最終更新:ID:WPVyUA8VHA 2013年01月01日(火) 20:27:41履歴
ちらさ雨の降り来たりて、なお黄味の残る空だった。
水の運んでくる土と風の香には、隠し切れない酒気が沈んでいる。
独立国家『EDEN』。大地震と、それに伴う地殻の変動によって外界から隔離された暗黒街にあってさえ、酒を作ってしまうのが人間というものらしい。
冷静さを保っていた少年の顔が、転瞬苦いものに変わった。
それは、なにも目の前で見知った女性が殴られたところを目にしたからというだけではない。
天霧る雨を煽るように雷が、かぶりをふっても髪の張り付く耳朶を打ったのだ。
まったく。まったく、こんなときに。街に流れてきてすぐの頃におぼえた感慨を、よりによって今、酒の匂いで思い起こすとは。そんなものに気をやらせた、湿って重い風も雨呼びのそれか。打ち捨てられていた本で目にした、マドレーヌの香りとは雲泥の差だ。
回り道にも似てふくらむ思考を払ったのは、淀んだ雲を割り裂く咆哮であった。
「俺は強ぇ……絶対に強ぇ!!」
錆びた刃を無理矢理に振り回したような響きが、墓碑の合間を満たしていく。
サングラスを外した声の主が浮かべる表情は、振り上げた拳に隠れて判然としない。
傍観者であった少年に理解できるのは、ただのひと言から始まった殴り合いに一段落がついたということくらいだ。
「ハイジ! ……これでもう、気はすんだろう?」
そうとなれば、とっさに紡いで裏返った声を気にする暇もなかった。
『No.8』の単語ひとつで、それを口にした女性と本気の喧嘩を始めた青年――壬生灰児の怒りを収めるのなら、このときをおいて他にないと直感していたがゆえに。
「ふん。テメーは黙ってろ、エヌアイン。さっきまでと同じにな」
だが、灰児はサングラスをかけ直そうとはしなかった。
あいまい宿の寡黙な用心棒。あるいは、旧世界に死をもたらさんとした者を倒したのちに方々を流れる少年を拾った者の面頬を取り戻すこともなく、彼は地に伏した女性をねめつける。
「いっ、つぅ〜……」
彼女はチャイナドレスの裾をさばいて、膝に出来た擦り傷を撫でていた。
でも、同感。指先が伝線したストッキングに触れたそのとき、声の抑揚が低くねばる。
「まだ終わってない。そもそも始まってもいねーんだから、坊やの出る幕じゃないね。
――黒手会<ブラックハンズ>の大当家、マリリン様がそう簡単に膝を折るもんかい!」
立ち上がると同時にきった啖呵の、タメを作っていたかのように。
「往生際が悪いぞ、女」
「その呼び方には飽き飽きしてんだよ」
涼しげな目許と裏腹に、マリリンはドスの利いた声と物言いで灰児へ応じた。
「ま、アンタのほうは、そんなことも無かったみたいだけどねェ……」
手の甲で拭われた口許から紡がれた、言葉は青年への悪意に満ちている。
壬生灰児。マリリンの語ったところによれば、EDENの王カルロスが作ろうとした人間兵器の生き残り。実験の後遺症で痛みを感じなくなったがために、無謀な戦い方の出来てしまう、ケースクラスの『No.8』。
猫なで声で笑う、もと兇手にして娼婦であった女性は、そのような手合いを金や肩書きで懐柔するのではなく、色香でたらしこもうとするのでもなく、
「アンタ、さっき自分を『強い』と言ってたね。
あれは、アンタをそんなふうにしたカルロスから……いまの、お強いアンタを作り上げた『始まり』から逃げた自分を知ってて言えたことなのかい?」
先刻、彼女自身に振るわれた力でもって屈服させようとしていた。
言葉尻をとらえた挑発は、いちどマリリンに膝をつかせた青年だからこそ受け流せない。
「こうして俺にカルロスを殺させるか。黒手会とやらの邪魔者を消すために」
「もっちろん」にぃ、と笑って、彼女は天に向けた右手の平を灰児に伸ばす。「ここまで言われて逃げ出すんなら――アンタはただの臆病者だぁ」
ふわりと雨へ溶けゆく語尾が、微笑むくちびるをいろどった。
ひとたび拳をまじえた者どもと、自分が指摘し説明すべきことを先に言われてしまったエヌアインとの間に、汗ばんだ沈黙が落ちる。
「……クソが。それが貴様の手管か」
数瞬ののち、息を吐くような言葉が沈黙を破った。
自身の始まりから逃げてきたという灰児が、ふたたび両腕を上げる。左頬の稜線に沿って刻まれた傷跡。戦って血が通うにつれ生白い色から赤味を増した過去が、ファイティングポーズに隠された。
始まり。自身のその手で触れられず、語れもしないほどに距離の取れぬものと戦うように。
「そのとおり。親殺しで娼婦あがりの小悪党にはお似合いで――」
自身の始まりを開き直って認めたマリリンが、全身から力を抜いた。
ときに鞭を思わせてしなり、ときに風車のごとく切れ味を増す手刀のいずれが放たれるか。体幹こそ揺るがないが、縦横に体を揺らす曲線的な構えからは使い手の意図が読み取れない。
「もう一度だ……エヌアイン、お前は水を差すんじゃねぇぞ」
その彼女へ灰児が無造作に近づき、飛び込んで一気に距離を詰めた瞬間、
「――こんなところで終わりゃしない力だよッ!」
マリリンは、地を這う蛇を思わせる構えをとって相手の懐に入った。顎を突き上げるはずであった青年の拳を低い姿勢で避けると同時、総身にめぐる気血を込めて伸ばした腕の、手刀を相手の腹に突き込む。
そうしてひとたび敵手に触れれば、幻惑的な多段連係が、かれを捉えて離さない。
