時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

ギリシャ内戦
Greek Civil War

【ギリシャ内戦中の戦闘や事件】
左上から時計回りに
「野砲と王国軍兵士」-「行軍中のゲリラ」-「演説中のバフィアディス」
「DAG戦闘員」-「王国軍のアテネ入城」-「アテネ裁判」
詳細情報
戦争
ギリシャ内戦
年月
1956年 - 1957年
場所
ギリシャ国
結果
反乱側の勝利
ギリシャ王国再興
ギリシャ国解体
交戦勢力
ギリシャ国
・国軍
 
 
 
ギリシャ亡命政府
・王国軍
臨時民主政府
・ギリシャ民主軍
民族解放戦線
指導者・指揮官
エクター・ツィロニコス
(クレタ島上陸によって失脚)
ニコラオス・ブーランタス
・ゲオルギオス・バコス
 
パウロス1世
・アレクサンドロス パパゴス
ニコラオス ザカリアディス
・マルコス バフィアディス
パスカル・ミトレフスキー
ギリシャ内戦
本土方面
東マケドニアの戦い - テッサロニキの戦い - ペロポネソス半島の戦い - アテネ入城 - ラリサ蜂起
クレタ島方面
クレタ島上陸 - クレタ島撤退作戦 - ハニアの戦い
ギリシャ内戦(英: Greek Civil War、希:Ελληνικός εμφύλιος πόλεμος)は、1956年から1957年までの1年にわたって続いたギリシャにおいて争われた内戦である。反乱陣営の勝利に終わったが、王国政府と民主政府はその後対立し、共産主義者など多くが弾圧された。

概略

56年の反政府運動に呼応して放棄した共産党・民族解放戦線はエーゲ・マケドニアなどの地域を占領し臨時民主政府結成宣言を行った。同時期、ギリシャ亡命政府もエジプト・アラブ共和国での補給支援を得てクレタ島に上陸し、ギリシャ国政府への事実上の宣戦布告を行った。これによりツィロニコスは失脚。ニコラオス・ブーランタスが首相となり、反政府組織への対応に追われた。ブーランタスは「テッサロニキの戦い」、クレタ島の戦いなど相次いで敗北し亡命政府も上陸作戦を決行し本土へ進出した。この事態にブーランタスはテッサロニキだけでなく、アテネまでもが陥落すればギリシャの歴史・ギリシャ国の正統性は失墜する等としてラリサへの遷都を行った。しかしラリサ市民からは反発を生み、アテネ時代よりも政権は不安定なものとなった。民主政府のテッサロニキ攻略、亡命政府のアテネ入城をもってラリサでも武装蜂起が起き、ギリシャ国政府は亡命政府に対して降伏した。

背景

第三次バルカン戦争に勝利したギリシャ国だが、国民からの支持はなかなか回復しなかった。それは新たに首相となったエクター・ツィロニコスが経済政策に失敗しており、戦費返済の課税や奪還した地域の治安悪化などが挙げられる。これらの対応に遅れたことから1956年7月1日にテッサロニキで「56年の反政府運動」が起きた。この運動はツィロニコスの過激な弾圧によってわずか1日で鎮圧されたが、全土各地に影響は普及し各地で潜伏していたレジスタンス残党が蜂起した。

経過

武装蜂起

1957年、ギリシャ北部のマケドニア(エーゲ・マケドニア)地域でマケドニア民族解放戦線(NOF)が独立を目的として蜂起した。これに呼応する形でギリシャ共産党(KKE)やその他反政府組織が祖国奪還を叫び武装蜂起。
これら組織はギリシャ民主軍(DAG)を構成しギリシャ共産党指導者のマルコス・バフィアディスが率いた。
ギリシャ国軍はこれに対応する為に北部へ戦力を移動させるが集結前に奇襲を受け(アルタの戦い)、ゲリラ戦法を前に損害を受けた。
以降も国軍は北部攻勢を継続するも民主軍のゲリラ戦法で被害を受けるばかりで山岳地域の奪還は困難を極めた。

ギリシャ臨時民主政府の発足

ギリシャ共産党は守りのゲリラ戦から本格攻勢へ出ることを決定した。バフィアディスを首班とする臨時民主政府を臨時首都 コニツァで宣言するが、周辺諸国から承認など支持を受けることはなかった。

