エステ家に関するメモ

アニャネッロの戦い(1509年5月14日)前後の動き

  • アニャネッロの戦いには参加してないと思われる。
  • この時期法王に大砲を提供しているが自身の従軍は多分なし。
  • ヴェネツィア大敗(アニャネッロの戦い)の報を受け、アルフォンソがすぐさま、フェラーラからヴェネツィアより派遣されていたビスドミノを追放。
  • ヴェネツィアからポレジーノ・ロ・ヴィーゴを占領して、大砲を備え付けてアディーチェ川に停泊していたヴェネツィア艦隊を砲撃している。
  • その後、7月中旬にヴェネツィアがパドヴァ奪還後、ポレジーノ・ロ・ヴィーゴの再取得を目指すが、イッポリートが大砲と兵を送って死守。
  • なお、アルフォンソはフランス王の許可なしに教会総司令官に付いたことを後にフランス王から責められるが、その後和解し、3万デュカートをフランス王に支払い、彼の保護下においてもらう。

1509年9月3日皇帝がパドヴァを攻撃の際の動き。

  • 未だ、アンナの持参金の問題が解決しないが、とりあえずイッポリートに200人の重装騎兵をつけて送っている。
  • その後、イッポリートの支払いで2000人のイタリア歩兵を皇帝軍に加えている。

1510年の動き

  • ポレセッラの戦いの勝利後、法王はヴェネツィアにフェラーラにコマッキオを返すように交渉する。
    • これはアルフォンソの心をフランス王から自分に向けたかったから。
  • 法王はヴェネツィアに対する怒りはほとんどなくなる。
  • 2/24ヴェネツィアの破門が解かれる。
  • 法王はフェラーラがコマッキオで塩を作るのを非難し始める。
    • なぜなら法王はチェルヴィアで製塩権を持っているため、コマッキオで塩を作られると自分の利益が減ると考えたから。
    • アルフォンソはこれに関してうちの数少ない産業を奪うな!と反論している。
    • 法王は重い懲罰と懲戒を脅しに製塩をやめるように厳命する。
  • 法王はさらにポー川を通る船の商品に課税していることに大して苦情を言う。
    • この時威嚇のためにボローニャの農村部とロマーニャに重装騎兵を入れる。
  • フランス王はここに調停に乗り出す。
  • この時期、アルフォンソはフランス軍と共に再度プレジーネ・ディ・ロヴィーゴを占領する。さらにトッレ・マルケサーナ→カステルバルド→モンターニャとエステの街も取得する。
  • この後、再びヴェネツィア軍がポー川に入ってくるが、フランス軍の兵を派遣する。
    • 自身は皇帝軍、フランス軍と共にヴィツェンツァ攻略に加わる。(200の重装騎兵、500の軽騎兵、2000の歩兵)
  • 1510年6月3日、あいかわらずフランス軍と行軍してレニャーゴ包囲に参加している模様。
  • 6月29日法王はフェラーラからの税金の受け取りを拒否している。
    • フェラーラはアレッサンドロ6世によって税金を4万デュカートから1万デュカートに引き下げられた(ルクレツィア結婚のため)が、これが教会に損害を与えてるとクレーム。
  • この時期、法王は完全にフランス王を敵対視している。→フランス王に対抗するためにナポリ国王の叙任に踏み切る。
  • 9月のモンセリーチェ攻略の時期、陣営から立ち去っている。
    • ジャック・ド・コリニィ(チャッティリオーネ)も一緒についていく。
    • 去った理由は法王軍が近づいてきているから?
  • 法王はローマからフェラーラの大使たちを立ち去らせる。
  • アルフォンソはこのあたりになるとコマッキオの塩を法王に与えて、今後は塩を作らないようにすると譲歩するが聞き入れられない。
  • 法王軍のフェラーラ攻撃開始
    • ピアーチェとピアーヴェ・チェントを占領する。
    • ウルビーノ公と共に自身でルーゴ、バーニョ・カヴァッロ包囲しはじめる。→アルフォンソはフランス兵、150の自身の重装騎兵、多くの軽騎兵、ガスコーニュ兵、スペイン兵、イタリア兵からなる3000の歩兵を率いてルーゴ救援に向かう。
    • ウルビーノ公はイモラに撤退する。→3門の大砲を残していく。これはアルフォンソが召し上げるw
    • アルフォンソはこの後、法王軍に奪われた街をすべて奪還している。→しかし、数日後、法王軍は軍の編成をしなおし、同じ街を奪い、ルーゴも奪還。
  • さらにこの隙にモデナを占領する。
    • アルフォンソは上記の対応に忙しく、モデナには守備兵士が置かれていなかったため。
    • 本来モデナにはフランスのチアモンテから200の槍騎兵が派遣されるはずだったがこなかった。
    • この後、レッジョを死守するために兵を送った。

