68年として表象される大学と社会の変革をめざす早稲田での闘いに参加した学友たちに開かれたフォーラムです。半世紀を経た現在の時点から、あの闘争の事実と意味を各人の視点から自由に論じ、歴史の資料として残すことをめざします。

★追悼/私の中の林太郎

    〜亡き友の残した言葉から〜
S・Ý(1972年/第一文学部卒)


 6年前の2013(平成25)年2月7日、第一文学部の卒業生で、早大民主化闘争のリーダーの一人だった林太郎が仙台の姉さんの家で亡くなった(享年65)。同年5月11日、早大文学部の生協食堂で彼を「偲ぶ会」が開かれて39名が参加。10名の霊前供養が寄せられたことは記憶に新しい。そして、それより10年前の2003(平成15)年6月11日、妻の則子さんも逝去(旧姓・小此鬼/享年53)。彼女の一周忌に当たる04年6月、同僚や恩師、友人たちの尽力によって追悼集『林則子さんの本」が刊行されている。
 学生時代から相思相愛の二人が結婚したのは1975(昭和50)年9月のことで、学友たちが企画した「祝う会」の会場に繰り返し流されたのは、当時のヒット曲だった上条恒彦の『旅立ちの歌』であり、「木枯らし紋次郎」の主題歌『誰かが風の中で』だった。則子さんの追悼集の年譜によれば、十和田湖畔の蔦温泉へ新婚旅行に出かけた二人は山中に散歩に出たまま酒盛りを始め、長時間戻らなかったので「心中」ではないかと心配した旅館の主人が探しに来たという。
 いかにも酒豪の二人らしいエピソードだが、私が一文を卒業したのは1972年3月なので、彼らの結婚前からということになるが、小金井の新居に近い吉祥寺駅周辺の居酒屋へ数年通い、休日の昼間から酒を酌み交わして延々としゃべり続けたことがある。何を話したのか、内容はほとんど覚えていないが、そんな日々が終わりに近づいたある日、当時「憂鬱教」の教祖と呼ばれていた作家・高橋和巳の小説世界にのめりこみ、憂鬱な〃青の城主〃を自認していた私に対し、〃それなら俺は赤(紅)の城主だ〃と言い放った彼の悪戯っ子のような笑顔を忘れない。
 東北人(岩手県八戸市出身)特有の大きな眼と太い眉、濃い髭が特長の風貌で、集会でハンドマイクを握らせたら、食いつかんばかりの勢いで激烈な「反・革マル」のアジ演説を展開した彼は、まことに目立つ存在だった。その反面、通い慣れた居酒屋では友人たちと呑むのが何より楽しいという風情でよく笑い、相好を崩していたと思う。
 現役で入学したものの、学生劇団と学生運動の「劇薬」に翻弄されて2年留年。なんとか卒業して民間企業に就職したものの転職を繰り返し、寄る辺のない寂しさと不安定な精神状態に置かれていた私が、たびたび彼ら夫婦の元へ通ったのはその笑顔のためであり、多様な個人の在り様を受け入れる彼らの人間的な幅に救われていたからだ。
 その頃を「赤本」で確認すると、1972年5月12日に早大社会科学部自治会を再建すべく、学生大会を準備中だった林(当時、全学連連絡会議書記長)は、突然襲ってきた革マルの暴力に命の危険を感じ、教室から約6m下のコンクリートの通路に飛び降りて負傷した。それは、頭部挫傷に加えて顔面・頸部・前胸部・右前腕・両膝関節部挫傷、左脛骨骨折、右足の関節挫傷という全治2カ月の重傷だった。事件後だと思うが、彼の下宿を訪ねると、すぐそばに〃影〃のように寄り添う則子さんがいて、〃ああ、これで二人の仲は決まったな〃と少々、ジェラシーに近いものを感じた思い出がある。
 卒業後は児童文学の優れた編集者として衆望を集め、三人の息子さんを立派に育てあげた則子さんのことは追悼集に詳述されているが、生前の彼女について林が一言、「何があってもめげない女性だ」と評していたことを伝えておきたい。一方で、則子さん自身は林の「深酒×喫煙」癖を「善導したい」と思っていたようである。

