Nの記憶 
清 眞人
ぼくの出版した最初の哲学専門書はサルトルを論じた『〈受難した子供〉の眼差しとサルトル』である。1996年の暮れに御茶の水書房から出した。実はその前年ぼくは悪性リンパ腫瘍に罹っているいることが発覚し、ほぼ半年入院してその治療に専念していた。その入院の日々、ぼくは同書の第一次原稿の執筆に打ち込んでいたのだ。あたかも、そうすることが死に抗する唯一の自分の闘いであるかの如く。同書の裏表紙にぼくは秘かに「Nへ」と記した。「序」として書いた「第�吃堯）塾呂両啻�」はこのNへの追憶の章でもある。
Nが誰であるかを詳らかにすることはしない。当時彼と同じ学部にいたかつての仲間なら、また他学部であれNをよく知る者であったなら、Nが誰かはすぐにわかるであろう。この「早稲田の杜の記憶68」に、ぼくは敢えて右に言及した「第�吃堯）塾呂両啻�」のなかでNについて触れた部分を再録することをもって、あの我々の時代へぼくが寄せる追憶の文章とさせていただく。
その「序」は「Sの記憶」から始まる。そしてSからNへと引き渡される。その展開もそのまま再録させていただく。ただし途中のサルトルの思想を主題にした幾つかの章や節などは総て省略し、文章の構成をひたすらにNの記憶に絞り込んでゆく仕方で。
一 Ｓの記憶
あのときが最初だった。今から三十年ほど前、当時中学三年生であったぼくたちの教室でＳがもう一人の級友をこぶしで教室の床に打ちすえたときに、暴力という言葉がぼくのもとに〈他者〉としてやって来た。その事情については、かつてある文章のなかでこう書いたことがある。
それはぼくが中学三年の秋のことであった。
「喧嘩する時は」とＳが言いたし、そしてこう続けたことを今でも覚えている。
「先に気狂になるんだ。殺しちゃったっていいんだ、何をしても、何を使ってもいいんだ、と決めちゃうことなんだ」と。
Ｓは「まわされて」きた奴だった。夏休みがあけて数日たったある日、担任の教師が彼を伴って授業に現れ、転校生だと紹介した。彼がどんな転校生であるかということについて、ぼくたちは何も知らなかったが、しかしすぐ感じた。中学三年の秋にもなって転校してくるなどということがある違和感を与えたし、何よりも彼の高校生に見紛う身体からは暴力の匂いがした。事実、彼が来てから、それまでは腕力を誇り、羽振りをきかせていたはずの連中が奇妙に静かだったのだ。体育の授業に、彼はその年の夏にはやった白いラッパズボンをはいていた。それを見て若い体育教師は「お前、トレパンを持っていないのか」と言ったきりであった。確か絵の道具も持っていなかったはずだ。
彼は時々学校を休んだ。それから学校に来ないことのほうが多くなり、結局、卒業することはなかったのだ。予想通り――そのはずだ――卒業式に出るかわりに、カツアゲをやって、送られたからだ。
それでもクラスのなかではぼくは彼と口をきいたほうだった。たぶん木造アパートの彼の家に遊びにいったことのあるのもぼくぐらいのものだろう。女が男のペニスを太腿にはさんでいかせてやる方法があるということを知ったのは、彼からだ。喧嘩の必勝法は先に気狂いになることだと教えられたのも。
そして、彼はそのとおりのことをぼくに見せてもくれた。ある日、振り向くと彼ともう一人の級友が口論していた。フッと彼は息をつぎ、次の瞬間、彼は教室の璧にたてかけてあったモップをとって、やにわにカー杯横ざまにその級友を殴った。一挙に恐怖が教室を満たした。最初の一撃ではや抵抗不可能となった級友を、彼は次に確実にこぶしでうちすえていった。今でも覚えている。こぶしを固めた彼のそのひじは確実に肩の高さまでひきあげられ、全身のひねりとともにこぶしが級友の顔面に飛んでゆくのだが、その一撃一撃はゆったりと重々しいリズムによって調律されているのだ。
