「右」の諸君、米国が、戦前、日本、ひいては東アジアに対して犯した犯罪と戦後日本がその占領下にあることに憤れ。「左」の諸君、米帝国主義への憤りを忘れたのか、その米帝の植民地となっている現状に甘んじ続けるのか。日本独立に向けて決起を!〜作成中



1 始めに

 引き続き、XXXXさん提供の細谷千博・斎藤真編『ワシントン体制と日米関係』(東京大学出版会 1978年)の抜粋をもとに、その更なる抜粋を紹介するとともに、それに私のコメントをつけたものをお送りしましょう。
 この本は、上記の二人の編者を含む18人のアンソロジーであり、私が大学を卒業した1971年からそれほど時間が経っていない頃の出版なので、学部で「アメリカ政治外交史」の授業をとった斎藤真、「日本政治外交史」の授業をとった三谷太一郎の両教授が登場して懐かしい限りです。
 この本が出てから3分の1世紀が経過していますが、冷戦終焉後、ソ連関係文献にあたることができるようになったことから、同様の編著がその後改めて上梓されていてしかるべきところ、どうやら上梓されていなさそうなことは残念です。

2 細谷千博「ワシントン体制--その特質と脆弱性」


 「ワシントン会議の結果、東アジアで成立した新しい国際政治システム--ワシントン体制--の特質は、日・米・英の協調システム<であり、>・・・それは、日英同盟、日露協商によって典型的に代表される、第一次大戦前の二国間政治提携--それによって後進民族を犠牲として、勢力範囲の設定や政治的・経済的膨張をはかろうとする帝国主義的な外交方式--の否定を目ざす、新たな多数国間の提携システムの設定を試みたものであり、また、いわば、「旧外交(Old Diplomacy)にかえるに「新外交(New Diplomacy)」の理念にもとづく、東アジアの新たな国際政治秩序の実現と見ることもできる。」(3)
 
→これは、米国の唱えたタテマエ論をそのまま祖述しているに過ぎません。
 米国に先行して、東アジアにおいて、「勢力範囲の設定」を行うことによって、「政治的・経済的膨張をはかろうと」してきた大英帝国と、「勢力範囲の設定」を行うことによって対ロシア安全保障を追求してきた日本帝国、の両国にそれぞれの勢力範囲を拡大させず、機会をとらえてそれぞれの勢力範囲の縮小を図ることによって、この東アジアにおいて、米国が、人種主義的帝国主義国として、「政治的・経済的膨張をはかろうと」した体制がワシントン体制である、ととらえるべきでしょう。(太田)


 「次に、この新しい政治システムの特質は、日・米・英の提携システムがいわば支配的システム(Dominant System)として、東アジアの地域政治システムで優越的な影響力をもつ一方、この東アジア・システムの中で、中国がマイナーなアクターとして従属的地位をあたえられたことである。いいかえれば、日・米・英と中国との間には、支配・従属システム(Dominant-Subordinate System)の設定が試みられたのである。」(4)
 
→このような措定の仕方もおかしいのではないでしょうか。
 不平等条約下にあったこの時期の支那は、同じく不平等条約下にあった明治初期の日本と基本的に同じであると見るべきところ、後者が従属的地位にあったという言い方がされることはないからです。
 もとより、前者の不平等条約の不平等度は後者のそれよりも大きかった上、前者に関しては、後者と違って列強が勢力圏を設定していたし、やはり後者と違って割譲地や租借地があった、という違いはありましたが、ある地域が特定の列強の勢力圏とされたところで、その範囲内を他国に租借させたり、割譲したりしないことを清朝ないしその後継政権に認めさせたというだけのことでした
http://www.geocities.jp/sekaishi_suzuki/p_web/09_N...
し、割譲地や租借地は支那全土から見ればほんの僅かなものに過ぎませんでした。(太田)


 「第三の特質として指摘されるのは、革命外交を標榜し、異質な対外行動原理をもつソヴィエトを、いわばワシントン・システムの内部に包摂せず、これをシステム外のアクターとして処理するという形で、システム構成が行われたことである。」(4)
 
→これは間違ってはいません。
 日本と英国は、東アジアにおいて、一貫してロシアを安全保障上の脅威ととらえてきており、10月革命以降のロシアの脅威を赤露の脅威として深刻視していました。
 これに対し、米国はロシアないし赤露の脅威を深刻視していませんでした。
 しかし、そんな米国も1933年まではソ連を承認していなかった(ちなみに、英国のソ連承認は1924年、日本のソ連承認は1925年。米国のソ連承認は日本の満州国承認に対抗するために行われた)
http://www.c20.jp/1933/11a_syo.html
http://www.ne.jp/asahi/wh/class/q_eer.html
のであり、日英米としては、ソ連を「ワシントン・システム・・・外のアクターとして処理する」以外にありえませんでした。(太田)


 「ワシントン・システムについては、もとよりソヴィエトはこれに全面的に挑戦する基本的態度をとり、たとえば四国条約<(*1)>については、「ソヴィエト、極東の諸国の民族解放運動に対して向けられた帝国主義国家の共同謀議」としてこれを性格づけ、非難する。」(5)
 

 「ワシントン体制に挑戦するソヴィエト外交の重点は、体制内の従属アクターである中国との外交敵連繋を明らかに志向していた。1924年5月31日、両国の国交回復を規定した中ソ協定が調印を見る。それは、ヨーロッパの戦後の政治システム(ヴェルサイユ体制)に挑戦した独ソ間のラパロ協定(1922年4月16日)<(*2)>と相似た歴史的意義をもつと指摘することもできよう。この協定によって、ソヴィエトはツァー政権が中国で獲得した一切の特権や利権、また治外法権や領事裁判権を放棄すること、さらに平等と互恵の原則にもとづく新通商条約の締結などを約束した(ただし、東支鉄道の管理権については留保)。・・・
 しかし、中国との連繋による、ソヴィエトの挑戦として、より重要な歴史的機能をはたしたのは、中国の民族解放運動に対するソヴィエトの支持であった。有名な孫文・ヨッフェ共同宣言(1923年1月26日)<(*3)>によって、中国国民党の指導するナショナリズム運動への支持的態度を公にし、さらにはボロディン<(*4)>の広東への派遣、そして1924年1月の国共合作の実現といった過程において、ソヴィエト、もしくはコミンテルンのはたした役割は大きかったと見られる・・・。」(6)
 
→中国国民党は1923年に赤露のエージェントとなった、と言っても過言ではないでしょう。
 その後、蒋介石が、国民党のファシスト党化を図りますが、党の内からはエージェント残党、外からは、文字通りの赤露のエージェントであった中国共産党の挟撃にあい、紆余曲折を経て、結局、1936年12月の西安事件を契機に第二次国共合作を余儀なくされ、ここに再び国民党は赤露のエージェントに成り下がるわけです。
 その後のことは、ご存じのとおりであって、日本帝国の瓦解を経て、支那全体が赤露の勢力圏に入ることになります。(太田)


 「1923年・・・11月末、孫文は広東政権の財政難を打開すべく、海関の実力接収を考慮していると・・・伝えられた。・・・
 九国条約<(*5)>当事国<中の>・・・米・英・仏・伊・日・ポルトガル各国の軍艦が多数、広東に終結し・・・た。・・・事態はしばらく鎮静化し、翌24年の4月末、この示威行動は完全に中止された。」(8〜9)
 
→赤露の手先たる中国国民党による最初の日・米・英協調/ワシントン・システムへの攻撃は何とか凌いだけれど、赤露は着々と駒を進めていた、ということです。(太田)


 「中国の昂揚するナショナリズムと、東アジアの支配・従属システムとの大規模な激突をもたらしたのは、・・・5.30事件である。・・・
 5月30日、・・・上海の共同租界で学生・労働者の・・・デモに、イギリス管理下の租界警察が発砲、数十人の死傷者を出すという事件が発生し、これを契機に日、英の帝国主義への反対闘争の嵐は急激に高まり、華中、華南を中心に、ボイコット、ストライキ、抗議集会、デモの形で全国的に拡大の形勢を見せていった。とりわけ、6月11日、漢口でのデモ隊にイギリス側が発砲して死傷者をだす事件、さらに6月23日、広東の英仏租界で中国人が百名をこえる死傷者をだすという衝突(沙面事件)を見るにいたり、反帝運動は一層先鋭の様相をおび、とくにイギリスを主目標にすえる性格をもつにいたった。香港では、1年余に及ぶゼネストがはじまり、イギリスの対中貿易は深刻な打撃に見舞われねばならなかった。・・・
 <日本、アメリカ、及びイギリスでは、>中国反帝運動の激しい展開の背後に、ソヴィエトの策動があるとの<見方>が有力であった。」(10〜11)
 
→国民党政権の初期の支配地において最大の権益を有した英国を狙い撃ちする形で、日・米・英協調体制への攻撃が再開されたわけです。
 注目すべきは、この時点では、日米英3国とも、これが赤露に使嗾された策謀ではないか、という強い疑いを抱いていたことです。
 この疑いは間違いなく正しかったはずであり、冷戦終焉後にアクセス可能となった旧ソ連史料に基づいて、それを裏付ける作業が、日本においてもなされている、と思いたいところです。(太田)


 「1925年1月20日、日ソ両国は基本条約を結んで、国交を回復する。付属議定書では、北樺太での油田の調査試掘権と、開発した油田の59%の利権を、日本にあたえることが明記された。・・・
 アメリカ<の>・・・マイヤー<駐中>代理公使は、日本は「早晩、中ソとのアジア・ブロックに加わる道をとるか、西欧勢力の一員としてとどまる道をとるかの選択に迫られるであろう」(25年7月5日)との・・・観察を下していた。
 一方、・・・香港・・・<英>総督クレメンティは、「日本はロシア同様広東での反英運動に責任をもっている。シンガポールでの海軍基地建設への反撃として香港を麻痺させようというのが日本の狙いであり、中国の内戦を助長して、その継続をはかることは日本の政策に合致する」という呉佩布<(*6)>の観測に同感であると、本国政府に報告してい<る。>」(8、12)
 
→嘆かわしいことに、この米国政府の現地役人は、本国の米国人同様、人種主義的偏見でもって日本を見ていたからでしょうが、このような、ありえない懸念も抱いていた、ということでしょうし、この英国政府の現地役人は、恐らく、在支那(在香港を含む)のできそこないの英国人達の強欲と対日人種主義的偏見に接していたためでしょうが、支那の一軍閥の見解などに無条件で首肯してしまった、ということでしょう。(太田)


 「5.30事件に対して、中国政府は6月24日、賠償、陳謝、その他13ヵ条の要求をしるした覚書を列国に提出する。その際不平等条約の改正要求は、別箇の覚書でとくに強調された。・・・<治外法権問題は棚上げのまま、>10月26日から北京関税特別会議<が>開催された<が、>・・・結局翌26年7月初旬、・・・<何等>成果をあげることなく<この会議は>自然消滅した。・・・
 ・・・<日・米・英協調>システムには軍事的機能は本来内蔵されていなかった・・・。利益擁護のために集団で武力を行使するといった≪同盟システム≫とは、異なった理念のもとに、日・米・英協調システムは作られていたのである。したがって、イギリス外交が≪同盟システム≫への変質の方向にその力を作用させ、また日本外交が三国協調から二国間外交に力点を移すとき、ワシントン体制は崩壊への道を、加速度をつけ進みはじめるのである。」(13〜15)
 
