時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

フランス共産党
Parti communiste français:PCF


党のロゴ
本部パリ
創立者 ルイ=オスカール・フロッサール
書記長 ロベール・ユー
党員及び党友数 320万5250人
議席(国民議会) 99議席/343議席(29%)
議席(元老院) 121議席/577議席(21%)

党史

フランス共産党は、コミンテルンのフランス支部として活動し、スターリンがコミンテルンを実質支配した1930年に「左翼反対派」を追放してモーリス・トレーズが実権を握って以降、コミンテルンが解散した戦後においても各国の共産党に比べても際立ってソ連の政策を支持する傾向が強く、モスクワの長女 (La fille aînée de Moscou) と揶揄された。
その傾向は現在でも続いている。

人民戦線とレジスタンス時代

フランス共産党は1930年代初頭、スターリンとコミンテルンが提唱した「社会ファシズム論」を実践してフランス社会党 (SFIO)に激しい攻撃を加えたが、1933年にドイツでナチスが政権を獲ると、フランスでもファシズム運動が起こっていたことから労働者の間で「反ファシズム統一戦線」の気運が高まった。
その気運は2月6日に起こった「火の十字団?」「王党派青年団」「愛国青年団」「フランス連盟」などの極右・ファシスト組織が合同してコンコルド広場からエリゼ宮に進撃した武装デモをきっかけに、ファシズムに対抗する統一戦線としての人民戦線運動として結実し、1936年にはフランス人民戦線政府が樹立された。

フランス共産党も人民戦線運動に貢献したが、入閣せず閣外協力の形でこの政府に協力した。
したがって、フランス共産党はこの政府に協力するために労働者のストライキ運動を「権利獲得運動」の枠内に抑制した。
1936年5月27日に社会党左派のマルソー・ピヴェールが、ストライキ運動の広がりに革命まで展望して「いまや、すべてが可能である」と社会党機関紙『ポピュレール』にて表現したことに対し、フランス共産党書記長であるモーリス・トレーズは、農民と中産階級の支持が充分でない、として「すべてが可能なわけじゃない。権利闘争は終わらせる術を知らなくてはならない」と6月11日の共産党活動家集会で反論した。
このようなフランス共産党の「社会ファシズム論」から「人民戦線」への転換は、ナチスの軍事的脅威からソ連邦を守り、かつヨーロッパにおけるトロツキズムの高揚を怖れたヨシフ・スターリンの意向が働いている。

1937年6月にレオン・ブルム首相の辞職によって人民戦線政府が崩壊し、1939年にスターリンがナチス・ドイツのヒトラーと独ソ不可侵条約を締結すると、フランス共産党は一転して「反ファシズム」ではなく、「フランス帝国主義およびアメリカ・イギリス帝国主義反対」を強く打ち出すようになる。
独ソ不可侵条約を支持したことで、党員の三分の一が反発して離脱し、政府から「利敵団体」と規定されて非合法化された。
1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)秘密地下組織となったフランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、モスクワからの意向に従い兵器工場でのサボタージュを労働者に呼びかけ、いくつかの工場をテロによって破壊した。
フランス敗北後は、当初は合法政党化を期待して占領当局に機関紙『ユマニテ?』の発行を請願し(指導者のジャック・デュクロは回想録でこのことを認めている)、アナーキストやトロツキストの名簿をナチスに渡したりしている。ジャック・ドリオやジャン・フォントノワなどのように共産党から転向した者も少なからず存在した。

1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻によって、フランス共産党も武装してレジスタンス運動を開始する。
当時、すでに「地下組織」であったことから、武装闘争への転換はスムーズに行われた。フランス共産党のレジスタンス活動は「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、その開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用する。
それに対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになる。
また、フランス共産党は、「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ド・ゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。