*


 75年に仏文科を卒業後、学習塾勤務を経て教育・教材関連の出版社に入社。関連会社の代表取締役まで務めた林の在学中の活躍と、その後の人生については「偲ぶ会」で配布された資料に詳しいので省かせていただく。実際のところ、私はそれから長く林夫妻に会う機会がなく、一度だけ転居先の清瀬のお宅を訪ねた程度である。
 しかし一点だけ、多くの友人が〃卒業後の彼はそうするだろう〃と思っていたことがある。それは、彼がいずれ私たちの世代を代表する作家としてデビューし、あの時代のことを中心に書き始めるのではないかという期待だった。在学中からバルザックやシェークスピア、ドストエフスキーなどの大作に親しみ、就職してからの酒席でも作家論や作品論を好んだという彼にはそう思わせる雰囲気が十分あったし、誰もがそう思っていたというのは言い過ぎだろうか。
 彼の文才の片鱗を感じさせるのは例の「赤本」の序文で、〃「革マル」がいくらその血染めの手から血痕をぬぐい去ろうとしても、それはもはや不可能だ。彼らは既にマクベスの道を歩んでいる。バーナムの森は必ずや動き出すであろう。〃という一節だ。彼自身、創作への意欲は十分あったはずだが、結果的に「小説を書かなかった文学者」(出版社の同僚、石見広志氏/「偲ぶ会」資料より)として生涯を綴じることになる。
 なぜ、彼が小説を書かなかったか、或いは書けなかったのか。大学を卒業後、彼の壮年期に会っていない私にそれを言う資格はないが、乏しい記憶の限りで言えば、〃俺は革マルを書けないから〃と、彼がつぶやくのを聞いたような気がする。もちろん、それは小説の形象として描けないという意味であり、学生時代からの愛読書でも推測できるように、おそらく「全体小説」の構想を固めていた彼にとって、重要な登場人物になるであろう「革マル」の活動家を一人の人間として、生きた形象として描けなければ自分の小説世界は成立しない。そういう忸怩たる思いが彼の胸の内を去来していたのではないだろうか。