実際は打撃は数発のことであったと思う。相手は無力に打たれるがままだったからだ。しかし、何かそれは無限に続くように感じられた。おそらくそれは彼の打撃のフォームが完璧だったからだ。ためらいだとか懐疑だとか、およそ自壊を招くような欠陥、あるいは他がそこに介入しうるような隙間というものがそこにはなかった。一つの完結があり、また完結することによってしか停止しない何かがそこにはあった。現出したのは固い球状の空間であった。すべてを撥ねかえす、自己のうちに完璧な仕方で閉じた。
二 Ｎの記憶
Ｓは卒業式に来なかった。Ｓとはそれっきりであった。
高校時代、ぼくはＳのような人間とは出会わなかった。ぼくの高校は臆面もなくいえば超エリート校であった。ぼくは密かにＳのような人間について知っているのは自分だけだと考えて、どうみてもこの高校では落ちこぼれであった自分の劣等感の埋め合わせとした。お前たちは一つの世界にしか住んでないが、俺は、二つの世界とはいわないまでも、一つ半の世界に住んではいるのだ、と。
大学に入って、Ｎに出会った。Ｎこそぼくにとって再開されたＳの記憶の続きであった。
Ｓの場合のようにぼくがＮの暴力の現場に立ち会ったということはない。もっとも彼の暴力沙汰に関しては幾度となく聞いた。
ぼくが高校生となったのは東京オリンピックの年であった。いまにして思えば、たんにぼくが高校生であるがゆえに審美主義者風であったばかりでなく、その時代は、少なくともぼくたちにとっては、審美主義的反抗の潮に押し上げられつつあった時代であった。ぼくが卒業する前後、たとえば新宿の街頭には和製ヒッピーのスキャンダラスな群れが徘徊していたし、シュルレアリスムの宣言集や解説書がつぎつぎと翻訳され、実験演劇がその実践に熱中しだしていたのだ。
それは、別な言い方をすれば、青年に本質的なその小児願望が公然たる集団的表現を獲得しえた時代だったのだ。
いまではホコリをかぶった博物館ゆきの言葉だが、その言葉を使えば時代はまさに「左翼小児病」の時代であった。周知のとおり、この審美主義的反抗の潮はその胎内から次の瞬間には「自己否定」の標語に象徴された倫理主義的反抗の潮を生みだし、つねに両者は入り混じって反体制を呼号したが、どのみちそれは政治的存在を選び取った政治指導者の理解する「政治的闘争」の範躊外のものであった。
ただし、ぼくはここで、プロの政治指導者の観点からその反抗の小児性を云々しようというわけではない。まさにそれは小児的であったが、しかし政治指導者がついに理解できないことは、青年の反抗はおよそ小児的たらんとするその欲求から、いいかえれば、その審美主義的欲求から出発するのであって、それ以外ではありえないということなのだ。
それは政治的責任や有効性が問題として成立する以前の、いわば青年という存在の存在論的本質から由来することであって、その意味で青年の反抗の核にすわっているこの美的欲求と政治とはそもそも折り合いが悪いのだ。いやしくも自分を〈党〉として組織する政治的党派はそれゆえにけっして青年の反抗の出発点を支配することはできない。彼らが獲得しうるのは、審美主義的反抗が必然的に挫折した後に、いまやひとつの断念のうちにもなお反抗を継続しようとして、自分を政治的存在に変えることを敢えて引き受けた脱青年的青年か、はやばやと小児願望と縁を切った良心的ではあるが現実主義的な青年か、なのだ。つまりくりかえすなら、反抗の出発点はけっして支配できないのだ。
ぼくはいまでも当時のぼくの直観が正しかったと確信している。直観というのは、ぼくはあの頃の反抗的なぼくたちを「青年」として意識するよりは、むしろ「少年少女たち」として意識した、そのことを指してのことである。ぼくはその闘争を、挫折を運命づけられた一回かぎりの試み、自分のうちなる小児性を回復し解放し最後の試しにかけようとするよみがえった「少年少女たち」の最後の闘争として直観したのだ。
「国家」「権力」「革命」等々、それら左翼用語はいわば少年少女たちの最後の煌めくおもちゃなのだ。理論は実践の道具ではなく、むしろ想像力の道具であったわけだし、概念も論理もみな審美的な価値を帯電し、そのかぎりにおいてぼくたちを魅了した。