一撃こそ軽いものの、確実に積み重なる衝撃。胃を揺らしにかかる四本貫手。肺腑を突きあげて吸気を押し出す掌打に、体ごと腕を回転させ、崩れかけた姿勢を上から押さえつけにいく手刀――。
劈掛掌をベースにした多彩な技と構えを呼吸をするように組み合わせ、ひとつの種類や部位への打撃に慣れるいとまも与えずに敵の思考を狩りとって殺す。それこそが、職業兇手としてあったマリリンが技の精髄であった。
これほどに連撃で押しまくるのは、先の交錯で灰児がタフネスに秀でていると確信したためもあるのだろう。
掌底で吹き飛ばしてすぐに追撃を入れるといった無理をとおしてさえも、黒社会の大当家は攻勢の維持を選んでいた。圧倒的との形容が至当な連撃で灰児の動きを固め、その場に縫い止めつづける。
相手が普通の人間であったのなら、戦いの趨勢など、とうに決していた激しさで。
「効かねえ……ッ」
軋る奥歯と止まぬ煉鎖の隙間から、痛みを知らぬ青年は決然と声を発した。
彼は、マリリンの打撃すべてをいなしていたわけではない。その証拠に、呼吸はいつ息を吐いているのか――すなわち、いつ筋肉が弛緩しているのかがうかがえるほどに乱れている。
灰児が大きく体をひねったのは、何度目かの攻勢を凌ぎ切った、そのときだった。
「いけない、灰児――マリリンっ!」
「受けるか! このブローをぉお!」
手加減はできないと言い切っていた青年の、右拳が振り下ろされる。
マリリンが繰り出す攻撃の複数段に相当することがひと目で分かる一撃は、上海一の打派とされていた大魏の放つ突進に似て非なるものだ。あの職業兇手のわざが面制圧に秀でるなら、灰児のそれは突破力に優れている。
溜め込んだ力の、雪崩落ちるように襲い来る技には、なまなかな攻防は意味をなさない。
鉄槌のごとく迫る拳を前にして、マリリンは吸気をするどく肺に送り込んだ。
引き締まった表情のなかで、薄い舌がひらめく。あだめいた赤が乾いた下唇をひとつ叩いた次の、ひと刹那。胸元に引き付けた腕が、練られた吸気によって緊張を保ったまま灰児の拳を受け止めた。
短く呼気を押し出し、鋭く次を吸い込むたびに相手の重心をずらしてさばき、いなして、
「もらったぁ!」
一発の拳にこめられた衝撃の、ゆうに十段を受けきった女性の腕がしなる。
腕全体を使う劈掛掌が間合の内側にあって、腕は胴体へ巻き込むようにして絞られた。
結果――殺人姫の掌底は、攻撃を出しきって重心を崩した灰児の脇の下へと叩き込まれる。
「ふーぅ……」
交錯を終えておおっぴらに吐かれた女性の息は、暗に決着を示すものだった。
厚みを増した雲の下では、霧のようであった雨がぱたぱたと音を立て始めている。
急所を打たれて、それでも平然と姿勢を整える灰児を、エヌアインは今度こそ止めた。
痛みを感じないのなら、神経の集中している場所を打たれても目立った悪影響が出るとは思えない。それでも打撲や骨折などは残る――本人が意識せずとも刻まれるのだと、この数ヶ月で理解している。
「あれが、アンタの攻性防禦か」
「そ。坊やが未来を読む? のと同じ。気を練るだとか力を溜める技はアタシにも縁が深いのさ」
いつか割り込んでくるって分かってても、怖いことは怖かったけどねぇ。
放り出していた扇を拾い上げたマリリンは、今まさに歩き出そうとする青年に目を向けた。八番目の狂犬は、胸奥でうずく古傷<トラウマ>の、膿が溜まって腫れ上がるさまを認めてサングラスをかけ直す。
「あれだけ怒れたなら、アンタ十分やれるよ。こっちの下心なんて関係なしに」
「好きに言ってろ」
「ただ、カルロスのところに向かうまでに、傷の様子くらいはみて欲しいな」
自分なりに納得できるかたちで、始まりの終わりを迎えるために。
旧人類への思いを語らずにすんだエヌアインもまた、胸の痛みを隠して苦笑する。
エヌアインらが完全者ミュカレの掌に招かれる、すこし前の出来事だった。
◆◆
「そっか。そういう、ひとだったんだ」
「うん。あの時、ボクは灰児の傍にいたけど、彼が声も出せないなんて」
ぼそぼそと言葉をつむぐエヌアインを見ようとして、少女は小さな唸り声をあげた。
「う〜。……安全そうっていうのは分かるけど、やっぱりやだよぉ」
「同感だよ。火葬場へ積極的に近づこうとする者はいないだろうけど……」
彼女のいた国には火葬の習慣もなかったのだったか。
ふっと脳裏に浮かびあがった考えを、少年は脳裏で打ち消す。
カティ。上海の貿易公司に勤める、ドイツ人の夫婦の娘。そんな話は聞いてみたが、旧人狩りによって埋葬する土地も足りなくなった現状では、各国の風習など気にしてはいられない。
それでも、膝を抱えていた少女を連れて焼場に入ってみれば――。
火葬を終えた直後だったのだろう、焼却炉から引き出された台座の上に焼けてなお人のかたちを保っている骨が、という光景を見せられては、たがいに平静を保ってなどいられなかった。
『この、ひとは……葬ってくれるひとがいたなら、まだ良かっただろうけど』
ミュカレちゃんは、もっといやな焼かれ方をしたのかな。
そんなふうにべそをかかれて、巧く慰められるほど、少年は成熟してはいなかった。
あるいは、自身の目的を見失いはしなかったというべきなのかもしれない。
……ミュカレ。
真理にたどりつき、転生の法を手にした完全者。
殺し合いの始まりを宣告された場で消されたカルロスが灰児の始まりであったのだとすれば、いちど倒してもなお、あの場で万能の玉座に座した彼女こそが、エヌアインの始まり――。
神の現実態、エネルゲイア・アインと称され、神たることを望まれた存在の立脚点であったのだ。
