こちら前スレ308だ。

投下の概要を説明させてもらう。

注意点は4つ

・セレンメイン
・>>432からの続き物
・非エロ
・独自設定が強く出ていますのでご注意を

以上の点に留意してくれ

 黒いエナメルのパンプスが、白い絨毯敷きの床の上を落ち着きなく行き来する。

 ―――私とした事が、迂闊だったな。
 内心の焦りを表情にこそ現してはいなかったが、忙しなく視線を巡らせて歩き回ることでそれを
 表現しながら、彼女は自らのエスコート役を探し回っていた。

『じゃあ、もう少ししたら―――で、合流―――』
 目当ての店で、腰の引けた青年を放置して思うままに物色を続けていた彼女の記憶に、薄っすらと
 断片的に思い出されるその台詞が、更に焦りを助長する。
「……流石に、仕方がないな。これは」
 右手に持った淡いピンク色の紙袋一杯に詰め込まれた毛玉に視線を落して、彼女は独白していた。
 今度ばかりは完全に自分の失敗だったと素直に思える。
 時計に目をやってみれば、予想以上に時間は進んでいたし、暇を持て余したであろう青年が告げて
 いった言葉の肝心な部分を聞き逃していたのも自分の責任だった。

 しかし、責任の行く先を確認したところで現状が改善されるわけではない。
 精々詰まらない自責の念で正常な判断を鈍らせるだけだろう。

 ほんの暫くの間、少女趣味的な装飾が施されたフロアから離れて動き回っていた彼女であったが
 結局はその言い訳染みた結論へと辿り着く事となり、元いた場所へと踵を返していた。
「どうせあいつの奢りなのだ。携帯端末もある事だし、この際、向こうから探しにくるまで―――」
「御久し振りです、スミカ先輩」
 愛らしい小物が隅々まで配置された店内を見回しながら、勝手すぎる独り言を洩らしていた彼女の
 背中に向けて落ち着き払った女性の声が響いてきた。

 一瞬、完全な空白に支配されていた思考を何とか現実に引き戻して、セレンは背後へと振り返る。
「―――ウィン……ディ」
 予想外の事態に、予想通りの声の主。セレンが二の句を告げられずに立ち尽くす。
「驚かせてしまった様ですね。すみません」
 緩くウェーブのかかった薄紫色の髪を肩口まで伸ばし、やや窮屈そうに黒一色の2ボトムスーツを
 着こんだ妙齢の女性が、セレンへと向けてゆっくりと頭を下げながら謝罪の言葉を口にする。
「ああ、驚いたぞ。暫く振り……では済まないか」 
 やっとの事でそれだけを口にし、セレンは目の前に突如として現われたリンクス時代の後輩の姿を
 まじまじと凝視していた。

 ウィン・D・ファンション。
 インテリオル・ユニオンの擁する最大の個体戦力にして、カラードNo.3ランカー。
 彼女に関する数々の逸話と多大なる戦績を知らねば、もぐりなのだと情報屋達は口を揃えて言う。

 そういった噂を聞く度に、大きくなったものだとセレンは人知れず苦笑を洩らしていたのだ。 
 

 秀麗な顔立ちと真っ直ぐすぎる眼差しだけは記憶の中のままで、成熟した大人の女性へと成長した
 ウィンの姿を前に、セレンは継ぐ言葉も忘れてその場に立ち尽くし続けていた。
「本当に、お久しぶりです。今は、セレンさんと呼んだ方が良かったのでしたね」  
 親しい者に対して笑いを見せる時、やや俯く様に小首を傾げて微笑するのは昔からの彼女の癖だと
 セレンは知っていた。
「いや、いい。それよりも―――見違えたぞ、ウィンディ」
 本当にあの少女が。自分の後を付いて回っていた駆け出しのリンクスだった彼女が。
 そう自問を繰り返して記憶を振り返りながら、セレンは彼女の言葉にかぶりを振って答えていた。

「では、先輩で」
 こく、と小さく頷くウィンからは戸惑いの気配はセレンには伝わって来ない。 
「助かる」
 こういった気配りができるのは、昔からだった。
 もっともインテリオル・ユニオンの人間達は彼女のそういった側面も知らずに、扱い辛い娘だと
 辟易している様子も度々見受けられていたが、それは同じ様な陰口を叩かれ続けていたセレンに
 とっては共感を覚えさせるだけのものに過ぎなかった。

