ミェンズィモジェ連合
ポーランド語: Związek Międzymorze
ウクライナ語: Союз Міжмор'я
ベラルーシ語: Саюз Міжмор'е
連合旗
公用語ポーランド語
ウクライナ語
ベラルーシ語
標語団結による繁栄
本部ワルシャワ?
構成国ポーランド共和国?
ウクライナ共和国?
ベラルーシ共和国?
面積810,460km2
人口72,240,000人
GDP(MER)6885億ドル
通貨ズウォティ(PLN)
中央銀行ワルシャワ中央銀行?
時間帯UTC+1, UTC+2(夏時間: DST+2, DST+3)
領域

ミェンズィモジェ連合は1991年10月11日に結成された緩やかな国家連合体のことである。加盟国はポーランド?ウクライナ?ベラルーシ?である。加盟国は離脱の自由を有し、主権が認められ尊重されている。



名称

戦前から提唱されてきたミェンズィモジェ構想は、その領域をバルト海から黒海にまで広げるべきと考えられたため、ポーランド語で「海洋間の」という意味のミェンズィモジェ(ラテン語ではインテルマリウム)という名前で呼ばれらようになった。

歴史

ミェンズィモジェ構想のはじまり

ポーランドとリトアニアによる合同と軍事同盟の締結は、ドイツ騎士団やジョチ・ウルス、モスクワ大公国などの両国共通の脅威に対する相互援助を実現させた。この同盟は1385年に初めて締結され、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公国のゲディミナス朝大公ヨガイラの婚姻が行われた。リトアニア大公のヨガイラは、後にヴワディスワフ2世としてポーランド国王に就任することとなった。

この連合はポーランド=リトアニア共和国として長く続くことになり、18世紀末のポーランド分割までその名を地図に刻むことになった。

共和国の下で、この計画は「ポーランド=リトアニア=モスクワ共和国」と呼ばれる国家の樹立を標榜するまでに至ったが、ついに計画が実現することはなかった。

ポーランド=リトアニア共和国の最大版図

チャトリスキの計画

ポーランドが列強に分割された後、人々は独立を求める心をなくしてはいなかった。

1832年11月から1863年の一月蜂起にかけて、ポーランド=リトアニア共和国を復活させるという考えが、当時パリに亡命中であったポーランド王国の貴族アダム・イエジィ・チャルトリスキによって提唱された。

チャルトリスキは、1792年のポーランド=ロシア戦争にてロシア帝国と戦い、1794年のコシューシコ蜂起にも参加をするつもりだった(彼はその道中のブリュッセルにて逮捕されたため参加できなかった)。その後、1795年に彼と弟はロシア帝国陸軍への加入を果たした。当時の国王エカチェリーナ2世は彼らをとても気に入り、彼らから没収していた土地の一部を回復させてやるほどであった。チャルトリスキは、ロシア皇帝パーヴェル1世とアレクサンドル1世の下で外交官や外務大臣に務め、ナポレオン戦争の最中には対仏大同盟の結成にも寄与した。彼は1830年11月に発生したポーランド蜂起の指導者の一人でもあり、ロシア帝国による蜂起の鎮圧後には死刑を宣告されるも、最終的にフランスへの亡命を許された。

1827年に完成し1830年にのみ出版された彼の著書 ”Essai sur la diplomatie” (外交論)において、チャルトリスキは「国家の支配域を南や西へと拡大し、東や北からの到達不可能な自然の摂理によって、ロシアはヨーロッパの継続的な脅威になる」と気付き、また「奴隷よりも友人」と関係を築きながらは上手くやっていくだろうと述べた。また彼はプロイセンによる将来的な脅威を突き止め、東プロイセンのポーランドへの編入を力説した。

チャルトリスキの外交努力はピウスツキのプロメテイズム計画、特にポーランド独立を他のヨーロッパの被支配諸国の運動(その中にはコーカサス山脈に位置するジョージアまで含まれていた)から見抜いていた。