『――その。キミの体に、ミュカレが取り憑いていた時期があったんだね?』
『うん。そのとき、カティには分かったの。ミュカレちゃんはずっと、ひとりで寂しがってたって』
要領を得ない説明を思い返した少年は、肉体年齢にそぐわぬ疲労をおぼえた。
カティの話を聞いて、完全者を哀れに思わないでもなかったが、彼女の目論見を裏切った自身の決断を、ここに至って後悔するいわれもない。神。孤独の極地にあって、頂点にあるがゆえにいずれは他者に超えられ滅ぼされるものになど、数多の実験で兄弟を喪ってきたエヌアインがなりたいと思えるものではなかった。
痛みを知った表情で、身をちぢめる彼の傷は、しかしてまったく違う所で負ったものだ。
殺し合いの始まりを告げる場で、完全者が姿を顕した、あの瞬間。
壬生灰児は自身の目的であった男を目の前で奪われ、言葉を喪っていた。
エヌアインも、彼と同じだった。あの場所で、少年は一度達したはずの目的と、役目を果たした旧人類とともに暮らすにあたって隠し続けていた傷とを掘り起こされて、指の一本も動かせなかった。
たしかに、カルロスの命を奪った首輪は、あのとき自分たちの命をも握っていた。
『でも、そんなことは関係ない……』
唾を飲み込んだ、喉がくぐもった音を立てる。
……あのとき動けなかった時点で、自分は相手に呑まれた。
この手に渡されかけた、ノイラント――完全なる世界を拒絶し、先史文明に繋がる扉を閉ざしたはずの自分が、完全者の手からは逃れられなかった。その現実を受け入れてしまったのだ。
むろん、あの場で積極的な自殺をはかれるほど、集められた者は愚かではなかった。
愚かではないからこそ、この場に送られてしまった時点で、誰もが盤上の駒となってしまう。ミュカレの来歴を知ったならば、これからどう動いても彼女の予想を超えられなくなることにも考えが向かってしまうだろう。
死の力を乗り越えたという完全者は、ゆえにこそ自身の敗北……死をも受け入れられるがゆえに。
「エヌ、アインくん?」
「ん、ああ……」
不意に響いたカティの声に、エヌアインは生返事を返した。
気のはいらない自身の声音を耳にして、思った以上に衝撃を受けている事実に気がつく。
ここにいる彼女のような旧人類の生き残りと生きていくと決めて、歩けていたというのに――ぽっかりと胸に穴を開けているものに名をつけてしまってはもう、歩き出せなくなるようにも思えた。
「ほら。あれ、見て」
胸に吹き込む風から逃れるように、彼はカティの指がさすものに目をやる。
ひょっとしたら、と、言われるまでに確信した。焼場の前面に張られたガラス窓の向こうを歩いている青年。黒いサングラスとジャケットに、くすんだ砂色の髪が映える、
「灰児」
つぶやくがはやいか、エヌアインは立ち上がって彼の姿を追う。
傍に置いていた杖をつかんで彼に続いたカティは、心配そうに眉根を寄せる。
彼女の耳には、少年の声がひどくあどけない響きを残して届いたのだ。
◆◆
幸いにと言うべきかどうか。
壬生灰児は、常の居住まいを保ってこの場所にあった。
「皮肉だな。目的を達していようがいまいが、感じたことは同じか」
「じゃあ、どうしてキミは……あんなに迷いなく歩いていたんだ」
再会の言葉もそこそこにPDAを取り出して、エヌアインは地図を参照していく。
焼場。H-7の周辺で目立つランドマークは池と灯台。加えて氷川村という集落だった。
村の近くに診療所もあるという点をかんがみれば、自他の傷に疎い灰児が目指すのもうなずける。長期的な目的がなんであれ、自身のコンディションをベストに近づけることは肝要だ。
「質問をしておいて、地図と睨めっこか?」
「ご、ごめん。目標がないなら、動きようもなかったなと思ってさ」
「そういえば地図なんか見てなかったね。足長おじさんの杖があったから、なんだか安心してたや」
カティが両手で握っている杖の、眠たげな一つ目に視線をやって、灰児は嘆息した。
彼が歩き出す以前、夜の街で用心棒をしていたときなら、くだらんとでも続けていただろう。硬直するしかなかったあの瞬間とはちがって、少しは彼もくだけている――。
そうと感じたエヌアインの側も、行動方針を相手本人に訊けばいいということに思い至った。
「それで、灰児。キミは診療所でも目指すのかい?」
「ああ?」
だが、質問を受けた青年は、憤りもあらわに声を荒らげた。
「お前……『目標』ってのはそれでいいのか」
「だから、どこを目指すかっていうのがなければ、動きようもないじゃないか」
重ねて問いをかけられれば、サングラスの下からのぞく傷跡に赤味がさす。
それが怒りによるものだと気づいたときには、決定的な言葉が彼の口から放たれた。
「いまさら聞くまでもないだろうが。俺の行く先は、カルロスを殺しやがったあのガキだ」
「……だめ。それ、だめっ」
エヌアインが何か言うまでに、カティが弾かれたように首を振る。
「ミュカレちゃんは許されないことをしてるって、分かるよ。でも……でもその前に、カティとミュカレちゃんを会わせて」
ミュカレちゃんは、ずっと寂しがってたから。
あまりにも情緒的な言葉を耳にした灰児は、拳を振り下ろす場所のなさに唸った。
「ガキが……。俺の邪魔をするなら、手加減はできねぇぞ」
「カティだって、そんなことなんかできない! だって、さっきエヌアインくんの話を聞いて、あなたのことも知りたいって思えたもの」