 広義的な位置づけで所属を同じくしたとはいえ、連携戦闘の相方でもない赤の他人を先輩と呼ぶ
 リンクスは相当に珍しかった。
 そしてそういった人間を受け入れるリンクスもまた珍しく、それ故周囲の人間からの下卑た噂話や
 辛辣な皮肉を二人が耳にする事も少なくはなかった。

「仕方はないです。先輩以外に、ウィンディとは呼ばせていませんし」

 そういった事についても、セレンがウィンに話題を振った事も幾度かはあったが、その度ウィンは
 決まってそう口にして苦笑を浮かべるだけだった。
 そして、そんな彼女の極端すぎる立ち振る舞い方を心配しながらも、セレンは心の何処かで奇妙な
 優越感を持ち続けていたのだ。

 あの日、青年と出会うその時までは。

「しかし、意外だな。お前がこういった場所を訪れるとは、知らなかったぞ」
 はにかんだ様な微笑みは絶やさぬまま、あまりその口を動かそうとしないウィンに対し、セレンは
 僅かな違和感と同時に吹き出してきた後ろめたさを感じて、やや早口なりながら問いかけていた。
「借りを作った相手がいたもので。何かできる事はないかと尋ねたら、ここに誘われました」
 ようやく口を開いたウィンに、セレンが心の中で安堵の溜息を付いてその表情を和らげる。
「この店には、同僚から事のついでにと買い物を頼まれて立ち寄った所です」
「成る程。お前らしいと言えばお前らしいが……それにしても、珍しいな」

 目の前にいるのは、自分が知っていた頃の彼女ではないのだ。
 頭の中でそう考えてはみても、セレンは心の内ではそれを拒否せずにはいられなかった。

「顔を立てる意味もありますから」
 しれっとした顔で、とぼけた風にウィンが言葉を返してくる。
 義理です。そうはっきりと言っているに等しいその一言に、セレンは思わず苦笑を洩らしてしまう。
「お前は、やはり良くできた奴だよ。あいつに爪の垢でも―――」
 そこまで口にしたところで、はっと我に返ってセレンは口を閉ざす。

「爪、ですか」
 セレンの内心の焦りをよそに、ウィンはそう言って怪訝そうな面持ちで首を傾げる。
「例えだ。本気に―――いや、私が悪かった。全く……そういうところも、変わらんな」
 予想外の彼女の反応に幾分拍子抜けしつつも、セレンは己の緊張を解すかの様に肩を竦めた。
「そうですか? 先輩の方は、変わられたと思いますが」
 そんなセレンの様子に、ウィンは平静な態度は崩さずに言葉を返す。

「変わった……私が、か?」
 セレンが無意味にも等しい確認の言葉を口にする。
 問われて、セレンには心当たりがないわけではなかった。むしろ、その自覚は嫌というほどにある。
 だが、それを露骨に外に現す程に自分は浮かれきっていたというのか。
「ええ。でも、息災な様子で安心しました」
 そんなセレンの動揺をよそに、ウィンが深緑色の瞳を微かに細めて微笑む。
「そうか。お前が言うのなら、きっとそうなのだろうな」
 ―――お前の目から見て、一体どう変わった様に見えるのか。
 喉元まで出掛かっていたその言葉を押し留め、セレンは弱弱しい笑みを浮かべていた。

 後ろめたさを感じるのは、自分にまだ正常な部分が残っていたという証明だ。
 胃と首筋の辺りにチリチリとした不快さを感じつつも、セレンはそんな事を考える。

 古巣を捨て、兵士としての自分を捨てても、因縁という物まで捨てきれないのはわかっていた。

 期待され、それに応える事から逃げ出して―――今度は、自分がそれを押し付ける側になる。
 そんな都合の良い振る舞いを続けてきた自分とその対象との間に今在る、充足感。
 戸惑い、喜び、安堵し、怯える事。その全てが実感だった。
 血を流す行為にそれは似ているから、そう感じるのかもしれないと思いもした。

 浅はかとは思わなかった。
 たった今、自分の想像を大きく超える成長を示した『後釜』を前にしてすら、やはりそうだ。

 
 唯、己の身勝手さには愛想が尽きそうだと感じるばかりだった。

「ウィンディ」
 余計な事を、自分は言おうとしている。
 そう思いつつも押し黙り続けることはできずに、セレンがはっきりとした口調で声を上げる。
 はい、と短くウィンが答えるのを確かめて、セレンは言葉を続けた。
「私を……恨んではいないのか」
 我ながら、愚問だな。
 自分が楽になる為の台詞に過ぎないとは自覚しながらも、セレンは深く息を吐いてしまう。

