エステ家に関するメモ

Ippolito I

  • 生年月日:1479/3/20〜1520/9/3
  • 生まれ:フェラーラ

  • 金曜日にママが産気ついて、20日土曜日8時に生まれた。フェラーラ、デュカーレ宮殿で誕生
  • 死因は食べ物にあたったため。各文献により直接の死因となった食べ物は異なる(ロブスター、うなぎetc諸説あり)
    • フェラーラのNuovo城(城壁の外にくっついてあった城で、エステンセ城=Vecchio城に対してNuovoなんだそーな)にて、魚介類(ロブスターでもウナギでも)の食いすぎ・・・。

  • 1485年に、フェラーラ大聖堂にて、トンスラの儀式を受ける。
  • 6歳でハンガリーに行く。ハンガリー王マーチャーシュが崩御(1490年)するまでのほとんどの時間をハンガリーで過ごす。ハンガリー王はイッポを溺愛したらしい。
  • 1487年、エステルゴムの大司教に叙任される。ベアトリーチェ叔母さん、ありがとー。ちなみに聖職録は50,000デュカートの収入。
  • 15歳で枢機卿に任命される。フェラーラ公のリクエスト。
    • このときミラノ大司教に叙任される。ミラノの聖職録は5,000デュカート。
      • イル・モーロ不在のときは、摂政みたいなことをやっていたらしい。←1499年あたり。
      • 白い甲冑を注文したのもこのあたり。おとんに聖職者らしくしろと怒られたのもこのとき。
    • 枢機卿就任ぱーちーには出席できなかったらしい。
    • 1497年に250人の従者を従えてはじめてローマ入りし、1498年1月8日に改めて枢機卿の帽子をいただく。
  • 枢機卿になって、ローマでの生活に戸惑いを感じる。エルコレ1世に「イマイチ枢機卿の宮廷になじめません」と手紙に書き送っている。
  • エゲル、カプア、フェラーラ、モデナ、ミラノの聖職禄を持つ。エステルゴムは10年後にエゲルと交換したらしい。ザグレブ司教はガセなんだろうか・・・。←歴代ザグレブ司教の記録をチェックしたけれど、イッポの名前なしでした。
役職名  在職期間  
ポンポーサ修道院長  1485/12/12〜1492/5/1  
フェラーラ司教  1485/12/12〜1492/5/1  
エステルゴム大司教  1487/5/21〜1497/12/19  
ベネディクト修道院Saint Genes de Brixello院長  1492/5/2〜?  
助祭枢機卿  1493/9/20〜alla morte  
サンタ・ルチア・イン・シリーチェの枢機卿  1493/9/23〜alla morte
ミラノ大司教  1497/11/8〜1520/5/20  
エゲル大司教  1497/12/20〜alla morte 
サン・ピエトロ大聖堂主席司祭  1501/9〜alla morte→ルクレツィアが結婚の折に契約に入ってた。
カプア司教  1502/7/20〜alla morte
フェラーラ司教  1503/10/8〜alla morte
モデナ司教  1507〜alla morte  
ノナントーラ修道院長  1507〜alla morte
主席助祭枢機卿  1519/6〜?
ルクレツィアがフェラーラに嫁ぐ際にボローニャの大司教の地位もおとんが要求していて、
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレからその地位を奪ったと言うのは本当?
  • ハンガリー王の大蔵大臣を務めたり・・・。
  • 1503年の2度目のコンクラーヴェに参加。
    • コンクラーヴェ参加はこれ一回のみ。
  • 1500年の法王庁の税金レポートによると、イッポリートは5番目に裕福な枢機卿とのこと。
  • 1503年から1517年の間、アリオストを侍従として雇う。
    • メッセンジャーとしてこきを使ったらしい。
    • 『狂えるオルランド』の出版を援助したのも枢機卿。
    • アリオストの一番下の弟アレッサンドロは枢機卿の小姓として仕えた。
  • 1505年、エルコレ1世の死後、エルコレのお抱え建築家ビアッジオ・ロセッティのパトロンとなる。
  • 1513年、法王の怒りを回避するために、ハンガリーに行くが、2ヵ月後にレオ10世が即位し、帰ってくる。