「互いに理解して仲良しに、ということか?」
「ちがう! 自分の思ったことに納得できなきゃ、ここから一歩も進めないよッ!」
マントを握り込んだ、その手で胸を押さえながら、少女は奥歯を噛み締める。
「あなたがカルロスっていう目的を奪われたみたいに、カティだって自分のやりたかったことに向き合えてないの。それを、そのままにして……『ここ』を空っぽにしたまま、生きたいなんて思えない」
一語一語を食い締めるようにつむがれた言葉は、ひどく青いものだった。
兇眼の杖、モルゲンシュテルン。瀕死の淵にあったカティを救ったという得物が自身の手に渡っていることが完全者の心遣いであるなどと、この少女は欠片も考えない。
「カティは――ミュカレちゃんと、ちゃんとお話するの」
かりに考えていたとしても、それを認めることだけはしなかった。
自分自身の限界はもとより、ものごとをいなすことや曖昧にしておくことにも慣れていない少女の言い分を聞いて、灰児は『処置なし』とでも言いたげにかぶりを振る。
鼻にかかった笑い声に、しかして彼女をあざける色だけはない。
「……エヌアイン。お前はどうする」
「ボク、は――」
水を向けられた少年の声にあるのは、かすかなふるえであった。
ふるえがくるほどに、彼は、目の前にいるふたりに圧倒されていた。迷っていようといまいと、目指すところを明確に想像できる者たちに畏怖すらおぼえた。
ひるがえってエヌアインは、ここで、自分のいかな到達点も描くことがかなわない。
「ボクは一度……完全者を、倒したよ。
人類の飛躍なんか望まないボクを器に選んで、人類だって望んでいなかったろう救済を目的にして、『完全なる神々の世界』とやらを目指したアイツのことを」
だが、もう、ここに立つエヌアインは知ってしまっている。
完全者を殺しても、彼女の魂があるかぎり、同じようなことは何度でも繰り返されると。
完全者を殺さなくとも同じだ。彼女の掲げるプネウマ計画が復活したならば、自分はまた孤独の淵に立たされるか、役立たずの烙印を押されて処分にかかられることだろう。
そこで旧人類の味方をすれば、役目を終えた彼らに取って代わる新人類を導くために生み出された、エヌアイン自身の素性も明かされてしまうのかもしれない。
背負うべきものの量が、隠すことの重みが、うつむいた頬に陰をおとしていく。
抱えきれない荷は、重苦しい沈黙を呼び込み――濃密な無音に、真っ先に堪えられなくなった少年こそが、荷を問いと変えて他の者へ投げかけた。
「どうして……キミたちは、勝ち目のないことに立ち向かっていけるんだ」
語尾を上げることもかなわないほどに、想像しうる『終わり』は重かった。
旧人類との間に生まれる溝を恐れて、明確な『始まり』を口にすることのできない少年の顔は、カティのいう空っぽに満ちていた。空っぽという言葉が、自身の胸中にある何を例え得るものであるのか。そこに気づいた彼は、もはやふるえることも出来ない。
莫迦げたことを終わらせようとして、一度は本当に終わらせ得た少年は、だからこそ虚しさにとらわれている。
さながら神の定めを反故にした罰として、果てない徒労を与えられた者のように。
「――痛ぇか」
ささやくような声音に、少年が顔を上げれば、灰児が彼を見据えていた。
黒いサングラスをかけ直す、青年の双眸には哀れみというべき光があるようにも見えた。
「あ、灰児さん……」
どう声をかけたものか、迷っていたのだろう。
自分と灰児の間に立ったカティの視線は、きょときょとと落ち着かない。
「そう、だ。うん。きっと、『ここ』が――痛いんだと思う」
空っぽであると分かった胸を押さえてみれば、革の擦れる音が響く。
カティも灰児も、自分さえも得をしないと知れている答えを返せば、青年が鼻筋を押さえてきびすを返した。
「ふん」と「うん」の間で響いた吐息が、ジャケットに包まれた背中越しに伝わる。
「羨ましいぜ」
エヌアインにしてみれば、あれほどの経験をしても先に進める彼らが羨ましかった。
【H-07 西部/午前】
【エヌアイン@エヌアイン完全世界】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、不明支給品1〜3
[思考・状況]:――――
【カティ@エヌアイン完全世界】
[状態]:健康
[装備]:モルゲンシュテルン@エヌアイン完全世界
[道具]:基本支給品、不明支給品0〜2
[思考・状況]:ミュカレにもう一度会いに行く
【壬生灰児@堕落天使】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、不明支給品1〜3
[思考・状況]:完全者を殺す。立ちはだかる障害は潰す
[備考]:攻性防禦@エヌアイン完全世界の知識があります。
【モルゲンシュテルン@エヌアイン完全世界】
ゲゼルシャフト基地に飾られていたモーニングスター。
ミュカレに憑依されていたカティ――瀕死の少女が命を繋げるよう、塞が呪いをかけて渡した。
その際、カティ自身が呪われることを防ぐため、コルナと呼ばれる魔除けのまじないも教えている。
カティが勝利時に行なっている、人差し指と小指を立てるしぐさがそれである。
(第六次電光大戦パンフレット・エヌアインQ&Aより)
水の運んでくる土と風の香には、隠し切れない酒気が沈んでいる。
独立国家『EDEN』。大地震と、それに伴う地殻の変動によって外界から隔離された暗黒街にあってさえ、酒を作ってしまうのが人間というものらしい。
