窓の外を眺めながら、漠然とした違和感に眉を潜めた。恐らくは、来世の分ま
で運を使い果たしただろう。爆散するフォボスから生き延びたなど、自分が一
番信じられぬ。正直なところ、どう生き延びたのか覚えていないのだ。
「林檎どうぞ」
「ん?あ、あぁ。ありがとな」
ネル・オールターの小さな手が、剥いたばかりの林檎が乗った皿を支えている。
男は一つ摘むと、口に運んだ。甘味と少しの酸味。口の中に広がる味や香り、
食感が自分はまだ生きているのだと言っている。
「?…食べないの?」
「良いですか?」
まったく、生真面目だ。この林檎は病室のベッドに寝る男だけの物だと信じて
疑わないでいたようだ。
「勿論、ネルが剥いたんだしな」
「ありがとうございます」
それでも申し訳なさそうに一つだけ取って小さくかじった。
レオス・クラインのクーデター鎮圧から六日、男は記憶がない。昏睡状態だった
と聞かされた。ネルはその六日間を含めて毎日病院に通っているとのことだ。
その話を回診の時間を聞いたとき、高嶺の花に手が届くのでは−などと俗な事
を考えてしまったあたり、自分は相当に生への執着が強いようだと分かった。
「何か、不自由はありませんか?」
「ん〜…、そ、う、だ、な…特には。ネルがやってくれてるからなぁ」
「何でも言ってくださいね。私、可能な限りしますので…」
両想いなのか、勘違いか、言動の端々で期待してしまえるのが憎いこのむず痒
さ。こんな青い感情、久しく忘れていた。思い出すだけの余裕が出来たと見る
べきだろうか。
「いや本当、良いお嫁さんもらったような気分で…」
「っな!?えっ?…それって……えっ!?」
「!?あっいや、悪い。なんかセクハラっぽくて…」
「いっ、いえすいません。変な声を挙げてしまって」
少し取り乱したネルが、ハンカチで額を拭うと立ち上がった。
「ちょっと、お手洗いに」
ヒールを履いていたので廊下に出た途端、走ったのが分かった。
「これはやっちまったか…?」
もう一度窓の外を睨んで呟いた言葉は、青い空に吸い込まれて消えた。


708 :名無しさん@ピンキー:2010/12/31(金) 03:03:49 ID:8emNNZPE
あれば冗談、もしくは例え話だ。そうに違いない。ネルは洗面所の鏡に複雑な
表情を向けた。思わず抜け出してしまった気恥ずかしさ、何故こんなにも動揺
しているのだという驚き、そして何より走っただけではない胸の高鳴り。
(紅くなってないかな…ってなんでそんなこと心配してるんだろ…)
彼がフォボスから帰ってきた時、本当に嬉しかった。もう駄目だと思っていた
だけに、反動から涙も流れた。だがそれは当然の反応だ。同じく見守っていた
コンコード社の者どもも騒いでいたし、地球政府の人間もきっとそうであった
ことは類推に難くない。自分がそこに私的な感情を持ち込んでいるはずもない。
(……本当に?)
ノイズだらけの通信で彼の声が聞こえたとき、思わず出た『お帰り』の一言は、
彼が目覚めるのを信じて毎日病院に通ったのは、関わった人間として当然のこ
とだったのだろうか。
(そろそろ、戻らないと…)
彼だけの居る部屋へ。大丈夫、なんでもない。ネルは一度大きく息を吐いてか
らトイレを出た。


「戻りました」
ネルの声に男の返事はなかった。入口からは死角になっていて彼の顔は見えな
い。また物思いに耽っているのだろうか。すこし怪訝に思いながら部屋に入る
と…
「あ」
(寝ちゃってる…)
男の穏やかな寝顔を確認したネルは付けっぱなしになっていたテレビを消し、
出来るだけ音を立てぬように見舞い客用の椅子に座った。
(レイヴンでも、こんな顔するんだ…)
それはネルが初めて見る顔だった。この男はネルが担当してきた中でも好意的
に接してくれていたが、こんなにも安らかな顔は見たことがなかった。
思えば、この男との日は白昼夢のようであった。地球で訓練してきたばかりの
ルーキーがアリーナを駆け登り、気がつけば圧倒的な影響力を持つ当世最高峰
のレイヴンとなっていた。
最終的に自由と独立が認められた傭兵などという破格の地位を与えられた。
しかし今は−
「お疲れ様」
この穏やかな時間が彼に続いて欲しい。ネルは男の前髪にそっと触れる。
「…」
違う。これは決してやましい気持ちではない。もっと良く、彼の顔を見たいだ
けなのだ。自分に言い聞かせながら、ネルがゆっくりと顔を近づける。
「っう」
男の声にはっとなり、弾かれたように体を引いた。
「す、すいません!起こしちゃいました!?」
「それは良いけど…えっ?……ネルなんか…え?めっちゃ赤いぞ?」
「そ、そうですか?すいません風邪とかだったら伝染すと悪いんで、今日は失
礼します」
「あ、あぁ。本当毎日ありがとな」
「お、お気になさらず…」


「…」
男は先程の事を思い返す。寝ていたのは事実だ。ただし、髪を触られたのは分
かったから、恐らくその前後で目は覚めていた。問題はその後だ。
(あれって…)
ネルの呼吸や体温や匂い、彼女の存在を教える諸々が近づいてきた。不覚にも
呼吸が不自然になってしまい声が出てしまったが、もしあと二秒堪えられたな
ら−
(キスしようとしてた…んだよな?)
明日は来てくれるだろうか。その時はどんな顔で会うのだろうか。知らぬうち
に、お互いはお互いの事で頭が一杯になっていた。

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