→もともと、東アジアにおける日米英3国の思惑は異なっており、米国は日英に代わって東アジアの覇者たらんとしていたことから、とりわけ、日英と米国との間の思惑の違いは大きく、日英同盟を失効させて日・米・英協調/ワシントン・システムで置き換えるという米国の東アジア戦略に英国が乗ってしまったところに大きな過ちがあったわけであり、このシステムが破綻を来すことは必然であったと言うべきでしょう。(太田)


 「揚子江以南の地を掌握<した>・・・蒋介石を総司令<とする>国民<党の広東政権は、>・・・27年初めには・・・その所在地を武漢に移転し、ここに国民党左派を中心とした武漢政府の成立となる。
 この時期に国民党が指導した反帝闘争は、主目標をイギリスに向けており、たまたま万県事件<(*7)>の発生(26年9月)などもあって、反英感情は新たな高まりを見せていた。かくて、揚子江地域を中心に多年にわたり築きあげたイギリスの既得権が根底から崩される情勢が生れ、さらに、27年1月3日に漢口の英租界が、ついで1月7日、九江<(*8)>の英租界が国民革命郡の手で実力接収され、ついで上海にも内戦の戦火が及ぶ形勢となると、イギリス政府としては、情勢への明確な対応の必要に迫られることとなる。
 そこで、イギリスは一方において、国民党の指導するナショナリズム運動、不平等撤廃の要求にある程度譲歩する宥和戦術をと<る>・・・と同時に、・・・既得権益の一定限度以上の侵害を阻止するためには、≪砲艦外交≫、また≪同盟・協商体制≫といった≪旧型外交≫の復活もあえて辞さないといった強硬面があった・・・。そしてそのさいとくに政治的結託の相手として、重視したのが、かつての同盟国日本であった。」(15〜16)
 
→ここでも、細谷の言葉遣いには抵抗感を覚えます。
 赤露の手先たる中国国民党によって、支那が英国と締結していた不平等諸条約を、一方的に侵害する行為が繰り返し行われたことに対し、英国が、旧同盟国たる日本と共同対処することで、かかる侵害行為の排除、防止により強力にあたりたいと考えた、と記すべきでした。(太田)


 「1925年末の郭松齢事件<(*9)>にさいしては、関東軍や満鉄側は、郭の掌理は「満州赤化の脅威につながる」としてこれを警戒した。すでにこの年の6月、参謀本部は、「支那は赤化せずとの観察に動揺を来し、ことに昨今の事態はこの如き楽観を許さざるに至れり」と判断を変えていたが、国民革命郡がボロディンらソヴィエト顧問の強い影響下にあり、「共産主義の色彩きわめて濃厚」といった現地の特務機関からの報告は、陸軍中央部の情勢判断に次第に浸透していったものと見られる。宇垣(一成)陸相は、25年末の日記の一節にこうしるす。「支那は白色より灰色になり桃色になり赤に向ひつつあると見ることが正当である」。1926年夏の南口の戦闘<(*10)>には、馮玉祥<(*11)>の率いる国民軍に「約400人のロシア人が砲兵隊などの技術指導の面で参加していた」との情報も伝えられていた。
 ・・・陸軍当局は、その判断をイギリス側にも伝える。ピゴット在日英大使館陸軍武官との会談で(25年12月2日)、畑(英太郎)軍務局長は、その判断をこう漏らしていた。「中国をロシアに従属的な、ボリシェヴィキ国家、もしくは複数の国家群に変質せしめ、インドを解体し、日本の覆滅を狙っていると思われる。ソヴィエト政府の計画には強い警戒の目を向けている」。
 この時期のチェンバレン<(*12)>外交において<は、>、反ソ的志向が強かった・・・。ロカルノ協定<(*13)>締結は、その傾向の典型的な、具体的結晶であり、また26年に入ると、英ソ間には国交断絶が見られ、両国関係は緊張の度を高めていた。したがって、「ボリシェヴィズムの脅威」意識を共有すると見られる日本に対して、そのシンボル操作を通じて結託を強めることは効果的とされた・・・。」(16〜17)
 
→一見ややこしいですが、「赤露/中国共産党」>「中国国民党/馮玉祥(国民軍)/郭松齢」>「呉佩孚(直隷派)/張作霖(奉天派)」>「段祺瑞(安徽派)/日英」、といった感じで赤露との距離でもって横に並べてみると、かなり分かり易くなるのではないでしょうか。
 紛れもなく、まだ、大正末から昭和初にかけての1925〜26年の時点においては、対露を念頭においていたところの、日英同盟は、形式的には1923年に失効していたけれど、事実上継続していたのであり、恐らくは、こういった感じで、日英の本国政府は、支那を憂慮の念を持って注視していたと思われます。(太田)


 「1927年1月、漢口、九江への国民革命軍<(国民党軍)>の実力行使の事態は、日本国内の対華権益への危機感を一挙に高めるとともに、国際協調、とりわけ対英提携の必要性に各層の目を向けしめた。・・・
 関西財界の中には「列国協調が不可能」な場合には「断乎たる処置」をとる必要があり、陸軍の派遣も考慮すべしとする意向も強かった。このような強硬論に野党の政友会が傾いていたことはよく知られている。・・・
 このころ、日英共同出兵の意向が日本陸軍の内部にあるとの松井(石根)参謀本部第二部長の発言がイギリス側に伝えられていた。かくて、イギリス政府は日英共同で陸兵を派遣、上海の共同租界の警備にあたりたい旨を、1月20日、日本政府に申入れる。しかし、幣原<喜重郎(*14)>外相は、この提案を直ちに拒否した(1月21日)。・・・
 「幣原外交」を「国際協調主義」と性格づけることは正しい。ただ、日・米・英三国協調システムの枠組み内におけるに日本外交の位置づけについての、彼のイメージはアメリカに近く、イギリスに遠い地点にあったようである。ティリー駐日英大使も、しばしばそのような観察を下している。
 幣原は、イギリス側の行う「ボリシェヴィズムの脅威」のシンボル操作にも容易に同調しなかったし、この時期にはむしろボリシェヴィズムの退潮というイメージすらしめしていた。さらに、チェンバレン外相が、ワシントン付加税の無条件承認という、日本の意向に反した措置を、一方的に行ったことに対しては極めて憤激の念をもっていた。さらに加えると、幣原が次官当時の、シベリアでの共同出兵の無残な失敗のメモリーは、未だ生々しく、慎重な態度形勢への一因となっていたことでもあろう。」(18〜19)
 
→ここでも、あえて、赤露との距離でもって横に並べてみると、「赤露/中国共産党」>「中国国民党(国民革命軍)」>「米国/幣原」>「英国/日本世論/帝国陸軍」、となるのであって、幣原が、米国と協調はしても英国とは協調しなかったため、英国は、中国国民党懐柔政策をも併せ採ることを余儀なくされた、ということでしょう。
 外務官僚(幣原)は、早くもこの時点で大きな過ちを犯し、日本帝国瓦解の遠因をつくった、と言えそうです。
 幣原は、支那についてはもちろん、ロシア(赤露)についても米国についても無知、英国についてすら半可通、であったとしか思えませんが、当時の「優秀」と目された外交官の教育訓練やキャリアパスに、深刻な瑕疵があったのではないでしょうか。 
 「昭和6年(1931年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。」(ウィキペディア上掲)は、典拠が直接示されていませんが、事実であるとすれば、幣原は、この時、前回の外相時に輪をかけた大きな過ちを犯したと言うべきでしょう。その直後に関東軍は満州事変を決行することになり、日本は国際的批判の嵐に晒されることになります。(太田)


 「日本の同調をえられず、イギリスは結局単独出兵の決定、三個旅団計1万3000の陸軍を、ヨーロッパとアジア方面から上海に派遣することになる。・・・
 アメリカ政府・・・<は、1927年>1月27日・・・「関税と治外法権の問題全般について交渉継続の用意がある。場合によってはアメリカ単独で交渉を行う用意すらある」との・・・ケロッグ<(*15)>声明を出<した。>マクマリー<駐支>公使<(*16)>は「これによって列国に共通な集団的利益をアメリカは裏切っているとの非難を日英両国から招くことにもなりかねない」として反対であったが、・・・ケロッグ長官の意向で押しきられた。ワシントンの協調システムに亀裂が生じつつあったのは確かだった。・・・
 <しかし、>3月末、国民革命軍の上海接近で、情勢は緊迫化し、イギリス陸軍に加わって、日米も陸戦隊を上陸させ、列国の陸上へ威力は1万2500に達した・・・。そしてこの年の春から夏にかけて、中国の新事態に対応して、システムは機能回復の徴候すらしめしてくる。・・・
 <1927年>3月24日の南京事件<(*17)>の発生は各国にとって大きな衝撃であった。事件にさいして、居留民保護の目的で、英米両国の砲艦から砲撃が行われ、これに日本砲艦が参加しなかったことはよく知られている。4月3日には漢口事件<(*18)>が発生、このさいは日本居留民保護のために陸戦隊約200名が上陸、日本租界を武力で保護した。・・・
 かくして、中国に対し、何らかの実力手段を列強が共同で行使すべしという点で、イギリスと日本陸軍とは共通の立場をとりつつあった。そして制裁手段の行使に反対する幣原外相は、アメリカ政府に同調者を見出していた。4月6日、グルー次官<(*19)>と会見した松平(恒雄)駐米大使は、制裁は・・・「穏健分子」の立場を弱める効果を生み、・・・外国人に不利をもたらし、逆効果をまねくであろうとし、「現時点においては、いかなる制裁手段の行使にも同意があたえられるべきではないという点において、アメリカ政府はわが方とまったく見解を一にしている」と、語っている。」(22〜24)
 
→どちらもノーベル平和賞受賞者でこそあれ、(当然のことながら、)英国のチェンバレン外相と米国のケロッグ国務長官は、国際情勢把握能力に関しては、後者が前者に著しく劣っていた、いうことです。
 そんなケロッグに同調し続けた幣原ら日本の外務官僚達は、日本の世論(現地日本人の世論を含む)に鈍感でかつ外交官として無能の極みであり、これに比べれば、当時の帝国陸軍は、日本の世論への共感能力も、チェンバレン並みの国際情勢把握能力も兼ね備えていた、ということになります。(太田)