冷静さを保っていた少年の顔が、転瞬苦いものに変わった。
それは、なにも目の前で見知った女性が殴られたところを目にしたからというだけではない。
天霧る雨を煽るように雷が、かぶりをふっても髪の張り付く耳朶を打ったのだ。
まったく。まったく、こんなときに。街に流れてきてすぐの頃におぼえた感慨を、よりによって今、酒の匂いで思い起こすとは。そんなものに気をやらせた、湿って重い風も雨呼びのそれか。打ち捨てられていた本で目にした、マドレーヌの香りとは雲泥の差だ。
回り道にも似てふくらむ思考を払ったのは、淀んだ雲を割り裂く咆哮であった。
「俺は強ぇ……絶対に強ぇ!!」
錆びた刃を無理矢理に振り回したような響きが、墓碑の合間を満たしていく。
サングラスを外した声の主が浮かべる表情は、振り上げた拳に隠れて判然としない。
傍観者であった少年に理解できるのは、ただのひと言から始まった殴り合いに一段落がついたということくらいだ。
「ハイジ! ……これでもう、気はすんだろう?」
そうとなれば、とっさに紡いで裏返った声を気にする暇もなかった。
『No.8』の単語ひとつで、それを口にした女性と本気の喧嘩を始めた青年――壬生灰児の怒りを収めるのなら、このときをおいて他にないと直感していたがゆえに。
「ふん。テメーは黙ってろ、エヌアイン。さっきまでと同じにな」
だが、灰児はサングラスをかけ直そうとはしなかった。
あいまい宿の寡黙な用心棒。あるいは、旧世界に死をもたらさんとした者を倒したのちに方々を流れる少年を拾った者の面頬を取り戻すこともなく、彼は地に伏した女性をねめつける。
「いっ、つぅ〜……」
彼女はチャイナドレスの裾をさばいて、膝に出来た擦り傷を撫でていた。
でも、同感。指先が伝線したストッキングに触れたそのとき、声の抑揚が低くねばる。
「まだ終わってない。そもそも始まってもいねーんだから、坊やの出る幕じゃないね。
――黒手会<ブラックハンズ>の大当家、マリリン様がそう簡単に膝を折るもんかい!」
立ち上がると同時にきった啖呵の、タメを作っていたかのように。
「往生際が悪いぞ、女」
「その呼び方には飽き飽きしてんだよ」
涼しげな目許と裏腹に、マリリンはドスの利いた声と物言いで灰児へ応じた。
「ま、アンタのほうは、そんなことも無かったみたいだけどねェ……」
手の甲で拭われた口許から紡がれた、言葉は青年への悪意に満ちている。
壬生灰児。マリリンの語ったところによれば、EDENの王カルロスが作ろうとした人間兵器の生き残り。実験の後遺症で痛みを感じなくなったがために、無謀な戦い方の出来てしまう、ケースクラスの『No.8』。
猫なで声で笑う、もと兇手にして娼婦であった女性は、そのような手合いを金や肩書きで懐柔するのではなく、色香でたらしこもうとするのでもなく、
「アンタ、さっき自分を『強い』と言ってたね。
あれは、アンタをそんなふうにしたカルロスから……いまの、お強いアンタを作り上げた『始まり』から逃げた自分を知ってて言えたことなのかい?」
先刻、彼女自身に振るわれた力でもって屈服させようとしていた。
言葉尻をとらえた挑発は、いちどマリリンに膝をつかせた青年だからこそ受け流せない。
「こうして俺にカルロスを殺させるか。黒手会とやらの邪魔者を消すために」
「もっちろん」にぃ、と笑って、彼女は天に向けた右手の平を灰児に伸ばす。「ここまで言われて逃げ出すんなら――アンタはただの臆病者だぁ」
ふわりと雨へ溶けゆく語尾が、微笑むくちびるをいろどった。
ひとたび拳をまじえた者どもと、自分が指摘し説明すべきことを先に言われてしまったエヌアインとの間に、汗ばんだ沈黙が落ちる。
「……クソが。それが貴様の手管か」
数瞬ののち、息を吐くような言葉が沈黙を破った。
自身の始まりから逃げてきたという灰児が、ふたたび両腕を上げる。左頬の稜線に沿って刻まれた傷跡。戦って血が通うにつれ生白い色から赤味を増した過去が、ファイティングポーズに隠された。
始まり。自身のその手で触れられず、語れもしないほどに距離の取れぬものと戦うように。
「そのとおり。親殺しで娼婦あがりの小悪党にはお似合いで――」
自身の始まりを開き直って認めたマリリンが、全身から力を抜いた。
ときに鞭を思わせてしなり、ときに風車のごとく切れ味を増す手刀のいずれが放たれるか。体幹こそ揺るがないが、縦横に体を揺らす曲線的な構えからは使い手の意図が読み取れない。
「もう一度だ……エヌアイン、お前は水を差すんじゃねぇぞ」
その彼女へ灰児が無造作に近づき、飛び込んで一気に距離を詰めた瞬間、
「――こんなところで終わりゃしない力だよッ!」
マリリンは、地を這う蛇を思わせる構えをとって相手の懐に入った。顎を突き上げるはずであった青年の拳を低い姿勢で避けると同時、総身にめぐる気血を込めて伸ばした腕の、手刀を相手の腹に突き込む。
そうしてひとたび敵手に触れれば、幻惑的な多段連係が、かれを捉えて離さない。
一撃こそ軽いものの、確実に積み重なる衝撃。胃を揺らしにかかる四本貫手。肺腑を突きあげて吸気を押し出す掌打に、体ごと腕を回転させ、崩れかけた姿勢を上から押さえつけにいく手刀――。
劈掛掌をベースにした多彩な技と構えを呼吸をするように組み合わせ、ひとつの種類や部位への打撃に慣れるいとまも与えずに敵の思考を狩りとって殺す。それこそが、職業兇手としてあったマリリンが技の精髄であった。