 林についての私の記憶はここから彼の晩年に飛ぶ。
 卒業以来、実に何十年ぶりかで新宿の紀伊国屋前で落ち合い、地下の居酒屋で呑んだ日のことである。それは彼の死の4年ほど前になるが、いつものように何を話したのか、中身はほとんど覚えていない。しかし二人ともかなり酔い、少しだらけた空気が漂い始めた時、突然、彼が立ち上がって「俺は仲間を、、、同志を決して裏切らない!」と吠えるように言ったのだ。不意を突かれて唖然とした私を見ながら、紅潮した顔でこう宣言した彼の言葉には圧倒的な迫力があり、あたかも闘士のような凄みがあった。
 「同志」と言えば「カマラード」(フランス語orロシア語?)の訳語で、かつてのスペイン人民戦線の合言葉だった「奴らを通すな!」の「奴ら」(=ファシスト)の反対語だねと話した記憶がある。この「宣言」こそ彼の生涯を貫いたモラルであり、精神の軸だったことは疑う余地がないと思われる。
 話は変わるが、今回の参院選(2019年7月)の投票率は過去2番目に低く、有権者の過半数が棄権に回ったのは、安倍1強体制への「あきらめ」の表れかと報じられている。 それは支配層にとってまさに「思うツボ」の事態だが、唯一注目されたのは、全国32の一人区で野党統一候補が辛くも10勝したことと、4月の立ち上げから3カ月余で4億円の寄付(クラウド・ファウンディング)を集め、比例区を中心に10人の候補者を擁立した「れいわ新選組」である。自由党から分かれた俳優・山本太郎氏が率いる同党は、結果的に比例区で共産党の半分弱に当たる得票率を得て2議席を獲得。難病のALS患者と重度身体障害者を参議院に送り込むという前代未聞の快挙を成し遂げた。
 36歳で独身、〃歌うマッサージ師〃の私の息子が早い時期から同党の支持に回ったので注目していたが、その実態やいかにと思い、投票日直前に高田馬場駅頭で比例区の候補の街頭演説を聞いてみた。二人の子を育てるシングルマザーで、派遣先の企業から一方的な「雇い止め」通告を受けた中年の彼女は、街宣車の上で演説する立憲民主党の女性候補とは異なり、有権者と同じ平場でハンドマイクを握った。聴衆は小人数だったが、「毎日を必死に生きるワーキングプアーの一人として国会に乗り込み、自己責任を押し付ける今の政治をなんとしても変えたい。生きてきて良かったと思える日本を一緒につくりましょう」と訴えた。流暢ではないが、よく気持ちが伝わる訴えは他の野党の演説と比べれば見劣りがするが、応援に駆けつけた宇都宮健児氏(元、派遣村村長、日弁連会長)は、初めてワーキングプアーの「当事者」が立候補したことのリアリティに加え、「直接民主主義」にも似た手法を取り入れる同党の運営方式が共感を呼んでいると語った。
 なにしろ誕生したばかりの党なので、今後どう転ぶか分からないが、既に山本代表は次の衆院選を視野に入れており、立憲民主や共産党へのシンパシーも示している。過去の日本新党や希望の党などの右派ポピュリズム政党とは異なり、初めて左派のポピュリズム政党が登場してきたと感じるが、今後、「野党連合」にどういうスタンスを取っていくのか。来るべき歴史的な前進の良き「触媒」になればいいなと思っている。
 話は戻るが、林が大切にしていた「仲間、同志」という言葉で思うのは、今後、中間層の「上流」と「下流」への二極分化がますます激化する中で、私たちはどういう人々を「同志」と見なせばいいのかという問題である。今回初めて選挙へ行き、「れいわ新選組」に投票したという都内在住の会社員の女性(25歳)は次のようなコメントを寄せている。
 「SNSで見て、今までにない新しいことをしてくれそうだなと感じた。2年前に結婚式を挙げたが、夫婦別姓制度ができないのでまだ婚姻届を出していない。高校時代には、同姓同士で付き合っている友達も普通にいた。個々の生き方の選択肢がもっと増えて、みんながハッピーになれたらいいと思う。それが政治に望むことです」(朝日新聞より)。 振り返れば戦後70年余、時代の表層は確実に変化したが、旧態依然の官僚組織や営利最優先の大企業からの内圧と、厳しさを増す一方の国際的な政治・経済環境という外圧の狭間で、多くの人々の暮らしに深刻な軋みと歪みが生じている。その渦中で人々が政治に望むことも多様化し、かつて私たちが掲げた戦後民主主義と平和、人権の理念からはみ出るような事態も生じている。だが、私はいずれ遠からぬ日に、狭い意味の「党派性」にとらわれない人々の「同志」的な結集が日本を変えていくのではないかと夢想している。その背景には、まだ十分とは言えないまでも日本の中間層と民主主義の「成熟」があり、かつて〃戦後民主主義の申し子〃と言われた私たちの世代が捨て石となり、その基礎を築いてきたのだという自負もある。
 とはいうもののポピュリズムには常に二面性があり、両刃の剣であることを覚悟しなければならない。たとえば、私の好きな古典落語にこんな噺がある。〃江戸の華〃と称された大花火の夜、人波で混雑する両国橋の上で田舎侍と江戸っ子の桶職人の口論が始まる。周囲の群衆は当初、歯切れの良い江戸っ子の啖呵に拍手喝采して煽るが、我慢に耐えかねて激怒した田舎侍がギラリと抜刀。抜き打ちで彼の首を刎ねると、勢い良く中空に飛んだ首に向かって、群衆から一斉に「たまや〜、かぎや〜」という掛け声がかかった−−。
 その頃から「強きをくじき、弱きにつく」のではなく、「弱きをくじき、強きにつく」日本人の心性は今もほとんど変わっていないのではないか。たとえば、全国の学校で頻発する「いじめ自殺事件」の顛末が示しているように、事案の存在を隠蔽するだけでなく、発覚後はひたすら保身に回る管理者たちの姿ほど非教育的なものはないではないか。



