていた。
外出申請は当然、最大限の時間を取っていた。

10時になると夫が迎えに来た。
靴を履き替えて、看護師に鍵つきドアの向こうへ出してもらった。
エレベータで1階に降り、出入り口を抜けた。
ここまでは「散歩」の時間に来ている。
そして、病院の門を通り抜けた。
門の外は、入院して来た時のそのままだった。
私はあれっと一瞬思ったが、「元の世界」にいることを喜んだ。
「いやー娑婆の空気はうまいねぇ」と冗談も飛び出した。

外出の目的はメガネの作成だったので、そのままメガネ屋まで急いだ。
「右、左、下、上、下…」
いつもの眼科検査を無事終えて、メガネは数日後にできることになった。
これでメインの用事は終了である。

昼食は、私が大好きなフレンチレストランへ行った。
夫が気を利かせて、久しぶりならここだろうと連れて行ってくれたのだ。
私はその心遣いに感激した。
病院以外の食事は久しぶりで、複雑な香辛料の味付けがとても美味しかった。
少し生き返った気がした。

続いて、これまた大好きなリラクゼーションのマッサージ屋に行き、体をほぐしてもらった。
人の手によるマッサージは大変気持ちが良く、すぐにうたたねモードに突入してしまった。
これで、更に生き返った。

あっという間に16時の門限前になってしまったので、病院に戻ることにした。
病院は当然、出たときと同じ場所にあった。
もうこれで、「自分は病院を動かされたのではないか」という疑いはただの妄想だったことが明らかになった。
「そうか、あれは思い違いだったのか」
私はなんとなく納得した。

無事に帰っては来たが、外出というのは少々疲れることだった。
この日の日記には「若干周りが気になるし、すぐに注意を他に奪われて、忘れがち。まだ万全ではないが、一人でも散歩くらいなら大丈夫そう」と書いてある。
まだ注意力散漫で何でもすぐに忘れてしまいがちな状況なのであった。
私は続いての治療がまだまだ必要な状態だった。

運動不足だ!(DAY25)

このところ何だか体が重たい。
このところ何だか服のウェストがきつい。
これって、私太った?!

風呂場の体重計にしばらく乗っていなかった私は、自分の体重増加に気づくのが遅れてしまっていた。
病院の食事はほとんど毎食完食で美味しくいただいており、その上、運動は何もやっていなかった。
しかも、朝が起きれないものでラジオ体操という貴重な運動の機会もサボっていたのである。
これはまずい!

といっても、基本的に病棟内でしか過ごすしかない。
運動をするとしたら、朝のラジオ体操か、廊下を歩くくらいしかないのである。
私は数少ない選択肢から病棟の廊下をウォーキングすることにした。
入院病棟は都合よく廊下が□の形になっており、一周することができた。
既に廊下をぐるぐるとひたすら歩いている人たちがいたので、私はその列に加わることにした。
みんな黙々とひたすら歩いている。
中にはCDプレーヤーで音楽を聴きながらの人もいる。
私もiPodで音楽を聴きながら歩くことにした。

何周目になるか、ひたすら歩いていたら、うっすら汗もにじんできた。
これは効果がありそうである。
私はしばらくウォーキングを続けた。

この「廊下ウォーキング」は病院側も黙認しており、特に禁止はされていなかった。
みんなペースはバラバラで、しかも右回りの人と左回りの人がいた。
すれ違うのが面倒くさいが、誰もあわせようなんて人はいなかった。
入院病棟は大人しい人が多く、いつも「仕切る人」不在なのであった。

忘れ物係(DAY26)

人間の記憶力というものはあてにならないものである。
私は当時、病気のせいで老人並みの記憶力になってしまっていた。
人生を先取りできた貴重な体験といえば聞こえは良いが、当事者としては自分がどうなってしまっているのかを考えると恐怖だった。

この日は外出の許可を取っており、午後から自宅に帰ることにしていた。
その前に昼食があり、いつも昼食後には投薬の時間があった。
だから昼食には病室からコップを持ってくるのが慣わしであったが、私は忘れてしまった。
仕方がないので、投薬待ちの間に病室からコップを取ってくるはめになった。
この日の忘れ物第1点目である。

いよいよ外出の時間になった。
私の自宅は幸いなことに病院からほど近いところにある。
自宅では入院生活に必要なものを追加で持っていくための用意などをした。
また、携帯電話が持ち込み不可なので、携帯のメール着信確認もした。
わずかな外出時間はすぐに終わりになってしまった。