チャルトリスキは、フランスやイギリスやオスマン帝国のサポートによってポーランド=リトアニア共和国が復活することを何より切望しており、その共和国にはチェコ人・スロバキア人・ハンガリー人・ルーマニア人・そして後にユーゴスラビアを形成する南スラヴ人が含まれていた。彼の構想では、ポーランドがハンガリー人とスラヴ人・ルーマニア人との闘争の調停を行えるように出来ていた。この構想は1848年革命が発生する中で到達できると考えられていた。が、西欧諸国からの支援が得られなかったこと、ハンガリーとチェコ・スロヴァキア・ルーマニアとの間で妥協が取れなかったこと、ドイツ民族主義が勃興していたことが合わさり失敗に終わった。

それにもかかわらず、ポーランドの歴史研究家マリアン・カミル・ジエヴァノフスキは「王子の努力は16世紀のヤゲヴォ朝政権とユゼフ・ピウスツキのプロメテイズム連合体計画とを繋ぐ重要な考えである」と結論付けている。


一月蜂起にて掲げられたポーランド=リトアニア=モスクワ共和国の紋章。ポーランド王国の白い鷲、リトアニア大公国の騎士、モスクワ大公国の大天使ミカエルと各国の紋章のモチーフが描かれている。


アダム・イエジィ・チャルトリスキ

ピウスツキとミェンズィモジェ

ポーランドは第一次世界大戦後の混乱を利用して独立を回復することに成功した。

当時の指導者であったユゼフ・ピウスツキの戦略的な目標は、強化された準民主的なポーランド=リトアニア共和国を復活させることであった一方、ロシア帝国や後続のソヴィエト連邦を民族構成を利用して崩壊させるように活動していた。ピウスツキはミェンズィモジェによって誕生する連合をロシアやドイツの帝国主義に対抗する平衡力と見ていた。

ジエヴァノフスキによると、ピウスツキのミェンズィモジェ構想は計画的に実施されることはなく、彼自身の実用本位的な直感に依存していたという。また、研究によると、1920年のポーランド=ソヴィエト戦争の頃にはピウスツキもこの計画が実行できないことは理解していたという。
対立

ユゼフ・ピウスツキ
ピウスツキの計画は、事実上全方面からの反対に遭った。ミェンズィモジェ構想によって自身の勢力圏が直接的に脅かされていたソヴィエト連邦は、ミェンズィモジェ協議の妨害工作を行った。また、連合国はボルシェヴィズムがいちじて脅威であるとしか認識せず、勢力均衡の観点から事態を荒立てることでロシアとのれきして繋がりをうしことは望んでいなかった。その為、ピウスツキがロシア白軍の支援を断ったことに対して連合国は激怒。ピウスツキや彼のミェンズィモジェ構想を疑問視し、ポーランドに対して「自身の民族圏に引きこもっていればよい」と主張するまでに至った。1918年に独立を勝ち取ったリトアニアはミェンズィモジェへの加入に消極的になり、独立を模索していたウクライナは再びポーランドへ編入されることを恐れた。当時まだ民族意識が小さかった白ロシア(ベラルーシ)の人々は、独立することにもピウスツキによって連合に組み入れられることにも興味が無かった。結局ピウスツキの計画は、第一次世界大戦とその後に引き続いて発生した幾度もの領土を巡った国境紛争(ポーランド=ソヴィエト戦争、ポーランド=リトアニア戦争、ポーランド=ウクライナ戦争、チェコスロヴァキアとの国境紛争)によって、実現の機会を失ってしまったのだった。

また、ピウスツキの構想は国内からも反発の声が上がった。特に、ポーランド国家民主党の党首ロマン・ドゥモフスキは非ポーランド人をポーランド国民化することによって民族的に同質なポーランドを建国することについて疑問を呈した。ドゥモフスキを始めとするポーランドの政治家の多くは多文化的な連邦国家の形成に反対し、ポーランド人による単一の国民国家の形成をより望んだ。サンフォードは1926年のクーデタにて再び権力を掌握したピウスツキの政策について、それまでと同じように東部のスラヴ民族の同化や権力の集中化に努めたと語った。