あの闘いが最後のぼくたちの「わんぱく戦争」であった理由を政治指導者はけっして理解できないであろう。彼らは、そういわれれば、彼らの闘争の深刻昧が汚され侮辱されたと感じるにちがいない。
だが、彼らは誤認しているのだ。闘争が遊びではありえないわけは彼らに教えられるまでもなくただちにぼくたちは悟ったわけであるし、だがその闘争が一回かぎりの少年少女たちの闘争として始まったという事情こそが闘争の価値を証だて永遠化するものであった。つまりその事情こそが、もしそれを生き抜くことに成功するならぼくたちに「二重存在」的な存在の形を、つまりこの世界に永遠に折り合わない部分を自分のなかに保持し続けながらこの世界のなかで生活する仕方を、ぼくたちに残してくれるはずのものだったのだ。
ご多分にもれずＮはこの闘争の渦中にあった。彼が後に我が身を振り返っておこなった自己規定でいえば、彼はこの少年少女たちの革命ごっこ遊びでの「トリックスター」であった。
彼はかなりの近眼であったが、眼鏡をかけることを嫌った。それで彼はよく眼を細め凝らすようにしてものを見たが、その彼の眼は時としてひどく澄んでいるように見えたし、また子犬が飼い主に甘えながらふざけ回るときの愛敬をいつも宿していた。そして彼は、あくの強い闘争的な性格をもつ年長者にことのほか可愛がられた。左翼であれ、右翼であれ、どの党派であれ、もし彼がそこへいく気になりさえすれば、たぶん彼はその親分連中の誰からも可愛がられただろう。
結局はごく短期間で終わるのをつねとしたが、しかし、その間彼は常軌を逸した行動力を示すことができた。三日三晩寝ずに過ごして、四日目はまる一日を泥のように眠るというタイプだった。彼は怯む人間に極度の軽蔑を示すことができた。論争はお手のものだった。独特の理屈で武装し、相手の急所を摑むとそこに感情の集中放火を浴びせることができた。
彼を自分の横に立たせておいて手下の前に出ると親分連中は愉快だったのだ。なぜなら、こんなに気狂いじみた人間を愛せるのは平凡で度胸のないお前たちと人間の出来がまるで違う、親分たる俺ぐらいのものであったはずだし、そして彼を手なずけることができたのもまた親分の俺ぐらいだからというわけであつた。彼は親分連中の「自己の内なる純粋さ」という自尊心を満足させる絶好の媒体であった。そして、たいてい闘争を好みまたその能力があったタフな親分連中、つまり、手下に犠牲を強いることを生業とする彼らほどこの「純粋」という補償的な価値が好きなのだ。
他方、こうした親分連中の懐に飛び込む彼の可愛らしさときたら無類のものであった。天性の徳としかいいようのないものだった。たぶんそれは、幼少期をとおして彼の唯一の友であった犬との長い親愛な暮らしが自然に彼に伝播させたものにちがいない、とぼくは思う。
事実、彼は異常なほど犬が好きだったのだ。いまでもあるようだが、当時新宿駅の西口から東口に通り抜けるガード下の地下歩道の入り口のそばに小さな犬の店があって、そのショーウィンドウのなかでいつも愛らしい売り物の子犬が五、六匹じゃれていたものだが、彼はそこを通りかかると必ず立ち止まったまま動かなくなった。飽かず彼は子犬を眺めた。
自分と犬しかいないかのようにショーウィンドウの正面に立ちっくしている、その彼の様子はいつも通行人の笑いを誘った。「またＮの犬だ」とぼくたちは舌打ちし肩をすくめ、「先に行ってるからな」と彼に嘲罵の声を投げつけて彼を置き去りにした。
彼が後に自殺を試みたとき、彼はまず自宅の風呂場で飼い犬の頭にビニール袋をかぶせ、そこにガス管を引き込んでこの犬を殺した。彼はこけおどしの自殺に失敗し、犬だけが殺された。自分の子供じみたナルシシズムが犬をだしに使ったことを、彼はほんとうに恥じ悔やんだだろうか。彼が後にそう語っていたと、ぼくはひとづてに聞いたが。