1510年9月〜の動き

  • 法王自らフェラーラ討伐のためボローニャにやってくる。
  • ヴェネツィア軍は二つの艦隊をフェラーラに派遣。
    • 同時に教皇の軍(800の重装騎兵、600の軽騎兵、6000の歩兵だけど烏合の衆)も農村部を荒らす。
  • これによりフェラーラ領は大損害を受ける。
    • しかし、フェラーラ市には接近しない。
      • 市内にはアルフォンソの兵意外に250フランス人槍兵が駐屯しているため。
      • さらにチアモンテがレッジョとルビエラの間に250の槍騎兵と2000の歩兵を送ったため。
  • これに対抗して、法王はマルカントーニオ・コロンナとジョバンニ・ヴィッテリが200の重装騎兵と800の歩兵を率いてモデナの守備に向かう。
    • ただ、兵力が不足していたため、ヴェネツィア陸軍をフェラーラ領に引き入れる。
      • これによりヴェネツィア軍はポレジーノ・ロ・ヴィーゴを奪取する。
  • 300のスペイン人騎兵はファブリーツォ・コロンナが率いている。
  • ヴェネツィア軍はフェラーラ領にこれ以上食い込めない。
    • アルフォンソがフラン兵と共に奇襲を繰り返しているため。
    • その際ヴェネツァ軍のジローラモ・コンタリーニを捕らえて捕虜にしている。
  • フランチェスコ・ゴンザーガにはゴンファニエーレの称号を与える。
    • さらに彼をヴェネツィア軍の総司令官の称号をつけてヴェネツィア軍と傭兵契約を結ぶように配慮している。
    • この契約は秘密裏に行われた。
      • なぜならフランチェスコはフランス軍に備える必要があるためと説明→大方イザベラの入知恵だと思われる。
  • 法王はモデナに軍を集結してフランス軍との合戦を主張するが、傭兵隊長たちに却下される。
    • なぜなら、彼らはフランス軍の強さを知っていたから。
    • さらに、ウルビーノ公とパヴィア枢機卿の関係が悪化しはじめる。
    • この間アルフォンソはポレジーノ・ロ・ヴィーゴとフィナーレ、チェントを回復する。
  • その後チアモンテに合流するため準備を始めるが、この頃ヴェネツィア海軍が到着しはじめたのでフェラーラにとどまることとなった。
    • ヴェネツィア軍はフィケルオーロを包囲する。さらにステラータの街を奪い、ポー川の間に橋をかけることに成功。
      • アルフォンソはボンデーノに陣を構え、大砲を使って橋を架けるのを阻止する。
    • その後、アルフォンソは2隻のガレー船でポー川を巡回させる。

1514年以降の動き

  • レオ10世即位後、イッポリートは法王からレッジョ返還の約束をもらうが、一向に帰ってくる気配がない。
  • 法王は皇帝に4万デュカートを貸した担保にモデナをもらっている。
  • フランス王フランソワ1世は再度イタリア侵入を試みる。8月にアルプス越えを成功させる
    • アルフォンソはフランス王よりモデナとレッジョを回復するように扇動される。
    • 一度、アルフォンソにモデナとレッジョを返還するようにという調停案が持ち出されるが、ジュリオ・ディ・メディチ(法王特使)の反対にあう。
  • 1516年12月教皇とフランス王の会見がボローニャで行われる。
    • この席で王はアルフォンソにモデナとレッジョを返還して欲しいと法王に頼む。
      • 法王はモデナの4万デュカートを支払うことと、これとは別に二つの都市にかかった費用の一定額を支払うように要求。
      • アルフォンソは1ヵ月後フィレンツェに滞在している法王の元にアルフォンソから領地に入ったらすぐに金を払うという約束を受け取りながら、同意文書をいつまでも作成しhなかった。

