時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

ラオス人民民主共和国
Großdeutsches Reich

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国旗
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国章
国の標語ສັນຕິພາບ ເອກະລາດ ປະຊາທິປະໄຕ ເອກະພາບ ວັດທະນາຖາວອນ
国歌ラオスの国歌
公用語ラーオ語
首都ヴィエンチャン
最大の都市
政府
 人民革命党中央委員会書記長 カイソーン・ポムウィハーン
 国家主席 ドゥアン・スンナラート
面積
総計  236,800㎢
人口
総計  597万人
GDP
63.87億USD
建国パテート・ラーオによる無血革命 1958年10月22日
人民民主共和国成立宣言 1958年11月1日
通貨キープ
時間帯UTC+7 (DST:なし)
ISO 3166-1LA/LAO
ccTLD.la
国際電話番号856
ラオス人民民主共和国(ラーオ語: ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ、英語: Lao People's Democratic Republic)、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家。通貨はキープ、人口約597万人、首都はヴィエンチャン。

東南アジア中、唯一の内陸国。面積は日本列島の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である[6]。北は中国、東はベトナム帝国、南西はタイと国境を接する。

第二次世界大戦以前はフランス植民地として、その後はラオス王国として独立したものの日本の影響下に置かれていた。1958年のクーデターによって完全な独立を果たしたが、ラオス人民革命党による一党独裁が続いている。

国名

正式名称はラーオ語でສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ,(ラテン文字転写: Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao 発音 [sǎː.tʰáː.laʔ.naʔ.lat páʔ.sáː.tʰiʔ.páʔ.tàj páʔ.sáː.són.láːw] 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」を意味する。
公式の英語表記は Lao People's Democratic Republic(ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。
日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇、老檛。一方、中国国内では「老撾(簡体字: 老挝, 拼音: Lǎowō)」と表記し「老」と省略するが、マレーシア、シンガポールでは「寮國(簡体字: 寮国, 拼音: Liáoguó)」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。

歴史

ラーンサーン王国
ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がファー・グム王により建国。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように戦象として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた。
17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った。しかし18世紀にはヴィエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の3国に分裂。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた。

フランス植民地支配
19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めたころには、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年に仏泰戦争が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年にフランス領インドシナに編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた。
第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、ラオス王国の独立を宣言をした。
だがその実情は日本の傀儡国家であり、列強による支配は終わりはしなかった。

日本による支配
日本による支配は非常に苛烈なものであり、反政府運動は常に絶えなかった。特に豊田、安田、SONYがラオス経済の85%を握っており独立とは程遠いものだった。そんな中で革命への気運が徐々に高まっていき、1955年からはゼネストが絶えず、徐々に日系企業は撤退して行った。

ラオス無血革命とその後
1958年10月22日に中華人民共和国の支援を受けたパテート・ラーオが王宮と首相官邸、国会議事堂を無血で占拠し、国王は廃位、首相は辞任し、国会は王国憲法が無効であることを可決し、ラオス王国が滅亡。同年11月1日にパテート・ラーオとラオス革命人民党がラオス人民民主共和国の成立を宣言した。(ラオス無血革命)同日、ラオス人民民主共和国憲法が発布された。
冷戦と東南アジアの政情不安という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は中華人民共和国の強い影響下に置かれた。

政治

前文で「人民民主主義」を謳い、第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されているなど、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党制が敷かれている。政府の政策決定は、党書記長を中心とする9人で構成される党の政治局と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。

元首
国家主席
国家主席を元首とする社会主義共和制国家であり、国家主席は国民議会で選出され、任期は5年。職務の補佐・代行のために国家副主席がいる。

行政
行政府の長は首相である。国家主席に指名され、国民議会で承認を受ける。任期は5年。副首相が3人。各省大臣、省と同格の機関の長により構成される。首相は、副大臣、県副知事、中央直轄市副市長、郡長を任免する権限を持つ。1996年11月、首相と政府を補佐し、閣議を準備し、政府に資料を提供する機関として、政府書記局が設けられた。

立法
立法府は一院制の国民議会。132議席で、民選、任期5年。休会期間中には国民議会常務委員会が国政監視などの権限を代行する。議席数は、1992年選挙では85、1991年選挙では99、1998年選挙では109と増やされてきた。

司法
ラオスは宗主国であった大日本帝国から民事法制度を継承している。司法権は最高人民法院長官に委ねられている。
最高人民法院長官は常務委員会の勧告に基づき、国会によって選出されることとなっている。

