架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。


マウサナ帝国のスーリヤ群島(小グリヤ諸島)侵攻
16世紀前期
場所スーリヤ群島(マウサネシア連邦共和国)
結果マウサナ帝国の勝利
マウサナ帝国によるスーリヤ諸島の併合
交戦勢力
クシャール朝マウサナ帝国トァイ・トゥンガ国
その他小規模首長国多数
指揮官
大王 インドラジュラル5世不明
戦力
総数3万人〜5万人戦士階級2万人前後
その他民兵多数
軍船700隻〜1000隻海軍戦力不明
損害
不明、数千人程度戦士階級1万人前後戦死
民兵数万人
民間人の被害不明(恐らく少数)

背景

前史

小グリヤ諸島においては、マウサナ文化圏に属するダタール島・ボストロ島など、大グリヤ諸島の多くの島々とは異なり、ラピタ群島などと共に、ポリネシア文化圏という独自の文化圏を形成していた。

トァイ・トゥンガ国は、小グリヤ諸島、ダタール島北部において大きな勢力を誇った大首長国(領域交易圏帝国)である。バニラ島を中心とし、首都をムアに置いていた。海洋国家としての側面も強く、その最盛期には、交易帝国は小グリヤ諸島全域に及んだ。
交易帝国は、マヌア大首長国及びプロトゥ大首長国の勢力衰退の後、紀元900年頃に形成され始めた。交易を通じて得た莫大な量の富と貢税が、国庫へと流入した。

全盛期のトァイ・トゥンガは強国であり、16代大王 ウダヤデイッタヤジュラル2世(1030–1046)の時代にはダタール島にも侵攻し、クシャール朝も侵攻を受け一時は首都のヤソーダラプラに迫り、自ら指揮を執った大王も矢傷を受け戦死する事態となった。
跡を継いだ弟の17代大王 ハルシャジュラル3世(1046–1060)は軍事的な才があったため、それによってトァイ・トゥンガはようやく撃退されたが、以降ジャヤージュラル8世の代まで小規模な侵攻が散発的に起こり、歴代の大王を悩ませた。

一方それから数百年が経ち、クシャール朝ではカヴァンジュラル2世がラマレン平野を統一したことで拡大の時代に入り、十数世代の後、即位したインドラジュラル5世はトァイ・トゥンガ国に目を付けた。

使節

マウサナ文化圏においては流血をできるだけ避けるため、事前に使節を派遣して互いの国家と民にとってある程度は利益となるような交渉を行う慣習であったため、今回も使節が派遣されることとなった。

使節には大王の国書を持たせた。以下がその内容である。

大マウサナ帝国大王は神聖不可侵なる太陽神の加護を受け、書をトァイ・トゥンガの首長に送ります。
私が思うに、古来より小国の君主は隣国に従属し、親睦を深めるよう努めるものです。
ましてマウサナ帝国はダタール島を統一し、今やグリヤ諸島の国々が皆これを畏れます。
しかし、貴国はいまだ一度も使者を派遣していません。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ私の志を布告させます。
願わくば、これ以降、通交を通して互いに親睦を深め、神聖なるマウサナ帝国を父としトァイ・トゥンガを子としましょう。
貴国はかつて我が国の神領を侵し、民を多く殺害しましたが、慈悲深い太陽神は、貴国が懺悔し、太陽教の道に進むならばその誤ちを赦し、朋友とするという天命を与えられました。
兵を用いることは誰も好みません。首長は、この点を考慮してください。
神聖なる太陽神の御加護がありますように。

要約すると、「クシャール朝に従属し属国となれ」「太陽教に改宗せよ」の2点が、トァイ・トゥンガに求められた。
トァイ・トゥンガの王朝は、世俗的位階と宗教的位階の両方において権限を有しており、古代エジプトのファラオの役割と類似していた。
そのため、他国への従属や、まして太陽教への改宗など、到底受け入れられるものではなかった。