 ウィンがその掌を軽く握る形にして口元に当てて俯き、目蓋を閉じて思案の表情を見せる。
 彼女にしては珍しく、返事の言葉を選んでいる様子だった。
 俯いた拍子に肩にかかっていた薄紫色の髪がぱらりと垂れ落ちていき、それから十数秒が経つが
 その口は閉ざされたままで、動き出しそうとする気配は無い。

 ―――限界か。
 沈黙に耐え切れず、セレンが取り消しの言葉を口にしかける。
 ウィンが動きを見せたのは、正にその瞬間だった。
「先輩には感謝こそすれ、恨んだりする覚えはない―――そう思います」
「―――っ!」
 変わらずに平静な、穏やかとも感じ取れる口調で告げてきたウィンの言葉に、セレンは一瞬息を
 詰まらせその身体を強張らせていた。

「馬鹿か、お前はっ!」  
 衝動的にセレンは叫んでいた。
 内から溢れ出し綯い交ぜになった感情に煽られ、頬が上気していくのがわかる。
 ―――八つ当たりだ、これは。しかも最悪の類の。
 吐き捨てる様に言い放ったはずの罵倒の叫びが己の心中で黒く渦巻いて木霊し、眩暈に襲われて
 ぐらりとその視界が傾き、そして止る。
 彼女の両肩には、それをしっかりと支える温かな掌の感触があった。

「スミカ先輩。外で話しましょう」
 いつの間にか絨毯の上に落していたセレンの買い物袋へとさっと手を伸ばして拾い上げ、辺りに
 いた人々からの視線を遮る様にウィンが立ち位置を変える。

 
 情けなさや悔しさではなく、尚も後ろめたさだけで自分を支えようとする彼女を伴い、ウィンは
 ひそひそとした囁き声と好奇の視線が入り混じり始めたその場を、凄然と後にしていった。
 
霞スミカ。
 インテリオル・ユニオンの基盤となった、有力企業レオーネ・メカニカに在って決して多いとは
 言えない出撃数と達成ミッション数にも関わらず、同社に置いて最高の戦力と目され続けていた
 16番目のオリジナル・リンクス。
 所属を同じくし、癖の強いリンクス達の中でも特に扱いづらく、危険分子の筆頭と囁かれていた
 サー・マウロスクに対する安全弁だとも噂された、謎多きその人物に関する足跡を追う者は今も
 決して少なくはない。

 リンクス戦争の後。混迷の最中を生き抜いた彼女の背中から、まだ駆け出しのリンクスであった
 ウィンは多くを学び、憧れと密かな対抗心を以て追いかけ続けていた。


「昔から、良く教えられた。先輩の事をそう思っているのは本当です」
「……もう大丈夫だ。すまなかった、ウィンディ」
 休憩所の小さなベンチに腰掛けていたセレンが、俯いたままの姿勢で小さく鼻を鳴らす。
「いえ。思った以上に変わられたようですが、それが不快だとは自分は思いません」
 その隣で背もたれに寄りかかる様にしていたウィンは、静かにかぶりを振って答えていた。

 赤くなった目尻の端を手の甲で拭い、こくりと頷く仕草を見せてセレンが大きく息を吐く。
 それから目を閉じたままで頭を上げ、ゆっくりと息を吸い込み胸を張ってから口を開いた。
「……別段、何を教えたという積もりもないのだがな」
「その割には、先輩からは随分と厳しい言葉も貰っていた記憶がありますが」
 気恥ずかしさを隠す様にさばさばとした口調で告げてきた彼女に、ウィンが緩やかなウェーブの
 かかった自らの髪を人差し指で弄くりながら、さらりと答える。

「そんなに……厳しかったか?」
 素っ気の無い返答を気に止めたセレンが、ちらっと目蓋を開きながら問いかける。
「ええ」
 そんな彼女の様子も意に介さぬとばかりにウィンは首を縦に振って見せた。
「今も時折、夢に見る程度には―――ですが」
「……本当に、すまないな。それは」
 どこか遠くを見る目で言葉を続けたウィンに、セレンが項垂れながらも苦笑いを浮かべる。

