時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

ドイツ国
Großdeutsches Reich


国旗

国章
国の標語Ein Volk, ein Reich, ein Führer
一つの民族、一つの国家、一人の総統
国歌Das Deutschlandlied
ドイツ人の歌(1番のみ)
公用語ドイツ語
首都ゲルマニア
最大の都市
政府
 総統 クラウス・ナウマン(第7代)
面積
総計  696,265㎢
人口
総計  110,190,000人
GDP
3兆0000億USD
通貨ドイツマルク
時間帯UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1GE/GEL
ccTLD.ge
国際電話番号49
ドイツ国(英: Germanic state) は、国家社会主義ドイツ労働者党が政権下の、1933年からのドイツ国の通称である。

社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。1939年9月1日のポーランド侵攻が英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦を引き起こした。

第二次世界大戦勝利後は世界的覇権国に近い超大国となり、ヨーロッパとアフリカ大陸の直接的な経済的・地理的接続を目的とするアトラントローパ計画を実行するなど世界に多大な影響力を行使した。1955年ドイツ内戦後は、穏健派ナチズムへと変化し、ヒトラー時代とは全く違うナチズム国家への移行した。

国名

ドイツ語での正式名称・通称は、「Deutsches Reich(ドイツ国、ドイチェス・ライヒ)」であった。

歴史

1951年
4月7日-「黒いオーケストラ」結成からクーデター決行までゲーリングが参加あるいは把握していたのか行動記録を空軍関係者や秘書の協力でまとめた資料をシュペーアが提出。ヒトラーもゲーリングの再度裁判を開くことを求めた国民が想像以上に多かったことに驚いていたためゲーリングの釈放(後に航空省次官就任)を許可。モルヒネ中毒から脱し体重が約87kgまで落ちたゲーリングはシュペーアに泣きながら感謝の意を述べた。なお、シュペーアはゲーリングの国民的人気を自身の権力拡大のため傀儡にして利用することを目論んでいた(とされる)。
5月12日-シュペーアの支援とミルヒの能力への疑いでゲーリングが再び空軍大臣に就任。ガーランド空軍総司令官含め首脳部はゲーリングをまるで別人のようだと思っていた。