これほどに連撃で押しまくるのは、先の交錯で灰児がタフネスに秀でていると確信したためもあるのだろう。
掌底で吹き飛ばしてすぐに追撃を入れるといった無理をとおしてさえも、黒社会の大当家は攻勢の維持を選んでいた。圧倒的との形容が至当な連撃で灰児の動きを固め、その場に縫い止めつづける。
相手が普通の人間であったのなら、戦いの趨勢など、とうに決していた激しさで。
「効かねえ……ッ」
軋る奥歯と止まぬ煉鎖の隙間から、痛みを知らぬ青年は決然と声を発した。
彼は、マリリンの打撃すべてをいなしていたわけではない。その証拠に、呼吸はいつ息を吐いているのか――すなわち、いつ筋肉が弛緩しているのかがうかがえるほどに乱れている。
灰児が大きく体をひねったのは、何度目かの攻勢を凌ぎ切った、そのときだった。
「いけない、灰児――マリリンっ!」
「受けるか! このブローをぉお!」
手加減はできないと言い切っていた青年の、右拳が振り下ろされる。
マリリンが繰り出す攻撃の複数段に相当することがひと目で分かる一撃は、上海一の打派とされていた大魏の放つ突進に似て非なるものだ。あの職業兇手のわざが面制圧に秀でるなら、灰児のそれは突破力に優れている。
溜め込んだ力の、雪崩落ちるように襲い来る技には、なまなかな攻防は意味をなさない。
鉄槌のごとく迫る拳を前にして、マリリンは吸気をするどく肺に送り込んだ。
引き締まった表情のなかで、薄い舌がひらめく。あだめいた赤が乾いた下唇をひとつ叩いた次の、ひと刹那。胸元に引き付けた腕が、練られた吸気によって緊張を保ったまま灰児の拳を受け止めた。
短く呼気を押し出し、鋭く次を吸い込むたびに相手の重心をずらしてさばき、いなして、
「もらったぁ!」
一発の拳にこめられた衝撃の、ゆうに十段を受けきった女性の腕がしなる。
腕全体を使う劈掛掌が間合の内側にあって、腕は胴体へ巻き込むようにして絞られた。
結果――殺人姫の掌底は、攻撃を出しきって重心を崩した灰児の脇の下へと叩き込まれる。
「ふーぅ……」
交錯を終えておおっぴらに吐かれた女性の息は、暗に決着を示すものだった。
厚みを増した雲の下では、霧のようであった雨がぱたぱたと音を立て始めている。
急所を打たれて、それでも平然と姿勢を整える灰児を、エヌアインは今度こそ止めた。
痛みを感じないのなら、神経の集中している場所を打たれても目立った悪影響が出るとは思えない。それでも打撲や骨折などは残る――本人が意識せずとも刻まれるのだと、この数ヶ月で理解している。
「あれが、アンタの攻性防禦か」
「そ。坊やが未来を読む? のと同じ。気を練るだとか力を溜める技はアタシにも縁が深いのさ」
いつか割り込んでくるって分かってても、怖いことは怖かったけどねぇ。
放り出していた扇を拾い上げたマリリンは、今まさに歩き出そうとする青年に目を向けた。八番目の狂犬は、胸奥でうずく古傷<トラウマ>の、膿が溜まって腫れ上がるさまを認めてサングラスをかけ直す。
「あれだけ怒れたなら、アンタ十分やれるよ。こっちの下心なんて関係なしに」
「好きに言ってろ」
「ただ、カルロスのところに向かうまでに、傷の様子くらいはみて欲しいな」
自分なりに納得できるかたちで、始まりの終わりを迎えるために。
旧人類への思いを語らずにすんだエヌアインもまた、胸の痛みを隠して苦笑する。
エヌアインらが完全者ミュカレの掌に招かれる、すこし前の出来事だった。
◆◆
「そっか。そういう、ひとだったんだ」
「うん。あの時、ボクは灰児の傍にいたけど、彼が声も出せないなんて」
ぼそぼそと言葉をつむぐエヌアインを見ようとして、少女は小さな唸り声をあげた。
「う〜。……安全そうっていうのは分かるけど、やっぱりやだよぉ」
「同感だよ。火葬場へ積極的に近づこうとする者はいないだろうけど……」
彼女のいた国には火葬の習慣もなかったのだったか。
ふっと脳裏に浮かびあがった考えを、少年は脳裏で打ち消す。
カティ。上海の貿易公司に勤める、ドイツ人の夫婦の娘。そんな話は聞いてみたが、旧人狩りによって埋葬する土地も足りなくなった現状では、各国の風習など気にしてはいられない。
それでも、膝を抱えていた少女を連れて焼場に入ってみれば――。
火葬を終えた直後だったのだろう、焼却炉から引き出された台座の上に焼けてなお人のかたちを保っている骨が、という光景を見せられては、たがいに平静を保ってなどいられなかった。
『この、ひとは……葬ってくれるひとがいたなら、まだ良かっただろうけど』
ミュカレちゃんは、もっといやな焼かれ方をしたのかな。
そんなふうにべそをかかれて、巧く慰められるほど、少年は成熟してはいなかった。
あるいは、自身の目的を見失いはしなかったというべきなのかもしれない。
……ミュカレ。
真理にたどりつき、転生の法を手にした完全者。
殺し合いの始まりを宣告された場で消されたカルロスが灰児の始まりであったのだとすれば、いちど倒してもなお、あの場で万能の玉座に座した彼女こそが、エヌアインの始まり――。
神の現実態、エネルゲイア・アインと称され、神たることを望まれた存在の立脚点であったのだ。
『――その。キミの体に、ミュカレが取り憑いていた時期があったんだね?』
『うん。そのとき、カティには分かったの。ミュカレちゃんはずっと、ひとりで寂しがってたって』
要領を得ない説明を思い返した少年は、肉体年齢にそぐわぬ疲労をおぼえた。
