時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

アルゼンチン共和国
República Argentina


国旗

国章
国の標語En Unión y Libertad
国歌アルゼンチン国歌
公用語スペイン語
首都ブエノスアイレス
最大の都市
政府
 大統領ファン・ホセ = パチェコ?
面積
総計 2,956,600㎢
人口
総計 5021万2029人
GDP
7638億2071万7516.80USD
建国独立宣言1816年7月9日
通貨アルゼンチン・ペソ(ARS)
時間帯UTC-3 (DST:なし)
ISO 3166-1AR/ARG
ccTLD.ar
国際電話番号54
アルゼンチン共和国は南米アメリカに位置する連邦共和制国家である。


国名

正式名称は、República Argentina(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。英語表記は公式にはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称Argentina(アージェンティーナ)。
日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。ほかにアルゼンティンとも表記され、原語音に即したアルヘンティーナと表記されることもある。漢字表記では、亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷(拼音: āgēntíng)など。

独立当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれ、あるいは南アメリカ連合州(Provincias Unidas de Sudamérica)とも名乗っていた。リオ・デ・ラ・プラタはスペイン語で「銀の川」を意味し、1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると考えたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。初出は、1602年に出版されたマルティン・デル・バルコ・センテネラの叙事詩『アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服』とされる。その後、1825年に正式国名とした。

国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる。しかしながら、現在でも「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」や「アルゼンチン連合(Confederación Argentina)」などの歴史的呼称は、アルゼンチン共和国とともに正式国名として憲法に明記されている。

歴史

史実という安定

1946年の2月、労働党が(後の正義党)から新枢軸派のフアン・ペロン元大将が大統領に就任する。大統領に就任したペロンは1947年には重工業の発展を目指した第一次五カ年計画が始まる、それにより、イギリス資本の海運業や、航空産業が国有化された。
1948年にはトゥクマンにて、「共和国の経済的独立宣言」が発せられ、イギリス系鉄道が接収され国有化された。また、エバ・ペロン財団が設立され、社会福祉が拡充された。
1952年にはフアン・ペロンが大統領に再任するが、エバ・ペロンが癌で死亡したことにより指示力が低下した。
1953年には第二次五か年計画が始動、新たにドイツ資本やイタリア資本の流入を推進した。
1954年には離婚法を導入しようとしたが、正義党保守派の閣僚から強い反発を受けたことで、対立が激化し党が分裂することを危惧したペロンは法案を取り下げたことで導入に失敗した。

新たなアルゼンチン

1955年6月、ヨーロッパ(主に地中海諸国)の農牧業が縮小し生産量が減少したため、アルゼンチンによる輸出が再び大きく伸びる。それにより経済が活性化した上に、債権国ナチスが崩壊したことにより負債は事実上消滅、イタリアへの負債は完全返済。外貨の蓄積が再び進んだ。
8月10日、マルティネス経済大臣と農牧水産大臣が1953年に発表した第二次五か年計画の修正を党会議で発表。農地改革による土地の再分配、共同経営による農牧業の農牧地の大規模化や、農業と牧畜の法人による経営の推進、補助金の増額、米国からの農業用最新機械の輸入、道路網や貯蔵庫への投資、それらを管理する農牧産業改革委員会の設置を内容とする。
大土地所有制の解消として不在地主の小作地全域、在村地主の20ヘクタール以上の小作地を強制的に購入。
当時はインフレ状態であったため売り渡される小作人の財政負担は少ないとされるものだった。
保守派から反発を受けたが軍部による圧力と支持率回復に焦ったペロンはこの改革を強く支持し、新自由主義派のアパリシオ・メンデス首相や急進的左派を中心とした内閣改造を強行し沈静化した。
8月13日、第二次五か年計画の修正を発表、農地改革の実行を宣言。地主や保守派エリートから強い反発を受けるもペロンは軍部の協力を得ながらペロニストを操り反対派への苛烈な弾圧を実行した。
1956年1月21日、自由市場主義者や新自由主義者の主導のもと、政府はそれまでの積極的保護貿易政策から切り替え、外資奨励政策へ転換し外貨に対して優遇措置を与えることを発表。輸入為替競売制度(SSCI制度)により、外国資本に対して年間10%を超えない利潤および8%を超えない利子の送金は自由為替相場を通じて行われること、機械設備による現物出資をも認める無為替輸入制度の導入を認めた。
1958年3月、ペロンが任期満了で大統領を降りた。
同年4月アパリシオ・メンデス前首相が大統領に就任する。自由主義の推進と福祉の大規模縮小を宣言、しかし福祉の縮小に大きく反発を受け8月に辞任、辞任後新たに社会党が政権を握るが軍部によりクーデターが実行され、軍部主導による国民投票で大統領の三期当選と議会承認による任期の一年延長を可能としペロンが大統領席へ帰還。衆議院選挙でも正義党が圧勝する。ペロンは自由主義化の推進を継続したが、福祉の縮小は小規模なものとした。
1960年、農地改革は成功し農牧業の生産効率化に成功。生産量と輸出量を大きく伸ばした。