 「1927年4月20日、若槻内閣に代わって、田中(義一)<(*20)>内閣が成立、田中首相は外相を兼摂、ここにいわゆる「田中外交」の開幕を見ることになる。・・・
 ティリー英大使との初会見(5月3日)で。田中新外相は、「日英同盟はもはや条約としては存在してないが、同盟の精神はいぜん活きており、その精神の維持をはかる上で力の及ぶかぎりのことをするだろう」と・・表明。・・・
 5月13日、ティリー大使は田中外相に、「今後支那を相手とするに当り日英両国の間に一定の諒解若くは協定を遂げ置き之に基きて日英共同に若くは共通の措置を執ることとし度し」とのチェンバレン外相の希望を伝える・・・。
 田中内閣は、5月28日、山東への派兵を声明し、在旅順の陸軍兵力の2000名の青島への派遣を実行に移す。このいわゆる第一次山東出兵<(*21)>の性格を理解するにあたり、そのもつ日本居留民の「現地保護」という意義とともに、この年1月いらい陸軍から提唱されていた「日英共同出兵論」の文脈の中でこれをとらえる必要があるであろう。・・・また4月中旬には、イギリスは日米両国に華北への共同出兵の提議を行っていたのである。」(24〜25)
 
→陸軍大将(退役)たる田中義一を首相とする政権の下で、しかも、彼が外相を兼ねることで、一時ですが、日本の対外政策がまともになった、ということです。なお、この頃、吉田茂が外務次官を勤めています。(太田)


 「日本の山東出兵を日英提携路線にそうものとして、イギリス政府はこれを歓迎するとともに、この機会に両国間の「協定」の可能性について、日本側にふたたび打診を試みることとなる。6月2日、松井(慶四郎)駐英大使と会談したチェンバレンは「両国の考えは今や同一軌道にそって展開している」と「田中外交」への親近の情をしめし、さらに、松井大使が日英同盟復活の声があるが、両国にとってアメリカの疑惑を強める方向での提携は賢明でなく、むしろ三国の提携こそが肝要であるとのべたのに対し、英外相は共感しながらも、このような日英接近からやがて「同盟の復活とまではゆかないにしろ何らかの正式の合意」が生まれる可能性があるとの期待をのべていた。・・・
 日本の山東出兵は華北情勢に鎮静化をもたらすであろうと、マクマリー米公使は、これを高く評価し<たし、>・・・ケロッグ国務長官も、・・・山東出兵については、アメリカ側として了解をあたえていたことを、後に語っている・・・。」(26)
 
→外務省の愚かな駐英大使が、田中義一内閣の意向に反する言動を行ったために、マクマレーが支那にいて英国的発想に立って米本国政府を懸命に説得し続けているという絶好の機会をとらえ、日本が英国の要請に応えて日英同盟を事実上復活をさせる、ということが実現できなかった、としか私には見えません。(太田)


 「田中首相はボリシェヴィズムへの脅威感をシベリア出兵いらいもっていたが、対ソ国交改善についても関心が深かった。・・・
 中国ナショナリズムの過激化の抑制を、ソヴィエトとの了解によって計りたいという考え方が、「田中外交」の一面にあった・・・と見てもおそらくは誤りではないであろう。」(28)
 
→田中義一の外交手腕には敬服するほかありません。
 繰り返しますが、彼は帝国陸軍出身です。(太田)


 「「田中外交」にとって、政治的提携の対象として最も重視されたのはイギリスである。・・・
 「対支政策要領」の基礎資料となった「対満蒙政策に関する意見」(27年6月1日関東軍司令部)はこうしるした。「支那本部におけるソヴィエト・ロシアの支那革命運動に対しては英国と協調してこれが排除に努め、要すれば支那穏健分子を支持す」。・・・日本は米・ソ・中の三国によって「包囲」されているとのイメージも陸軍内部にあり(29年9月25日、宇垣日記)、イギリスとの提携はこの「米中ソ包囲」への対工作として発想されるという心理的メカニズムも働いたであろう。・・・
 対英提携への積極論は、外務省内でも、芳沢公使、吉田(茂)奉天総領事、小幡(西吉)駐トルコ大使らによって支持されていた。・・・
 また政友会の実力者であり、外務政務次官をつとめていた森恪<(かく)(*22)>・・・<は>イギリス大使館員<に対し、幣原を批判した上で、>・・・日英両国の中国での利益は「純粋に経済的性質のものであり、それゆえ同一である」と・・・のべた・・・。」(30)
 
→当時の、帝国陸軍や、森恪に代表されるところの日本の世論のまともさがよく分かろうというものです。
 他方、外務省の吉田茂らが対英提携に積極的だったと言っても、それは必ずしも冷静に国際情勢を分析した結果ではなく、もっぱら、彼等が外務省内における英国事大主義者であったからにすぎません。そのため、ひとたび、その英国が反日へと変貌すると、彼等は、英国を批判するどころか、そんなことになったのは日本の世論や陸軍が支那で反英的言動を行ってきたからだ、と身内に矛先を向け、ことごとに陸軍の足を引っ張ることとなったのです。
 陸軍が熱望したところの、1940年における対英のみ開戦という最大のチャンスを日本が逃すこととなったのは、これらの、愚かな英国事大主義者達の暗躍のせいである、と申し上げておきましょう。(太田)


 「<他方、>すでに7月25日、アメリカは単独で、中国の関税自主権を承認する措置に踏みきって<いた。>・・・
 <そして、あろうことか、>イギリス<まで>も、この年の12月20日、英中間の新関税条約の締結にふみきり、中国の関税自主権承認を行ったのである。同時に国民政府の正式承認を行った。・・・
 日本外交の上には「孤立化」の暗影があらわれてくる。」(30、33))
 
→結局、「<10月>革命直後から、レーニン<は>しきりに・・・帝国主義諸国間の矛盾・対立の利用は、ソヴィエトの重要な外交戦術であ<ると>・・・説いていた」(7)ところ、支那において、日米英は、まさに、この赤露の戦術に乗ぜられ、日米英協調システムはついに崩壊してしまうわけです。
 その一番の責任は、そもそも赤露をほとんど脅威視しないまま、自らの覇権を追求した米国にあると言うべきですが、二番目に責任を負うべきは、英国から累次提起されたところの、日英同盟を事実上復活しようという要請に対し、米国のことを慮って、ついにそれに真正面から応えようとしなかった日本でしょう。
 そして、これについて、最も咎められるべきは、結果として赤露の戦術に乗ぜられたに等しい外務省であり、逆に最も評価されるべきは、そんな戦術など全く通用しなかった帝国陸軍であったところ、このパターンは日本帝国瓦解まで続いた、というのがここでの私の結論です。(太田)

3 ロイド・ガードナー「極東国際政治と英米関係」(河合秀和訳)

 もともとが散漫な論文であるのに加えて、河合の訳が余りこなれているとは言えないため、読むのが苦痛でした。
 興味ある箇所を断片的にご紹介するだけにとどめたい思います。


 「<第一次世界大戦>が終わった<頃の>イギリス外務省の見解<は次のとおり。>
 「当面、経済的には一切の有利はアメリカ人の側にあるが、政治、経済の両面で東洋人に対処していく上での無知と経験不足のために、ともかくも今後長期にわたって、彼らは極東の命運において指導的な役割を果すには不適格である。そして、問題が臨機にかつ慎重に扱われるならば、戦争の結果として生じた明白な不利にもかかわらず、わが国の指導権を保持することは、われわれにとって困難でないはずである」。」(41〜42)
 
→米国評はまことにもって御説の通りですが、残念ながら、英国は米国を制御することなど、全くできなかったことを我々は知っています。(太田)


 「<英>首相デイヴィッド・ロイド・ジョージは初めは心から<日英同盟の>更新に賛成であった。彼は、率直にいって同盟はアメリカの願望を抑制するものと見ていた。<1921年に>彼は自治領諸国の代表にむかって次のように語った。「中国がアメリカの大手を振って歩ける国にならないように、そしてアメリカが中国貿易の全利益を占めないようにすることが重要である」。・・・
 彼は1920年8月17日、日本大使珍田伯爵との送別の対話において・・・<日英>同盟は安定を助長した、そしてイギリス国民はその継続を支持していると語った。また・・・、日本は東シベリアに生じている諸問題に対処すべきであると言った。」(45〜46)
 
→はっきり言えば、ロイド・ジョージ英首相は、日英同盟を、東アジアにおいて、アホの大男の米国を牽制しつつ、悪漢の大男の赤露を抑止するためのもの、と見ていたわけです。(太田)


 「日英同盟を改訂して合衆国も加入させようとするイギリスの様々な提案は<アメリカにとっては>特に腹立たしいもので、いずれも即座に拒絶された。・・・
 <駐米>イギリス大使サー・オークランド・ゲッデス<がその種の提案を行った時、米国務長官のチャールズ・エヴァンズ・>ヒューズは椅子から飛び上った。彼の顔は、「蒸した赤カブの淡色の輪のような色…」になった。それから彼は叫んだ。「もしアメリカが、自分には何も求めず、ただイギリスを救うために戦争に突入しなかったら、そして(金切り声を挙げる)勝たなかったら、貴方はここでイギリスを代表して話してなどはいないだろう・・・。・・・話しているのは、その声が聞えるのはカイザーだ…カイザーなのだ。それなのに貴方は、日本にたいする義務について話している」。」(46)
 
→米国の牽制のために一番良いのは、日英同盟を日米英同盟へと改組することだ、と英国は考えたけれど、人種主義的帝国主義に染まっていた米国は、黄色い猿の日本と同盟関係を取り結ぶなどという汚らわしいことを勧める英国をヒステリックに罵倒した、ということです。(太田)


 「1924年末の状況においては、アメリカの政策は中国ナショナリズムにたいしてその主要な要求に応じることで対処するというものであった。ワシントンの作業仮説は、中国人がアメリカの政策を日英「帝国主義」の影の中ではなく、正しい光に照らして見るならば、列強がこれまで直面してきた問題の大部分は消滅するであろうとするものであった。」(66)
 
→アホの大男の面目躍如ってところですね。(太田)


 「「ジノヴィエフ書簡」<(*23)>事件の余波の中で、イギリス人はソ連がイギリス帝国を激しい攪乱、そしてやがては破壊の運動の対象として取り上げたと確信していた。ボリシェヴィキの機関員と宣伝はアジアにおいてもっとも活発であった・・・。
 <オーステン・>チェンバレン<英外相>はまた、日本とイギリスはともに、アメリカが民族主義的要求に応じようとして--特に治外法権廃止の問題で--あまりに早く動いていることを憂慮している点で共通であると信じていた。ロシアは、帝制以来の古い特権を一切放棄する条約を中国と調印していた。ヴェルサイユ条約の条文--今ではロンドンでは大いに後悔されていた--によって、ドイツとオーストリアも同じような条約に調印していた。イギリスと日本はこの問題点では結束して、ワシントンがあまりにもはやって中国における西欧権力の最後の足場を消滅させるのを抑えることができるであろう。」(67〜68)
 
→英国が、当時、どれほど赤露を脅威視していたか分かりますね。支那での治外法権撤廃等は赤露を利するものという認識であったということです。(太田)


 「1925年5月30日の「上海事件」<(コラム#4504)>で・・・イギリスの閣議は中国にたいする軍事行動の可能性を論じたが、ロシアにたいする干渉戦争の愚行を一層大きな規模でくり返すという可能性を前にして尻ごみした。「中国は広大な国であり、決定的な軍事目標がない」と、統合参謀本部長が結論を下している。列強は北京や広東を取り、それをいわば人質にとったり、あるいは破壊したりすることもできるであろう--しかし、その後はどうなるのか。」(70〜71)
 