1955年
5月3日-後継者会議でヒトラーの遺言によりボルマンが総統に就任。
5月6日-ボルマンはフロムが「黒いオーケストラ」グループに所属していたとしてフロムに出廷を命令。フロムは拒否し国防軍に保護を要請。ボルマンの総統就任に不満を持っていた国防軍首脳部はこれを許可。
5月15日-ボルマンと国防軍首脳部の交渉が決裂し、国防軍が蜂起を全軍管区に命令。また、分権体制に不満を持ったボルマンが暗殺を計画していると知ったシュペーアとゲーリングがクロージクやナウマンなどシュペーア・ゲーリング派(SG派)と共にゲルマニアを脱出。
5月16日-ブレーメンで徹底的な改革と腐敗した政治家の排除を訴え若者を中心に大多数から支持される。西部ドイツからの支持を取り付けたことで西方軍管区を味方につけることに成功。「復讐戦争」が始まる。
5月17日-ボルマンと反逆者の排除を理由にヒムラーが反乱を宣言しドイツ国内のSS部隊に蜂起を命令。しかしラインハルト・ハイドリヒはこの命令に従わずベーメン・メーレン保護領を中心にヒムラーへの反旗とボルマンと反逆者の排除を宣言。
5月27日-シュペーアとゲーリング、ラインハルトと会談。反ボルマン・反ヒムラーの統一戦線構築で合意。
7月24日-SG派がゲルマニアを占領
1956年
3月4日-SG派が国防軍派と和平協定を締結。国内のボルマン派とハイドリヒ派(ブルグントは既に壊滅)の殲滅とフロムの無罪放免で合意。
10月4日-シュペーア、ゲルマニアで「勝利宣言」を発表。
1957年
2月6日-Uボートで国外脱出を試みたボルマンが海軍士官に裏切られ捕縛。SG派に引き渡される。
3月3日-ラインハルトの自殺死体がプラハ郊外で発見される。
3月27日-ライヒスタークで全会一致によりシュペーアが総統に就任。
4月3日~7日-第二次長いナイフの夜。ボルマン派またはラインハルト派のスパイの粛清という名目でエーリヒ・コッホやリッベントロップ、カイテルなど反シュペーア派を粛清。ヒムラーを身限りシュペーア側になったシュタイナーを全国指導者としたSSや復権したSAによって実行された。
8月1日-シュペーアが国際社会へドイツの国力回復を誇示すること、国民の士気を回復することを目的に宇宙開発再開を決定。被害がなかった宇宙施設で内戦前から進められた有人飛行計画を再開。また、宇宙開発機関を統合させドイツ航空宇宙機関を設立。国内外問題が山積みの今は時期尚早として反対派が多かったがゲーリングがシュペーアを支持し、シュペーアが様々な形で圧力を掛けたため強行される。
1960年
2月16日-クロージク財務相やエアハルト財務相次官はドイツ経済を回復し高度経済成長を起こすには保護経済を改めて市場経済に移行すること、ヨーロッパと関係を回復し市場を拡大すること、通貨を改革することを必要と結論。シュペーアは自由化の過剰な推進で国家社会主義そのものが破壊されることを恐れたが渋々承諾した。
4月8日-シュペーアがポーランド、ロシア、フランス、イギリス、イタリア、イベリアとの関係回復のための議論を目的とした「欧州関係委員会」を設立。ゲーリングは既にドイツ単独の覇権が終わったことを認め新たな国際秩序を作る必要がありドイツは中心的存在になるべきとし関係回復を支持したが、イギリスやフランスの賠償金の返済再開(ワイマール時代のドーズ案やヤング案などは認めるべきとしていた)と抑留されているドイツ人の解放とアルザス=ロレーヌの返還は必要だと主張した。
シュペーアとキージンガー外務大臣はドイツから提案するのは抑留ドイツ人の解放と国交回復のみとしたためゲーリングは激怒し決意表明として自主的な自宅謹慎を宣言。
8月18日-ライヒスマルクからドイツマルクに置き換える通貨改革を決行(内容は史実と変わらない)。
9月7日-ムッソリーニ、フランコ、サラザールとシュペーアがブレーメンで会談。アトラントローパ計画の中断をボルマンとヒムラーによる工作だとしつつ謝罪、全般的補償金の一括支払と相互の関係改善で合意した(ブレーメン条約)。
10月8日-シュペーアから「法治国家としての秩序維持」を任されたシュレーダー内務相の主導でSS、SA、ゲシュタポ、国境警備隊の組織改革、恩赦された政治家の徹底的監視、多党制の禁止、共産主義と資本主義の禁止などを実現した。
1961年
  • 61年闘争…シュペーアとゲーリングは和解。「S・Gブロック」の崩壊は防がれる。
12月5日-ゲーリング副総統の仲介でバルカン諸国の間でウィーン講和条約が締結された。
1962年
1月4日-イギリス政府・フランス政府とキージンガー外務相が軍備制限解消と賠償金の15億ドルの減額と関係改善を定めた「ロンドン協定」を締結。
2月16・17日-北海沿岸大洪水が発生。シュペーアは国防軍・SS・SAを動員し被害拡大を食い止めることに成功する。
2月26日-ライヒスタークで「企業再編法」が強行可決。クルップ、シーメンス、IGファルベン、マンネスマン、ヘッシュ、グーテホフヌング、クレックナーなどコンツェルンの解体または縮小が決定され、中小企業に放棄された工場や資産の再分配を実行した。保守派と財閥は強く抵抗したが北海沿岸大洪水事件の適切な措置や財閥に嫌気が指していた国民からの支持を取り付け、ゲーリングがシーメンス含む幾つかの財閥を説得したことでシュペーアの完全勝利に終わった。