幾人かの学者が、ピウスツキが自身の連合構想で語った選挙君主制に額面的に賛成していた一方で、ほかの学者達は選挙君主制に対して懐疑的であり、1926年クーデタ以降にピウスツキが独裁的な権力を握っているという見方が強かった。

ポーランドの将来的な国境について、ピウスツキは「協商国に頼りながら西方で獲得できる地は皆ドイツに奪われた」と語った一方で、東方については「開閉可能なドアは多くあるし、それらは誰かが無理やり開けさせることでしか開かない」と語った。東欧の混沌に際して、ポーランドは可能な限りの領土拡張に乗り出し、その一方でロシア内戦への西欧諸国の介入やその行く末には関心を示さなかった。

失敗

ピウスツキの二番目のミェンズィモジェ構想
ポーランド=ソヴィエト戦争の余波によって、ピウスツキが計画してきたポーランドとウクライナの合同を礎とする中東欧連合は、遂に実現の機会を失った。

ピウスツキは新たにバルト三国やバルカン諸国との連合や同盟を構想し始めた。この計画は中央ヨーロッパ連合体の形成を目指してポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・スカンディナヴィア諸国(スウェーデン・デンマーク・ノルウェー・フィンランド)・バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)・イタリア・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィア・ギリシアの参加が予定された。つまり、ミェンズィモジェはその領域をバルト海から黒海だけではなく、北極海から地中海にまで広げたということだ。しかし、この計画もまた失敗に終わった。ポーランドがチェコスロヴァキア・リトアニアから信頼されていなかったのであった。他の国々とは良好な関係が築けていたのだが、これらの両国はポーランドと国境を接しており、全ての参加国が互いに協力し合う関係を築かねばならないような巨大な中欧国家を建設することは事実上不可能だったのだ。結局、この計画は1921年にポーランド=ルーマニア同盟が締結されるのみに終わり、チェコスロヴァキアは対照的にフランスの支援の下で、ルーマニア・ユーゴスラヴィアと共に小協商を設立した。


ユゼフ・ベックの「第三のヨーロッパ」構想。ポーランド、ハンガリー、ルーマニアから構成されている。
ポーランドの英雄であったピウスツキは1935年に死亡した。二番目に考案されたミェンズィモジェ構想は、戦間期にポーランド外務大臣でピウスツキの子分でもあったユゼフ・ベックの下で「第三のヨーロッパ」構想として1930年代後半に実現が試みられることとなった。

1939年にはポーランド自体がナチス・ドイツとソビエト連邦に挟撃され、独立を失った。

戦後


ヴワディスワフ・シコルスキ
バルト海・黒海・アドリア海およびエーゲ海にまたがって広がる地理的自主独立体を結成するという「中央ヨーロッパ連合」構想は、第二次世界大戦期にポーランド亡命政府のヴワディスワフ・シコルスキによって復活することになった。1942年にその第一歩としてギリシア・チェコスロヴァキア・ポーランド・ユーゴスラヴィアの4亡命政府による会談が実施され、ギリシア=ユーゴスラヴィア連合(英語版)とポーランド=チェコスロヴァキア連合の将来的な結成が決定した。しかし、この合意に対してチェコ人の反発や連合国の反感を招いたうえ、最終的にこの計画はソヴィエト連邦の反対によって失敗に終わった。

戦後ポーランドはソ連の支配下に置かれ、衛星国のポーランド人民共和国が建国された。1990年の民主化の後、1991年に相次いでベラルーシとウクライナが独立した。独立を維持するために3国は急接近し、緩い国家連合体を形成する形で新生ミェンズィモジェ連合が誕生した。

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