 「スタンフォーダム卿<(侍従?)>が<チェンバレン>外相に通報したところによると、・・・<英国王ジョージ5世>は、昨夜、貴下の珠江を封鎖するという提案を真剣に考慮すると述べた暗号電信を受領して喜んでおられる。陛下は、何かそのようなわが国の自己主張の実際的な証明が当面の情勢にたいして望ましい効果をもつであろうと、考えざるをえないとされている・・・」。・・・
 国王は、・・・<駐日英国大使のサー・チャールズ・>エリオットの・・・次のような結論に特に感銘を受けていた。「東洋にかんするかぎり、特にわれわれが東洋と西洋の双方におけるソ連の活動の危険性を正しく評価するならば、合衆国よりもむしろ日本と協力しなければならない」。」(72〜74)
 

 「インド政庁の首長は、上海はソヴィエト・ロシアとイギリス帝国との間の決定的な力試しとなるであろうと信じていた。彼は、ロシアの指導者は彼らの中国における事業の成功はモスクワの共産党政権の運命を決すると信じているという外務省の報告を引用しつつ、外相にあてて「もし・・・上海で・・・「彼ら」が勝てば、「イギリス人が中国から追放されている状景は…[帝国に]敵対しているインド人にたいする直接の教唆となるであろう」。
 <結局、英国は、>1万2000の兵力を派遣することが決定された・・・。」(85)
 

 「1927年4月1日の日本に軍事援助を求めたチェンバレンの訴え<は、>・・・「揚子江沿岸における最近の諸事件は、そこに今起りつつあることは、事実上、過去2、3年の中国において発展しつつある破壊活動と排外的宣伝煽動による共産主義的体制の勝利に等しいことを国王陛下の政府に確信させた。この運動の力は、もっぱら中国の暴徒と訃報分子の道徳的堕落に頼っており、国民の安定した秩序ある部分は無視されている、後者は平和と静穏を欲し、国民の大多数を形成しているものとわれわれは信じているが、自らの願望を表明することはまったくできないでいる」。・・・「これが共産主義的活動の第一段階でしかないことは、きわめて明白である。それは中国におけるイギリスの立場を堀崩すや、その勢力を他のすべての外国人に向けていくであろう。日本人の順番が続いて来ることは、きわめて確実である。その場合、日本の利益が同様にして被害を受けるだけでなく、中国における共産主義の目標の勝利が、地理的近さとその国にたいするより大きな経済的依存度のために、国王陛下の政府よりも一層決定的に日本に影響をおよぼすであろうと、国王陛下の政府には思われる」。」(85〜86)
 
→この時点での英国政府と日本の帝国陸軍/世論の支那観は完全に一致していたと言えます。
 返す返すも、この時点で、事実上の日英同盟の復活という英国の提案を受諾し、いつでも支那において日英が共同軍事行動をとれるようにしようとしなかった当時の日本政府、就中幣原外相の愚かさが悔やまれます。
 近い将来の日本の運命、とりわけ1937年からの日支戦争の展開を予言したかのようなくだりや、当時の英国王のジョージ5世(George V。1865〜1936年。国王:1910〜36年)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_V_of_the_Unite...
の意向を英国政府が気にかけていたこと等、面白いですね。(太田)


 「チェンバレン・・・<英>外相は、[<日英>同盟の廃棄は]極東ではわが国にとって高価なものになった。わが国の日本にたいする手掛りと友情を犠牲にしたからである。・・・。」(86)
 
→英国が、米国のごり押しに屈して日英同盟を解消した愚を反省しているわけです。(太田)


 「<英日間の>新しい「諒解」の成立を妨げたのは、たんにアメリカの反対論だけではなかった。事実は、日本には提供するものがなかったということにあった。」(91)
 
→ガードナーは、1978年時点でラトガース大学教授であり、恐らく米国人だと思われますが、この、当時の米国政府を庇うような記述はナンセンスです。
 赤露に対して東アジアで防壁となる、ということで、日本は米英に対し、一貫して多大なる貢献(提供)をしていたのですから・・。(太田)

4 ジェームズ・B・クラウリー「日英協調への模索」(河合秀和訳)

 この論文についても、ロイド・ガードナー論文と全く同じことが言えます。
 ところで、この編著の編集方針が私には解せません。
 多くの筆者が同じ頃の話を記していること、にもかかわらず、同じ典拠を援用している例がほとんどないこと、がです。
 そうは言っても、既出のような話がくり返し出てくることは避けられません。
 そこは、ご理解いただくよう、お願いします。


 「1925年12月、・・・<駐日英大使サー・チャールズ・エリオットに対し、>畑(英太郎)<(*24)>中将が、日本の高級将校は一人残らず「日英同盟が日本の外交政策の基礎であった時代と同じように、イギリスとのもっとも親しくかつ暖い関係」を熱望していると述べて、軍事協力の可能性を切り出した・・・。畑の働きかけは、反共の張作霖を誉めたたえ、ソ連の影響を受けている馮玉祥を嘆く森恪、松岡洋右の騒がしい主張を背景にして発生していた。」(101)
 
→前(コラム#4502)に示した、「赤露/中国共産党」>「中国国民党/馮玉祥(国民軍)/郭松齢」>「呉佩孚(直隷派)/張作霖(奉天派)」>「段祺瑞(安徽派)/日英」、を思い出しましょう。(太田)


 「エリオット<は、>・・・日本の山東、北樺太、東部シベリアからの撤退に示される平和的態度を一身に体現していた・・・幣原<外交について、>・・・臆病<で>大国たらんとする野望を抱きながらそれらしく行動できないで<おり、その>「・・・外交政策<は>不誠実<だ>とは云わないが、一種の二重性と一貫性の欠如」が生じていた<と記している。>」(101)
 
→英国にかかると、幣原はボロクソですね。
 なお、厳密に言うと、シベリア撤兵は1922年10月、北樺太撤兵は1925年5月、山東撤兵については、「山東懸案解決に関する条約」に基づくものは1922年末、第一次山東出兵の撤兵は1927年、第二次・第三次出兵の撤兵は1929年
http://ja.wikipedia.org/wiki/シベリア出兵
http://www.geocities.jp/showahistory/history08/tai...
http://ja.wikipedia.org/wiki/山東懸案解決に関する条約
ですが、幣原の外相時代は、1924〜27年4月、1929〜31年であるところ、彼が外相として手がけたと言えるのは北樺太撤兵だけです。
 (第一次山東出兵の撤兵は1927年9月
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/n...
ですから、該当しません。)(太田)


 「1926年7月の国民党の<中国>統一運動の発足<の頃、英>外務事務次官サー・ウィリアム・ティレルはイギリス政策の歴史的原則--帝国の安全と、貿易、商業の促進--をあらためて述べていた。ティレルは、イギリス政府は世界のいたるところで平和と繁栄のために尽し、他方、ソ連は世界のいたるところで呵責ない反英宣伝によって無秩序を醸成していると仮定していた。極東における最善の対応策--「日英同盟の復活」--の可能性は、残念ながら日本における新しい反軍国主義的、民主主義的精神のために閉ざされていた。」(102)
 
→クラウリーはこの論文執筆当時、米エール大学教授ですから、やはり米国人であると思われますが、最後の「日本における新しい反軍国主義的、民主主義的精神のために閉ざされていた」は、米国人たるクラウリーの反日的/反英的偏見の現れでしょうね。(太田)


 「香港総督<のクレメンティ(コラム#4500)>は、幣原外交は国民党にたいする「ほとんど不合理なまでの忍耐」の外交であると解した。また中国の他のところでは、サー・C・クレメンティが日本人は内戦をかき立て、「白色人種、特にわが国の極東に於ける貿易と影響力」を堀り崩そうとしていると見ていた。」(103)
 
→この総督自身が、指導的英国人の中では、性根がねじ曲がっている人物である、と見ました。(太田)


 「任地を離れようとしていた北京のイギリス公使サー・R・マクリーは、日本とアメリカの同僚にたいして「非妥協的でソ連の息のかかった民族主義の洪水によって深刻な危険にさらされているわれわれの条約上の権利と既存の利益を守るための統一戦線」を結成するよう訴えた。」(104)
 
→対照的にまともな指導的英国人、ここにあり、という感じです。(太田)


 「チェンバレン・・・<英>外相は、・・・「アメリカ合衆国の政策(もしそれを政策と呼べるものならば!)は、われわれすべてを破滅させるであろう。それは率直でない。・・・ワシントンでは、他国の利益にたいする関心、特にわれわれとの関係を否認することである…それは利己心、不信、ひねくれの政策である」<と記した。>」(105)
 
→よくぞ言ったと拍手したい気持ちです。(太田)


 「<1925年の上海事件に際して、>幣原は、イギリスからの出兵要請を拒絶するに当って、陸相宇垣と北京駐在公使芳沢<謙吉(*25)>の勧告を却下していた。それは勇敢な政策決定であった。チェンバレンは1万6000に及ばないイギリス人を保護すべく行動していたが、20万以上の上海在住日本人にたいする幣原の怠慢なる姿勢は、日本陸軍と田中男爵の率いる野党政友会の中の衝動的に武力を振りかざしたいと願っている人々の感情をかき立てた。」(107)
 
→「衝動的に武力を振りかざしたいと願っている人々」というくだりも、クラウリーの反日的/反英的な偏見の現れでしょう。
 なお、私は芳沢謙吉を英国事大主義者と見た(コラム#4506)わけですが、戦後公職追放になっている(ウィキペディア上掲)ことから、判断を留保しておきたいと思います。(太田)


 「<1927年の>南京事件をめぐ<って>・・・チェンバレンは、把えがたい協力者日本を求めて、「破壊と排外的宣伝・煽動の共産主義的体制の勝利を食い止めるため」の協力を要請した。<英駐北京公使のサー・マイルズ・>ランプソンは、北京の各公使館にたいする直接の脅威をでっち上げ、日本にいくらかの兵力を北京に派遣するよう要請した。幣原<は>拒絶<した。>」(109)
 

 「幣原外相は、国内の囂々たる非難の只中にあって彼の和解的外交のスタイルを維持した。日本国内の騒ぎは、漢口事件、南京事件によって、また国民党はソ連の手先、代理人であるとする想定によってかき立てられた憤激と不安によっっていた。」(110〜111)
 

 「田中男爵は、彼の政友会少数内閣を形成するに当って、中国で幣原男爵とは大いに異なる道を歩むことを約束した。政友会は、男子普通選挙制下の最初の総選挙を田中の対中国積極外交でもって戦うという選挙戦略をたてた。他方でイギリスは、南京事件にたいする報復のために田中の協力を求めようとした。」(111)
 
→繰り返しになりますが、幣原は、世論/帝国陸軍、そして英国の意向に真っ向から逆らう外交に固執した、ということであり、その代価が余りにも高くついたことを我々は知っています。(太田)


 「芳沢公使<は、>ランプソン公使<に対して、>アメリカ人は「楽しみのために」中国にいるのだから、・・・<日英の>役に立たない。それにたいしてイギリス人と日本人は、「生涯のこれからの部分」を中国で過すというのである。ランプソンは、「それこそまさしく私の感じであると言った」と報告した。」(113〜114)
 