1517年

  • ウルビーノ公がウルビーノ奪還に動き始める。
    • フェデリコ・ゴンザーガが一緒に従軍している。
  • 法王とフランス王は再度相互協力を結ぶ。(教皇勅書発布)
    • フランス王はフェラーラ公に対しては援助を求めない。完全な保護下におく。
    • 6ヶ月以内にモデナ・レッジョ・ルビエラが返還される。

1518年

  • フランス、スペイン、ドイツ、法王の間で休戦条約が結ばれたため平和な日々。

1519年末

  • 法王がフェラーラ侵入を目論む
    • 計画に失敗が生じたため潜入せずに終わる。

1520年

  • 法王は新たにフェラーラに陰謀をたくらむが、味方と思って引き込んだ者がアルフォンソの通じていたためバレた。

1521年

  • アルフォンソは再び破門される。
  • 8/31にモデナにあるフィナーレ城とサンフェリーチェ城を自ら軍を率いて攻撃する。
    • フランス王の要求>多分
  • 10月になるとスイス兵たちが死力を尽くして奪還に向かい、敗走。
    • ボンデーネにいたアルフォンソはフェラーラに帰る。
      • カリヴァーナ戦死
  • 12/1レオ10世が死去
    • アルフォンソはすぐさま武装兵100人、歩兵2000、軽騎兵300を率いて、出陣。
      • フィナーレ、モデナ、ガルファニャーニャ奪還。
      • さらにわずかに苦戦を強いられるがルーゴ、バーニア・カヴァッロを回復。
      • チェントへ進軍した。→ボローニャ防衛に阻まれて進軍できない。さらにスイス兵が到来しフィナーレへ戻る。

1522年10月

  • アルフォンソ、ハドリアヌス6世と交渉する。
    • すべての領地が返還される。ちょっと怒られる。
    • アルフォンソは今後、教皇領の防衛が生じた場合、援軍を送る事を約束させられる。
      • 将来、教皇領を攻める事があれば、封土すべてを失う罰則付き。
    • モデナ、レッジョの返却。
  • 破門解除

1523年

  • 9/14ハドリアヌス6世死去。
  • アルフォンソはモデナ、レッジョの返却の望みが薄くなったので武力で回復を決定。
    • まだ時期法王を未定だったので、チャンスだと思った。
  • レンツォ・ダ・チェーリ(200の騎兵隊、2000以上の歩兵)を自軍に引き込むことに成功する。
    • さらに3000以上の歩兵を徴兵、レンツォには3000デュカートの軍資金を与える。
  • アルフォンソ自身は武装兵200、軽騎兵400、歩兵3000を率いてフィナーレにとどまり、ここでレンツォを待つ。
    • レッジョ包囲→攻撃。
      • レンツォはレッジョ包囲の後フランス王に招聘されたためその場を去る。」
  • アルフォンソはレッジョにわずかな歩兵の残し、ルビエラへ。
    • 10/9ルビエラは無条件降伏する。
  • コレモナ攻略を実現するため、プロスペル・コロンナと手を結ぶ。
    • 3万デュカートをプロスペルに支払う。2ヵ月後さらに2万デュカートし払う。
    • しかし、この企ては法王庁の知るところになる。
    • ナポリ副王の到来によりモデナ進軍が不可能となる。
  • 11/19クレメンス7世即位。
    • フランスより同盟を申し入れられる(それ以前も何度も招聘があったが断っていた。)

1524年

  • アルフォンソは再びフランス王の保護下に入る。
    • アルフォンソは6万デュカートの支払いを王に義務付け、そのうち2万デュカートを軍需品の調達にあてた。
      • これに対してナポリ副王から非難が出た。