工業の時代

1961年、ブラジルのクビチェック大統領に対抗してペロン大統領は任期以内の「40年を4年で」を提唱し四か年計画が始まる。
四か年計画は鉄鋼、運輸、食料、工業(自動車、造船、重電機器)の四部門の開発を計画した。
1962年8月、輸出促進化のためペソの公定対ドル・レートが切り下げられ、以降は実勢レート(購買力平価レート)あるいはそれをやや下回る水準で推移した。また、為替レートが統一された。
1964年、ペロン大統領が任期を一年延長。
1965年、四か年計画は高度成長を推進したが、外貨が底をついて負債増加、大きい政府方針と大規模なインフラ整備による財政赤字、急速な工業化が激しいインフレと対外不均衡と貧富の拡大を招いた。
8月、ペロン大統領が任期満了とし退任した。ペロン無き正義党は四か年計画の負の遺産のおかげで国民から支持されず、急進党が新たに与党となり、アルトゥーロ・ウンベルト・イリアが大統領に就任した。
1968年5月、イリア大統領はナショナリズムに則る急進的右派だったため外資規制と小さな政府化を進めた。外資の利潤送金を10%以下とすることや外国系公共事業会社を国有化するなど外資規制措置が取られた。しかし、これは物価の高騰、外資の逃避、ペソの下落を引き起こした。これにより国内の不満は爆発、フアン・カルロス・オンガニーア将軍が主導する軍事クーデター(5.21革命)が起きる。
ペロンに支持されたークーデターで大統領に就任したフアン・カルロス・オンガニーア将軍は、テクノクラートと正義党の新自由主義派マルティネス・デ・オス経済相による「アルゼンチン革命」を掲げる。同政権は再び外資導入の奨励措置をとった。
6月にはペソの引き上げ。
8月には外資規制緩和として工業開発政策に即したものに限り、外資企業と内資企業に同等の待遇が与えられた。元本送金の制限がなくなる。
9月には輸出奨励政策として輸出関連企業の事業所得税・法人税軽減、輸出生産向投入財の関税免除、輸出引き上げを布告。
11月には輸出手続き簡素化。
12月、モンテビオに地域開発と輸出産業育成を目的として税制恩典を発令して同自由貿易地に輸出代替の新部門への外資の輸出工業団地を設置。

パンパの新時代

1970年〜74年、社会資本の整備を図り、金融・税制等の面での優遇措置を認めた重化学工業基地が数多く建設された。金利現実化措置や輸出関連の貸出条件を優遇する一方で、外国企業に対する融資を制限、国内輸出関連企業に対する融資奨励した。
また、石油化学、機械、造船、電子、鉄鋼の各産業毎に金融・税制等多方面にわたる助成策を規定した重点産業育成法を制定した。
社会資本の整備として金融・税制等の面での優遇措置を認めた重化学工業団地や経済特区(輸出加工区)が数多く建設される。(ラ・プラタ石油化学工業団地、ロサリオ機械工業団地、メルセデス経済特区)

汚い戦争

1975年、アルゼンチン輸出志向工業化を成功させ平均8%の経済成長を推進したマルティネスだが、負の側面として公害問題や労働環境の悪化、インフレによる物価上昇を招き、反対派や学生運動が起き、軍隊の派遣により徹底的に弾圧をしたが、最大の協力者ペロンが1974年に死亡したことで、抑えられてきたモントネーロスやペロニスタ武装軍団(1975年に正義党から離反した左派ペロニスト)が都市ゲリラと化し、民政移管と退陣が要求する声が強くなったため、マルティネスは軍内で失脚し二期就任を断念。
新たに就任したロベルト・ビオラ大統領を中心にレオポルド・ガルチェリ、レイナルド・ビニョーネの「三人組」がマルティネス時代の政策をほとんど引き継ぎ、物価上昇の対策として物価上昇とともに三か月毎に賃金も自動的に上昇する賃金スライド制を導入、「三人組」は都市ゲリラの徹底的殲滅を強行。
1977年
4月、賃金スライド制はインフレ抑制にあんまり貢献せずインフレと財政赤字が更に拡大。インフレ対策の失敗や高度経済成長により海外からの注目が集まったことで苛烈な弾圧が海外に露呈し「三人組」は内外から激しい批判を受ける。
これを受けビオラ大統領は辞任し、新たに就任した「三人組」のビニョーネ大統領は民政移管を1979年に行うと発表。しかし、国民からの反発は収まらず前倒しして1978年に変更した。