彼の異常な犬好きは彼の幼年期の原風景から由来するものであった。ぼくは後でそれについて語るだろう。あの親父がスキ焼きにして食ってしまった樺太犬のぺ口の話を。
彼は確かに学生ではあったが、大部分の学生がそうであったいわゆる健全なる「中流家庭」の出身者ではなかった。彼の背後には零落と貧困が結びつき、貧困と犯罪が結びつき、死の欲望と復讐の渇望が結びつく、膨大な荒廃の記憶が控えていた。
彼の父親は北海道の炭坑夫であったと聞く。父の親類筋はみな日本人とは思えぬ大男でたぶん朝鮮人ではなかったのかと、後にＮは自分の記憶をたどりながら語った。この父はＮを可愛がったそうだが、彼が四、五歳のころ女をつくって家を出てしまい、最後は山谷で窮死したと聞いた。
Ｎのすぐ上の兄はまだ小学生のころ、この父の死を聞き、ひとり北海道から山谷に出向き、すげなく女から追い返された後、屈辱と怒りのあまり帰りの列車で飛び降りて死のうと思ったと、あるときぼくに話してくれたことがある。このすぐ上の兄は中学生のころ少年鑑別所に送られた経験をもつ。Ｎにはもう一人兄がいて、この長兄のほうは青森の高校時代優秀な成績をおさめたがんばり屋だったが、大学への進学を果たす経済的な余裕はその当時の彼らにはなかった。
彼らの昔話を聞くと、いくつもの挫折の道標によって標された、青森や北海道の荒涼とした風景の真ん中を切り裂いて長く伸びている道が思い浮かぶ。長兄はぼくによくこういった。「俺らはみな短腹なもんな、それが俺らの宿命だな」と。
三人の男兄弟の末っ子がＮであった。父の出奔の後、母親がこの三人を女手ひとつで育てることになったわけだが、母親は樺太の女学校を出た引揚者で、信じられないほどに気丈な人たった。読書が好きで、頭がものすごく切れた。議論になればけっして負けることのない人だった。彼女が一歩も引かぬ勢いで理屈を言いつのりだすなら、誰もが言い争う気をなくしたはずだ。旅館の女中をはじめいろいろな仕事に出て子供を育てたわけだが、青森の小さな金融機関の社長に能力を買われて女で支店の経営を任されるまでになった。しかし、この地位も後に彼女は長兄のある不始末に関連して放り出すことになった。とはいえ、たぶん、その頃この一家にも少しのゆとりが生まれ、そして上の兄二人はもう仕事について曲がりなりにも独り立ちしていたから、Ｎが大学に行ける余裕も生まれたにちがいない。彼らは北海道を転々とした後、青森へ出て、そこに居を構えた。
ぼくがＮを知ったのは青森の男としてである。もっとも彼はぼくの前では青森の言葉を話さなかった。青森の言葉は彼にとっても他所の言葉であった。三人の男兄弟は学校から帰るとひとつ部屋に集まって互いに教えあい矯正しあって青森の言葉を練習したものだと、Ｎは語ったことがある。彼は、また彼ら一家は青森の地でようするに他所者であり流れ者であった。そして、他所者であることはいわば彼の本質をなしていた。
もう正確な数は思い出せないが、Ｎが小学生時代に経験した転校は確か二十数回に及ぶと聞いた。
彼は一年長く高校をやっている。彼は高校時代の仲の良い友達で精神病院に入った友達のことをおもしろおかしく語ることがあった。その友達から聞いた精神病院の内部の様子などを子細に、そして実にユーモラスに語った。残念なことにぼくはその具体的な内容をもう思い出せない。いつものＮのバカ話として聞き流していたからだ。後で、知った。Ｎ自身がノイローゼが昂じてその精神病院に一年ばかり入っていたのだ。
「お前、ひとさまから気狂いと思われては困るからと、お袋はこのことは口外するなというんだが」と彼はいたずらっぼく笑ってそれをぼくに打ち明けた。
三 祝祭的な記憶
まわりではＮは暴力的な男として有名であった。「けだものＮ」と呼ぶ人間もいた。親愛の情を込めての人間も、嫌悪を剥き出しての人間も、両方いたが。