5月19日-シュペーアがローマに訪問。正式にアトラントローパの放棄を謝罪し両国の関係改善の展望を発表。
5月20日~21日-シュペーアがマドリードとリスボンに訪問。同様のことを述べた。
5月22日~28日-シュペーアがクロアチア、アルバニア、ギリシャ、トゥルキェ、エジプト、リビア、南フランスに訪問。ブレーメン条約の参加を認め外交関係の回復または構築をした。
1963年
3月7日-ゲーリング副総統がワシントンに訪問。領事条約を締結。両国の関係改善と新たな国際秩序の構築への希望を演説。演説中にゲーリングが述べた「我々は地球に共に住む地球人の一員であり地球の規模からすれば隣人同士だ。そして我が国はアメリカにとって”親愛なる隣人”である。」という内容は世界的な話題となり良くも悪くも今のナチスドイツが以前のナチスドイツとは真逆のスタンスであることを知らしめた。
4月5日-ナチスドイツが高度経済成長期に突入(「1963年の奇跡」)。クロージク財務相とエアハルト財務相次官による資本主義経済改革とシュペーア主導による行政改革の効率化の成果であった。
1964年
2月8日-有人宇宙飛行に成功。国際社会は人工衛星の再打ち上げ以外全く音沙汰のなかったナチスドイツの突然の発表に驚愕し、ドイツに越されたものの既に有人宇宙飛行を計画していた扶桑以外の大国は再び宇宙進出に強く関心を持つようになる。
1968年
7月12日-ゲルマニアでイギリス、ロシア、アメリカ、扶桑と新たな国際秩序の構築の必要性の共有で合意。
7月15日-ドイツ・イギリス・アメリカ・扶桑の間で部分的核実験禁止条約を締結。大気圏内外と水中の核実験は禁止されたが、地下実験は容認された。
1970年
5月18日-ポツダム会議で国際連合憲章を採択して国際連合設立を決定。
7月9日-安保理常任理事国5ヶ国とその他の署名国の過半数の批准書が揃い、国連の効力が発生。
1971年
3月2日-ナチスドイツ、「ノイルヴェルツ計画」で月面着陸に成功。シュペーアは多額な費用が掛かり戦略的利益が皆無であることから月面着陸に消極的だったがドイツ航空宇宙機関長官フォン・ブラウンとゲーリング副総統の強い要望で計画が始まった。
1972年
2月9日-ゲーリングが副総統の退職と同時に政界引退を表明。帝国議会議員を辞任する。
2月10日-キージンガーが副総統に就任。
1973年
6月10日-エーリッヒ・フォン・マンシュタインが死去。国葬が執り行われる。
1974年
5月13日-キージンガー副総統主導で公害対策の「環境保護基本法」を可決。動植物の生態保護や各州に対して小学校からの環境教育実施を義務化、環境庁の設立などが決定される。
6月3日-エルヴィン・ロンメル死去。国葬が執り行われる。
7月15日-クロージクが財務相を退任。財務相はエアハルトが指名されたがエアハルトは高齢と体調不良を理由に拒否。エアハルトも18日に財務相次官を退任する。
7月23日-シュミットが財務相に就任。
1975年
3月4日-シュミット財務相主導で福祉強化や低所得層への再分配を定めた「生活是正計画」(シュミットは「格差是正計画」にしたがっていたがシュペーアから「資本主義的社会を認めることになり国家社会主義の否定である」と責められ修正された。)が発表される。
5月5日-エアハルトが死去。国葬が執り行われる。
1978年
3月4日-シュペーアが党会議でシュミットを後継者に指名。自身が死んでからは総統の権限を縮小させ集団指導体制に移行することとした。党内の反対派も少なくなかったがゲーリングの協力も借りながら他派閥の説得に周りシュミットの次期総統就任を納得させた。
5月4日-シュペーアが体調不良と高齢により実務の継続が困難だとして総統を退任。自身とゲーリングを後見人としてシュミットを次期総統として指名する。
5月7日-ライヒスタークの全会一致でシュミットが第3代総統に就任。
1980年
12月24日-デーニッツが死去。国葬が執り行われる。
1981年
2月4日-シュペーア、自宅で心臓発作により死去。
2月7日-ライヒスタークで、葬儀が挙行された。葬儀の後、遺体は、国防軍・SS・SAの敬礼の中、バーデン=ヴュルテンベルク州のハイデルベルクまで運ばれた。葬儀には6500人の人々、1,200人以上の警官や警備員、8つの軍楽隊、軍の18個大隊、ドイツ空軍の16機のジェット戦闘機、特注の蒸気機関車が動員され、ドイツ全国民の人々が弔意を示し、テレビ中継によって世界中の人々によって見守られる、歴史上最大の国葬となった。
友人代表のゲーリングは「追悼の辞」を送り、シュペーアを『信念を貫こうとする不屈な精神力を持ちドイツを救う使命に燃えていた偉大な指導者』と途中泣きながら評した。
1983年
2月19日-ゲーリング、老衰で死去。
2月22日-ライヒスタークで、葬儀が挙行された。葬儀の後、遺体は、国防軍・SS・SAの敬礼の中、バイエルン州のローゼンハイムの地元の教会まで運ばれた。ゲーリングは追悼の辞にて『あなたは一度目の大戦では英雄と呼ばれ、二度目の大戦では無能と呼ばれ、そして今では英雄と呼ばれている。激動の時代を生きたあなただが、あなたは最後まで国民から愛される男気のある寛大で頼れる旦那(ヘルマン)だった。』と評された。