  • 1517年9月、ハンガリー行きを決め、供にアリオスト兄弟(ルドヴィコとアレッサンドロ)とルドヴィコ・ダ・バーニョを選ぶも、ルドヴィコ・アリオストが健康上の理由と家庭の事情で辞退し、怒り狂ってクビにする。
    • 枢機卿の短気は有名だけれど、アリオストの断り方が悪かったらしいともっぱらの評判。
    • このハンガリー行では、猟犬やスタリオンのほか、レパードまで連れて行った・・・。エゲルで何したんだ? 
  • 数学と天文学に興味アリ。才能があったらしい。もしかして、1503年あたりにフェラーラでコペルニクスと会っていたりして? 
  • 詩嫌い。だからアリオストはパシリ? 
  • レオナルド・ダ・ヴィンチの友達にして擁護者。レオナルドからイッポにあてた手紙が残ってるみたいっす。どこにあるのかは要チェック。
  • 遺産200,000デュカートは、すべて兄の公爵に持っていかれる(笑)。
  • フェラーラにおけるルクちゃんのカウンセラー(笑)。
    • アルくんルクちゃんイッポと三位一体だったそうな・・・。
      • ルクレツィアは夜はアルフォンソと昼は枢機卿とずっと一緒に過ごした、と古文書(?)にある。
  • 1503年あたりに、いとこに当たるサンチャ・タラゴーナと火遊び。
  • 一時の愛人は、アンジェラ・ボルジア。
  • ダリダ・ダ・プーティとの間に庶子二人アリ。イッポリートとエリザベッタ。エリザベッタは、サッスーロの領主のジルベルト・ピオ(・デステ、在位期間1517〜1554)と結婚。
  • 美しすぎて、ユリウス二世に嫌味を言われたことがあるw→蓬髪で女っぽい仕草が癇に障ると言われているからトンスラなし?
  • 髪はきちんと手入れされ、ウェーブまでかかっていたらしい。
    • 美しい手の枢機卿。
    • 女にモテモテだったから、ユリウスは嫌味しか口から出てこなかったんだな。
  • 性格は結構粗暴だった。結構さくっと人殺したりしてた。
    • エステ家の暗黒事件にことごとくかかわっている(By中田大先生)といわれるマシノ・デル・フォルノは忠実な部下。
    • ユリウス2世からの特使を殴ったり、で公爵エルコレと大喧嘩したらしい・・・。→この時マントヴァに逃亡して、1週間後、フランチェスコ・ゴンザーガに仲裁に入ってパパと仲直り。(1504年)
  • [1505年の、有名すぎる事件はどうします→ドン・ジュリオの悲劇
    • 1505/11/1、ベルリグアルドでジュリオ襲撃
  • ミラノ大司教となった経緯は当時、イル・モーロがエルコレ1世の同盟を得たかったため。イッポリートはこの時、イル・モーロとともマクリミリアンに助力を求めるためにチロルに派遣される。
    • その後、エルコレがフランス側についたためイッポリートは呼び戻された。
  • マーチャーシュが死んでからイタリアへ戻った回数は。。。
    • 1493年9月20日の枢機卿に任命された時。
    • 3年後ハンガリーにペストが襲来して避難してきた時
    • 1498年1月8日に250人従えてローマ入場した時。→以後、1503年2月15日までローマ生活
  • 1516年4〜6月、ローマ滞在。6月7日にフェラーラ着。
  • イッポリートのフェラーラ司教の収入は2年間ルクレツィアに提供された。
  • フランス病歴があるっぽいw
  • 迷言集
    • (この髭でもって)僕の触覚にしてやるんだ、こうろぎに負けないように
      • 髭を生やしたことでイザベラにからかわれた時の返事
    • 神のご加護をにより、ヴェネツィア軍が壊滅しない夜は一夜としてないでしょう
      • ポー川でヴェネツィアに対峙していた頃、先走ってイザベラとアルフォンソ1世に送った手紙
  • 歌が上手かった。美しい声で有名だった。
  • レオナルド・ダ・ヴィンチと交流があった模様。
    • レオナルドが1510年過ぎに身内と財産争いがあった際に、イッポリートに仲裁を頼んでいる手紙が現存しているらしい。
    • 知り合ったのはミラノ時代と考えられている。
  • チェーザレ失脚の際に、ボルジアの子ども二人の保護者(ガーディアン)に任命されたり、ボルジア家の財宝はイッポリートの名前でフェラーラに送られたりした。
  • 1511年に願掛けで部下を含んで髭を剃らなかったらフランス王に不評で剃るように言われたらしい。

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