 それを追う様にして隣からもくすくすと抑えた笑い声が洩れ始めると、二人は面と向かって顔を
 合わせ、それからまた声を上げて笑いあっていた。

 一頻り笑い終えると、今度はセレンの方から思い出を懐かしむ口振りで語り始めた。
「人は、変わるものなのだな。昔のお前はもう少し可愛げがあった気がするぞ」
 後ろめたさばかり感じるかと思っていたのだがな。
 口にした台詞とは裏腹に心の中では感謝の念を抱きながら、セレンは唇の端を歪めて見せる。
「そうですね。貴女を追いかけているだけの子供のままでは、いられませんでしたから」
「こいつめ……随分と生意気を言えるようになったものだな」
 真正直過ぎるウィンの言葉も、不思議と今のセレンには重圧にならなかった。


「そう言えば、ウィンディ。お前……」
 成長した後輩の頼もしさを肌で感じながら皮肉っぽい笑みを浮かべていたセレンが、ふと何かに
 気付いた様子でウィンの二の腕の辺りを見詰めてきていた。
「先輩……?」
 真剣な表情で自分の方を見つめてくるセレンに、ウィンが僅かに身を竦めて不安の声を上げる。
 こういった表情のセレンは、ウィンの記憶の内には存在ないものだったのだ。

 一体、何を。
 その挙動を不審に思い、口にしかけた次の瞬間にそれは起こった。
「―――っ!?」
 びくんっ、と声も無くウィンの身体が跳ね上がる。
 警戒の眼差しでセレンの様子を窺っていたウィンの二の腕の上を、つぅっと細い指先が走り抜け
 その柔肌の感触を確かめる様に動き回っていったのだ。

「な、何を唐突に―――」
「こっちの方は、まだあまり変わっていない様だな」
 流石に、まだ若い。
 狼狽の声を上げて身を捩るウィンに、セレンは身体ごと追い迫って直に触れた感想を洩らす。
 突然過ぎるその展開に、混乱の只中に立たされたウィンはまともに抵抗する事もできずにいた。

「せ、せんぱ―――っひゃ!?」
「ハリもスベリもある、と来たか。―――む? こちらはこちらで、また思っていた以上に……」
 こういった事には全く免疫が無いのか、為すがままでセレンの『調査』を受けその身体を大きく
 仰け反らせてウィンが反応する。
「成る程。確かにこれでは周囲の男共は放ってはおくまい」

「―――っぁ、やめっ……ぁあ―――もうっ! スミカ先輩!」
 大胆にもブラウスの内側に手を伸ばし始めたセレンを振り切り、ウィンは窮地を脱していた。
「一つ、先輩として忠告をしておく」
 自らの肩を両手で抱き締めて荒くなった息を整えるウィンに、セレンは尚も真剣な面持ちのまま
 声を投げ掛けてきた。
「そのサイズで、ノンワイヤーは正直感心しないぞ。ウィンディ」
「―――本当に随分と変わってしまわれましたね、先輩……」

 地味に気にしていた点を指摘され、ウィンはがっくりとベンチの上に倒れ伏していた。

「……それでは、私はこれくらいで失礼させて頂く事にします」
 ようやっと呼吸を整え終えたウィンが、セレンへと向けて頭を下げる。
「何だ、もう帰るのか。少しくらいは、ゆっくりしていけば良いだろうに」
「結構です。これ以上は自分で相手を選びますので」
 いつの間にか咥え煙草で悠然と脚を組んでベンチに腰掛けていたセレンに、にべも無く答えて
 ウィンは毅然とした態度で乱れきった自分の衣服を直していた。

「すまんな。狼狽えるお前の顔を見ていたら、調子が戻ってきてしまった様だ」
「お役に立てて光栄です。……全く、油断も隙も無い」
 心底楽しそうに煙を吹かすセレンには聞こえぬ様に呟いて、ウィンがベンチから立ち上がる。
 そんな彼女の様子をセレンは目を細めて眺めていたが、一つ大きく咳払いをすると自分も席を
 立ち上がりその唇から煙草を離していた。

「ありがとう。お前には、心から感謝している」
 突然目の前で深々と頭を垂れて礼の言葉を口にしたセレンに、ウィンがその口をぽかんと開き
 呆気に取られて立ち尽くす。
「え―――あ、あの、ど、どどどど、どうして……」
「急に可笑しいか。すまんな」
 はっと我に返って声を吃らせながら反応するウィンに、セレンは苦笑いで返した。