 「ゴート卿<(*26)>の私的な中国情勢概観は、外務省の見解とも一致していた。彼は、・・・アメリカは一つには経済的な私利私欲、また一つには「宣教師の宣伝が生み出した感傷癖」から中国人の機嫌を取ろうとするだろうと感じていた。・・・ゴートは、・・・「[中国は]ロシアのものになるのか、それとも日本のものになるのか」を問うた。」(116〜117)
 

 「1927年・・・10月、・・・<駐日英大使のサー・ジョン・>ティリー<によれば、>・・・田中<義一>は、中国をめぐる合衆国との対話にはほとんど関心を示さなかった。アメリカの「経済的利益ははるかに小さいし、宣教師の言うことに耳を傾けている」からだというのである。
 田中の積極<外交>政策は、国内での日本共産党にたいする抑圧、議会制政府にたいする毒気を含んだ非難と対になって展開された。・・・3月の内相鈴木喜三郎は・・・民政党は「議会が行政権威の中心になるような政府の形態」をもたらそうとしていると荘重に語った。普通選挙制下の最初の総選挙は、民政党の214議席にたいして政友会が221議席を獲得して、田中政権の辛勝に終った。」(118〜119)
 
→米国の東アジア「政策」に対する侮蔑意識を当時の日本と英国のまともな人々が共有していたことがよく分かりますね。
 ちなみに、支那の輸入額の国別シェアの推移を見ると、1913年:英国46%(香港を含む。以下同じ)、日本20%、米国6%、1922年:英40、日24、米17、1924年:英36、日23、米18、1926年:英21、日29、米16、1928:英25、日26、米17、であり(133)、日本が急速に英国を追い抜いたこと、米国のシェアが小さいこと、が分かります。(太田)


 「<この頃、>汕頭のイギリス領事は、死刑宣告を受けた汕頭の共産党員が革命歌を歌いながら処刑場にむかって行進したことを報告していた。「これら誤らされた熱狂主義者だけが、新年のために死ぬ勇気のある中国人であることを思うと残念である。彼らの敵も同じような精神をもつようになるまでは、中国を救う真の希望はありえないからである」と<記している。>」(121)
 
→鋭い、心の痛む指摘ですね。(太田)


 「イギリスは<日本による1928年の>第二次山東出兵は外務省にたいする日本陸軍の優位を示すものと評価していた。」(124)
 

 「日中関係が7月19日の通商条約の一方的破棄をめぐって緊迫化すると、田中は、日本は「彼らを挫くために独自の政策を取る」と声明した。・・・そして国民党にたいするソ連の影響や、「満州に共産党政権ないしはそれに近いものが樹立される」のを許すわけにはいかないことにも触れた。・・・
 8月半ば田中は、満州が「共産主義と破壊分子の餌食になる」のを防ぐという彼の決意との関連で、日英協力という話題を切り出した。」(124〜125)
 

 「<英外相代理(?)の>クッシェンダン卿は、イギリスの中国政策を<日本との>「友好的日和見主義」と形容した、奉天<総領事の>デニングは、それは満州の日本人にたいする「寛大な中立」であると考えた。・・・<駐日英国大使の>サー・ジョン・ティリー・・・は満州にたいする日本の態度を批判する人々に水をさし、日本が満州において正直に「これまでよりも寛容な政策を取ろう」としていることを強調した。「実際に日本は、そこで有益な仕事をしており、無秩序にたいする防壁と見なすことができる」。」(126)
 
→田中義一政権の努力もあり、このあたりまでは、日英協調がかろうじて保たれていたわけです。(太田)


 「1929年6月末、田中が突如として辞任し・・・財政緊縮、軍備縮小、そして「中国のいかなる部分においても、いかなる侵略的政策をも否認する」ことを前提にした・・・<民政党の>浜口<雄幸>新内閣<が発足した。>・・・
 サー・ジョン・ティリーは、「反英的という評判」の幣原外相と交渉しなければならぬということをいささか不安に思った。・・・
 1930年2月選挙では、民政党は政友会の174議席にたいして273議席を得<た。>・・・
 <ところが、そんなところへ>大恐慌<が起こったのだ。>」(128)
 
→しかし、再び幣原外交が展開されることになります。
 そして、幣原の浜口内閣自身に対し、気まぐれな日本の世論が信任を与えてしまうわけです。(太田)


 「イギリス繊維の売り上げが<日本との競争で、1929〜32年の間に>継続的に低下したことが自由貿易対保護貿易の論争に油を注いだ。そして保護貿易主義の見解が、1932年オッタワ会談を支配し、連邦と帝国にわたる全面的な特恵待遇体制を作り出した。」(136)
 

 「すべての先進国は大恐慌を通じて深刻な社会的、経済的問題を体験したが、日本の深刻さは合衆国、ドイツ、イギリスとは違ってい<て>・・・大量失業と労働争議はなかった・・・<しかし、>日本の農村と小企業の苦境はきわめて現実的であった。それが、世界市場の繁栄能力を前提にしていた幣原外交にたいする信頼を堀り崩したのは、避けがたいことであった。・・・
 浜口内閣の自由放任経済にたいする信頼の欠如が大きくなったことに加えて、1930年のロンドン海軍軍縮会議が軍備制限にたいする支持を切り崩した。・・・
 海軍条約をめぐる騒ぎにもかかわらず、浜口は陸軍予算の削減を計画した。軍部は、・・・帝国陸軍はすでに列強中最小の予算しか与えられていないという事実にもとづいて政治運動を開始した。1928年の数字は<、イギリス:兵員数543千人、予算512百万円、アメリカ:318、721、フランス:560、507、イタリア:300、324、ドイツ:100、315、日本:200、220であり、>日本よりも兵力が少ないのはドイツだけで、これはヴェルサイユ条約によるものであった。その上、日本軍は沿海州におけるソ連の兵力増強を懸念していた。」(136〜139)
 
→幣原外交で、日英関係が再びおかしくなっていたところへもってきて、大恐慌が、英国をしてブロック化を追求せざるをえなくしたことから、日本と英国との間には大きな溝ができてしまうのです。
 なお、浜口内閣の軍縮・軍備管理政策によってもたらされた帝国陸軍の装備の質量ともの不足が、その後の大軍拡にもかかわらず、予算が日支戦争経費に食われてしまったため、十分解消されないまま、日本は、先の大戦に突入することになってしまうのです。(太田)


 「1931年9月18日、関東軍は<満州事変を引きおこした。・・・>
 国際連盟を通じて満州に干渉するというイギリスの決定は、民政党内閣と幣原男爵の外交にとって破滅的な打撃となった。」(140、145)
 
→そのような中、日本は、満州事変を引きおこし、それに対して、英国が国際連盟を通じて日本に対し、真綿で首を絞めるような対応を行ったことから、日英の離間は決定的なものとなるのです。

5 ウォルター・ラフィーバー「米国極東外交の主題--「競争対強調」か経済進出か--」(平野健一郎訳)

 これは、比較的論旨が鮮明な論文です。


 「シオドア・ローズヴェルトが言ったように、「米国のフロンティアが西に向かって中国の奥地にまで拡張する」可能性があるという考え方は消えなかった。・・・
 ところが、当面の問題となったのは孔子ではなく日本であった。・・・
 ウィルソン政権は、・・・ヨーロッパ勢力の後退によって生まれた真空が日本の力によって完全にうめられてしまう前に、それをうめるなんらかの政策を打ち出さなければならなかった。その必要性は、米国自身が欧州大戦に参加した1916年の晩冬には、さらに一層切迫したものとなった。・・・
 ウィルソン<は>・・・<米参戦前の1916年>2月はじめに・・・閣議で次の様に語った・・・すなわち、ドイツとの外交関係を断たなければならないのかもしれないが、「率直にいうならば、自分は、白色人種もしくはその一部を、黄色人種--たとえば、ロシアと同盟して中国を支配する日本--に対抗しうるほど強力なものにしておくためには、何もしないことが賢明であると感じれば、何もしないつもりであり、何事をも、弱腰とか臆病とかの非難をも甘受するつもりである、と・・・」。」(196〜198)
 
→改めて、ウィルソンが、ある意味で、セオドア・ローズベルト以上に露骨な人種主義的帝国主義者であったことがよく分かるくだりですね。(太田)


 「結局、東からの強い引力にウィルソンは抗し切れず、米国は<第一次世界大戦に>参戦したが、参戦後、ランシングは石井-ランシング協定<(コラム#4500)>によってアジアにおける米国の利益を擁護しようと試みた。協定の秘密議定書が、大戦中、中国を日本の領土的野心から守ってくれるように思われた・・・」(198)
 
→既にセオドア・ローズベルト政権の頃から、有色人種国たる日本との「戦い」の火蓋を切っていた米国のウィルソン政権は、「身内」のドイツを東で叩いている間に、西で日本の勢力が伸張しないよう、休戦協定たる石井・ランシング協定を日本に結ばせた、ということです。(太田)


 「米国の極東政策の構造がきちんと組み立て直されるには、<民主党のウィルソン政権の後の大統領>ウォーレン・C・ハーディング、国務長官チャールズ・エヴァンス・ヒューズの共和党政権が多くのもつれを解きほぐさなければならなかった。・・・
 <米国>にはいくつかの武器があった。たとえば、大戦中に日本の対米輸出はほぼ三倍、輸入は五倍に増えたため、日本は対米貿易に大きく依存するようになっていた。ヨーロッパはいずれ必ず再び中国関係に参加してくるが、その時日本が蒙る損失は、米国市場の拡大によってうめることができるものと、日本の関係者の一部は考えていた。その上、日本の輸出入の40パーセント以上は、米国海軍が制海権をもつ北太平洋航路を通過し、30パーセントはシンガポールの英国艦隊の砲撃範囲内を通るのであった。さらに重要なことは、日本は中国、満州、山東での建設を進めるために投下できる資本を非常に必要としていたが、十分な金額の資本を提供できるのは、ニューヨーク市だけであったことである。」(204〜205)
 
→日本と「戦っていた」米国への経済・金融面での依存度を、日本は全く警戒心を抱かずに高めて行き、それを米国政府はほくそ笑んで見ていたわけです。
 また、シンガポールへの言及は、米国が日英同盟を解体させ、日英を離間させることで、何を達成しようとしていたかの一端を示すものです。
 米国は、英国とともに軍事的/経済的圧力をかけて東アジア(支那)において有色人種国たる日本を抑え込む、という構図を、この時点で早くも思い描いていた、ということでしょう。
 米国が思い描いたこの構図は、太平洋戦争直前の、いわゆるABCD包囲網となって見事に結実したことを我々は知っています。(太田)


