「アグラーヤ」
耳元で彼が囁いた。
愛する者の腕の中で眠る。殺し合う事を生業とする傭兵にとって、これに勝る幸
せを、少なくとも私は知らない。
「ジノーヴィー」
名を呼び返すと、彼は微笑む。
それがどうしようもなく嬉しくて、嬉しくて。私は顔を伏せた。
引き金を引き続けている彼の指は、硬いが暖かい。
無言で見つめ合い、キスを交した。
とろけそうで、甘くて二人は会えないだけに『今』を愛し尽す。
彼の唇を噛む。彼も私のを歯で破った。
小さく痛み、鼓動にあわせて血液が滲み出た。
「生きている…」
互いに酸っぱい鉄の味を感じながら、彼が呟く。胸に暗いものが落ちた。
「…違う」
「どうして?」
「分からない…」
私は意地悪だ。おかしな言葉で彼を困らせてしまう。
それがどうしてなのか、私も分からない。
彼の心に偽りは無い。いつもなら泣きたくなるような彼の言葉。けれど、今日は
違う。間違っている。
何かは分からない。
何もかも消えてしまうようで恐くなって、彼に抱きついた。
離れる訳にはいかない気がする。
「アグラーヤ…」
「ごめんなさい。貴方にしてあげられることは少ない。しかし私は望んでしまう」
私と彼の間に急に谷が開く。
理不尽でどこまでも深い。
彼の体が谷に引き込まれそうになる。不安が当たった。
それでも彼は微笑んだままで言う。遠くなる彼の声はいつまでも側に居るようで。
「いかなければ」
「私も行く」
「だめだ。まだ来てはいけない。お前には大事な事が残っている」
私はこの言葉を求めているようだった。
「分かった。でも忘れないで。貴方とあの人。どちらもかけがえのない人だと」
もう点になってしまった彼が笑って頷いてくれたのが、はっきり見えた。
彼が消えた。
谷が何なのか分かったとき、私は目を開いた。

「ジナ…醒めたのか」
「寝ていたのか…」
暖かな日差しの中、時間は五分と経っていない。泣いていたのか頬が濡れていた。
彼に言われたこの人は、私が起きるのを待っていたかのように椅子に腰掛けて本
をめくる。正しい拍子を刻む時計と、めくる音。静寂とこの人の笑顔が、先の夢
と重なって、私はこの人を背もたれごしに抱きしめた。
「弱いな。私は…またあの人が…」
「…」
私の手をそっと握りしめる。
今度は消えてしまわないよう、私は確かに指を絡めた。

夢での彼、起きたときのこの男。居ないときほど居ない方を求めている気がした。
私は確かに二人を愛している。生き残り、ぬけぬけと幸せを甘受する自分。
ジノーヴィーを今でも思い出す事はあった。その都度、この男を許していないの
かも知れないと、陰湿な私を見ている気がした。こんなことを言っても男は、い
まそうしているように、猫を愛でるような手で私の頭を撫でるだけ。
「私は…お前が好きだ。でも、ジノーヴィーも好きだ。今も割り切れない私が嫌
いだ。こんなに思い出すなら、あの日ベイロードに行かなければとすら思うんだ」
「割り切る必要はないだろ?」
曰く、過去の事実の上で俺は愛している。必要ならばいつでも罪を負う。
私の手を握り、男はそう言った。
「私だけが…楽をしている」
「甘えて良いんだよ。お前一人で背負い込む事はない」
男は握る力を少しだけ強めた。
キスは私の意志を妨げる。私の最大の特効薬は、すぐに全身を駆け巡る。
甘い痺れと沸き起こる劣情のままに、私は男の唇と舌を求めた。何故か、涙を流
している。男は指で涙を拭うと、私の頭に手を回して自分の方に引き寄せた。
それに逆らわず、私は男の胸に顔を埋める。僅かに早まる心音。心地好くて、私は
左の手でも胸板に触れた。
「お互い生きながらえた。最近俺はただそう思っている。無宗教だから神の御加
護とは言わないがな。色々あってお前を抱いている。それが俺の幸せだから、も
う少しだけ…できれば、できるだけ長く一緒にいてくれないか」
こいつの幸せは私の幸せだ。私は逃げていたのかも知れない。
ジノーヴィーの死を昇華させて、こいつをないがしろにしていた。
―笑ってくれる、ジノーヴィー?―
私は今更こいつに惚れているのを改めて自覚してしまった。貴方の影を見ないと
ころで。祝福してくれる、ジノーヴィー?
ようやく心から『愛していい』気がし
ているの。そんな私の気を知ってか知らずか男は微笑んだまま。
私も出来るかぎり笑おうとしたが、理由もなく涙が流れて上手く笑えたかは分か
らない。
「今更だがな、不束者だがよろしくたのむ」
おかしそうに笑うこいつの顔を見て、私は幸福と顔に血が昇るのを感じた。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

編集にはIDが必要です