 晩年の林に二度目に、そして最後に会ったのは、新宿で呑んだ2年後の2011(平成23)年2月である。妻の則子さんを亡くし、三人の息子さんも独立した後の東村山市の自宅でポツンと一人、私を迎えてくれた彼は少し寂しげな様子で、当時在籍していた日本平和委員会の「平和新聞」編集部の仕事をしており、「なかなか原稿が集まらない」とぼやいていた。その時は、私が持参した『黄昏のビギン』(ちあきなおみ)などを聞きながら寄せ鍋をつついただけに終わったが、年末に届いたメールに次のような一節があったので転載しておきたい。
 「余談ですが、この前『サラの鍵』という映画を見てきました。1942年のナチ占領下のパリで行われたユダヤ人狩りの実話を基にした悲劇です。対独協力したフランス・ヴィシー政権の歴史的犯罪を告発したものです。時間があるようでしたら是非、お薦めです。また来年、新年会でもやりましょう。では、良いお年を!」(12月27日)。
 事態が急変したのはその翌年で、彼が夏頃から舌がんで闘病中だという話を耳にし、お互いに還暦を過ぎた今だからこそ、いろいろなことが話せると思っていた矢先だったので、あわてて仙台の姉さんの家に電話をかけた。そして彼の声を聞いた瞬間、思わず「早い、早すぎる!」と口走ってしまった。今から思えば、闘病中の彼に酷い一言だったと反省しているが、少し躊躇してから「しゃーねえ(仕方がない」とつぶやいた彼の潔い言葉は今でも耳に残っている。林は今、八王子市の某寺の枝垂れ桜の下で眠っているが、目をつぶればいつも思い出すのはこんな光景だ。彼の故郷の八戸市内で挙行された結婚式に招かれた私は翌日、ウミネコの繁殖地として有名だった島へ彼らと連れ立って出掛けた。そして、そろそろ夕闇が迫る頃、二人は泳げない私を浜辺に残してぴったり寄り添い、油のようにたゆたう静かな沖合に向かってゆっくりと泳いで行った−−。
 さらば、友よ! 願わくばまた、大宇宙のどこかの浜辺で会おう。その時はやっぱり酒を酌み交わし、心ゆくまで3人で語り合おうではないか。いろいろなことをね。















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このページへのコメント

今日、たまたまこのブログを見つけ、林太郎さんと小此鬼則子さんがお亡くなりになっていることを知りました。
ご冥福をお祈りいたします。
林さんと小此鬼さんとは、早稲田に入学した1年生の時のクラスメートでした。
林さんはよくお酒を飲んでいて、文学者のような風貌がおありでした。
将来、政治の世界か文学の世界で大物になると思っていました。
小此鬼さんとはテニスサークルが一緒で、一度、吉祥寺のお家に泊めて頂いたことがあります。
いつも笑顔で、一本筋が通っていて、まさにクールビューティ、私の憧れでした。
2年になってからはお会いすることもなくなり、どうされているのか消息が途絶えてしまいました。
お二人のその後が少し分かり、懐かしく読みました。
ありがとうございました。

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Posted by 三橋 啓子 2019年11月21日(木) 10:00:45 返信

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