しかし、彼とぼくとのつきあいにおいては暴力的な姿をさらけだしたＮに出会う機会はお互いに慎重に回避されていた。彼はつねづねぼくに自分は暴力を見ると吐き気がするといった。それは嘘ではなかったと、いまもぼくは思う。彼が暴力の狂気にとらわれることが度々あったことと同様に、それは真実であったと思う。吐き気がするのは、彼が暴力とは狂気だということを身に沁みて知っていたからにちがいない。
しかしくりかえしていうが、ぼくはその狂気に憑かれた彼の姿を直に見たことは一度もなかった。彼が、それまで幾度となく暴力を振るった学生結婚以来の妻に終に三下り半を突きつけられ、追いつめられた果てに、それまで自分たちの家庭を構えていた妻の母の持ち家に石油をぶちまけて火を放った事件も、もちろんぼくは目撃することはなかった。
暴力の記憶の代わりにあったものは祝祭の記憶である。
ぼくにとってのＮの記憶は世界の祝祭的変貌の記憶と結びついている。彼といると世界は祝祭的な興奮に高揚した。たとえ、それが薄汚い安酒場の片隅に潜り込んでなされる世間知らずの学生の秘密めかした小さな議論からであっても。そのとき、世界は非現実的な、すべてを自乗化する、神話的な光に隈取られた。
「気狂い」という言葉こそ彼における最大の賛辞だった。情念においてであれ、行動においてであれ、暮らしぶり、趣味、金遣い、なんであれ、常軌を逸していることこそ彼にとっての美徳だった。なんであれ、「彼奴は気狂いだ」と彼に呼ばせうる何かをもっている人間が問題とするに足る人間であった。実際、彼は「気狂い」じみたたっぷりのエピソードを抱え込んでいた。話を聞けば、彼の親父もお袋も、彼の二人の兄たちも、彼の高校時代の友達も、彼の知りあったさまざまな年長者たちも、みな「気狂い」じみていた。
ぼくと彼が愛したのは、彼のペロの話たった。
彼がそれを夢見るように語り、ぼくはそれを聞くのを愛した。
稚内にいたころ、まだ彼の父親が家を出る前の話だ。
稚内の港に漁船がつくと、三人兄弟はぺロという名の樺太犬にミカン箱で作ったお手製のソリを引かせて、魚の荷揚げの際に船着き場にこぼれた魚を拾いに出かける。ミカン箱に魚を積み終え、帰りはいちばん小さなＮがソリの上に乗るのを許され、二人の兄が両脇につき添って、家にむかって雪に埋もれた稚内の街を一気に走る。
そのときどんなにペロが力強くソリを引いたか、雪空がどんなに重く街の上にたれこめ、人影のまばらな平たい白い街の通りがどれほど幼児には巨大に映ったか、その風景のなかでペロがいかに頼もしく感じられたか、そもそも樺太犬は犬族のなかでいかに卓越した種族であり、ペロはそのなかでもいかに群を抜いていたか、それらのことを飽かずＮはくりかえす。稚内の三兄弟はどんなに団結していたか、ペロがどのようにその三人の絆であったか。
ぼくはそれをうっとりとして聞く。
そして、ふとぼくは理解する。彼にとって犬はぺ口であるということを。彼の基準はべ口なのだ。どんなに犬を愛したとしても、彼はそこにぺ口の幻影を見、そして結局ぺ口の記憶でその犬を裁いてしまう。
だから、ほんとうは彼はもうけっして犬を愛さないのだ。なぜなら彼の犬にたいする異常な愛情はみな幻影としてのぺ口に捧げられたものだからだ。彼に愛された犬はきっと不幸だな、とぼくは思う。なぜなら、それは愛されていないということだから。そして、Ｎはこの愛において自分ひとり幻影のなかに居を構え、けっしてそこから出ていきはしないのだ。そうぼくは聞きながら密かに思う。
あるとき、そのペロが家から姿を消した。
探し回っても見つからない。ぺ口が姿を消した前日は久しぶりのスキ焼きだった。親戚の男たちも幾人か来て、犬肉は精がつくぞと飲めや歌えの大宴会となった。ぺ口が消えてから幾晩かたったある日の深夜、ふとＮが目を覚ましてふすま越しに聞こえてくる親父とお袋の話し声をなんとはなしに聞いていると、お袋が親父に言う。
「なんてあんたはひどい人だ。あの子たちの犬を食ってしまうなんて。」
ここで、ぼくとＮは二人して畳をたたいて笑いころげる。
