68年として表象される大学と社会の変革をめざす早稲田での闘いに参加した学友たちに開かれたフォーラムです。半世紀を経た現在の時点から、あの闘争の事実と意味を各人の視点から自由に論じ、歴史の資料として残すことをめざします。

第1次原稿:ロシア語クラスの学友たち


K.T(1968年/第一文学部入学)

クラス新聞や文芸誌を発行し、春休みに「安保」で合宿
 都立志村高校を卒業し、二浪して1968年に早稲田の一文に入学した私は、教養課程の第二外国語でロシア語を学ぶIクラスに入った。
 53名が在籍していた同クラスで、ジャーナリスト志望だった私はさっそくクラス新聞『ガジェータ』(ロシア語で「新聞」の意)を発行した。後に、革マル派の言論弾圧に抗議し、「白紙」のトップ記事を掲載した『早稲田キャンパス新聞』の女性も手伝ってくれたが、政治的な記事がメインになると級友が白けてしまうので、普通の学生生活に焦点を当てて早稲田の志望動機や文学部の印象、出身校の様子などを掲載。担当教授もロシア語の学び方や大学近辺の旨い飯屋などの情報を寄せてくれた。
 この新聞にはどんな意見や主張も載せたし、女性の中には恋の歌を寄せた人もいたが、資金がなかったので大隈講堂裏の演劇サークルの部室を借り、ガリ版刷りで4号まで発行した。一方、同じクラスのK君とI君が『ピローグ』(ロシア語で「饅頭」の意)と名付けた文芸誌を発行。やはりガリ版刷りの同誌には、小説や詩などの創作や文芸評論などが掲載され、K君がゴーリキーの評論、I君がドストエフスキーと現代について本格的な文章を寄稿した。その頃、上野で「トルストイ展」が開催されたので観に行き、トルストイ愛蔵のロシア語聖書の欄外に赤や青の色鉛筆の書き込みがびっしりされていたことを覚えている。『ピローグ』は6号まで発行されたが、I君が露文専攻に進学してから『ヴォトカ』として復刊。その後、コンサイス露和・和露辞典の電子辞書化などに携わったI君は、ロシア文学界に大きな功績を残した。 
 もう一つのクラス活動は、早大グリークラブのI君が主宰した『ロシア民謡を原語で歌う会』で、彼の音楽的な才能と堪能なロシア語のおかげで成り立っていた。父親がロシア大使館に勤務し、オランダで生まれたI君は湘南高校合唱部の出身で、高校時代からロシア民謡を歌っていたという。私たちは彼が作ってくれたガリ版刷りのロシア民謡を歌い、楽しむことができた。
 また、政治関連の集まりとしては1969年3月、東大安田講堂陥落後の春休みに千葉県館山市の「海の家」を借り、「安保研究会」と称してクラスの学友10数名(女性2人)と2泊3日の合宿を行った。
 民青同盟の3人も参加したが、一人一人が自分と安保について発言。全共斗シンパの級友は南米の左翼ゲリラの活動に共鳴し、「彼らは自分の足で革命を起こすのだと信じ、寝る前はよく足を洗って大切にしている」という話をしてくれた。夜の浜辺で大いに酒を呑み、焚き火の火を見つめながら一緒に食事していろいろなことを話し合い、みんなで「安保反対」のデモもやった。全共斗のシンパがハンカチで覆面をし、浜辺で拾った風呂屋の洗面器をかぶって棒っ切れを持ち、スクラムを組んでデモをしたのである。
 しかし、その輪に入らない男もいて、私たちのデモを横目で見ながらハモニカを吹いていた。また、ある女性は男と一緒に姿を消して夜遅くに帰ってきた。私たちはそれを咎めなかったし、〃彼らには彼らの思いがあるんだろう。個人が責任を持てばいい〃と考え、別行動を大目に見る感覚があった。帰ってきた二人は「海岸沿いを散歩してきた」と言っていたが、私はそういう時にこそ「民主主義」が試されるのだと思う。
 合宿が終わりに近づいた頃、浜辺に砂山を作って先に登った奴が後から来る奴を蹴落とす遊びをした。その時、一番奮闘したのはグリークラブのI君で、終わってから焚き火を囲んで話し合ったら「俺は権力の本質が分かった! 砂山の頂上に立つと、そこをどきたくなくなるんだ」と言うのを聞き、「なるほど」とみんなで感心した思い出がある。
革マルや全共斗のシンパも一個人として
 1969年5月19日に開かれた一文の学生大会以降、民青やCC協のメンバーは、バリケードで封鎖された文学部キャンパスに入れなくなったので、蕎麦屋「篠原」の2階に日本近代史の鹿野政直先生をお招きして「自主ゼミ」を開いた。
 鹿野先生は、私たちのさまざまな質問にとても誠実に答えてくれたし、先生が来てくださったことで、「まだ大学とつながっているんだ」と感じたことを覚えている。その後、この自主ゼミはロシア語や担任の先生などを招いて4回ほど続けたが、夏休みに入ると「大学立法」反対闘争が激化。文部省(現・文科省)を包囲するデモを最大で1週間に11回行い、Iクラスのメンバーも参加した。しかし、バリ・スト中のキャンパスは危険なので近づけず、民青の「集中」は新宿の喫茶店で行うことになる。クラスで集まる機会は減ったが、10月末にバリ・ストが解除され、授業が再開されるとI君を中心に集まり、個人的に今やっていることや、今後やりたいことを話す『自由と充実の会』を新江戸川公園の松声閣で開いた。