こうしてトァイ・トゥンガは国書を無視し、使節は何も得ずに帰国した。
これ以降も3回の使節を送ったが、全て拒否された上に4度目の使節が処刑されてしまったため、派兵が決定された。

経過

インドラジュラル5世は軍を編成すると、将軍たちに命じて大船団を派遣した。



当時のマウサナ文化圏ではパンノキ等を船体にした縫合船、西洋の言葉で『ダブル・アウトリガーカヌー』と呼ばれる三胴船(帆はラグセイルの一種で構造はジャンク帆に近い)、マウサネシアン・カヌーが主流であった。
これはジャンクのような箱型船とは異なり、安定性を増すためにカヌー本体の両脇に浮子(ウキ)が張り出した形状をしている。

一方、ポリネシア文化圏ではシングルアウトリガーとカタマランが使用されていた。
トァイ・トゥンガの軍船は逆三角帆(クラブクロウ・セイル)を備えた航海カヌーであり、もっとも大きな船の場合、最大100人まで搭乗可能であった。
一方、マウサナ文化圏の軍船はさらに大きく、大型船の平均で400人、中には600人乗れる船も存在した。

コンク島攻略戦

首都が存在するバニラ島攻略の足がかりとするため、まずは面積は同国最大で人口が二番目に大きく、最も近い島、コンク島を攻略することとなった。
しかしコンク島は属領に過ぎず、戦士達はほとんど徴発されて首都のムアに集結していたため、民兵たちが防衛を担っていた。
これは、最後の大首長であるニイファハウが典型的な暗君であり、「自分さえ良ければ民などどうでもいい」という思考を行ったため、コンク島を捨て石にしたからである。
ニイファハウはコンク島で時間を稼いでいる間に、バニラ島に戦力を集めて、防塁を築く作戦であったが、マウサナ帝国の軍は予想よりも強かった。
僅かに残った戦士たちと大勢の民兵たちは士気こそ高かったが容易く蹴散らされ、1週間ほどで島は蹂躙された。
コンク島は凄惨を極めるかと思いきや、1部の兵士の暴走により数十人が被害を受けた他は、略奪されることはなかった。
しかしながら戦士たちや民兵はほとんど全滅したのは確かであり、それは虐殺に近かった。

辛うじて逃げ出した子供達がバニラ島にたどり着き、コンク島の状況を知らせると、いよいよ首都のムアが混乱し始める。

バニラ島攻略戦とムアの惨劇

首都のムアでは、1万超の戦士達が全土から集結し、守りを固めていた。
すると、マウサナ帝国の船団が悠々と首都の沖へ現れ、宮殿(海に面していた)を望む位置に碇を降ろした。
マウサナ帝国はマウサナ文化圏の慣習にしたがって小舟で使者を送り、トゥンガの言葉で降伏を勧めたが、相手側の使者が激昂してトゥンガの言葉で何かを叫び始めたため、無礼だということで刺し殺された。

相手の使者が倒れたのが開戦の合図となった。
まず、マウサナ帝国は見せしめのために最新鋭の大砲で石の宮殿を砲撃し、城壁を破壊した。
続いてピラミッドに砲撃してこれを無惨な姿に変えたので、トゥンガの戦士たちは恐慌してしまい、指導者はたちまち逃げ出した。
トゥンガは大砲はおろか、銃のような火器の存在を知らなかったのである。

これによって完全に軍の統制は崩壊した。続いて戦士が集まっていた砂浜が砲撃され戦士たちが一目散に逃げ出すと、マウサナ帝国の兵士が上陸した。
兵士たちは逃げる戦士の背に、火縄銃で鉛玉を撃ち込んでこれを圧倒し、蹂躙した。ムアの家々は次々と燃やされた。
ムアの市街地は三日三晩にわたって燃え続け、跡地は焼け野原となり何も残らなかったという。