新時代の改革

1978年10月、急進党から当選したラウル・アルフォンシンが大統領に就任した。
1979年1月にはインフレと財政赤字の解消のため非効率的な国営部門を切り離し赤字財政の健全化とクローリングペッグ制を内容とするアウストラル計画を実行、財政赤字を解消させインフレの抑制に成功した。
同年10月、「三人組」など5人の軍人を人権侵害の罪で提訴、軍部から強い反発を受ける。
1980年2月、1981年3月、5月、8月には軍部によってクーデターが実行されようとしていたが、国家憲兵隊によって防がれた。
1981年8月、アルフォンシン大統領は軍縮と軍部大臣現役武官制の廃止と、文官の陸海空大臣就任の内閣改造を宣言、軍部を統制下に置いた。
1982年5月、憲法改正によって大統領の任期を一期のみとした。
1984年3月、低所得者向け所得分配、経済自由化の拡大、マクロ経済安定化と健全化を訴え指示を得た正義党のカルロス・メネム大統領が再就任した。4月には行政改革を実行、省庁の再編、地方支分部局の整理、審議会の整理、行政手続きの適正化や行政情報の公開、地方分権を推進した。
5月には国家再建法、経済緊急法を制定して電話、航空、電力、石油、水道、ガス、鉄道、鉄鋼、年金等幅広く民営化を実行した。
8月、低所得者向け分配プログラム「PRBI」を実施、10月には財政とインフレ率の目標を8%とし、12月に憲法改正により租税、行政上の外資系企業への差別が撤廃、関税が引き下げられ輸入規制を緩和化した。
1986年4月、憲法改正により大統領の二期当選を可能とする代わりに任期を四年とした。
1986年7月、経済活性化のためファン・ホセ = パチェコ?が提案したパチェコプラン?が議会で可決された。
1987年4月、パチェコプラン?が始動される。
1990年3月、ファン・ホセ = パチェコ?が大統領に就任し、計画に注力したことで計画はより円滑に進むようになった。

政治

アルゼンチン政府は、大統領を元首とする連邦共和制国家であり、内閣、複数政党制議会を備える。大統領、副大統領共に直接選挙で選ばれ、その任期は4年である。

軍事

アルゼンチンは国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は志願制を採用している。軍隊は陸海空の三軍のほかに国家憲兵隊から編成される。歴史的にアルゼンチン軍はチリとの軍拡競争もあり、ラテンアメリカでもっともよく整備された軍隊だった。

アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で『汚い戦争』に従事し、8,000人とも3万人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。軍削減の一環で徴兵制から志願制となったが、一部では復活を求める声もある。
アルゼンチン陸軍は四個師団編成で、自国製のFARA83小銃や、同じく自国製TAM戦車や、ブラジル製オゾーリオ戦車を運用している。
戦闘教義はフォックスバードアタックとしており、機動力を主としている。
アルゼンチン海軍は、扶桑から艦艇を供給しており、コルトバ級2隻や、ブエノスアイレス級を3隻運用している。
アルゼンチン空軍は八個航空旅団編成で、自国製のFMA SAIA90マルチロール機を48機運用している。他にもアメリカ製のC-130輸送機を運用している。
戦闘教義は陸軍と連携するフォックスバードアタックや、

経済

近年の経済指標

アルゼンチンの1993年の名目GDP(国内総生産)は6183億USDである。これは南米では2位のGDPとなり。一人当たりGDPにすると南米では1位にあたる。

国内の産業

アルゼンチンは農牧業と工業がともに盛んであり、工業地域や経済特区だとラ・プラタ石油化学工業団地、ロサリオ機械工業団地、メルセデス経済特区があげられる。
農牧業は主に肥沃なパンパの地で行われている。

交通

アルゼンチンのインフラはラテンアメリカ諸国では良好であり、道路網や鉄道網が充実している。
首都ブエノスアイレスには地下鉄網が引かれている。

科学技術

化学部門で2人のノーベル賞受賞者を出している。ルイス・フェデリコ・レロイル(ルイ・ルロワール)はノーベル化学賞受賞者であり、この化学賞はラテンアメリカ全体でも初めてのものだった。
ベルナルド・ウサイのような優れた研究者の残した業績の伝統もあって、現在でも医療の研究や、その他には原子力の研究なども進んでいる。

国民・文化

アルゼンチンの国民はほとんどを白人を占めており、イタリア系、ドイツ系、スペイン系の住民が多く、中でもイタリア系が一番多いこのイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られる。イタリア移民が多いので第二のイタリアと認識されることもあった。

アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜け目のなさと、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性からくる、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある。

治安

アルゼンチンはあまり治安がいいとは言えず、サンタフェ州など各州では殺人事件が多発しており麻薬組織間の抗争が原因と考えられている。

スポーツ

アルゼンチン国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとして君臨しており、世界に名だたるサッカー大国としてディエゴ・マラドーナとリオネル・メッシの両雄を筆頭に、サッカー史上に残る名選手を数多く輩出している。マラドーナやメッシ以外にも著名な選手として、ディエゴ・シメオネ、ハビエル・サネッティ、ワルテル・サムエル、フアン・ロマン・リケルメ、セルヒオ・アグエロ、アンヘル・ディ・マリアなど数多くのアルゼンチン人が、ヨーロッパのビッグクラブで活躍し歴史を彩って来た。

サッカーの次にはテニスが盛んであり、1970年代から現在に至るまで世界のテニス界をリードする存在である。1970年代後半のギジェルモ・ビラスをはじめ、男女問わず数多の名選手を輩出している。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

メンバーのみ編集できます