エステ家に関するメモ

Ercole II


  • 生年月日:1508/4/4〜1559/10/3
  • 生まれ:フェラーラ


  • ゴッドファーザーはレオ10世。
  • 1509年の春から夏にかけて病気。
  • 弟のイッポリートとは大の仲良し。よきライバルだったとか・・・。
  • 幼少のころの世話係、ベアトリーチェ・ディ・コントラリは、理由もなくいきなりルクレツィアからクビを申し渡されたり。
  • 10歳で水疱瘡。
  • 1522年9月に、法王ハドリアヌス6世の下に送られる。エネア・ピオ、マッテオ・カセッラらが従者。
    • エルコレの侍従アゴスティーノ・モストも付いていった。
    • これが初公務
    • ハドリアヌス6世のオマージュを捧げ、かつラテン語で破門の解除を申し出ている。若干14歳で、演説したらしい。←これがきっかけで、雄弁家として有名になった。
    • 結局翌年の12月までローマに滞在する。
  • 初めての子供(庶出の女子)につけた名前は、ルクレツィア。嫡出の女の子につけた名前もルクレツィア。おかーさまをとても敬愛していたらしい。
    • そして、父の愛人ラウラ・ディアンティは敵? 
    • 1524年に庶子ルクレツィア誕生。お相手は誰ですかーーー→ディアナ・トロッティ。フェラーラの貴族の娘。ルネと結婚する前までに2人の子供をもうけている。美人だったらしい。
  • 1525年1月に初陣(パヴィアのカステル・サンタンジェロの戦い)するも。捕虜→身代金を払って釈放。→http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Pavia
    • 2月5日には再びポー川を横断していたらしい。
    • 同年9-11月の間、不在のアルフォンソに変わって政務を代行していた。→おとん何処行った?→うろ覚えだけれど、ミラノだったような気がしなくもないデス。

  • 1528年6月28日にルイ7世の娘ルネ・ド・フランスとパリで結婚。
    • 1527年11月15日結婚が正式に決まる。
    • 1528年4月3日に、パリに向けて旅立つ。途中フェラーラ⇔ピエモンテ間にスペイン軍が駐在して通せんぼをしているため、モデナ→ジェノヴァ経由でパリ着5月20日。
    • 初顔合わせで卒倒!?(5月23日) 
    • 顔合わせのあとにアルフォンソに宛てて書いた手紙のなかに、「僕の妻は美しくないです(non e bella)」としっかりと記している。そーとー根に持ってんのか?
    • 9月20日にフェラーラに向けてパリを発つ。リヨン→トリノ→パルマ→レッジョ→モデナ→フェラーラ@11月中旬に到着。
    • 11月12日モデナ到着。17日にパーティー開催。
    • 29日にモデナ発→フェラーラ12/1到着。
    • その後、パーティーが1529年1月24日まで続いた。
    • 1529年5月20日に、イッポリート2世主催新郎新婦に捧げるの晩餐会@ベルフィオーレが催される。
  • 子供のときは、コルテ・ヴェッキアの、広場に面した小さな部屋(複数形)を割り当てられていた。
    • ヒミツの非常通路を使って、弟イッポリートの部屋と行き来ができるようになっていた。
  • おとんの方針で、質素な生活、厳格な教育が施された。
  • ママに似て美しく、パパに似て聡明(?)だった。大伯父さんリオネッロのような詩人であり、すばらしい音楽家でもあり、騎士としての資質も十二分にあったそうな。ちゅーか、アナタのお父さんのおかげで、時代はすでに大砲だったような気もするんですが…。
    • アリオストは当時の王子さま公子さまの中で、エルコレを一番高く評価した。
    • エルコレがアリオストに再び詩作を始めるように勧めたそうな。
  • 立ち居振る舞いは完璧な美しき騎士さま。当時最高の王子さまと評判だったらしい。
    • 当時の年頃の王侯貴族の娘さんたちはこぞってエルコレの嫁さんになりたがったらしい。例;オーストリアのマルガリーテやカテリーナ・デ・メディチなど。
    • ママに似て美しい、と言うのは、メダルや胸像を見て思ったけれど、鼻がいわゆるエステの鷲鼻じゃないからだろうなーと。全体的なイメージとして、四角い肖像画(笑)をのぞいては線が細いし。
  • 馬を偏愛していた。
  • ヘラクレスのアレゴリーも偏愛していた。←イッポリート2世がアンティークのヘラクレスモノをプレゼントしている。
  • 狩が好きで、猟犬集めが趣味。犬はブリーダーよりも大きさ勝負。
  • デリツィア・コッパーロ(Copparo、どこ?)がお気に入りのヴィラ。
  • 政治ラブ。国際関係を掌握するのが楽しみ。
    • ルネと結婚時には、すでにアルフォンソと一緒にフェラーラを統治していた。
  • おおらかで大雑把な性格だったみたい。おとん譲り? 
  • おじいさまから名前をいただいたからか、吝嗇傾向にあったようで・・・。
    • イッポリート2世の緋色の帽子の値段は1万デュカートとパウルス3世に突きつけられ、値段が高すぎると拒否。その後4万デュカートに跳ね上がり、それは聖職売買だと突っぱねた。・・・枢機卿になれてよかったね、イッポさま(爆)。
    • 庶子にお金を出してなかったんだっけ? 
  • そして、どうやら慇懃無礼だったり・・・。
    • カルロス5世に祝辞を述べるためにルッカまで行って、騎馬ではカルロスの右側に何気に陣取ったり、何気にナプキンを手渡ししたりしていたんですと。というのは優越のしるしなんだそうで(わからん世界だ)、メディチ家のコジモはそういったエルコレの態度が我慢ならず、自分とこがエステ家よりも格上だと思い込んでおり、つまりは自分が皇帝にナプキンを渡すべきだと思ってたということかね、ともかくそんなこと(オイ)で外交官を通じて抗議してきて、果てには外交事件にまで発展したんだそうな。
  • ティツィアーノ作の肖像画が存在したらしい@プラド美術館。
  • ルネとの関係
    • やることだけはやってたようですが・・・。
  • イッポリートのフランス滞在中に、落馬して意識不明の重態に陥ったことがあった。
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