時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

الحرب الأهلية السعودية
サウジアラビア内戦
内戦
期間:1980年2月〜1981年6月
戦域:サウジアラビアほぼ全域
結果:・マッカ州によるバーハ州、アスィール州の併合
   ・州兵の解体、国防軍への編入
   ・サルマーンの死
   ・サウジアラビア経済の停滞
交戦勢力
マッカ州
リヤード州
聖地防衛軍
近衛兵
サウジアラビア王国?
-サウジアラビア陸軍
マディーナ州
バーハ州
アスィール州
-支援のみ
東部州
アラビア半島及びパレスチナ共和国
指揮官
サッターム・ビン・アブドゥルアズィーズ
フセイン・ビン・タラール
イツハク・ナヴォン
アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ
イツハク・ラビン不明
兵数
マッカ州兵
-約35000人
リヤード州兵
-約15000人
聖地防衛軍メッカ旅団
-約7000人
聖地防衛軍マディーナ旅団
約5000人
近衛兵
-約5000人
サウジアラビア国防軍
-約20000人
マディーナ州兵
-約5000人
バーハ州兵約1000人
アスィール州兵約20000人
民兵
-約15000人

サウジアラビア内戦の写真

左上から右回りに、国防軍の空爆で破壊された民家、国防軍の戦闘機が捉えたマッカ州の爆撃機、アラビア半島及びパレスチナ共和国の民兵、降伏文書に署名するサルマーン、前線で州兵を率いるサルマーン、マッカ州のバーハ州侵攻を受けて開かれた国民議会、マッカ州を進む国防軍、エルサレムに避難したバーハ州の住民による反戦デモ。


背景

十字革命後、国防軍最高司令官の座を降りたファハド・ビン=アブドゥルズィーズは経歴を活かし、内務省職員に就職しようとしたが内務省、及び政府はこれを拒否。ファハドは最高裁判所で国と闘ったが、政府の判断が変わることはなかった。

その後他省庁にも就職する事が出来なかったファハドは、ハーリドに勧められマッカ州観光業に就職。すると王位継承候補第一位の王太子が観光業に就職したことが国内外で大きな話題になり(用出典)、マッカ州への観光客が約1.37倍になり、マッカ州の税収も増加。

マッカ州議会は州税を減らしつつ、道路の整備を行うことで更なる観光客の増加を狙う事を決定。観光客と税収は更に増え、1974年にはマッカ州の税収がリヤード州を超えている。

マッカ州議会は大量の税金で軍拡を進めることを決定、1973年に州兵が合法になった時は僅か50人だったマッカ州兵は1978年には30000人になっている。1979年初頭にはマッカ州とサウジアラビア陸軍、マディーナ州が協力し聖地防衛軍を設立。またマッカ州はリヤード州と軍事同盟(M=R協定)を締結し、マッカ州はサウジアラビア王国において最も軍事力を持つ州となった。 
 
しかし、1979年10月にハーリドが暗殺されると、ファハドは観光業を辞め、リヤード州に戻り国王に即位した。これにより、ファハドが永遠にマッカで観光業で労働することを前提としたマッカ州の財政は崩壊。最も豊かなサウジアラビアの州は突然トップレベルで貧しい州となってしまう。

あらゆる方法で財政の安定化を試みるも失敗、マッカ州は聖地防衛軍設立の時にサウジアラビア王国と結んだ条約により、破産等が禁止されていたのでもはや軍事力だけの州となってしまう。

マッカ州議会は最後の手段としてバーハ州、アスィール州に宣戦布告し戦争により景気を良くしようとし、これに対してリヤード州との同盟や国民議会でのマッカ州侵攻が可決されたことにより、サウジアラビア内戦が勃発した。

経過

1980年2月14日にマッカ州議会でバーハ州侵攻が可決、同日州境に展開していたマッカ州兵はバーハ州へ侵攻。州兵が約1000人しかいないバーハ州はマッカ州の侵攻に抵抗できず、リヤード州参戦、州都陥落が決定打となり、3月5日、バーハ州は降伏を宣言、マッカ州に併合された。これらを受け、2月28日に開かれた国民議会ではマッカ州、リヤード州、バーハ州の治安維持を名目にマッカ州、リヤード州侵攻を決定、また、マッカ州、リヤード州が更なる領土拡張のため、マディーナ州、アスィール州へ侵攻を決定。これらが決定される前後からARAB NEWS等の国内主要メディアはこれらの戦争を「サウジアラビア内戦」とし、サウジアラビア王国建国史上最悪の戦争が発生したと報じた。3月16日、サウジアラビア陸軍は東部州からリヤード州へ越境開始。同日マディーナ州もマッカ州、リヤード州から侵攻されるも、聖地防衛軍マディーナ旅団とマディーナ州兵が協力し、逆侵攻に成功する。アスィール州もマッカ州兵から攻撃されるも西部のアスィール山脈で防衛に成功。初戦は反M=R協定が優勢だったが、6月7日のリヤドの戦いにおけるサウジアラビア陸軍の敗北や、7月26日のメッカの戦いでアラビア半島及びパレスチナ共和国がメッカを陥落させ、マディーナ州兵が敗北した事を皮切りにマッカ州、リヤード州の反攻が開始される。マッカ州は最初にメッカの奪還を計画。メッカから撤退した聖地防衛軍メッカ旅団と協力しメッカを包囲。数週間の激戦の末マッカ州、聖地防衛軍メッカ旅団はメッカを奪還。リヤード州もリヤドの戦いの後ほぼ全てのリヤード州兵をかき集め、東部州から越境してきたサウジアラビア陸軍へ攻勢、およそ5ヶ月でこれを撃滅し、軍をアスィール州へ向かわせた。何ヵ月も山と士気で攻勢を耐え続けたアスィール州だったが、北東部の比較的平坦な土地から攻勢されてしまい、前線が崩壊。もはや勝利は訪れないと考えたサルマーンは降伏を宣言、1月15日に降伏文書に署名しアスィール州はマッカ州に併合された。その後も内戦は続いたが兵が足りなくなりマッカ州とリヤード州は和平を提案。6月1日、トランスヨルダン州都アンマンでアンマン条約が結ばれ、マッカ州のバーハ州、アスィール州の併合を認める事や州兵を廃止し国防軍に編入する事、そしてこの内戦を終結させる事等となった。

影響

サウジアラビア内戦でマッカ州、リヤード州が領土拡張のために様々な州を攻めたことからマッカ州、リヤード州に対抗するために合併戦争と呼ばれる大規模な合併、軍事同盟の締結が各州で起こり、サウジアラビアの州、自治領は内戦前後で15から11に減った。

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