道を歩いていると、たくさんの人とすれ違う。
そこでの認識は「人だ」あるいは「人々だ」というものであり、そこに「個人」を意識することはほとんどない。
つまり、人という名の障害物、あるいは隣を通っていく「何か」でしかなく、「それ」を自分と同じ人間だと意識することはほとんどできない。
それは当たり前のことだろう。自分はその人の名前すら知らないのだから、本当にその人が血の通った、自分と同じ人間なのだと頭では理解していても、実感はない。口々にそれを人が「価値」だという、小説やドラマの登場人物への「感情移入」は、その人物の生き様を追体験できるからこそできることであり、いきなり道端でばったり出会った人に感情移入できてしまったら、それは超能力者のそれだとしか思えない。
ところが、ある時、名前も知らない人のことがわかる時がある。
それは人と人生が「交差」する一瞬だ。
たとえば、自分が何か物を落としたとする。
ある人はそれを無視するだろう。
またある人は、ちょっと目で追うだろう。
更にある人は、それを拾って手渡してくれるかもしれない。
更にまたある人は、それを拾って走り出す――つまり、盗んでしまうかもしれない。
いずれにせよ、ちょっとした事故が原因で、名前も知らない人の人生の一端を垣間見ることができる。
もちろん、それでその人の全てを知ることができる訳ではない。
落とし物を無視した人は、親が危篤で病院に急いでいる最中かもしれない。
目で追うだけだった人は、落としたあなた自身を見て、手渡すと何か厄介事に巻き込まれるかもしれないと判断したから、結局は無視したのかもしれない。たとえばあなたが短めのスカートをはいていて、傍で屈むことでその中を覗こうとする人間だと誤解されるかもしれないとか。
そして、手渡してくれた人が「いい人」かと言えば、必ずしもそうではなく、本当にただ気まぐれでそうしただけかもしれないし、あなたとお近づきになりたかったから、落とし物を利用したのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、それまでただの「物」だった人を、人として認識できるようになるきっかけにはなる。
拾わなかった人に対して「ちぇっ、不親切だな」と心の中で悪態をつけるのも、その人を人として見たからこそなのだから。
あとがき
元々は「色々な人がいる。自分と違う人を無理に理解しようとすることはないよ」的なことを書きたかったのに、なんだか逆のことを書いてる感。
947字。急きょ予定を変えて書いたため、短めです。後、地の文で「あなた」って書くと、すごくTCGっぽく感じません?
次の子鹿へ?
前の子鹿へ
日曜日の子鹿目次へ
コメントをかく