最終更新: alfonso1st 2012年12月06日(木) 23:17:14履歴
- 生年月日:1480/04/18〜1519/6/24
- 生まれ:スビアーコ
- ロドリーゴ・ボルジア枢機卿(アレクサンデル6世)とマントヴァ出身のヴァノッツァ・カタネイの間に生まれた。
- 兄チェーザレ&ホアン、弟ホフレ。弟の妻サンチャ・タラゴーナとは仲良し。
- 頭脳明晰
- 幼少時はドミニコ会のサン・シスト修道院で養育された。
- いわゆるボルジア家の実務的な教育を受けた。
- イタリア語、スペイン語に加えてフランス語を話し、ラテン語も解した。
- フェラーラに嫁ぐ際、結構な本のコレクションを持っていった。
- 1493年にペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァと結婚。
- 1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ビシェリエ公と結婚。1500年にアルフォンソは暗殺され死別。
- 1501年、ローマにてフェラーラのアルフォンソ1世・デステの代理人と結婚式を挙げ、翌2年にフェラーラ入りした。フェラーラでの結婚式は1502/2/2。
- ベンティヴォーリオの夜は如何に?
- 公爵エルコレをはじめ、エステ家の男どもを骨抜きにするような魅力を振りまき、すぐに人気者に。
- アルフォンソ・ビシェリエとの間にロドリーゴ(ビシェリエ公)、アルフォンソ・デステとの間にエルコレ(第4代フェラーラ公)、イッポリート(枢機卿)、エレオノーラ(コルプス・ドミニ修道院長)、フランチェスコ(マッサ候)と5人の子あり。
- ロドリーゴは、バーリ公爵夫人のイザベラ・タラゴンの許で養育された。
- ロドリーゴをフェラーラに呼び寄せようとしたが、何度も失敗。
- 1512年の8月に、ロドリーゴはバーリにて病没。ルクレツィアはフェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院(カミッラ・ボルジアが修道女をしている)に籠もった。
- ペドロ・カルデロンとの間にできたといわれているインファンテ・ロマーノについては、彼女の子供なのかどうか、真相はやっぱり闇の中。
- 最近の研究では、ルクレツィアの(半分)弟扱いが多い。→のちにフェラーラに引き取った所から考えて実子ではないのでは?という見解のようです(実子だったらエステ家が許さなかっただろうということらしい)
- アルフォンソ1世の妻になってから、毎年のように妊娠・出産していた。
- 妊娠していた年→1502年(死産)、1504年(死産)、1504〜5年(出産→死;アレッサンドロ)、1507年(流産)、1508年(エルコレ)、1509年(イッポリート)、1514年(出産→死;アレッサンドロ)、1515年(エレオノーラ)、1516年(フランチェスコ)、1519年(出産→死;イザベラ・マリア)
- 難産ばかりだったのは、アルフォンソのフランス病の後遺症と言われているけれど・・・。
- 体が弱い。アレッサンドロの旺盛な精神力は受け継いだけど、体力がそれについてかなかった。
- フェラーラに嫁いでから、ピエトロ・ベンボとよろしい仲に。
- 義兄のフランチェスコ・ゴンザーガともよろしい仲に。
- フランチェスコの妻のイザベラは、夫を軽蔑してますます醒め切っただけのようで・・・。
- 宴会、舞踏会などのイベントプロデュース能力はピカイチ!
- ローマ時代から行政手腕を発揮した。スポレート、ネピを統治していた。
- アルフォンソとの結婚直前には法王の代理として働かされていた。
- 1510年からフェラーラ知事。
- 市民の苦情解決みたいな仕事を恒常的に行っていた。←裁判?
- アルフォンソ1世が不在のときは、義弟のイッポリート枢機卿とともに政治を取り仕切っていたが、イッポリートがわざわざ表に出ることになったことはほとんどなかった。
- ユダヤ人差別のない街だったので、スペインから逃げてきたユダヤ人の庇護も夫アルフォンソとともにした。
- イザベラはフェラーラ宮廷人のベルナルディーノ・プロスペリにルクレツィアの様子をいちいち書き送らせた。
- 道化のエル・プレーテはイザベラが送った最新ファッションスパイ。
- しかし本人たちも頻繁に文通をしていたりした。
- 意外かもしれないけれど、国際情勢についての情報交換なんかもしていた。
- ルクレツィアのサインは「貴女の妹のルクレツィア」であったけれど、一度だけ「お母さま」としたことがある。
- 贈り物もよくしていた。
- ルクレツィアのお菓子作り職人の作った砂糖菓子や、イザベラのスペシャルブレンド化粧品などやり取りしていた。
- フェラーラ宮廷時代、イザベラと熾烈な争いを繰り広げていた。
- サラゴリエ(スペイン風ブラウス)はルクレツィアの専売特許
- 1502/12/18に着ていた金の木の葉形の房飾りのついた黒繻子のカモーラ、袖も同様のつくりということがイザベラに報告されている。
- 嫁入り時に6着のバスキーナ(全身を覆う袖つきの衣服)が混じっている。その中の一枚は白い波模様でジュッポーネ(ゆったりした膝上丈の厚手の上衣)に袖がついたものだった。
- 白絹の紐で結んだ切込みのあるたっぷりとした袖がつき、白繻子で裏打ちされた、黒字に白繻子と金糸で織り上げられたブロケードの外衣を持っていた。
- カルツォーニ・アラ・ガレオータと呼ばれるドレスのワッカの下にはくズボンを流行させたと当時言われていた。
- 白繻子で裏打ちした金の飾り布をあしらったザマッラ(衣服の上にまとう裾が地に届くほど長く、前あき上衣)の白波模様絹のロボーネと裏打ちのない黒繻子の飾り布をあしらったザマッラ風の黒波模様絹のロボーネ
- 嫁入りに200枚のカミーチャを持参した。ちなみに1枚が100デュカードするものだった。
- 86足半の靴を所有していた。(なぜか片方だけのスリッパがあった)
- ローマからフェラーラに出発する前にヴァチカンを訪問した際はブロンドの編み毛に白絹のトレンツァートが結われていた。この上に金の絹製のクッフィア(頭巾帽)を被っていた
- 1504年に10個の豪華で飾りの多い丸帽子を所有していた。そのうち一つは1万デュカートした。
- 黒と金の対比が美しいベルトが好みだった。
- 黒絹や青絹の蝶結びのリボンで飾られた3つの金箔張りのボルサ(巾着)を持っていた。
- 二番目の夫アルフォンソ・ビシェリエ殺害後、父と兄からの独立を目指し、アルフォンソとの結婚話に乗り気だった。
- 自分の結婚話の交渉を自分で直接行っていた。
- とにかくローマから脱出するためにエルコレのかなり不利な条件も丸呑みする形で受け入れていた。
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何でもする。舐めてあげるし。入れてあげる。d(´∀`*)グッ★ http://ktjg.net/index.html