私は病院に帰った。
そして、気づいた。
自宅に忘れ物をしてきてしまっていた。
まず、医療保険の請求用の保険証のコピーを取るのを忘れた。
さらに、iPodを自宅のPCに繋ぎっぱなしで忘れた。

仕方ないので、明日も外出して取りに行くことにした。
何事もメモにしておかないと自分は忘れてしまう。
しかも、メモにするほどでないことも忘れてしまうのできりがない。
私はこんな脳みそになってしまって大丈夫なのだろうか?治るのだろうか?
治らないとすると認知症のお年より並みの記憶力だ…。
私はそう考えると気分が重くなった。

退院する人たち(DAY27)

急性期病棟は退院する時期も早い。
それだけ退院する人が多いということでもある。
この日もまた一人、退院する人がいた。
仮に中村さんとしておく。

中村さんは入院してから1.5ヶ月での退院だった。
後から分かったことであるが、これは結構早い方である。
中村さんは「任意入院」であり、お子さんがいてお家で母親の退院を待ちわびているとのことだった。
これは早く退院して家族と一緒に暮らしたいことであろう。

そうか、早い人なら1.5ヶ月で退院できるんだ。
私は早くも退院を望んでおり、なるべく早く退院するにはどうしたらよいのか考えていた。

中村さんが退院する時間が来た。
私のいた病棟では、退院する人に特別に寄せ書きなどをするという習慣はなかった。
ただ、退院するときに、出口まで見送るだけだった。
「お元気でね」「さようなら」皆が口々に別れのあいさつを述べた。
入院期間が短いため、泣き出すとかそこまでの感傷は沸かなかったのである。

ここで、入院について2通りあるということを説明しなくてはならない。
中村さんのように自分の意思で入院してくることを「任意入院」という。
私の場合のように本人が支離滅裂で、家族の同意だけで入院することを「医療保護入院」という。
当然、入院した時の状況が違うので病気の重い軽いも違い、退院までの時期にも影響した。
そんな事を当時の私は知らず、誰でも1.5ヶ月〜2ヶ月くらいで退院できるのだと思っていたのである。

さて、この日は昨日自宅に忘れ物をしてしまったので、また外出をすることになっていた。
自宅に戻り、いろいろな物を片付けた。
忘れ物になっていたiPodには、ついでなので新しい曲をダウンロードすることにした。
これがいけなかった。

病院に戻った私は、また自宅に忘れ物をしたことに気がついた。
なによりも重要な病室の私物ロッカーの鍵を忘れていたのだ。
また、iPodのケーブルを忘れていた。これでは、充電ができずに電源が持たない。
仕方がないので、夫に電話をして病院まで持ってきてもらうことにした。
昨日に引き続きの忘れ物グセは全然治っておらず、引き続き私は気分が落ち込むことになった。

ワケアリーナ(DAY28)

入院している人には不思議な人も多かった。
話を聞くと、訳ありで深刻そうな背景を持っている。
そんな人たちを私は女性誌のコピーのように「ワケアリーナ」と心の中で呼んでいた。

青山さん(仮名)もそんな一人である。
彼女とはおやつの時間に、お菓子の交換を持ちかけて知り合った。
その後はオセロで遊んだりする仲であった。

青山さんの口癖は「いい人が見つかったら」だった。
将来の夢は「国連の職員になって世界に貢献すること」らしいのだが。
何をするにしても前提は「いい人が見つかったら」なのである。
それでも、何が何でも「世界に貢献」しなくちゃならない深刻な理由があるらしかった。
それなので、病院に閉じ込められているという状況に関しては、弁護士を立てて争うつもりだという。
うーむ、訳がわからない。

青山さんはおそらく20代そこそこで、普通なら未来が光り輝いているはずの年代だ。
自分なりにがんばっていれば、「いい人」なんて勝手についてくるのに。
彼女は自分で自分の未来を限定しているように思えた。

悩みを聞いてあげてもちっとも発展しないので、いつしか私は自分も病人のくせに「病人の悩みに深刻にのってあげても仕方がないか」と思うようになっていた。

彼女がその後、どんな人生を歩んだのか、まだ病院にいるのか…。
たまに思い出して気になる私なのであった。

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最新記事はブログ統合失調症患者のクワイエットルーム体験記でお読み下さい。
2008年01月17日(木) 17:22:18 Modified by quiet_room




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