1525年

  • 2月のパヴィアの戦いでフランスは大敗し、フランス王は捕虜になる。
  • 4月法王と皇帝の間で協定が結ばれる。
    • この中でモデナが法王領になるか皇帝領になるか今後司法の判断にゆだねられる。
      • ちなみにフェラーラは教皇領、モデナ、レッジョは皇帝領に属している。
  • 法王はアルフォンソの機嫌を損ねて、アルフォンソが皇帝につくことを恐れているため、アルフォンソに叙勲を行っている。
  • 5/1法王とナポリ副王の間で和平条約が結ばれる。
    • フェラーラ公が保有する領土の返還については帝国の法令にそむくことができず、フェラーラ公に強制してそれが皇帝領に属することを主張させることもできない。
    • さらにこの問題に関して皇帝は裁判によるか、それとも友好的な合意によって解決すべき
    • 皇帝はフェラーラ公の領土はそのまま、アルフォンソは皇帝に10万デュカートを支払い、フェラーラの封土譲渡とハドリアヌスと取り交わした協約の罰則金10万デュカートを支払うことを望んだ。
      • この条約は批准されずに終わる。
  • 9月アルフォンソは皇帝に会いにスペインへ向かうがフランス国境で摂政の母堂(ルイーズ・ド・サヴォイア)に通行証を拒否されあえなくフェラーラに戻る。
  • アルフォンソはヴェネツィアととりあえず仲良くしている。
  • 12月ぺスカラ候が死去すると、反皇帝派の同盟が持ち上がる。→立ち消えに。
    • アルフォンソはヴェネツィアを通して、レッジョの譲渡を認めるなら加入してもいいと言う。

1526年

  • 皇帝は改めて教皇に1525年に結んだ和平条約の批准を求める。
    • フェラーラ公の領土はすべて返還
    • ただし罰金10万デュカートは免除
  • 3月フランス王が釈放されると反皇帝同盟(コニャック同盟)が結ばれる。
    • フェラーラは法王によって加入を拒否される(フランス王とヴェネツィアは加入を望んでいた)
  • 7/25に皇帝軍がミラノ陥落させると、法王はフェラーラを同盟に加入させようと必死になる
    • モデナ、レッジョさらにラヴェンナの譲渡を申し入れる。
      • アルフォンソは皇帝軍のミラノ侵攻によりすでにラヴェンナの攻略を考えていた。
    • アルフォンソはこの申し入れを拒否。
      • ラヴェンナはのちのちヴェネツィアと衝突をもたらすことを見越していたため。
  • 法王はとうとうアルフォンソと和解したいと考え始める。
    • ドイツ軍に対抗するためにどうしてもアルフォンソの軍事力が必要だったため。
    • 2万デュカートと引き換えにもモデナとレッジョの公爵としての復権を認める
    • エルコレをカトリーヌ・ディ・メディチと結婚させること
    • イッポリート・ディ・メディチとエレオノーラを2万デュカートの持参金で結婚させること。
  • しかしこれと同時進行で皇帝から自分の娘マルゲリータとエルコレの結婚の話が出てくる。
  • アルフォンソはこれによって皇帝に付くことを決める。
  • 12/31フェラーラの外交大使はナポリ副王(皇帝の委任状を携えている)と和平条約を締結→半ば強引に締結させられたらしい。
    • アルフォンソは皇帝に敵対するすべての国と戦うため、その臣民と国家を捧げる義務を負うこと。
    • アルフォンソは武装兵100を率いて、イタリアにおいて総司令官として指揮を執ること。
      • この費用はアルフォンソ負担。のちに返却はされるけど
      • エルコレとマルゲリータの婚約に対してカルピの領地とノーヴァの要塞が持参金として与えられる。これはアルフォンソが受け取ること。ただし、この領地からの収益は結婚式が終わるまでアルベルト・ピオに俸給として支払うこと。
    • アルフォンソはモデナを奪取したら直ちに2万デュカートし払うこと。
      • ただしその仲にはアルフォンソがパヴィア戦いの後、副王に支払った金額も計算にいれること。
      • もしモデナが奪取できない場合、その間出費した金額すべてはアルフォンソに返還される。
    • 皇帝との同盟関係を宣言した後、アルフォンソが受ける懲罰や刑罰を取り消すことで、皇帝はアルフォンソを保護下に置き、アルフォンソを含むことなしにはいかなる平和条約も締結できない。ただし、それ以前の懲罰については、それを帳消しにするために皇帝は尽力を尽くす。