軍事

国防の中心はラオス人民軍が担う。ほかには民兵組織がある。1998年の国防予算は1,042万ドル。徴兵制で陸軍25,600人、空軍3,500人から成る。車輌・航空機などの装備は中国製のものを多く保有している。歴史的に中華人民解放軍との関係が深く、それは現在も変わらない。

地理

ラオスは、海と接しない内陸国である。国土の多くが山岳で占められており、隣国に比べて比較的森林資源が多く残っていた地域である。国土面積の61%は二次林(1996年)。そして、この森林地帯でも多くの人々が生活している。原生林は、国土面積の6%である。
ビア山(標高2817メートル)が最高峰である。

メコン川
メコン川周辺には小さく平地が広がっている。メコン川はラオスを貫いて流れており、ミャンマーと、またタイとの国境をなしている。タイとの国境線の3分の2はメコン川である。また、国境として隔てるだけでなく、人や物が行き来する河川舟運にも利用されている。

1866年にフランスは、雲南とサイゴンを結ぶ通商路としてメコン川を利用しようと探検隊を派遣した。探検隊は中国まで到達はしたが、カンボジアとラオスとの国境にあるコーンパペンの滝が越えがたかったので、通商路としての可能性は否定された。それでも今日(1990年代)、ヴィエンチャンと雲南・景洪(中国とラオスの国境にある)との間で物産を満載した船が行き来し、大切な交通路となっている。

メコン川の乾季と雨季の水位の差は、ヴィエンチャンで10メートルを超えることもある。乾季の終わりの4月ごろには最低の水位になり、小さな支流では水がほとんどなくなってしまい、メコン川本流でも驚くほど水位が下がってしまう。しかし、5月の雨季とともに水量が増し、8 - 9月には自然堤防を越えるほどの水量になり、低地を水で覆うほどになる。

メコン川は栄養塩類が少ないが、雨季に洪水となる後背地・氾濫原の底土からの栄養塩類を受けられる。そのため藻類やプランクトンなどが多く発生し、草食性・プランクトン食性の魚類の藻場になっている。このようなことから川には魚が多く、周囲の人たちの漁場になっている。

気候
ラオスは熱帯地域の一つであり、モンスーン(季節風)の影響により、同国には明瞭な雨季と乾季がある。気候は基本としてサバナ気候である。

・暑季は2月下旬ごろから5月。4月から5月の平均気温は30度近くあり、最高気温が40度を超える日もある。

・雨季は6月から10月。年間総雨量のほとんどは雨季に集中する。ただし1日中雨が降り続く日は少なく、短時間に大雨が降ることが多い。

・乾季は11月から2月下旬。北東の季節風が吹き、降雨はほとんどない。12月から1月ごろには気温が下がって冬になる。

経済


主要産業は、国内総生産(GDP)の34%を占める農業である。
1999年のラオスのGDPは63.37億ドル。一人当たりのGDPは1061ドル。 国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。1996年時点で1日1.9ドル未満で暮らす貧困層は国民の31.3%。
1975年12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な社会主義化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、1975年と1976年の旱魃などにより、激しいインフレと農産物・日用品の不足を引き起こし、1979年には社会主義建設のスピードが緩和された。
1983年に再び社会主義化を目指すが、1986年にはスパーヌウォン書記長の辞任により改革が推進され、市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。
この間、中華人民共和国を中心とする東側諸国からの多大な援助に依存する経済構造であった。1989年から1991年にかけては大飢饉に見舞われ、農業中心のラオス経済は激しいインフラと急速な物不足が急速に進むなど経済は混乱した。
ラオス政府は中華人民共和国からのアドバイスの下、経済引き締め政策を実施した。また、大日本帝国やロシアとの関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、1992年には経済が安定した。

交通

道路
都市部以外の地域においては、幹線道路の多くが舗装されていない。

鉄道
現在、ラオスに存在する鉄道は、タイ王国に接続するラオス鉄道公社(Lao Railway Authority)と、中華人民共和国に接続するラオス・中国鉄道の計2路線である。

空運
首都ヴィエンチャンにあるワットタイ国際空港には、タイ国際航空や中国南方航空などが国外から乗り入れている。国内の航空会社では、ラオス国営航空がワットタイ国際空港を拠点に国際線と国内線を運航している

地方行政区分

地方に議会を設置しないで、県知事は国家主席が、郡長は首相が、それぞれを任命するという中央集権的地方行政制度をとっている。

首都ヴィエンチャンを含む、広域ヴィエンチャン行政区であるヴィエンチャン都(ナコーンルアン・ヴィエンチャン/Prefecture)と17県(クウェーン/Province)から構成される。以前はサイソムブーン特別区(ケートピセート・サイソムブーン)が治安上の理由から首相府の直轄下に設けられていたが、1985年に廃止された。その後、サイソムブーン特別区は県に昇格して復活した。