政治

ナチス・ドイツの政治は原則的には、ナチ党のイデオロギーである指導者原理によるものである。一人の指導者に被指導者層が従う、つまり民族の指導者であるナチ党、その指導者であるヒトラーに民族すべてが従うというこの原理は、政治分野だけでなく経済や市民生活全てに適用された。ヒトラーの地位である指導者(Führer)は法律で定義されたものではなく、国家や法の上に立つものであるとされた。このため民族共同体の構成員である国民は、指導者の意思に服従し、忠誠を誓うことが義務であるとされた。

ただし、これは1978年の総統の権力移行から大きく変わって来ており、指導者の権力は未だ大きいものの、立法への影響の観点から、議員が所属し、会合を行い意思決定を行う派閥が影響力を強めており、戦後の恒例だった翼賛選挙も同選挙区にいるナチ党員候補がお互いに党公認を得ずに出馬し、選挙が行われるなど、崩壊の兆しが見えている。ただし、未だ国政政党は原則ナチ党以外認められていない。
以下が主な派閥である。

穏健派
現総統が所属する派閥。歴史的に主流派で、1978年以降、特に現状維持を訴えてきている。

保守派
代表は党官房長のイェルク・モイテン。「千年帝国」を目指すヒトラーの思想を特に重視し、強行政策の復古を求めている。近年は世界的風潮もあり、支持を減らしている。

"革新右派''
代表は国会議員団団長のヘルムート・コール。多党制を志し、ヒトラーに対してあまり好印象を持っていない。国際協調を再三求め続けており、国民から急速に支持を集めている。

改革左派
代表はゲアハルト・シュレーダー。シュレッダーはほぼ戦後生まれであり、その中で台風の目(ヒトラーは戦後第一世代と呼称し期待を寄せていた。)とも言うべき改革や活躍をし、個人商店的な派閥である。
同じように多党制を志すが、ナチ党自体に否定的な部分も多く、SSなどからは腫れ物扱いされている。

官僚派
代表はヘルムート・シュミット。党本部での官僚経験を踏まえて議員となった「族議員」が多く所属し、実務重視の政策を断行している。多数派閥の味方につくことが多く、「風見鶏」と揶揄される。

国家元首

ドイツ国の国家元首は総統である。

行政

ドイツ国における行政

立法

ドイツ国における立法は

司法

司法は人民裁判所(最高裁),通常裁判所,特別裁判所(労働裁判所,行政裁判所,社会裁判所,財政裁判所等)が設置されており、NSDAP司法部の管轄である。

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