カティの話を聞いて、完全者を哀れに思わないでもなかったが、彼女の目論見を裏切った自身の決断を、ここに至って後悔するいわれもない。神。孤独の極地にあって、頂点にあるがゆえにいずれは他者に超えられ滅ぼされるものになど、数多の実験で兄弟を喪ってきたエヌアインがなりたいと思えるものではなかった。
痛みを知った表情で、身をちぢめる彼の傷は、しかしてまったく違う所で負ったものだ。
殺し合いの始まりを告げる場で、完全者が姿を顕した、あの瞬間。
壬生灰児は自身の目的であった男を目の前で奪われ、言葉を喪っていた。
エヌアインも、彼と同じだった。あの場所で、少年は一度達したはずの目的と、役目を果たした旧人類とともに暮らすにあたって隠し続けていた傷とを掘り起こされて、指の一本も動かせなかった。
たしかに、カルロスの命を奪った首輪は、あのとき自分たちの命をも握っていた。
『でも、そんなことは関係ない……』
唾を飲み込んだ、喉がくぐもった音を立てる。
……あのとき動けなかった時点で、自分は相手に呑まれた。
この手に渡されかけた、ノイラント――完全なる世界を拒絶し、先史文明に繋がる扉を閉ざしたはずの自分が、完全者の手からは逃れられなかった。その現実を受け入れてしまったのだ。
むろん、あの場で積極的な自殺をはかれるほど、集められた者は愚かではなかった。
愚かではないからこそ、この場に送られてしまった時点で、誰もが盤上の駒となってしまう。ミュカレの来歴を知ったならば、これからどう動いても彼女の予想を超えられなくなることにも考えが向かってしまうだろう。
死の力を乗り越えたという完全者は、ゆえにこそ自身の敗北……死をも受け入れられるがゆえに。
「エヌ、アインくん?」
「ん、ああ……」
不意に響いたカティの声に、エヌアインは生返事を返した。
気のはいらない自身の声音を耳にして、思った以上に衝撃を受けている事実に気がつく。
ここにいる彼女のような旧人類の生き残りと生きていくと決めて、歩けていたというのに――ぽっかりと胸に穴を開けているものに名をつけてしまってはもう、歩き出せなくなるようにも思えた。
「ほら。あれ、見て」
胸に吹き込む風から逃れるように、彼はカティの指がさすものに目をやる。
ひょっとしたら、と、言われるまでに確信した。焼場の前面に張られたガラス窓の向こうを歩いている青年。黒いサングラスとジャケットに、くすんだ砂色の髪が映える、
「灰児」
つぶやくがはやいか、エヌアインは立ち上がって彼の姿を追う。
傍に置いていた杖をつかんで彼に続いたカティは、心配そうに眉根を寄せる。
彼女の耳には、少年の声がひどくあどけない響きを残して届いたのだ。
◆◆
幸いにと言うべきかどうか。
壬生灰児は、常の居住まいを保ってこの場所にあった。
「皮肉だな。目的を達していようがいまいが、感じたことは同じか」
「じゃあ、どうしてキミは……あんなに迷いなく歩いていたんだ」
再会の言葉もそこそこにPDAを取り出して、エヌアインは地図を参照していく。
焼場。H-7の周辺で目立つランドマークは池と灯台。加えて氷川村という集落だった。
村の近くに診療所もあるという点をかんがみれば、自他の傷に疎い灰児が目指すのもうなずける。長期的な目的がなんであれ、自身のコンディションをベストに近づけることは肝要だ。
「質問をしておいて、地図と睨めっこか?」
「ご、ごめん。目標がないなら、動きようもなかったなと思ってさ」
「そういえば地図なんか見てなかったね。足長おじさんの杖があったから、なんだか安心してたや」
カティが両手で握っている杖の、眠たげな一つ目に視線をやって、灰児は嘆息した。
彼が歩き出す以前、夜の街で用心棒をしていたときなら、くだらんとでも続けていただろう。硬直するしかなかったあの瞬間とはちがって、少しは彼もくだけている――。
そうと感じたエヌアインの側も、行動方針を相手本人に訊けばいいということに思い至った。
「それで、灰児。キミは診療所でも目指すのかい?」
「ああ?」
だが、質問を受けた青年は、憤りもあらわに声を荒らげた。
「お前……『目標』ってのはそれでいいのか」
「だから、どこを目指すかっていうのがなければ、動きようもないじゃないか」
重ねて問いをかけられれば、サングラスの下からのぞく傷跡に赤味がさす。
それが怒りによるものだと気づいたときには、決定的な言葉が彼の口から放たれた。
「いまさら聞くまでもないだろうが。俺の行く先は、カルロスを殺しやがったあのガキだ」
「……だめ。それ、だめっ」
エヌアインが何か言うまでに、カティが弾かれたように首を振る。
「ミュカレちゃんは許されないことをしてるって、分かるよ。でも……でもその前に、カティとミュカレちゃんを会わせて」
ミュカレちゃんは、ずっと寂しがってたから。
あまりにも情緒的な言葉を耳にした灰児は、拳を振り下ろす場所のなさに唸った。
「ガキが……。俺の邪魔をするなら、手加減はできねぇぞ」
「カティだって、そんなことなんかできない! だって、さっきエヌアインくんの話を聞いて、あなたのことも知りたいって思えたもの」
「互いに理解して仲良しに、ということか?」
「ちがう! 自分の思ったことに納得できなきゃ、ここから一歩も進めないよッ!」
マントを握り込んだ、その手で胸を押さえながら、少女は奥歯を噛み締める。
「あなたがカルロスっていう目的を奪われたみたいに、カティだって自分のやりたかったことに向き合えてないの。それを、そのままにして……『ここ』を空っぽにしたまま、生きたいなんて思えない」