 「基本的なルールは、日本は経済的、軍事的に米国に劣る、というものであった。加藤友三郎も認めたように、近代戦には大規模予算が必要不可欠であるが、日本はその種の資金を米国から借りなければならない。それゆえ、「米国との戦争を回避することは至上命令」であったのである。これを梃子として、ヒューズは門戸開放政策の承認と費用のかさむ海軍軍備の制限を勝ち取ったのみか、日本を大きく後退させたのである。膠州湾租借地は返還され、軍は撤兵し、青島・済南間鉄道も中国に返され、シベリア出兵は終って、軍は北樺太を撤退し、そして、重要な通信拠点ヤップ島についても妥協が成立した。こうした一連の取決めがあれば、西太平洋の制海権を日本に与えておくことも可能となった。実際、日本を新しいルール・・・門戸開放政策を協調的な政治的方法によって維持しようとする<ルール>・・・の強制者として活動させることも可能となったのである。」206〜207)
 
→以前にも記したように、東アジアで門戸開放を唱え、日本にもこの「ルール」を飲ませれば、経済的に日英より優位にある米国の勢力が自ずから東アジアにおいて伸張する、という「戦い」方で米国は有色人種国たる日本を蹴落とそうとした、ということです。(太田)


 「<こ>の政策は短期的には作動した。米国の日本への資本輸出は1920年代に著しい増加を示し、米国は日本の最上の輸出先となり、日本の方は他のいかなる国よりも多く米国から輸入した。米国は日本の朝鮮と南満州に於ける伝統的な勢力圏を承認し、日本側はそれ以外の中国はすべて開放されることを認めて、両国は友好的に共存した。その間、米国の対中投資は1914年の4920万ドルから1930年の1億5500万ドルへと三倍に増大した。・・・
 終わりの始まりは、1920年代半ばからの中国革命の高揚とともにはじまった。そして、終わりはドルの力が崩壊した1929年にやってきた。米国の経済力が下り坂になるとともに、それに依拠していたワシントン条約体制と門戸開放の構造も傾いたのである。1917〜22年時代の政治的、軍事的構造は、1931年には、経済的基盤を取り去られて、あたかもホネのない皮が歩こうとする姿にも似ていた。日本が別の選択を求めたのはまさにこの時点であった。」(209〜210)
 
→まさに、この米国が日本にしかけた「戦い」に、無抵抗でなすがままに敗北を重ねて行ったのが幣原外交であったわけです。
 その結果、日本は英国とは決定的に離間することとなり、中国革命は高揚し(=赤露の東アジア蹂躙を許し)、そんなところで出来した大恐慌による米国経済の縮小とそれに伴う米英両国経済のブロック化によって、日本は支那、米国、英国(大英帝国)の資源輸入/商品輸出両市場から閉め出され、東アジアにおいて味方がゼロという四面楚歌の中で苦しむことになり、ついには、米国の、経済力を基盤とする軍事力によって、有色人種帝国たる日本帝国は崩壊させられることになるのです。
 しかし、実は日本は、日本帝国の崩壊を見返りとして米国に大勝利を博したのであって、日本は赤露への抑止戦略を米国に全面的に肩代わりさせることに成功したほか、米国を含む欧米諸国の市場を日本に対して全面的に開かせることにも成功し、おかげで日本は、それまでの人類史上空前の(戦前における)経済高度成長軌道に容易に復帰することができ、その後日本の国力は米国を一時脅かすところまで伸張した、ということを我々は知っています。(太田)

6 チャールズ E・ニュウ「東アジアにおけるアメリカ外交官」(坂野潤治訳)

 これは、なかなか面白い論文です。当時、ブラウン大学教授で、やはり、恐らくは米国人であるニュウに米国人なるがゆえの限界があることは言うまでもありませんが・・。


 「ジョン・V・A・マクマリーは1935年に次のように回顧している。
 「我国の政府も民間世論も共に、中国問題を東アジア問題の中心に置いたのは、当然かつ正当なことであった。中国を太陽に喩えれば、日本はもちろん、フィリピンでさえ太陽のまわりを廻る衛星にすぎなかった」。」(214)
 
→これはどういう意味かをこの論文は明らかにしようとしたのです。(太田)


 「1920年代初頭におけるアメリカの外交官たちの対日観は、その対中観ときわだって対照的であった。彼らはこの中国の隣国を疑惑と警戒をもって眺めていた。第一次世界大戦中における日本の中国への侵略は、日本に対するアメリカの敵意を強めさせた。アメリカの外交官の多くは、独立した近代強国としての中国の誕生にとっての最大の脅威は日本であると確信するにいたった。彼らは・・・同時に日本をアジアにおける二流国であるとみなしていた。この二流国は中国資源の搾取によって自らを強化しようとしており、その過程で欧米的理想と制度が中国に浸透するのを妨げようとしており、開かれた中国の門戸を閉じようとしている、とアメリカの外交官たちは思っていた。ワシントン会議においてもマクマリーらのアジア専門家たちは、日本との対決を主張していた。」(215)
 
→当時の米国の対日観/対支観と英国のそれとの落差がどれほど大きかったかがわかります。
 がっかりさせられることに、マクマレーもまた、当時の米国の外交官の典型的な対日観/対支観を抱いていたわけです。(太田)


 「アメリカの外交官たちの中国への傾倒は、近代社会の緊張から逃れたいという彼らの願望に根差していた。彼らは中国において文明的ではあるが産業化されていない国家を見出した。そこには彼らの美的感覚に訴えるものがあり、また過ぎ去ったアメリカを想い出させるものがあった。」(216)
 

 「日本は中国に比してこの種の吸引力を欠いていた。19世紀後半には日本の前産業社会がアメリカ人を魅きつけたこともあったが、1920年代の日本は近代化の道をすでにかなり進んでおり、その種の魅力の大部分を失っていたのである。・・・
 アメリカの外交官たち<の抱く>概念としての進歩の肯定と、現実の進歩の結果に対する嫌悪との間の対立が表面に出てきたのである。いわば彼らは、自分たちの将来像から逃れたいと念願していたのである。」(218)
 
→要するに、当時の米国の外交官は、文化人類学者が未開部族を愛で、文明と接触して無垢でなくなった部族を厭うのと同じ感覚・・傲慢さと言った方が正しいかもしれません・・でもって、支那と日本を見ていた、ということです。(太田)


 「それ故にアメリカの外交官たちは滅多に日本行を希望しなかった。駐日大使を補充することは困難であり、赴任した大使は短期間の滞在の後には喜んで日本を離れた。一般的にいって駐日大使の資質は駐中国大使よりも劣っていた。将来を嘱望されている国務省の東アジア専門家たちが外地勤務につく場合には、彼らは日本ではなく中国に赴任した。」(219)
 
→かねてより、米国人は、本来的に国際情勢音痴である、と申し上げてきたところですが、外交官ですらこんな有様では、何をかいわんやです。(太田)


 「1917年10月に東京に栄転させられた時、マクマリーは「悲嘆に暮れた」。・・・
 「東京は生活する場所としては北京に及びもつかない。東京は無闇に広いばかりの、くすんだ、色彩に乏しい町で、日本のものと外国のものの混成物である。美しく色彩に富んだものは、公園や奇妙な裏通りに時たま点在するだけである。生活費は北京よりもはるかに高く、召使たちはあまり良くない。・・・
 1929年に中国公使をやめる時に<も、>個人的な条件が非常に悪く、経済的な消耗があまりに大きい東京に移る意思のないことを明らかにしていた。北京以外で彼が赴任を真に望んでいた所はローマであった。」(219〜221)
 
→マクマレーを始めとする当時の米国の外交官は、楽しい任地でいい暮らしをするために国務省に入ったのか、と揶揄したくなりますね。
 こんな姿勢では、任地を真に理解することなど、およそ不可能というものでしょう。(太田)


 「アメリカの政策決定者たちの中国に対する偏愛と期待にもかかわらず、1922年と23年に中国で起った諸事件は、彼らに幻滅のみを残した。内乱が激化するにしたがい北京政府の権力は傾き、相対立する諸勢力の衝突は外国人の生命と財産を危険にさらした。何人かのアメリカ人が匪賊に誘拐され、またある者はアメリカ領事の眼前で射殺された。これらの事件にアメリカの外交官たちは激怒した。・・・
 大部分のアメリカ外交官たちの見解は次のマクマリーの言葉に代表されるようなものであった。すなわち、「我々は中国で今起っている犬の喧嘩に対しては中立である。どの派閥も我々には同」じにみえる。張作霖は「海賊」であり、孫逸仙は「中国のブライアン」であり、段祺瑞は「間抜け」である、と。」(221〜222)
 
→実際、ここからは、例えば、赤露に対する脅威認識や、赤露への距離でもって支那の派閥を評価するといった視点、が生まれる余地はありません。
 『防衛庁再生宣言』以来、私はマクマレーを買いかぶりすぎて来たようです。(太田)


 「中国に幻滅を感じていく反面で、アメリカの政策担当者たちは日本の変化を喜ばしい驚きをもって見ていた。・・・
 ワシントン会議の以前には彼らは日本の脅威を過大評価し、会議の後では両国の親密さを過大評価しはじめたのである。彼らは両国間に潜在していた諸対立に直面できなかったのか、あるいは直面するのを嫌ったのである。10年にも及ぶ人種差別の根強い傾向が存在していたにもかかわらず、ヒューズは<移民>問題の日米関係にとっての重要性を無視し、移民問題の検討を延しつづけたのである。彼は・・・太平洋岸のアメリカ人がアメリカにおける日本人移民が如何に少数に過ぎないかを理解しさえすれば、反日移民法の要求はすぐにも鎮まるものと信じていた。1924年初頭に議会における排日感情が強くなった時に初めて、ヒューズは事態の深刻さに気がついた。しかしその時においてもなお、彼は槙原正直駐米大使に、アメリカ議会に対して紳士協約の要約説明を提出するという重荷を課したのである。
 1924年4月15日にアメリカの上院が排日移民法を通過させたとき、・・・ヒューズはマサチューセッツ選出の上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジに次のように警告している。
 「日本国民に深い憤りを植えつけるのは危険なことである。もちろん今回の法律で戦争が始まるわけではないし、戦争になっても別に恐れる必要はない。しかし今後我々は東アジアにおいて、友好と協調のかわりに傷つけられた心と敵意とに直面しなければならないであろう」。
 マクマリーも、ワシントン会議でつくり出された協調システムが、排日法により弱められることを心配し、また日本国内の親欧米的、自由主義的部分の力がこれにより弱められることを恐れていた。彼は日本人の憤りは一世代もつづくであろうと考えていた。1925年初めにもバンクロフト駐日<米国>大使は<同じような認識に立って>警告している。しかしすべての<米国の>外交官がこのような見方を受け容れたわけではない。」(224〜226)
 
→上記引用の冒頭に出てくる「日本の変化」とは、幣原米国追随外交のことを指していると思われます。
 一時が万事、1924年6月11日に初めて外相に就任した幣原喜重郎は、米国でその年の7月1日に施行された排日移民法に対して、例えば、駐米日本大使を召還する等の明確な抗議行動を全くとっていません。
 これは、「米国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直<の間で、排日移民法の採択を阻止するため、>埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付する、という手はずが整った。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果 (grave consequences)」の箇所が日本政府による対米恫喝(「覆面の威嚇」vailed threat)である、とする批判が上院でなされ、法案に中立的立場をとると考えられていた上院議員まで含めた雪崩現象を呼んだ。「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案は76対2の大差で否決され、クーリッジ大統領も拒否権発動を断念<し>・・・た。」という経緯
http://ja.wikipedia.org/wiki/排日移民法
に照らすと、米国の朝野に、日本与しやすし、との誤った印象を与える結果になったに違いありません。(太田)