1527年

  • 1末ドイツ軍がポー川を渡り始める
    • ブルボン公はアルフォンソに大砲の火薬の提供と、武装兵500と、6000の歩兵隊を率いた隊長ゲオルグ・フルンツベルグ(ジョルジョ)と連合することを強く求める。
      • アルフォンソはこれに対して敵国を通過してピアツェンツァに火薬を届けるのは不可能だし、近くに同盟軍がいるから危険を冒すことなくブルボン公と同盟を結ぶことはできないと返答。
  • 3/5アルフォンソはフィナーレでブルボン公と会見する。
    • アルフォンソは早くローマに行くようにせかす。
    • ブルボン公はアルフォンソから兵站を受け取っている。その代金を払えとも言われる。
    • 兵士たちの代金支払いも滞り始めており兵士の暴動が起きる。
      • アルフォンソ・タヴァロスがフェラーラに行って軍資金を持って帰ってなんとかなだめる。
3/25皇帝と教皇の間に8ヶ月の休戦協定が結ばれる。
    • 法王は皇帝に6万デュカート与える代わりにイタリアから兵を撤退させること。
    • この頃、アルフォンソは軍需品を搬入している。
  • しかし、皇帝軍の進軍はもはや止まらない。
  • 5月サッコ・デ・ローマ
  • 6/6、アルフォンソはモデナをロドヴィーコ・ランドーネ伯に引き渡すように威嚇。
  • 9月、アルフォンソはフランスと再び同盟を結ぶ
    • アルフォンソはフランス王に6ヶ月の間6000スクーディを支払う。
    • さらにロートレックに対し100の武装兵を提供すること。
    • アルフォンソはアドリアと引き代えにコティニョーラを与えられる。
    • アルフォンソはヴェネツィアとフィレンツェに所有していた宮殿を返還して、アルベルト・ピオの費用でマントヴァ近郊のノーヴィ城塞の取得を認める。
    • もし皇帝軍が大司教職にあるイッポリート2世のミラノ大司教権を剥奪した場合は、ミラノ大司教の報酬を付与する。
    • 立ち会ったチーボ枢機卿に対して、枢機卿会の名において公の同盟加入を認可すること、法王がフェラーラの封土譲渡を更新すること、マクシミリアンによって法王の抵当に入れられたモデナに関する権限を認可すること、塩に関する義務を解消すること、同盟国がフェラーラ公を擁護することに同意すること、フェラーラ公および彼の後継者の公にあらゆる所有物、あらゆる所有権を残すことを教皇大勅書により認めること。
    • 法王はイッポリート2世を枢機卿に叙任し、彼にランゴーネ枢機卿の市により空白となっているモデナ司教職を付与すること。
    • 持参金としてシャルトル公国および他の名誉ある条件を付加して、ルネとエルコレ2世の婚姻を成立させること。
    • しかし、例のごとくあとから教皇が突っぱねる(苦笑)
    • アルフォンソはこの同盟に加入したことで皇帝を怒らせないように苦慮していた。
      • しかたなかったと皇帝に許しを請う。
    • アルフォンソはフランス王から同盟軍の総司令官になれといわれるが、なるべくそれを遅らせようとする。
  • 10月末、教皇はモデナからフェラーラに戻るアルフォンソを逮捕しようと画策するが、カデコッピに200の軽騎兵を待ち伏せさせていたが、アルフォンソがその日モデナから出発しなかったためにこの計画は失敗に終わる。

1529年

  • 法王は枢機卿会で取り決めたにも関らずモデナの司教権を他に与える。
    • 法王はモデナの司教権をイエロニモ・モローネ(皇帝側)に与えることによって、アルフォンソと対立させようと画策する。
    • またジローラモ・ダ・カルピをそそのかしレッジョを占領しようとした。
      • これは発覚し、アルフォンソによって処罰される(1528/8/28)
  • 8/5皇帝とフランス王と法王の和平条約締結

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