「じゃあ、なにかい。お前が食ったあのスキ焼きがぺ口だったってわけかい。」
すると、世界は一気に気狂いじみた祝祭の興奮に輝きだすのだ。
なんてひどい親だ、信じられない親だ、気狂いだ、正真正銘の。そんな話、聞いたことも見たこともない。そうぼくたちはお互いに喚きあいながら、世界が祝祭の高揚に包まれてゆくことにうっとりとする。
そうであってこそ、世界は生きるに値する、なあＮ、そう幸福なぼくはいつも彼にむかって叫んだ。口シアの民謡の一節にあるように、ぼくは酒をあおりながら彼に叫ぶ。もう一度、あの話を、なあＮ、もう一度、あの話を。
ぼくにとってＮは「暴力的なＮ」ではなく、「祝祭の男Ｎ」であっだ。
だが、その二つのことが一つのことだということこそが、ここでぼくがＮを回想する当の理由なのだ。
四 重犯罪のコスモロジー
ぼくとＮとのあいだでは暴力の現場は慎重に回避されていた。たぶん、ぼくたちはお互いに相手を失うことを恐れていたからだろう。
ＮのなかのＳをぼくがはっきりと自覚したのは、離婚沙汰の果てに彼が引き起こしたあの放火事件の数か月前であったと思う。ただし、それはごく間接的な仕方でであった。何度もいうように、ぼくたちのあいたでは暴力の現場は慎重に回避されていたのだ。
当時、緒形拳が主演してその演技が評判となった『復讐するは我にあり』という映画が封切られていた。Ｎはそれを見に出かけ、興奮して帰ってきた。緒形の演技を絶賛した。いや、彼の演技を絶賛したというよりは、Ｎはその映画の主人公に文字通りの感情移入を遂げたのだ。あの狂気こそ本物だ、というわけだった。彼のいつもの「気狂い」の最近の極致をそこに見たというのだ。
他方、ぼくにとってこの映画は嫌悪以外のなにものでもなかった。映画の出来を云々しているのではない。ぼくもまたナイーヴにもスクリーンの主人公に感情移入した上で、全面的に拒絶したのだ。紛れもなく、そこには犯罪者の心理が完璧なまでに描写されていた。絶対的な自己正当化、たえまない容赦のない他者への糾弾、寸分の隙間もない主観性の極致、つまりＳの宇宙が。Ｎは全面的にそれに共感し、ぼくは全面的にそれを嫌悪した。
しかし、ぼくはそのことをＮに打ち明けなかった。ぼくはあの映画を見たことも彼には言わなかったはずだ。ぼくはＮの興奮をやり過ごした。
後にサルトルを読んだとき、ぼくはそこにＳを直接見いたしたばかりか、Ｎもまた見いだした。放火についてサルトルはこう書いていたのだ。そして、放火はＮが自分の人生を締めくくることになる最後の踏切となった事件であった。
「……それは、まさに、一つの対象を所有することがそもそも不可能であるということの認知であり、その結果、対自にとっては、いっそこの対象を破壊してしまいたいという激しい欲望が生じてくる。破壊するとは、私のうちに吸収することであり、破壊された対象の即自存在に対して、創作におけると同様、一つの深い関係を保つことである。私か農園に火をつけたとしよう。農園を焼く炎は、この農園と私自身との融合を、次第に実現してゆく。この農園は、消滅することによって、私へと変化する。突然、私は、創作の場合に見られる存在関係、しかも逆の存在関係を、発見する。私は、燃える穀物倉の根拠である。私は、この穀物倉の存在を破壊するがゆえに、この穀物倉である。破壊は創作よりもいっそうあざやかに我有化（appropriation）を実現する。」（『存在と無』）
妻の固い意志によって、もはや離婚が動かし難い自分たち家族の結論であることが明白となると、ある日Ｎは飼い犬を殺し妻と子を家の外に追い出したうえで、真っ昼間に家に火を放った。
なぜ,Ｎは家を焼いたのか? 家は妻の持ち家であった。では、それは妻への復讐であったのか? だが、復讐であるにしろ、それは、「妻の私有財産」を破壊し毀損するという目的をもってなされた復讐であったのか? それにしてもなぜ、それは放火であったのか? なぜ、家を焼きつくし完璧に消滅させることが目指されたのか?