 「中国における革命の擡頭に圧倒されていたアメリカの政府関係者は、中国問題に没頭し、明確な形をとるにいたらない日米間の緊張についてまで思いめぐらす余裕がなかった・・・。
 かくして国務省と現地外交官たちの間で支配的な見解は、依然として対日問題は東アジアにおける第二義的な問題である、というものであった。この10年間を通じてアメリカの東アジア政策に大きな影響力をもっていた中国専門家たちは、自分たちが通暁しており、また知的、感情的に慣れ親しんできた、中国問題に焦点を置いていた。・・・
 マクマリーは、<バンクロフトが>日本に着<任した>らすぐに中国に旅行するよう強く勧めている。アジアにおける中心的な問題は中国をめぐって生じていると考えていたからである。3年後に<ネルソン・T・>ジョンソン<(Nelson Trusler Johnson。1887〜54年。駐中公使→大使:1928〜41年。その後駐オーストラリア大使(太田))>が<中国赴任前、>国務省<極東部長であった時に>国務省の東アジアにおける諸活動を要約したとき、彼は中国問題について32ページを費しながら、日本についてはわずか1ページをさいただけであった。
 マクマリーやジョンソンのような外交官は、日本において民主化と西欧化が進行しているという一般の見解をあえて否定こそしなかったが、実際にはそれについては懐疑的であった。それ故に彼らは幾分かは紋切り型の対日認識を越えようとしたのであるが、彼らにとっても日本社会と日本の外交政策についてのより深い理解に到達することは困難であった。マクマリーは日米関係の将来についてかなり楽観的であったとはいえ、中国をめぐる日米間の対立の可能性を見通しており、また日本移民排斥法が日本の対米態度に「絶えざる毒」をもたらしていることを心配していた。しかしこのような見通しも懸念も、彼の思考のひだの中心でもっともきわだったものではなかった。彼は、日本が中国問題の処理において本当に列強と協調しており、ワシントン会議の精神を遂行していると信じていたのである。・・・
 ジョンソンの結論は、太平洋圏の将来は、オーストラリア、中国、アメリカ三国の手中にあるというものであった。
 日本は弱体であり、国際社会における二流国であるという命題は、1923年9月の大震災以後特に、アメリカの国務省関係者の間で主流的なものとなっていった。・・・
 1924年半ばにマクマリーは、「経済的政治的な自殺をすることなしに日本が我々に戦争を挑むことはできない。戦争どころか小規模な報復すら、アメリカの絹輸入を危険にさらす覚悟なしにはできない。そしてこのアメリカの絹輸入は、日本の日の浅い貧弱な産業構造の不可欠の基礎をなしているのである」と観察していた。専門家たちは、日本は弱体な経済的政治的構造に苦しんでいると結論したのである。彼らは石炭と鉄に不足する日本は、強力な産業基盤に不可欠なものを持っておらず、それ故にアジアにおける大英帝国になることは決してないであろうと判断したのである。ジョンソンは、第一次大戦によって人為的に刺激された日本経済はじきに決算日を迎えることになるであろうと考えていた。彼は、中国かソ連かが「立ち上がりさえすれば、日本を路上の昆虫のように踏みつぶすであろう」と予言した。」(226〜228)
 
→マクマレー、ジョンソンという2代にわたる駐中国公使/大使、しかもその前ポストがそれぞれ、国務次官補、極東部長であった二人の眼中に日本など存在しないに等しかった、ということは衝撃的です。
 日本の外務省の外交官達が怠慢で、彼らのカウンターパートたる米国の国務省の外交官達に碌に日本についてインプットしていなかったせいもあるのでしょうが、マクマレーらは、日本の自由民主主義についても経済についても軍事についても、馬鹿にし切っていたわけであり、そんな彼らの情勢分析に基づいて、米国政府は東アジア政策を策定し推進したのですから、それが日本に全く配慮しない厳しいものになって日本を窮地に追い込んで行ったのも当然でしょう。
 それにしても度し難いのは、彼らは、これほど重視していた支那についてすら、何も分かっていなかったことです。
 マクマレー<(*27)>の「中国かソ連かが「立ち上がりさえすれば、日本を路上の昆虫のように踏みつぶす」ことを期待しているかのような言がそのことを示しています。
 彼には、ソ連、すなわち赤露の恐ろしさも、また、その赤露が支那を勢力圏に収めるべく謀略の限りを尽くしていたことも、全く見えていなかったわけです。


 「1920年代および1930年代初頭に日本に在勤した大部分の外交官は、日本を東アジアの第二流国に格下げした国務省の分析に異議を唱えることは出来なかった。・・・アメリカの駐日大使たちは、両国文化の隔りに気付かず、また日本の国内政治と対外政策に関して一貫した判断をもつには、日本について無知に過ぎることにも気付かなかった。彼らは日本を理解しているという幻想にたちどころに陥った。英語を話すことの出来る欧米志向型の少数の日本人グループが、日本の複雑な国内政治及び外交政策の道案内を買って出た。その援助によって彼らは日本を理解したと思い込んだのであった。・・・日本社会における枢要な地位は欧米で教育を受けた者に握られている、という伯爵樺山愛輔<(*28)>の判断を受け容れて、バンクロフトは「統治の枢要な地位にはアメリカの大学卒業者が多数いるので、日本をアメリカの献身的な永遠の友とするには、両国関係の同情的取扱いだけで充分である」と本国に報告している。バンクロフトは・・・1925年1月末には、日本のほとんどすべての重要人物を知っていると信じていた。彼の後継者であるチャールズ・マクヴェイも・・・同様の態度をとった。渡日を控えた<その次の駐日大使の>ウィリアム・R・キャッスルにマクヴェイは「日本で知り合う価値があるのは樺山伯爵と金子<堅太郎>子爵<(*29)>だけです。・・・」と伝えている。・・・
 このように限られた交際の必然の結果が一面的な分析であった。・・・
 バンクロフトは、陸軍や海軍については言及さえしていない。・・・
 1920年代の大部分のアメリカ人と同様に、アメリカの駐日大使たちも、国際関係についての遵奉主義的で楽観主義的な見解、即ち国家間の自然調和を強調する見解をもっていた。彼らは国際的不安定の重大な諸原因を認識できずに、日米両国間の文化の隔絶を過小評価した。その結果が、日米両国間の相違は表面的なものに過ぎないという単純な信念となったのである。」(229〜231)
 
→戦前の米国で対日外交に携わっていた連中は、文字通りの税金泥棒であったということです。
 先方から近づいてくる米国追従者達だけの話を聞くだけでお茶を濁していたわけですからね。
 (何度もくり返すようですが、彼らのカウンターパートたる日本の外務省の外交官達がおしなべて無能でやる気もなかったため、碌な情報を彼らにインプットしなかったとも想像されるわけです。)
 これでは、その外交官の多くが日本語が堪能で、日本に惚れ込み、積極的に広汎な日本人と交流することを旨とし、かつ帝国陸軍に英国の隊付将校を多数送り込んでいた英国に、日本認識において、米国が逆立ちしてもかなうわけがありません。(太田)


 「アメリカの東アジア政策の中心に日本を据えようとするもっともはっきりした努力は、ハーバート・フーヴァーの大統領就任とともに始まった。フーヴァーは中国における自己の体験から、中国の将来に関して広汎に流布している見解には同調しなかった。彼は日本の経済の活力と政治の安定に印象づけられ、産業国家の世界共同体の重要な一因として日本を評価したのである。<しかし、このフーヴァーの期待に応えうる外交官は米国にはいなかった。>・・・
 <その上、このフーヴァー<、>・・・やがて経済不況で気をそらされてしまった。」(232)
 
→累次申し上げてきたように、フーバーは、米国人としては例外的に国際感覚が確かな傑出した大統領だったのです。(太田)


 「1925年に中国公使となったマクマリーは北京の欧米人世界から遠くへ出たことは一度もなかった。・・・
 <1年経ってから>はマクマリーも各地を旅した。しかし彼は自分が直接に得た印象や、アメリカの宣教師や実業家たちからの情報にはあまり重きを置かなかったようである。マクマリーは、アメリカは条約上の諸権利を放棄すべきであると主張する宣教師たちを軽蔑しており、また、大部分のアメリカの実業家たちを、狭い開港場的な考え方に犯されている者たちであると考えていた。彼は情報の大部分を、自分のスタッフや、中国各地に散在するアメリカの領事たちから受けとっていたようである。しかし大部分のアメリカの領事たちは過去にとらわれており、彼らの身辺に擡頭しつつある新勢力を理解することができなかった。・・・
 中国で起った「感情的な暴発」はマクマリーを驚かせた。新しい自己主張、自意識、欧米人とその諸権利に対する尊重の減少、等も同様であった。巨大な変化が疑いもなく起っていた。しかしマクマリーはこの諸変化に当惑しており、また自分が理解できないものを軽蔑していた。・・・
 彼は、すべての軍閥指導者が全く同じにみえるような「もっとも異様な、顛倒した、現実離れした所」に住んでいると確信していた。」(240〜241)
 
→マクマレーもひどいものです。
 彼には、重要情報源たる支那人すら全く存在しなかったようですね。
 しかも、以下の基本的な2点を彼は対東アジア外交に携わっていたその他の米外交官達と共有していたのですから、彼が、支那をさっぱり理解できなかったのも当然です。
 (日本のことにほとんど関心がなかったのですから、日本の台湾統治の見事さや日本人一般の抱く赤露への恐怖心を知る機会もなかったことでしょう。)(太田)

 第一点は、米国のフィリピン統治が、(その植民地化の経緯のみならず、統治そのものにおいても)大失敗であったことを自覚していないことです。↓(太田)

 「<アメリカの外交官達>はフィリッピンにおけるアメリカの成功に誇りをもっており、この例が、アメリカの博愛主義の証拠として、またアジアと欧米の両文化が如何に効果的に融合しうるかの証拠として、役立つと思っていた。」(246)
 

 第二点は、東アジアにおける赤露の脅威が全くと言っていいほど見えていなかったことです。↓(太田)

 「結局アメリカ人は中国における共産主義の脅威という考えを退ける方向へ行き、アジアについて考える際日本に特別な重症性を与えなかった。もし共産主義の脅威ということを重視すれば、アメリカの対日観は変っていたかもしれない。」(232)
 

 「マクマリーは・・・ワシントン条約システムに何の欠点も見出しえなかった。彼はワシントン会議での約束を履行しなかったのは列強ではなく中国の方であると信じていた。彼は条約上の諸権利の譲歩に反対であり、イギリスや日本との緊密な協調を強く主張していた。現地外交官の方がワシントンより硬直した中国政策を主張していたのである。・・・
 南京事件に激怒したマクマリーは、・・・列強は上海の南のすべての港を封鎖すべきであると主張している。・・・
 1928年1月に彼はケロッグ国務長官に、・・・列強が干渉を斥けることは、列強自身の利益に反するだけでなく、中国自身の利益にも反することであ<る>。・・・「・・・<なぜなら、干渉は、>中国における法と秩序の回復に・・・おそらくもっとも強い刺激剤になるであろう」<からだ、と伝えた。>」(242〜243)
 