クレタ島を巡る戦い

イタリア・ギリシャ戦争、ドイツのバルカン侵攻でギリシャ王国は祖国を追われ、イギリスの支援を得てエジプトで亡命政府(EEK)を樹立した。エジプトの陥落と同時にイギリス本土へ移転、戦後は秘密裏にイギリス政府の支援を受け続けていた。臨時民主政府が蜂起したという情報が亡命政府に届くと亡命王国軍を召集し王国軍はエジプトで補給を受けた後、クレタ島へ上陸を開始した。上陸は激戦を繰り広げるが最終的に多数からの上陸を決行したことから一部で上陸に成功。クレタ島守備軍は包囲される危険性から都市への撤退と籠城戦を計画し一部を除いて防衛戦力を後方へ移動させた。クレタ島南部の重要都市 ティンバキオン市を巡り大激戦を繰り広げるも最終的に王国軍によって同市は攻略(ティンバキオンの戦い)されると国軍はクレタ島を放棄し撤退を決定した。
イラクリオン・レシムノン方面へ続々と撤退する国軍の後ろを攻撃する王国軍だが艦艇不足が災いし、港を離れた輸送船攻撃ができず主力殲滅は果たせなかった。
クレタ島守備軍主力の撤退後もハニアやアイオス・ニコラオスなどの都市は補給が絶えた中でも抵抗を続けており、王国側もこれ以上クレタ島で時間を消費するわけには行かずに状況の打破が要求された。
これを受けて王国軍総司令官のパパゴスは主力をクレタ島に残し、残りの部隊や予備戦力はギリシャ本土上陸を命令した。パパゴスは上陸戦指揮を担当する為、クレタ島を離れ指揮官にクリストドゥロス・チガンテス大佐を任命した。チガンテスは任命早々、二都市攻略を目指して主力の集中運用で各個撃破を目論んだ。だがアイオス・ニコラオス市は食料や弾薬などが枯渇しており抵抗継続は困難として一部部隊の反乱が発生、指揮官が殺害される事態へとなった。反乱部隊は同市を制圧すると王国軍へ降伏。残るはハニア市のみとなった。
ハニアの戦いは大激戦となり、補給が途絶えているなかでも強固な守りが健在していた。
チガンテスはハニア市攻略で自ら前線へ出て兵士を鼓舞する等して早期攻略を求めた。
これは同時に行われている上陸戦への参加を考えていたからだった。パパゴスによる独裁を警戒してのことだろうと予想される。
チガンテスの苛烈な攻撃でハニア守備隊は壊滅し、同市を制圧すると残党を駐留部隊に任せ、自身と主力は上陸戦へ合流した。

テッサロニキの戦い

この頃、テッサロニキ市は民主軍の攻撃を受けていた。
既に周辺を攻略され包囲された同市を国軍は救出することができず、防衛戦力も損耗していた。
バフィアディスはテッサロニキへの首都移転を目論んでおり、同市攻略をもって臨時民主政府を掌握しギリシャ共産党による戦後の支配体制構築を考えていた。
テッサロニキ西部では民主軍は劣勢であり、ここを撃破されると国軍の援軍が合流する危機があった。
そこでバフィアディスはテッサロニキ攻略を一旦諦め、テッサロニキ以東の地域攻略で完全な陸上孤立を企んだ。
セレやカラバ市を攻略し、テッサロニキへの圧力を加えると同市守備隊はついに降伏する。
だが、テッサロニキ攻略時点で民主軍は損害を多く受け、これ以上の南下は困難と判断されテッサロニキの制圧と王国軍と接近を行うこととなる。

本土上陸とアテネへの進軍

チガンテスがクレタ島の残党が籠る都市攻略を行っている頃、パパゴス率いる部隊はペロポネソス半島への上陸を試みた。ここにはクレタ島から撤退した部隊の大半が守備(一部は北部へ移動)しており、パパゴスとしてもここで同守備戦力を殲滅することが要求された。
(ここでクレタ島同様に撤退されると、後のアテネ攻略が困難になると想定された為)
上陸戦は苦戦するもなんとかピュロス方面で上陸を成功させる。コロニ、ギティオ方面でも成功させ上陸部隊の大半が半島へ足を踏み込んだ。
上陸した同方面の三都市を攻略したパパゴスは半島の攻略と旧クレタ島戦力殲滅を目的とし、トリポリス市ではなくコリントス市の攻略を計画した。しかし同市へ向かう大規模な道路はトリポリス市を経由するしかなく、ピュロスから北へ迂回する方法もあったがギリシャ国北部戦線の戦力がこちらへ来る可能性から北へ近づくことは避けられた。
そのため、パパゴスと参謀部はトリポリス市での殲滅を達成せざるを得ず部隊をメガロポリス市へ集結された。
司令部を同市に移転した王国軍参謀部は民主軍によるテッサロニキ市陥落を知る。同時にトリポリス市守備戦力は混乱しており、同市司令部はアテネ撤退を既に決定し戦闘状態である部隊は少数であるとして攻撃命令を出した。
トリポリス市を巡る戦いは終始王国軍の優勢であり、撤退準備中であった守備隊は敗走を余儀なくされた。
同市司令部の大半を拘束し、コリントス市へ進軍中での残党殲滅で旧クレタ島守備戦力は壊滅したと判断したパパゴスは最重要都市 アテネの攻略を目指した。