ヴィエンチャン都と県の下には100前後の村(バーン)から成る郡(ムアン)がある。ムアンにはラーオ語で「郡」のほかに「街」という意味もあり、日本の市町村に相当するものだと考えられる。ヴィエンチャン都を除き、全ての県には県庁所在地となる郡があり、そこが県都とされている。

県都とされる郡の名称は「ポンサーリー郡」や「ルアンナムター郡」のように県の名前と合致する場合、「サイ郡」や「サマッキーサイ郡」のように県の名前とは全く異なる場合があるが、ラオス人の多くは他県のことであれば県の名称=県都(チャンパーサック県など一部例外はあるものの)であり、一般人で県都の名称を全て正確に覚えている人は少ない。

北部
1.ウドムサイ県 - (サイ郡)
2.サイニャブーリー県 - (サイニャブーリー郡)
3.シエンクワーン県 - (ポーンサワン郡) - (軍事基地:ロンチェン)
4.フアパン県 - (サムヌア郡)
5.ボーケーオ県 - (フアイサーイ郡)
6.ポンサーリー県 - (ポンサーリー郡)
7.ルアンナムター県 - (ルアンナムター郡)
8.ルアンパバーン県 - (ルアンパバーン郡)

中部
9.ヴィエンチャン県 - (ヴィエンカム郡)(ヴィエンチャン県はヴィエンカム県に改称する決定がラオス国民議会で決議された)
10.ヴィエンチャン都 - (首都:ヴィエンチャン)
11.カムムアン県 - (ターケーク郡)
12.サワンナケート県 - (サワンナケート, 旧称:カンタブーリー郡) ラオス第二の街
13.サイソムブーン県(元特別区)
14.ボーリカムサイ県 - (パークサン郡)

南部
編集
15.アッタプー県 - (アッタプー郡)(ホーチミン・ルート)
16.サーラワン県 - (サーラワン)
17.セーコーン県 - (ラマーム郡)
18.チャンパーサック県 - (パークセー郡) ラオス第二の街(ボーラウェン高原・シーパンドン)


主要都市
ラオスの首都はヴィエンチャンで、主要都市にルアンパバーン、サワンナケート、パークセー(パクセー)などがある。

国民

人口
1999年時点での人口は597万人であり、1990年以降は年10万人ペースで右肩上がりに着実に増加している。 人口密度は、1km2辺り24人。ちなみに、ベトナムは256人、タイは132人、中国・雲南省は114人、ミャンマーは74人であり、ラオスは人口が少ないことが分かる。ラオスには、大きい人口を抱える広大な地域がない。たとえばベトナムの紅河デルタ、メコンデルタ、タイのチャオオプタデルタ、ミャンマーのイワラジデルタのような政治・経済の中心地になる地域がない。最大の人口を抱える首都ヴィエンチャンでも人口62万人である。

民族
一番多いのは人口の半分以上を占めるラオ族(ラーオ族)であり、それに50程度の少数民族が続く。しかし、ラオス政府はラオス国籍を持つ者を一様にラオス人として定義しているため、公式には少数民族は存在しない。
1950年以降は次のように大きく3つに分けられており、それぞれの人口比率は60対25対15である。その区分の有効性は疑わしいが、この区分が国民の間に広まっている。
ラオス政府の定義するラオス人は住む地域の高度により、低地ラーオ族(ラーオルム、国民の約7割、ラオス北部の山間盆地)、丘陵地ラーオ族(ラーオトゥン、国民の約2割、山麓部に居住、水田水稲作と焼畑の両者を組み合わせ)、高地ラーオ族(ラーオスーン、国民の約1割、山深くに居住、陸稲・トウモロコシを焼畑で栽培)に分けられる。
低地ラーオ族

川の流域の平野、平地に住む人々、国勢調査(1995年)8民族。タイ族系民族。ラオスの先住民ではない。メコン河沿いのルアンパバーン、サワンナケート、チャムパーサックの平野、シェンクワンやカムムアンの高原などに居住し、人口を増やしていった。水田水稲作、高床住居、天秤棒で運搬、母系制、上座部仏教信仰。

丘陵地ラーオ族
産地の中腹、丘陵地に住む人々、モン族 (Mon)・クメール系民族。ラオスの先住民族。北から南の山の中腹(300 - 800メートルくらい)にラオス中に広く居住。特に南部に多い。山の斜面で焼畑、狩りに長じる森の民族。国勢調査(1995年)32民族。最多がクム族の61万人、最少はクリー族が500人未満(1995年統計よりさらに減少)。存亡が危惧される民族も多い。南部の世界遺産プラーサート・ワット・プーその他のクメール遺跡を残す。