 ある時は男だけの集まりで、誰かが〃ナンパしたい〃と言い出した時は〃そういうこともちゃんとやろう〃ということになり、みんなで吉祥寺へ繰り出してナンパの真似事をした。当時、ナタリー・ウッド主演の『草原の輝き』という映画があったが、今ふりかえれば、殺風景な文学部のキャンパスにもこんな青春があったのだと誇らしく思う。学生運動があろうがなかろうと、若者なら誰でも青春を生きなければならないし、異性への憧れや性の悩みもあって当然だと思うからだ。
 やがて2年から3年へ進級し、専攻課程に入る頃になると、どの先生について何を専攻するか、卒業後にどう生きていくかについて話し合うようになる。卒論のテーマをどうするか、自分は何を書けばいいかということも話しあったが、それをきちんと位置づけてくれたのはI君である。
 こうして一文を卒業した私たちの交流は現在も続いており、1980年代から毎年1回、クラス会を高田牧舎で開催。2013年頃から、毎年10月の「キャンパス・ホームカミングデイ」に露文専攻の有志も加えて集まっている。こうした交流が続いているのは当時、一緒に飯を食って喫茶店でダベリ、お互いの下宿や自宅に泊まっていろいろなことを話し合ったからではないか。私自身、革マル派の暴力支配で授業を受けられなかったのは苦しかったが、少なくとも私たちのクラスでは革マルや全共斗のシンパも一個人として、人間として話すことができたのは良かったと思っている。
革マル派の民主主義破壊から学友の権利を守る
 その後、文学部の大学院に進学した私は日本近代思想史を専攻し、1976(昭和51)年に修士課程を修了。勉強は結構大変だったが、文学部には院生の協議会があり、専攻の垣根を越えて仲が良かった。たとえば、考古学の院生が奈良の遺跡に発掘調査に行く時は、往復の交通費と食事代は支給されたが、それ以外は無償の労働奉仕が当たり前だった。それでも現地で学ぶことはとても多く、初めて古代の土器を掘り出した時は非常に感激した。
 だが、研究生活を続けるにはやはりお金と時間が必要だと分かり、都立高校の非常勤講師を経て、28歳の時に東京の或る大学の附属中・高校へ就職。以後、60歳の定年まで32年間同校に勤務し、最後の8年間は副校長を務めた。
 ロシア語クラスの友人たちの主な進路を列挙すると、早稲田の教授になったのが3人で、高校教諭が2人。スチュワーデス(現・キャビンアテンダント)になった女性が一人。革マルの専従を経て公務員となり、労働運動に参加した者が2名。その他、教科書会社やロシア語の専門書店に就職した友もおり、早稲田キャンパス新聞会の女性はジャーナリズム関係に就職。芥川龍之介の曾孫だった芥川喜好君は現在、読売新聞編集委員としてコラムを書いており、モダンバレエのダンサーになった男もいる。
 まさに多士済々で、アメリカ人のS・O君は日本に帰化して大学教授になった。合気道を極めた男もいるし、在学中からアマゾンに行くことを熱望していた男もいた。彼は〃お前にとっては学生運動が大事かもしれないが、俺はぜひともアマゾンに行きたい〃と言い続け、実際に出かけて一時、行方不明になったりした。
 私の4年間の学生生活を総体としてふりかえれば、あの頃のクラス活動は革マル派の民主主義破壊から学友の権利を守る闘いであり、日本共産党第10回大会の政治路線を級友や先生方に知らせることがメインだった。そのために革マルと正面から対峙して眼鏡を15回も壊され、そのたびに格安のレンズとフレームに取り替えたことを思い出す。
 あんな苛酷な状況下で果たして4年で卒業できるかと思ったが、私の母親の口癖は「嫌ならやるな。やるなら楽しくやれ」だったので、民青同盟の「拡大」も精いっぱい明るく楽しくやろうと努め、69年春には活動家をかなり増やすことができた。また、ロシア語クラスの討論を民主的に運営するため、議長は民青や革マル、全共斗のシンパがお互いを尊重して交替で務めた。当時の全学の状況を考えれば〃ありえない〃と思うかもしれないが、我がロシア語クラスではそうだった。アメリカ人のS・O君はユニークな考えの持ち主だったが、クラスの中ではその発言も認めたし、彼がアジ演説をやりにきた革マルの活動家に「授業を受けたいので帰ってくれ」と言い、取り囲まれた時はみんなで守ったものである。
 こうした動きは他にもあり、フランス語の1年Nクラスで自治委員の不正選挙が行われたことをきっかけとして、革マル執行部に再選挙の実施と開票時に立会人を置くことを要求する運動が拡大。C、E、F、Iの4クラスが加わり、「立会人要求協力会」(立協)を結成して署名活動を展開したため、革マルも公的には要求を認めざるをえなくなった。しかし、その裏での陰険な攻撃や暴力の激しさに直面した私には、再度浪人して他校を受験しようかという迷いが生じた。学生運動から離脱して違う世界を見てみたいという衝動も時々、湧き起こったが、それを否定してくれたのは同じ学部や学年の活動家であり、ロシア語クラスの友人たちであった(談)。

















以上

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