藤五(ふじご)は、1964年から1985年まで群馬県高崎市にあった日本の百貨店で、かつて東京証券取引所第2部に上場していた企業
1951年に野口貞一が群馬県高崎市中紺屋町に繊維小売店、藤五を創業。
屋号の藤五は、創業者野口貞一の先祖が営んでいた東京の花川戸の回漕問屋が屋号としていた藤屋五郎次を略した藤五を継承した。
開業から4年後には年商1.5億円を上げて高崎の同業ではトップとなり、1957年に高崎市鞘町の有賀百貨店を買収して移転、売場面積の拡大で売上伸張を図った。
1964年に高崎市連雀町の高崎警察署跡に地上5階地下1階の藤五百貨店を開業、1965年には年商25.8億円(売場面積6,755m2)を上げ、前橋市にあった前三百貨店の年商11.7億円(売場面積6,083m2)の2倍以上、群馬県トップの売上高を誇る百貨店となった。
また、群馬県太田市や栃木県足利市などに総合スーパーを出店、1969年8月1日に東京証券取引所第2部に上場した。
しかし、1968年に前橋市のスズラン百貨店が高崎店を開いて百貨店競争が発生、高島屋系の高島屋ストア、十字屋、熊谷市の八木橋、長岡市の丸専などが相次いで進出して競争が激化した為、1969年3月29日に伊勢丹と業務提携、1969年10月にはイトーヨーカ堂や扇屋などと共同仕入機構ナルサを設立するなどして競争力の強化を図った。
そして、1973年6月1日に藤五伊勢丹に社名変更して伊勢丹傘下に入り、1975年4月には新館開店で1976年4月のダイエー進出やニチイ進出、スズラン高崎店増床などに対抗、高崎駅前への商業施設集中の流れに乗り、駅から離れた中心市街地の十字屋や緑屋が撤退に追い込まれる中で生き残りに成功したものの業績は伸び悩み債務超過に陥り、1979年8月2日上場廃止。
創業者野口貞一の死後の1982年3月3日には高崎伊勢丹に名称変更して完全に伊勢丹主導での再建を図ったが成功せず、1985年8月4日に閉店、その歴史に終止符を打った。
屋号の藤五は、創業者野口貞一の先祖が営んでいた東京の花川戸の回漕問屋が屋号としていた藤屋五郎次を略した藤五を継承した。
開業から4年後には年商1.5億円を上げて高崎の同業ではトップとなり、1957年に高崎市鞘町の有賀百貨店を買収して移転、売場面積の拡大で売上伸張を図った。
1964年に高崎市連雀町の高崎警察署跡に地上5階地下1階の藤五百貨店を開業、1965年には年商25.8億円(売場面積6,755m2)を上げ、前橋市にあった前三百貨店の年商11.7億円(売場面積6,083m2)の2倍以上、群馬県トップの売上高を誇る百貨店となった。
また、群馬県太田市や栃木県足利市などに総合スーパーを出店、1969年8月1日に東京証券取引所第2部に上場した。
しかし、1968年に前橋市のスズラン百貨店が高崎店を開いて百貨店競争が発生、高島屋系の高島屋ストア、十字屋、熊谷市の八木橋、長岡市の丸専などが相次いで進出して競争が激化した為、1969年3月29日に伊勢丹と業務提携、1969年10月にはイトーヨーカ堂や扇屋などと共同仕入機構ナルサを設立するなどして競争力の強化を図った。
そして、1973年6月1日に藤五伊勢丹に社名変更して伊勢丹傘下に入り、1975年4月には新館開店で1976年4月のダイエー進出やニチイ進出、スズラン高崎店増床などに対抗、高崎駅前への商業施設集中の流れに乗り、駅から離れた中心市街地の十字屋や緑屋が撤退に追い込まれる中で生き残りに成功したものの業績は伸び悩み債務超過に陥り、1979年8月2日上場廃止。
創業者野口貞一の死後の1982年3月3日には高崎伊勢丹に名称変更して完全に伊勢丹主導での再建を図ったが成功せず、1985年8月4日に閉店、その歴史に終止符を打った。
栃木県足利市伊勢町3-6-4、1968年6月オープン。
7階 パノラマ展望台
6階 屋上遊園地、ビューガーデン、ゲームコーナー
5階 藤五森永展望大食堂、特別室
4階 京呉服、寝具
3階 子供服、ベビー用品、インテリア、玩具
2階 紳士既製服、紳士用品、婦人服飾品
1階 婦人洋品、化粧品、靴、森永スナックコーナー
地階 総合食料品、東京名店街、実演コーナー
7階 パノラマ展望台
6階 屋上遊園地、ビューガーデン、ゲームコーナー
5階 藤五森永展望大食堂、特別室
4階 京呉服、寝具
3階 子供服、ベビー用品、インテリア、玩具
2階 紳士既製服、紳士用品、婦人服飾品
1階 婦人洋品、化粧品、靴、森永スナックコーナー
地階 総合食料品、東京名店街、実演コーナー
栃木県佐野市金屋仲町2482-6 に所在していた。
群馬県太田市本町16-22-106 に所在していた。
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