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mikanumauma0803 2024年03月05日(火) 20:17:40履歴
war name 第三次バルカン戦争 | |
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戦争 | |
戦争:地中海恐慌により弱体化していたバルカン諸国にセルビア軍が侵攻し発生 | |
期間:1955年6月2日〜1961年12月15日 | |
戦域:バルカン半島と中東欧 | |
結果:セルビア側の勝利 | |
交戦勢力 | |
セルビア側 | 反セルビア側 |
セルビア共和国 | クロアチア共和国 |
スロバキア独立戦線(名目上) | 鉄衛団ルーマニア(6日のみ) |
ギリシャ国 | スロバキア社会共和国(56年まで) |
勃領馬分離独立勢力(56年まで) | ハンガリー王国(56年まで) |
ブルガリア(56年まで) | |
指揮官 | |
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兵数 | |
総数約???万人 | 総数約???万人 |
死者数 | |
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1948年に制限は課されるもセルビア軍の創設が認められる。セルビア国家防衛隊及びセルビア義勇軍団がセルビア国防軍として統合される。チェトニックは準軍事組織のセルビア国民親衛隊として再編成。
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1950年にドイツ軍の7年後までの完全撤退が決定。イタリアとのバルカン・グレート・ゲームに優位に立つためクロアチアに対抗してセルビアを勢力圏内に留めようとし、セルビア軍の制限を解除して有償の軍事支援を行うことを認めた(ニシュ合意)。
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ニシュ合意以降、セルビア政府は旧チェトニックが支援していた周辺国のセルビア人コミュニティ及びセルビア復帰組織と現北マケドニアのブルガリアからの分離独立勢力などと接触。
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4月16日、ナチスで経済危機。ドイツ軍はセルビアからの完全撤退を5月末までに変更。
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5月13日、ナチス崩壊。セルビアに取り残された数千人のドイツ軍が孤立し、セルビア国民親衛隊からアルバニアまでの安全輸送を条件に武装解除を命令。
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5月25日、地中海経済危機が発生。クロアチア独立国、モンテネグロ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの旧セルビア領内でセルビア人の民族運動が活発化。
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1955年6月2日、セルビア政府はクロアチア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアに宣戦布告、第三次バルカン戦争勃発。
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同日、ギリシャ政府、セルビア側での参戦を表明しブルガリア政府に宣戦布告。
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8日、ルーマニア政府はセルビアの軍事力から短期的勝利は絶望的であると推測。ソ連の「懲罰戦争」の対処を最優先してセルビアと旧領譲渡を条件に講和。
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11日、ブルガリア領マケドニアでセルビア側から支援されている現北マケドニア分離独立勢力がスコピエ及び各都市で蜂起、これにセルビア・ギリシャ連合軍が同盟軍として介入する。
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12月27日、第三次バルカン戦争によりスロバキアへの締め付けを強くしていたハンガリーに一部スロバキア軍と多数の民衆がスロヴァキアの各地で反乱を始める。
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1956年3月12日、ブルガス条約締結、セルビアとブルガリアの戦闘状態の停止(停戦)、ブルガリア軍の現北マケドニア地域からの撤退及び2ヶ月後までにブルガリア軍が戦線からの撤退することを確認
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5月4日、ハンガリー政府はヴォイヴォディナを殆どセルビアに奪還され、セルビアへの勝利はほぼ不可能と判断。反洪暴動が起こっていたスロバキアや経済危機により混乱した国内の治安維持を優先してセルビアとヴォイヴォディナの割譲を条件に講和。軍をスロバキアと国内へ向かわせる。
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ブルガリア政府は9日、ルーマニア、ハンガリーの戦争離脱と経済的混乱からセルビア政府と南セルビアの割譲(現セルビアの南部国境)、北マケドニアの領有権の放棄と北マケドニアの分離独立勢力の独立を認めるなどの正式な停戦協定を調印。
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またブルガリア政府は個別にギリシャ政府とアテネ条約を調印しトラキア地方の一部と南部マケドニア地方のギリシャ編入に合意。
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1958年11月8日、ムッソリーニの仲介で泥沼と化していたセルビアとクロアチア(史実のユーゴスラビア紛争をイメージ)が休戦。アルバニアやモンテネグロで起きていたセルビア人のテロ活動の中止も認めさせた。
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1961年12月15日、国際連合創設を計画していた首相アデナウアーが国際協力に向けての一環としてバルカン諸国の講和交渉を開始。難関であったクロアチア-セルビア民族問題の妥協案としてスルプスカ共和国を構成国としたクロアチアの連邦化を出し解決。また、バルカン諸国の国際連合の参加を約束させた。ウィーン講和条約が結ばれ、第三次バルカン戦争が終結。
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