しかしながら、1944年からソビエト連邦とドイツが停戦し、1945年にはソビエト内戦が勃発すると、フランス共産党とソビエト連邦の繋がりは急速に希薄化していき、レジスタンス組織としての力が弱まっていった。
ドイツ軍や親衛隊によるフランス・レジスタンスへの掃討作戦が強化されると、自由フランス軍のように本土外に支配地域を有さない共産党は袋の鼠となり、共産党関連の人物だけでも、約32000人がドイツ側に処刑されたと言われている。
書記長であったモーリス・トレーズも、1952年にドイツ軍に捕らえられ、処刑されたため、フランス共産党はとうとう組織的に崩壊した。
1953年からはワルデック・ロシェがトレーズの後継者として書記長に就任するものの、そこから一年ほどの間はドイツ軍の監視の目も非常に強く、大きな行動を起こすことはできなかった。
1954年にドイツ経済が崩壊すると、ドイツ軍はフランスに対する援助や駐屯を打ち切り始め、レジスタンス組織の活動が活発となり始めた。
新しく成立したジャック・ドリオ政権は、ラヴァル政権に対して基盤も盤石ではなく、親独派の多くからは「元共産主義者」として反感を買っていた。
結局1955年に、火の十字団やSS部隊「シャルルマーニュ」の一派によるクーデターが発生し、フランス国の政治情勢は完全に崩壊した。

第一国民政政権は自由フランス軍や共産党レジスタンスの活動を抑えることができず、1955年4月に第一国民政が崩壊し、第四共和政が宣言された。

第四共和政

第四共和政時代下において、共産党は復興内閣に参加し、ロシェは一時期副首相も務めていた。
その一方で、国内のドイツ人の処遇に関して、共産党と内閣の間で大きな認識のズレが生じており、結局共産党が復興内閣に参加していたのは最初の一年二ヶ月の間のみであった。
アルジェ動乱に関しては、政府の現状維持方針を批判し、「アルジェリア独立」を高々と掲げた。
また、元老院、国民議会ともに、全体の10%を超える議席を保有する巨大政党でもあった。

第五共和政

アルジェリアの混乱が本格的にフランス本土まで波及し始めると、フランス共産党は、大した対処もできない社会党などに代わって、国民から大いに注目される一派となっていった。
しかし、フランスの共産化を望まない多くの右派や社会党員による擁立によって、英雄シャルル・ド・ゴールが大統領に就任すると、フランス共産党の影響力はあっさりと衰えていった。

ド・ゴール及びポンピドゥー政権においては、フランス共産党はいくつかの議席を保持していたものの、以前ほどの規模を完全に喪失し、この時代は、共産党にとって「屈辱的な敗北」の時代として捉えられている。

しかし、ジスカール・デスタン政権から、フランス右派の政権運営の雲域が怪しくなり始めると、ワルデック・ロシェの退陣とともに、共産党は方針転換を始めた。
新しく書記長となったジョルジュ・マルシェは、穏健かつ改革的な政治活動を展開するようになり、即ち社会党などとの大連立の形成に力を注ぐようになった。
政策におけるいくつかの認識のズレなどがあったものの、社会党はこれを、フランス政治の大転換、改革の好機と捉え、共産党との連立を了承した。

こうして、新たに選挙で勝利し、大統領となった社会党のフランソワ・ミッテランであったが、ミッテラン政権と共産党の連立は、すぐに瓦解することとなった。
というのも、ミッテラン政権は確かに社会主義的な政策を施行していたものの、それは前期に限った話であり、中期に至るまでの間に、国内の企業や資本家などが国外に移転する、富の流出現象が起こるなど、フランス経済全体に損失が及び始めたため、自由主義的政策への転換を余儀無くされたのである。
このような社会党の政策転換を「裏切り」と捉えた共産党指導部は、連立からの離脱をいち早くに宣言した。
政権運営開始から、二年ほどでのことだった。