殺人、強姦殺人、放火、これらの重犯罪はそれを遂行する犯罪者の情念の昂ぶりの異様さをただちにぼくたちに感触させ、ぼくたちを不安にさせる。不安にさせるのは、それが欲望とか快楽とかのぼくたち自身の生の内部に存在する問題の契機に触れていて、かつその欲望とか快楽がぼくたちの日常的な了解を超えるもの、あるいは侵犯するものとして立ち現れてくるからだ。
明敏なサルトルは指摘したことがある。それら重犯罪には「その行為自体のうちに生き残ることの拒否が存在する」と。なぜなら、殺人は被害者の死をもたらすばかりではなく、当の殺人者の人生白身に死刑ないしそれに匹敵する処罰を、社会からの取り戻し不可能な追放処置を導き入れるものだからだ。ようするに、彼は人生を棒にふってそれを為すのだ。
サルトルは問う。なぜ往々にして凶悪な強姦は殺人にまで至るのかと。それは常識が考えるように被害者の口を塞ぐためではない。そうしたいわば功利的な（それゆえ自分の未来を当てにした）理由からではなく、むしろ反対にそこで問題になっていることは、殺人によってその被害者にとってもまた自分にとってもまさに右に見た理由からもはや「未来というものがないであろうという確実さを引き入れる」ことで、その強姦を「絶対的な出来事として永遠化する」ことなのだ（『道徳論ノート』）。
もし、そうであれば、そこにはきわめて特殊な欲望ないしは快楽が宿っていることになる。ぼくたちの知らない、だが、もしかしたら、ぼくたち自身実は暗黙のうちに知っているそれが。不安はそこに萌す。
この観点からいえば、これらの重犯罪が重犯罪であるわけは、またそのようなものとして社会によって激しく忌避されねばならない理由は、その被害者の受ける損害の甚だしさが社会にとって許容の範囲をはるかに超えているといういわば「客観的」な理由からではなく、むしろ、そのような加害者における情念の異様な昂ぶりが通常の社会の了解なり許容の範囲を超えたある別な欲望なり快楽の存在を指し示し、そのことで社会を内面的に不安にさせ恐怖させるという「主観」的な理由からではないだろうか？（もっともこの二つの事柄はたいていの場合は表裏一体をなして切り離し難く結びついているから、それぞれが次元を異にした問題場面に配置されている事柄だということは気づかれないことのほうが多い。しかし、たとえば近親相姦的欲望や同性愛的な欲望にたいする社会的な忌避の激しさは、その欲望のもついわば「客観」的な実害性――それはほとんどないに等しいのだから――とは釣り合わない激しさをもっている。このことを顧みれば、ぼくたちは容易に二つの問題次元の相違に気づくことができるだろう。）
先の放火の欲望に関するサルトルの読解において指示されていたのは、放火はその放火者において放火という行為それ自身が意味するわけではない別な一つの欲望を指し示しているという問題、つまり、放火は、その別なある一つの欲望が自分を追求するうえでの大いなる「導体」としての意味を担わされているということであった。
その別な一つの欲望とは、自己を自己のもとに所有しようとする欲望である。
サルトルの解釈からすれば、あのときＮは家を焼くという「導体」をとおして自分を自分のもとに完璧に所有しようとしたのだ。犬をガスで殺すことによってと同様に。
言い方を加えれば、家はＮにとって、それがもはや所有できないものであることが明白となるならば焼かれなければならないものだったのである。犬が、殺されなければならないと同様に。なぜなら、その所有にこそ自分の世界が意味に満ち統一された一個の世界として確立していることの保証が、言い換えれば、自分がこの世に根を下ろした存在であることの保証が、かかっていたからだ。
家とともに、犬が殺害された。犬は、Ｎにとってつねにペロの象徴であったが、そのペロの記憶はＮにとって一つの世界観的な意義、コスモロジカルな意味をもっていた。家とともに犬が殺された事実は、Ｎのなかで放火がもった意味を傍証している。
ぼくはあのペロについて語る時の彼の様子を懐かしく思い出しながら、推測する。ぺ口は、幼年期の彼にとって世界のうちに彼を繋留する唯一の「導体」ではなかったのかと。ペロの存在だけが、かろうじて幼い彼に「信頼」という根本感情をこの世界に、したがって自分の存在するという事実にたいして抱くことを可能にしたのではなかったか。そして、およそ家を所有するなどということからは無縁であったはずの彼が、偶然にも妻の祖母が妻に持ち家を遺贈したことによって家を手にすることとなり、また、けっして妻とのあいだに子供を持つまいとしていた彼が、中絶をくりかえすことによって子供ができない身体になることを恐れた妻の懇請に負けて子供を持つことに決めるや、すぐさま犬を飼った。