 驚かれるのも無理は無い。自分でもそれなりに驚いているのだから。
 あらゆる意味での感謝を込めた言葉は、思っていた以上にすんなりと口を衝いて出てくれた。
 それで全てが清算されるわけでもないが、自分にしては一先ずは上出来というヤツだろう。

 目を点にして頭を左右に振り続ける後輩を眺めながら、セレンはそんな事を考えていた。

「随分と時間を使ってしまったか。まあ、ロイの奴の事だから、先に食い始めているだろうさ」
 どうもあいつが絡むと口が悪くなるな。
 自分の口性の無さを棚に上げながら、ウィン・D・ファンションは足早に歩を進めていた。
 セレンとの別れの挨拶を済ませてから、彼女は本来の連れとの約束を思い出したのだ。
「あいつは協働作戦でも平気で時間に遅れて来るしな。これくらいで御相子というものだ」
 ぶつぶつといい訳染みた独り言を呟いて、ホールを抜けエレベーターの扉の前に辿り着く。


「これだけ時間使っても、まぁだ買い物中とか……セレンさんも相当だなぁ」
 約束の時間を大幅に過ぎていた筈であったのに、何故だか当初訪れたファンシーショップの
 近くまで呼び出された青年が、大仰な溜息を吐きながらエレベーターに乗り込む。
「でも、機嫌は直っていたみたいだし、やっぱここを選んで正解だったな」
 上機嫌に鼻唄など口ずさみながら、青年は行き先を指定するパネルへと手を伸ばした。
 ウォォン、と僅かな駆動音を立ててゴンドラが動き始める。

 
 扉が開く。
「あっ、と」
 ―――しまった、人がいたか。
 勢いをつけて外に踏み出そうとしていた青年が踏鞴を踏む。
「―――」
 先客か。 
 入力すべき階数を思い返していたウィンが身を引いて佇む。
 互いがその挙動を確認し、どちらからとも無く会釈する。


 そして、二人は擦れ違っていった。

「あの人も同業者か。……今日はそういう日なのかな」
 扉が閉まるその時まで、何故だか青年はその場に足を立ち止まらせて呟いていた。
 漂う残り香に、親しんだ女性を思い出して首を傾げる。
「何処と無く、セレンさんに雰囲気が似ていたけど……」
 ―――リンクスやっている女性って、ああいうタイプの人が多いのかな。
 物騒な想像をしながら、青年は再び歩き始めた。


「見ない顔だったな」
 行き先のボタンに手を伸ばしたところで、ウィンがぽつりと呟く。
 彼女はその立場上、両の手では数え足りぬ数のリンクスの素顔を覚えていた。
「あの雰囲気は……まあ、独立傭兵だろうな」
 ウィンの素顔は、疾の昔に企業連には割れている。
 自分の顔を見た時の反応の無さからしても、まず間違いはないだろうとウィンは判断した。
「七階、だったか」
 ボタンが押され、エレベーター独特の一瞬の浮遊感がウィンの全身を包み込む。

 その感覚の中で、ウィンは去り際に見せた霞スミカの満足気な横顔を思い返そうとしていた。
 だが、彼女の脳裏に現われたのは、つい今しがた擦れ違った青年の横顔だった。

 顔も知らぬ同業者は、存在して当然の事。
 顔を知っていた所で、何を変えられるわけでも無し。

 だが、妙に気になる。
 ―――そうか。
「今のが、スミカ先輩の」
 意図せずに衝いて出てきた己の言葉に、ウィンは思わず眉を顰めて中空を眺めていた。

 セレン・ヘイズ。
 その名を変えても尚、その生き様はウィンには歪んで無い様に感じられた。
 何かに縋り付かねば、この世という戦場を駆ける事も適わぬ者とは違う人種の人間。
 あれだけボロボロの有り様で、まだ挑み続けるというのか。
 何が彼女をそこまで駆り立てるのか。
 
「リンクスだから、なのだろうな。……よかったじゃないか、オッツダルヴァ」
 思い出された昨日の一幕を振り返り、ウィン・D・ファンションは静かに瞳を閉じていた。
 暫しの静寂の後、軽やかな音色の到着音がエレベーター内に響く。

「……しまった」
 今度は鉢合わせが無いのを確認して歩き出した彼女が、口元に手を当てて小さく俯く。
「―――物好きな人間が、買い占めていたとでも言っておくか」
 
 依頼の未達成を勝手に決定し、真鍮の魔女は振り向きもせずにその歩みを刻んでいった。

 

  
                                                          <完>

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