宮殿に居るはずの近衛兵はおらず、容易く侵入することができた。そこにあった異教の神像を破壊して代わりに太陽教の神像を設置し、金銀財宝は戦利品として略奪した。
おそらく王妃も含まれる高貴な女性達は自刃していたので、その名誉が尊重され遺体は丁重に葬られたという。
王宮は兵士たちによって改造され、マウサナ文化圏方式の王宮となって今も残されている。また、ピラミッドも改造され太陽教の神殿として現在まで残されている。

ニイファハウの最期

ニイファハウは妻子を都に放置して逃げ、それでも勇敢に戦った近衛の戦士たちをも見捨てて逃避行を始めた。ニイファハウは逃げ惑う民衆を殺害して物資を奪ったという。

大首長ニイファハウは我先に、味方の戦士や臣下を突き放して身代わりにしてまで、ビオン島に逃げようとした所を捕えられ、太陽教への改宗を迫ったが彼は高圧的な態度でこれを拒否した。
そしてニイファハウが自分の置かれた立場をようやく察した時、なんとニイファハウは「民の命は差し出すから私だけは助けてくれ」という、マウサナ人に対して一番してはならないタイプの伝説の命乞いをしたため処刑された。
「自分さえ良ければ民などどうでもいい」と思っていた大首長ニイファハウは、最後まで更生することはなく、現在のインターネット文化では「近世のサ・チヨ」とも呼ばれている。

これにより、数百年前にクシャール朝を一時滅亡寸前に追い込んだはずのトァイ・トゥンガは、いとも簡単に滅んだのである。

勇気ある者の奮戦と終戦

ムアが陥落し大首長が処刑されたことで組織的な抵抗を失った戦士たちであったが、第2の都市であり旧都のトロアにて『白髪白肌の勇気ある男』が立ち上がり、敗残兵を纏めて抵抗を再開した。
彼とその軍隊は強く、トロアに迫ったクシャールの兵士たちは蹴散らされてしまった。これを受けてマウサナの軍首脳部は精鋭部隊の『トゥエントゥマイ』を派遣してこれを倒すことにした。
トゥエントゥマイは敵の軍隊を蹴散らした。『勇気ある者』は1人で10人以上のトゥエントゥマイを倒したが、この規模の戦いにおいて1人の奮戦でどうにかなるものではなく、多勢に無勢であった。

そして追い詰められた彼は数百人の兵士や女子供と共に、船で沖へと逃れた。海軍も深追いせず(海流の危険性を知っていたため)、彼らの行先は定かではない。
一説によれば、彼らはラピタ島に逃れ、白髪白肌という特徴から、後のポマレ王家と何らかの遺伝的な関係があるというが、あくまで可能性の話に過ぎず確証は無い。

ともかく、これ以降は本格的な抵抗はなく、敗残兵の多くは降伏したことで戦争は事実上集結した。

影響

これ以降、スーリヤ群島のポリネシア文化圏は衰退することとなる。戦後処理として
・戦士階級、全員を奴隷(刑罰としての奴隷であり世襲身分ではない。大抵は十数年ほどで刑期を満了し、故郷に戻った者もいたらしい)として本国に連行
・民間人も兵が気に入った者は連れ帰るが、奴隷にはしない
・首長の一族は男性を処刑または島流しとし、女性は残した。
・バニラ島に属国を設置し、時の王インドラジュラル5世の妹が「ジャヤージュラル1世」として小王(クシャール帝国の大王に従属している属国の王)となる(後のトァイ・パロア自治州)

などが行われ、かつてトァイ・トゥンガ国の首都であり、最も栄えていたムアは『インドラプラ』に改名され、後釜となった属国の首都となり、焼け野原を区画整理し太陽教神殿など、マウサナ帝国様式の建物や木造の家々などが建てられた。
マウサナ人兵士のうち数千人は現地に移住し、元戦士の奴隷と民間人数千人がマウサナ本国へ連行された。

これによりポリネシア文化圏はラピタ王国を残して大幅に衰退することとなった。
なお、コンク島やバニラ島では戦後も数百年は山地での抵抗(残党を吸収した複数の部族によるもの)が続き、完全に平定されるのは戦間期(20世紀前半)となる。

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