Ｎもまた、ドストエフスキーの言う「偶然の子供」、〈受難した子供〉の一人であった。つまり、自分を余計者、存在の理由をもたない子供、デラシネ、ただこの世界から侮辱を受けるためだけに生まれてきた存在として感じることを、自分の自己感情と世界感情の根源にすえて人生を出発させねばならなかった人間の一人であった。
他人からは「けだものＮ」と呼ばれた彼だが、一見彼が見せる生のエネルギッシュな燃焼と充実の印象とは反対に、彼自身は自分の存在の根っこのところをはじめから浸している大きな欠如感、底が抜け落ちているような不安を生きていたはずだ。「気狂い」じみていることはそのデラシネ的不安と戦うために、彼の存在が必要としたことであった。
サルトルの言葉を使えば、彼は「存在欠如」を自分の特権的な――つまり問題のこの水準では〈幸福な子供〉であったぼくのような他の大部分の人間から彼を区別する――彼の存在様式としていたのだ。そして結論からいえば、彼はこの自分の運命的な状況を生きる二つの仕方のうちの一つ、その不毛な、彼にとっては実は破滅的であったほうに次第に傾斜し、そして、ますます傾斜し、遂に案の定の結末に導かれたのだ。
彼は家庭を持つべきではなかったのに、それを持とうとした。彼は自分の子供を持つべきではなかったのに、子供を持とうとした。彼は職業を持つべきではなかったのに、定職を欲した。彼は〈革命〉などという歴史を所有しようとする思い上がった傲慢な空想と縁を切るべきであったのに、遂にその観念世界から縁を切れなかった。彼は世界を所有し、そのことをとおして自分を所有しようと熱望し続けた。
彼は一個の自由な放浪者、永遠のはぐれ者、天性のブルースマン、あるいは「トリックスター」として無責任に、そして優しく孤独にこの世を漂えばよかったのに、この世に根を降ろそうと試みた。彼は、自己の存在の欠如性あるいは希薄性をいわば逆手にとって、それをくはぐれる自由〉として生きてしまう「負けるが勝ち」の戦略を選ぶ代わりに、〈存在〉に固執したのだ。「偶然の子供」のくせに、この世に根を降ろした〈幸福な子供〉の抱く価値基準に自分を服従させて、そこで自分もまた勝負しようとしたのだ。
自分の欠如を埋めることによって、自分に人並の存在の充実を与えることに必死となったのだ。
サルトルは先の放火に関する解釈と相呼応する文章を別な本のなかでこう書いていた。
「強迫的な形をとった欲望は出現するやいなや暴力となる。というのも、この目的の眼差しから見れば、世界全体は非本質的なものとなってしまっているのだから。他方では、絶対的なものとして掴まれた欲望の意味そのものがつぎの点に、すなわち、存在することの絶対的完成、いいかえれば、全体性が、欲望者と欲望しうるものとの合体がなされるや出現するということにあるのだから。そこには融合があり、〈存在〉の出現が非本質的なものの崩壊の上に生じる。当然ながら、欲望は身体から生まれ身体を通じて存在する。それは、欲望にその厚みを与える事実性である。しかしながら、欲望を抵抗しがたいものに変えるのは、欲望の底に横たわる絶対的なものへの希望（l’espoir d’absolu）である。この絶対的なものは個人自身の純粋な正当化であると同時に世界の意味である。この瞬間から、世界のあらゆる抵抗は空しくなる。あらゆる手段を使ってもと。力が奸まれる。というのも、力の使用は準・直接性の実現を可能にするのだから（『道徳論ノート』）
Ｎは、誤った選択の果てに、その選択の挫折が明白となるや、「絶対的なもの」への欲望に身投げしたのだ。そして、この欲望の成就は放火という導体を必要とした。
挫折の果てに生まれたこの「絶対的なもの」への欲望は、だからもはや挫折を欲しない。サルトルはたとえばこう書いている。
「暴力は挫折を受け入れない。そして、破壊のための破壊によって極限まで破壊を自己目的とするに至る。かくて暴力は死の瞑想である」。（同前）
あるいはこうも書いている。「事実、暴力の瞬間性とは、媒介としての世界を鎧化することによって私と私自身が一致することである」。（同前）
Ｎは家に火をかけ、逃亡し、友人の下宿でガス自殺を試み、失敗し、刑務所に入り、刑期をつとめて出所後、ほんの数年して死んだ。東京の路上の公衆電話ボックスのなかで死んでいた。心臓発作に襲われてのことであった。
彼の心臓はもともと奇形であった。三十まで生きるのは難しいとさえ子供の頃よりいわれていたという。すでに刑務所で一度発作を起こし、つぎの発作が来たときは生命は保証できないと警告されていた。しかし、彼は心臓手術をおこなわなかった。毎晩、明け方近くまで飲む、ただそのためだけに刑務所仲間のつてを渡り歩いていたという。
「生き残ることの拒否」を自分の心臓が最終的に実行することを、彼は生き残りつつ待っていたのだ。
以上
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