 「マクマリーの後任のジョンソン公使は中国の行き過ぎに対してより寛容であり、排外主義と民族的自己主張の避けようもない波動の前に身を屈することを何とも思っていなかった。しかしそのジョンソンでさえも、中国に着任してからは、・・・軍部の首脳たちは皆「私利私欲的」で「個人的な欲望と野心」を越えた物事を見ることができず、国家を統一する諸原理を表現することができないように見えた。」(244)
 
→ニュウはマクマレーに批判的ですが、この点に関する限り、マクマレーに軍配を上げざるをえません。
 支那の実情は知らなくとも、論理の問題としてマクマレーは「正論」を吐くことができた、ということでしょう。
 このような合理論的な物の考え方は危険なのですが、結果的にそれが当時の英国や帝国陸軍や日本の世論の考え方とも一致し、支那の実情にも合致していた、というのが私の見解です。

 さて、1935年に彼が書いた報告書「極東における米国の政策に影響を及ぼしつつある諸動向について」もまた、この「正論」で貫かれているところ、駐中国公使時代のマクマレーと180度違っているのが、この報告書における、彼の支那観であり日本観であり、赤露に対する強い警戒心です。
 すなわち、この報告書の中で、マクマレーは、東アジアにおいて(支那ではなく)最も日本を重視するとともに、米国がその日本を追い詰めてきたことを批判し、日米戦争は必至であるとしつつも、その後の米ソ、米中対立を予想し、敗戦後の日本の世界の一大強国としての復活さえも予言したのです。
 一体、このようなマクマレーのめざましい「成長」をもたらしたものは何だったのでしょうか。
 駐中国公使時代に「正論」に固執して当時のケロッグ国務長官と衝突したマクマレーは国務省を退職せざるをえなくなり、ジョンズ・ホプキンス大学教授に就任しますが、この時期に彼の回心が起こったとは考えにくいものがあります。
 コロンビア大学ロースクールの一年後輩で友人であった、フランクリン・ローズベルト大統領の引きで1933年に国務省に復帰し、バルト諸国の公使に任命されたことが彼の回心をもたらした、と私は考えます。
 (以上、事実関係は、『防衛庁再生宣言』(209〜217頁)による。)
 というのは、バルト三国は、ロシアに併合されていたところ、第一次世界大戦後、かろうじて独立したものの、これら諸国の人々は、いつまたロシアに併呑されるかという恐怖にまんじりとしない思いでいたはずであり、それを直接見聞することで、マクマレーは日本人が抱いていたロシア恐怖心をついに理解するに至ったのではないでしょうか。
 また、赴任当時は米国はまだソ連と国交を結んでいなかったので、マクマレーはソ連情報収集の任務も課されていたに違いなく、彼は、その業務を通じて、ソ連、すなわち赤露のおぞましさに通暁するに至ったと思われるのです。
 そして、バルト諸国やポーランドと違って、ロシアに抵抗し、ロシアを打ち破り、ロシアを押し戻すことに成功した日本の偉大さにも、彼は目覚めたに相違ありません。
 すなわち、ロシアとその後継たる赤露、そしてこのロシア/赤露に一貫して決然と抵抗してきた日本、という認識を持ったことを契機に、マクマレーは日本びいきへと大転換を成し遂げた、と考えられるのです。
 そのマクマレーは、駐中国公使時代に抱いていた危機意識とは比較にならないくらいの危機意識を米本国の対東アジア政策に対して抱くに至ったはずであり、それが、1935年の一時本国帰国中における、管轄外の案件に係る上記報告書執筆につながった、ということでしょう。(太田)

7 ウィリアム・R・プレイステッド「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」(麻田貞雄訳)

 当時テキサス大学教授で恐らくは米国人であったプレイステッドの執筆したこの論文、散漫なのが残念ですが、テーマが貴重であるので、つまみ食い的にご紹介しましょう。


 「日本がアメリカ海軍の作戦計画に登場するのは、早くも1897年5月のことである。すなわち、モントゴメリ・シカード海軍少将を長とする特別委員会が、ハワイをめぐる対日戦争とキューバをめぐる対スペイン戦争という同時作戦のプランを起草したのである。」(415〜416)
 
→セオドア・ローズベルト海軍次官の命により、とどうしてプレイステッドは書かなかったのでしょうね。(太田)


 「海軍大学(Naval War College)」が、1911年の「オレンジ計画」<(=対日作戦計画(コラム#1614、1621)>において下した判断は、もし戦争勃発時にアメリカの戦闘艦隊が大西洋側にいる場合、<パナマ運河がまだできていなかったので、>艦隊が遠路南米を迂回して太平洋に出撃してくる前に、日本はフィリッピン、グァム、ハワイ、アリューシャン列島を攻略してしまうことができよう、というものであった。」(417)
 

 「第一次世界大戦でドイツが敗北した結果、イギリス、アメリカ、日本の三国が、世界の海洋支配をめぐって競争あるいは勢力を分担する三大海軍国となった。・・・アメリカの海軍戦略家たちは1919年以降、もはやドイツの牽制を受けなくなったイギリスが、その海軍優位と通商支配を回復するためにアメリカに敵対してくるのではないか、と懸念するようになった。」(418)
 

 「1919〜20年、海軍将官会議および海軍作戦部で起案された作戦計画は、イギリスと日本の両国(当時まだ日英同盟の絆で結ばれていた)に対する根強い疑惑を反映していた。・・・立案者たちは、・・・イギリスは対米戦争の場合、日本を味方につけることも躊躇しないであろう、と主張したのである。・・・
 1920年3月に完成をみた・・・太平洋戦略に関する「オレンジ作戦戦略」、大西洋・太平洋両面戦略に関する「レッド・オレンジ(Red-Orange)作戦計画」、そして「基本的[戦闘]準備計画」(Basic Readiness Plan)・・・<について>の説明によると、「オレンジ」(日)と「ブルー」(米)との間に戦争が勃発しても「レッド」(イギリス)が「オレンジ」を支援することは、ありそうにもないとされた。他方、もしアメリカがイギリスとの戦争に巻き込まれたとしたら、「…"オレンジ"が・・・直ちに"ブルー"に宣戦布告してくることは、ほぼ確実」であるように思われ<てい>た。・・・
 <要するに、>海軍将官会議の判断によれば、日英同盟は対米戦争に向けたものにほかならなかった・・・。」(419〜420、421)
 
→第一次世界大戦終了直後の頃、米国にとって英国が潜在敵国の第一であり、その英国と日本が日英同盟を結んでいることから、対英戦争に日本が英国側に立って参戦することを米国は特に恐れており、だからこそ、当時、米国は、日英同盟を廃棄させるために全力をあげた、ということです。(太田)


 「日英同盟<は>廃棄<されたところ、>・・・1922年の五カ国海軍軍縮条約は主力艦と空母に制限を付し、米・英・日の三国間に主力艦総トン数で五・五・三の比率を確定したが、それは海軍将官会議が具申した勢力レベルの約半分でしかなかった。しかしながら、アメリカ海軍当局者に真のショックをもたらした海軍条約の条項は、・・・第19条--アメリカはアリューシャン列島、ハワイ、パナマ以西において新しい基地や要塞を一切建設しないという保証--であった。」(421〜422)
 
→米国は、日英同盟の廃棄に成功してもなお疑心暗鬼は消えず、日英が結託すれば米国は八対五の劣勢だというのに、太平洋には碌な基地もつくれなくなってしまった、という気持ちだったのでしょうね。(太田)


 「統合作戦計画委員会の1928年度状況判断は、・・・日米間の紛争の原因を中国問題、移民問題、フィリッピンの安全保障、極東における日本の確固たる海軍支配の追求、などをめぐる対立点に帰していた。このような対立点から戦争が発生した場合、アメリカは同盟国もなく、友好国もほとんどない状態で戦争する破目になるであろう、と同委員会では予測した。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドはアメリカに全面的な同調を示すであろうが、イギリスは中立固持に努めるであろうと・・・予想した。・・・イギリスがアメリカの対日封鎖を妨害しないよう抑止するために、カナダに睨みをきかす目的で、アメリカ国内に50万人の予備軍を維持することを作戦プランナーたちは提案した。また同委員会には、資本主義打倒をもくろむクレムリンの支配者は、利己主義にこり固まった中国の軍閥たちと同様に、日本寄りの立場を取るであろうと思われた。フランスは、すでに秘密外交協定によって日本の陣営に加わっているものと信じられていた。ただオランダ一国のみにアメリカの作戦プランナーたちは好意的中立を期待しており、それによってオランダ領東インド諸島からフィリッピン駐屯アメリカ軍への石油供給が保障されるであろう、と彼らは考えたのであった。」(430〜431)
 
→1928年には、いささか大げさにせよ、米国は、自国を孤立無援であると見ていたというのに、わずか13年後の1941年には、現実に、日本が孤立無援になっていたのは、この間、英国が、日本の事実上の同盟国から敵国へと、180度、とんでもない変身を遂げたためです。
 いずれにせよ、1928年の時点で、支那の国民党どころか、ソ連(赤露)まで日本に与する可能性があると見ていたとは、いくら米国人が国際情勢音痴であるにせよ、常軌を逸しています。(太田)


 「1930年、陸海軍統合会議は、「レッド作戦計画」を作成した・・・。しかし、「レッド・オレンジ」作戦計画・・・は単に起草の段階にとどまり、ついに完成をみることがなかった。」(434)
 
→米国は、この時点で、ようやく日英が結託して米国と戦う可能性は少ないと思うようになっていたことが分かります。
 米国は、それでもなお、しっかり対英作戦計画は策定していた、ということです。(太田)


 「<満州事変直後の1931年10月の段階で、>アメリカのフィリッピン統治権維持は、「極東における大英帝国やオランダの領土を日本に侵犯させないための保証」になる、と陸海軍統合会議は主張した。これに反して、アメリカのフィリッピン撤退は、イギリス、オランダ、フランス、そして"在華外国人"にとって、「重大な結果をもたらす」であろう。その結果、白人諸国の[アジア植民地]領土に不穏状態が生じ、日本に西太平洋の政治的支配を許すにいたり、そうなれば「低開発諸民族の過激な社会的・政治的変革」を抑制しようとしている他の列国に、恐るべき重荷を負わせることになるであろう--。陸海軍統合会議の見解によると、アメリカのフィリッピン領有は、「日本を除いては、世界一般にとって有利な資産」であり、また「非常に貴重なアメリカの威信を東洋の人々の心の中で」高めるものであった。」(436、440)
 
→米国政府の東アジアに係る国際情勢認識がかくも常軌を逸していたのは、デラシネの米国人にとって本来的に外国人の心情を理解するのが困難であるだけでなく、米国の目となるべき外交官の大部分が職務怠慢で不勉強であった上、米国人がおしなべて人種主義者であって、人種主義的に世界を歪められた形で見ていたからである、ということが余りにもよく分かるくだりです。(太田)

(完)

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