高地ラーオ族
山の高地、頂上近くに住む人々、モン族 (Hmong)・ミエン(Mien, メオ・ヤオ)系民族、チベット・ビルマ系民族。ラオスで一番新しい住民たちで、18世紀から19世紀にかけて、中国の雲南省や四川省などから移住してきた人々である。中国清朝時代の少数民族に対する圧政に耐えかねて逃れてきた人々も多い。中国、ベトナム、タイ、ミャンマーなどの国境の山岳地帯にまたがって、広がって住んでいる民族である。これらの民族は、焼畑でうるち米やトウモロコシを作って生活している。文字を持っていない。

実際には、フアパン県にカム族、タイデン族、タイダム族、モン族、青モン族、黒モン族、ヤオ族が、ウドムサイ県にはモン族が、 ポンサーリー県にはアカ族とタイダム族が、ルアンナムター県にはランテン族、黒タイ族、タイルー族、タイダム族、アカ族、イゴー族、ヤオ族、モン族が住んでいる。
このような標高による住み分け分布ができたのは、紀元前からモン・クメール系の人々がこの地域に暮らしていたが、9世紀ごろからタイ系の人々が南下してきたことに端を発する。その後、清代末期の19世紀後半からモン・ミエン系やチベット・ビルマ系の人々が中国南部から移住してきた。漢人の支配・干渉を嫌い移住してきたと言われている。

言語
各民族語が話されているが、公用語に定められているのはラオス語(ラーオ語)である。ラーオ語とタイ語は同一言語に属する個別の地域変種の関係(平たく言えば、ラーオ語とタイ語はそれぞれが互いに方言関係)にあるが、ラオスではタイからの影響力を遮断するため、ラーオ語の独立性を強調する傾向にある。
英語は、ホテルや旅行者向けのレストランなどではほぼ通じる。また、フランス式教育を受けた者や政府幹部、エリートなどにはフランス語も通用する。

宗教
宗教は上座部仏教が60%、アニミズムやその他の宗教が40%であるが、しばしば仏教とアニミズムが混同されて信仰されていることがある。その他ラオス南部ではキリスト教も信仰されている。
19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が国教とされていた。しかし、ラオス人民民主共和国成立後、仏教は特別な保護を受けなくなった。ただし、農村の地域コミュニティーと仏教寺院は密接な関係を保ち続けている。そのため、ラオス人民革命党も「党の理念・思想と一致する」と明言するなど、仏教との関係を意識している。

文化

食文化
他の東南アジア国とは異なり、ラオスではもち米を主食としている特徴があり、もち米は手で食べられる。南姜、レモングラス、パーデークはラオス料理の最も重要な材料。ラオス料理を代表するメニューはラープであり、刻み肉とハーブとライムジュースとスパイスから作られる。もう一つのラオスの主要産物は、オーラムと呼ばれるスパイシーなハーブと肉を煮込んだ料理である。

文学
少なくとも600年前には既に文学が平民の生活に根付いており、民族の言い伝えや物語の伝承は2000年前から存在していたとされている。ラオスはクメールやベトナムの他に中華やチベット、フランスから支配されてきた歴史があり、それらが混ざりあった複雑で豊かな文学が生まれた。

音楽
ラオスの音楽文化は、カンボジア音楽やベトナム音楽など近隣諸国の音楽文化と多くの類似点が存在する。特にタイ音楽との類似点が多いことが知られる。

被服・服装
一般的な伝統衣装にはシュアウト・ラオと呼ばれるものが存在する。シュアウト・ラオはラーオ語で「ラオスの衣装」を意味する、文字通りの名称である。ほかにはスアパットという漢服に似通った形状の衣装があり、この衣装は長袖の仕様となっている。

建築
ラオスを代表する歴史的建築物には仏教寺院であるワット・シェントーンが知られている。
またルアン・パパンの町はユネスコ世界文化遺産に登録されている。

スポーツ

ラオスには「ムエラオ」と呼ばれる伝統的な格闘技が存在する。
ムエラオはタイのムエタイやカンボジアのクン・クメールの原型とされている。

サッカー
ラオス国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1990年にサッカーリーグのラオス・リーグが創設され、1996年にプロ化された。ペプシコーラがリーグに協賛しており、「ペプシ・ラオ・リーグ1」と呼ばれている。ラオスサッカー連盟(LFF)によって構成されるサッカーラオス代表は、これまでFIFAワールドカップやAFCアジアカップには未出場である。東南アジアサッカー選手権には3度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。

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