一語一語を食い締めるようにつむがれた言葉は、ひどく青いものだった。
兇眼の杖、モルゲンシュテルン。瀕死の淵にあったカティを救ったという得物が自身の手に渡っていることが完全者の心遣いであるなどと、この少女は欠片も考えない。
「カティは――ミュカレちゃんと、ちゃんとお話するの」
かりに考えていたとしても、それを認めることだけはしなかった。
自分自身の限界はもとより、ものごとをいなすことや曖昧にしておくことにも慣れていない少女の言い分を聞いて、灰児は『処置なし』とでも言いたげにかぶりを振る。
鼻にかかった笑い声に、しかして彼女をあざける色だけはない。
「……エヌアイン。お前はどうする」
「ボク、は――」
水を向けられた少年の声にあるのは、かすかなふるえであった。
ふるえがくるほどに、彼は、目の前にいるふたりに圧倒されていた。迷っていようといまいと、目指すところを明確に想像できる者たちに畏怖すらおぼえた。
ひるがえってエヌアインは、ここで、自分のいかな到達点も描くことがかなわない。
「ボクは一度……完全者を、倒したよ。
人類の飛躍なんか望まないボクを器に選んで、人類だって望んでいなかったろう救済を目的にして、『完全なる神々の世界』とやらを目指したアイツのことを」
だが、もう、ここに立つエヌアインは知ってしまっている。
完全者を殺しても、彼女の魂があるかぎり、同じようなことは何度でも繰り返されると。
完全者を殺さなくとも同じだ。彼女の掲げるプネウマ計画が復活したならば、自分はまた孤独の淵に立たされるか、役立たずの烙印を押されて処分にかかられることだろう。
そこで旧人類の味方をすれば、役目を終えた彼らに取って代わる新人類を導くために生み出された、エヌアイン自身の素性も明かされてしまうのかもしれない。
背負うべきものの量が、隠すことの重みが、うつむいた頬に陰をおとしていく。
抱えきれない荷は、重苦しい沈黙を呼び込み――濃密な無音に、真っ先に堪えられなくなった少年こそが、荷を問いと変えて他の者へ投げかけた。
「どうして……キミたちは、勝ち目のないことに立ち向かっていけるんだ」
語尾を上げることもかなわないほどに、想像しうる『終わり』は重かった。
旧人類との間に生まれる溝を恐れて、明確な『始まり』を口にすることのできない少年の顔は、カティのいう空っぽに満ちていた。空っぽという言葉が、自身の胸中にある何を例え得るものであるのか。そこに気づいた彼は、もはやふるえることも出来ない。
莫迦げたことを終わらせようとして、一度は本当に終わらせ得た少年は、だからこそ虚しさにとらわれている。
さながら神の定めを反故にした罰として、果てない徒労を与えられた者のように。
「――痛ぇか」
ささやくような声音に、少年が顔を上げれば、灰児が彼を見据えていた。
黒いサングラスをかけ直す、青年の双眸には哀れみというべき光があるようにも見えた。
「あ、灰児さん……」
どう声をかけたものか、迷っていたのだろう。
自分と灰児の間に立ったカティの視線は、きょときょとと落ち着かない。
「そう、だ。うん。きっと、『ここ』が――痛いんだと思う」
空っぽであると分かった胸を押さえてみれば、革の擦れる音が響く。
カティも灰児も、自分さえも得をしないと知れている答えを返せば、青年が鼻筋を押さえてきびすを返した。
「ふん」と「うん」の間で響いた吐息が、ジャケットに包まれた背中越しに伝わる。
「羨ましいぜ」
エヌアインにしてみれば、あれほどの経験をしても先に進める彼らが羨ましかった。
【H-07 西部/午前】
【エヌアイン@エヌアイン完全世界】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、不明支給品1〜3
[思考・状況]:――――
【カティ@エヌアイン完全世界】
[状態]:健康
[装備]:モルゲンシュテルン@エヌアイン完全世界
[道具]:基本支給品、不明支給品0〜2
[思考・状況]:ミュカレにもう一度会いに行く
【壬生灰児@堕落天使】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、不明支給品1〜3
[思考・状況]:完全者を殺す。立ちはだかる障害は潰す
[備考]:攻性防禦@エヌアイン完全世界の知識があります。
【モルゲンシュテルン@エヌアイン完全世界】
ゲゼルシャフト基地に飾られていたモーニングスター。
ミュカレに憑依されていたカティ――瀕死の少女が命を繋げるよう、塞が呪いをかけて渡した。
その際、カティ自身が呪われることを防ぐため、コルナと呼ばれる魔除けのまじないも教えている。
カティが勝利時に行なっている、人差し指と小指を立てるしぐさがそれである。
(第六次電光大戦パンフレット・エヌアインQ&Aより)
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032:暗闇に咲く花 | 時系列順 | 022:ジャーマンルーレット・マイライフ |
006:さよなら、真実。こんにちは、真実。 | 投下順 | 008:ミッドナイト・シャッフル |
始動 | エヌアイン | 029:始まりの前、立つべき場所 |
カティ | ||
壬生灰児 |
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