ラリサへの移転と降伏

その頃、ギリシャ国政府ではクレタ島・テッサロニキ市を失い、さらにはペロポネソス半島も失い始めていると情報が来て首相のブーランタス(ツィロニコスはクレタ島失陥で辞任)はアテネでの決戦を回避することに注力してきた。国防相や外務相などの好戦派はアテネでの決戦、そして周辺諸国への介入要請を主張するが、あくまでギリシャ国は独立国であり歴史あるアテネへの被害、そして介入による第三次バルカン戦争前の状態に戻ることを考え認めることはできなかった。
その為、抵抗を主張する前首相のツィロニコスや国防相、外務相を国政から遠ざけ自身のシンパによる独裁体制を構築し同時にアテネの放棄も決定した。
移転先候補としてラリサ市・カルペニシ市・ボロス市があったが、ブーランタスは北部戦線は膠着し、さらに民主軍は次の攻勢に耐えられないという主張からラリサ市へ首都機能を移転し、テッサロニキ奪還に望みをかけた。
アテネ守備隊・北部戦線戦力・半島方面の一部部隊をもって北部戦線を打開し民主軍の壊滅とテッサロニキ市奪還で権威を復活させ、反乱勢力との休戦を考えていた。
しかし、ラリサへ移転する途中で別移動していた反ブーランタス派は民間の反政府ゲリラ構成員によって奇襲され国防相は殺害、外務相は負傷し後に感染症で死亡など大きな被害を出した。ツィロニコスはこの攻撃をなんとか回避するも、ラリサに到着後はブーランタス体制へ入る。(なお、この構成員は後の調査で処刑されていたことが判明する)
これらはブーランタスの独裁体制をさらに強め、より抗戦継続が容易になったと思われたがラリサ市民は彼らを歓迎せず臨時首相官邸や警備する警官や機動隊へ火炎瓶などを投擲するなど反政府運動が激化した。
ブーランタスはこの状況を打破すべく反政府運動がいまだ続ける市民の前に臨時首相官邸のベランダへ出て、演説を行った。
「…………民族は、王政によって………た!王政よって死へ向かう祖国の為に我々は第二次世界大戦に……………し、そして勝利したのだ!今こそその祖国を護る為に立ち上がるのだ!」
※当時のラリサ市は記者やカメラなどが少なく、市民も反ブーランタスだった為、書き残されずに演説の全文は現在も残っておらず、上記の演説文はわずかに残る映像から聞き取ったもの。
しかし演説は多くの市民に受け止められることはなく逆にベランダに向けて罵詈雑言が浴びせられた。
この日の夜、ブーランタスは日記にギリシャ国とギリシャ民族、輝かしき我らの歴史は敗北したのだと綴った。
翌日、ブーランタスは王国軍への降伏を決意し地下室で最後の政府会議を開いた。
ツィロニコス前首相や財務相、国防次官(国防相は死亡している為)らの前で敗戦は免れないこと、民主軍ではなく王国軍へ降伏することを伝え、全会一致をもってギリシャ国ラリサ政府は王国軍へ降伏した。

結果

降伏

降伏文書を作成し、全幹部にそれを確認させてからブーランタスはまずラリサ市中に向けて演説をした。
「度重なる反乱せ………くからの攻撃は我ら政府のみならず国民への多くの被害をもたらした。我々は…………を守りきることが責務と心得て…るが国民が傷つくことを見逃すことはで……い。よって我々ギリ……国せ…府はギリシャ王国及びその軍に対して降伏を宣言する。」
※前述の演説同様、全文は不明

アテネ裁判

王国政府はブーランタスらギリシャ国政府の重要人物らを首都アテネへ移送した。
ここで留置された彼らを政府と軍は国際法にのっとる裁判を行うことで世界に向けて正当な反乱であったと示すことが目的であった。
しかし、この裁判には臨時民主政府、民主軍は参加しなかった。
指導者 バフィアディスは
「王国は我らを蔑ろにしている。思想は違えど我らは共に闘った王国を信頼していたのにだ」
と批判する声明を出した。
しかし声明を無視し王国政府はアテネで裁判を開き、ツィロニコスやブーランタスら閣僚を絞首刑、協力した官僚・政治家・活動家などを禁固、懲役、公職追放など刑を処した。

統一政府の樹立と破綻

共通の敵が消えたこと、アテネ裁判での対応から再び両勢力が協力することはないと予想されたが、予想と違い王国(亡命)政府と臨時民主政府は議会で「両政府の統合と本土復帰、戦後統治の目標」を宣言し、ギリシャ王国の再興を国民に発表した。
ナチス支配の終焉と民主主義の復活を喜んだ国民に政府は歓迎され、戦前の王政に対する不満は低下した。
しかし、国王より首相に任命されたのは王国軍総司令官のパパゴスであり彼は内閣に自由党・人民党系列の議員を登用し旧臨時民主政府関係者からの選出は無かった。
ギリシャ共産党はこれを裏切りだとして政府から離脱。他の組織も離脱し最終的に旧亡命政府だけが残った。
離脱した組織は再び共産党の下で国民社会政府を樹立し王国は戦前のように祖国を貪ると批判し支持を求めた。
しかしテッサロニキなど北部の主な支持基盤であった地域でも戦中の統治で不満が溜まり、国民社会政府は支持されなかった。
さらに主要組織であるギリシャ共産党内で権力争いが起き、パパゴスによって非合法化されたことから関連組織は弾圧され「左派政党規制法」などが影響して現在に至るまで共産党系などの自治政党は表舞台に存在しない。
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