ところで、こうした動きの中で、連立と改革を推し進めようとしたマルシェの政策に対して、ロシア共産党追従策への「阻害」となると考えた他の指導部は、マルシェの解任に動くようになった。
このような動きは改革派にも察知されていたが、マルシェの政策が中途半端であり、多くにおいて、改革としての効力を持たなかったことを受けて、マルシェの解任については、その多くが保守派に傾倒していた。
他の指導部からの圧力などを受けて、マルシェは1984年8月に書記長の職を辞し、ロベール・ユーが新書記長に就任した。

ロベール・ユーは、保守派への協調や、ロシア共産党への追従策を継続するために、より支配を強固かつ基盤の確かなものにする政策を打ち出した。
いわゆる「民主集中制」の強化によって、穏健派を一人残らず党から追放する超強硬策を執った。
結果、フランス共産党はマルクス・レーニン主義を唱える強力な政党となる。

社会党の支持率低迷、共和国連合大連立政権の中、共産党は単体として規模を拡大し続けている珍しい政党である。
彼らが選挙で最多票を獲得することは容易いことではないが、もしかすると、それはあり得ることなのかもしれない。

党制度

フランス共産党は、プロレタリア独裁などの原則から、民主集中制を採用している。
この制度により、ユーロ・コミュニズムや穏健的な社会主義を公然と唱える思想家は共産党から除籍されている。

ただ他方で、近年ではマイノリティに対する配慮がより求められるようになったことから、党内でもそれらの動きを認め、寛容な姿勢を取るべきではないかとする者も存在する。

また、党員となる基準が他政党よりも緩やかで、フランス共産党を支持し、フランス国籍を有するものであれば基本的には入党することができる。
それらの審査を行うのはフランス共産党人事部であるが、殺人や傷害などにおける一部不祥事が囁かれている。

歴代書記長

1ルイ=オスカール・フロッサール1921.1.4~1923.1.1
2ルイ・セリエ1924.1.23~1924.7.1
3ピエール・セマール1924.7.8~1929.4.8
4集団指導体制1929.4.8~1930.7.18
5モーリス・トレーズ1930.7.18~1952.3.7
6ワルデック・ロシェ1953.6.12~1974.12.22
7ジョルジュ・マルシェ1974.12.23~1984.8.15
8ロベール・ユー1984.8.19~

党思想

共産主義には、マルクス・レーニン主義や、毛沢東思想、原始共産制、特色ある社会主義、ユーロコミュニズムなど、様々な思想が入り乱れているが、フランス共産党の思想は基本的には一貫している。
彼らが掲げているのはつまり「マルクス・レーニン主義」であり、言い方を変えればスターリン主義である。
マルクス・レーニン主義とは、マルクスの唱えた思想に加えて、ウラジーミル・イリイチの共産主義思想が組み合わさったものである。
フランス共産党ではそこにスターリン政権下においての「セクト主義」や「一国社会主義論」が加えた、いわゆる非共産主義者からは「スターリニズム」と忌避される傾向にある思想を掲げているわけである。

とはいえ、政権政党を目指して運営していくのであれば、強硬なマルクス・レーニン主義を掲げ続ける事は弊害にしかならず、このような思想は度々、ド・ゴール主義者の政権下で非難されてきた。
そのために、1970年代後半からはユーロコミュニズムや穏健的な社会主義も容認し、左派政党との大連立を図る方針の大転換を行ったが、結果的にこの連立は共産党側からの離脱によって破綻した。

そうしてその後、社会党、共和国連合、中道民主連合に対するフランス国民の失望という形は、大部分がフランス共産党に注がれるようになっていき、共産党は以前とは違い、強硬主張を全て隠し続ける必要がなくなった。
そのため現在のフランス共産党は、1920年代から1930年代にかけてヨーロッパに存在したドイツやフランスの共産党の方針と類似しており、外交方針としては基本的にロシア共産党の主張に追従的である。
中華人民共和国の社会主義思想は「異端」として批判している。

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