星のレプリカ//クラエス、マルコー、トリエラ
      // General, //2009/11/23


  星のレプリカ 


「聞いてよクラエス、ヒルシャーさんたらさぁ!」
 夜の自室にトリエラの不機嫌な声が響く。
「痴話喧嘩なら他所でやってくれると助かるんだけど」
「ち、違うわよ!」てき面に動揺しながら言う。「今度の出張から帰ったら、一緒においしいジェラ
ートのお店に行ってくれるっていうから楽しみにしてたのに」
 痴話喧嘩だと思うが口には出さない。
「ずっと連絡なくて気付いたら公社にいるじゃない。私が聞いたらなんていったと思う? 忘れてた
だって! もう、どんな服着てこうかそわそわしてた私はなんなのよ!」
 枕がシェルフの上にめり込む。可哀相なバーシェフル。
「まあ、今度埋め合わせしてもらえばいいんじゃないの?」
「駄目。駄目ね。絶対仕返しをしてやるんだから」
 腕を組んで言う顔は目を閉じ無理矢理笑っているものの、時折ピクピクと小刻みに動いている。
 ヒルシャーさん、グッドラック。
 そう考えていることなどおくびにも出さず、クラエスはテーブルに置かれた小説のページを捲る。
「あー。こんなはずじゃなかったんだけどなぁ」
 身体を放り出して椅子にもたれる。小さい子供がするように椅子の前足が浮く。トリエラの身体が
反り、大きく息をついたのか胸が僅かに動く。結んだ髪が別の生き物のように動いた。
「もしかして落ち込んでる?」
「え? 私が?」
「ショックというのとは違って、そう見えるわ」
「あー。そうかも……」
 トリエラが渋い顔で同意する。
「なんで? トリエラは悪くないんじゃないの?」
「いやまあ、誰が悪いって言ったら、勝手に約束しといて勝手に破ったヒルシャーさんが一番悪いん
だけどさ」
 ひどい言い草だが、逆に明け透けで、そのために毒がない。トゲトゲしいものがないのは、二人の
関係の底で通じているものがあるからだろう。
「でも無理もないの。忙しくて約束の一つくらい、忘れてしまうこともあるんだから。わかってるの
よ。わかってるんだけど、たった一回約束を破られただけで、どうしてこんなに気持ちが揺らいじゃ
うのかなぁ、って……。うわぁ、言ってて自己嫌悪になってきた」
「ああ、そっか。じゃあヒルシャーさんじゃなくて、あなた自身の問題ね」
 トリエラが唇を尖らせる。
「ん。ねえ、どうしたらクラエスみたいに落ち着いていられるのかな?」
「以前にも聞かれたことがあったわ」
「クラエスのそういうところ、すごく羨ましいな。揺るがない信念が形になって、背中に通ってるみ
たいで。私、弱いとは思わなかったんだけど、いつもグラグラ。……由々しいなぁ」
 「そうねぇ」と考えるふりをして、クラエスは続ける。「そのまま頑張ることね。きっとそのうち、
苦手が克服できるわ」
「え、それだけ?」
「うん」
「うわー、同居がいのない」トリエラが呆れたように言う。「認めないわ! 豊富な経験からの教訓
を求めます」
「経験って言われても、私の方法の成功例を問われたら、私の一例しかないわ。それを信じて成功す
る人もいるだろうし、失敗する人も沢山でるでしょうけど、将来に向けた指針としてはデータ不足じ
ゃない?」クラエスが不思議な顔で言った。
「でもさ、あるじゃないほら、『苦手なお子様でも大丈夫』とか。あんな感じで」
 ほんの少し。彼女が微笑む。
 人形のようで、とても可愛らしい。
 もう大丈夫。おどけた口調でわかる。
「あれってなんなのかしらね。苦手なら食べなきゃいいし、苦手を克服したいならそのまま食べなさ
いって思うんだけど」
「言い換えなんじゃない? 大人なら食べないけどっていう」
「なるほど……。じゃあ、女性に人気が出そうは、男はこんなの嫌いだ、ね」
「辛辣だね、先生」
「自分は嫌いだけれど、ほかに需要はある、ということが言いたいのかしら。『これ、絶対ブルキナ
ファソで人気が出ますよ』と同じくらい余計なお世話ね」
 クスクスと笑いながらトリエラが髪をほどく。本当に人形のようだ。背中に翼があるのではと、連
想してしまうくらいに。
「艶、あるのよねぇ」
「え?」
「髪」
「ああ」
 手を伸ばして、左右に振ってみる。
「こんなのが目の前で風に揺れたら、ドキッとしない?」
「えっ? ……いやいや、普通でしょう?」
「そうかしら」

 ぎゅっと髪の束を握る。
 気付いたような気配。
 クラエスが顔を背ける。

「好きだな」


「え?」
「髪!」自分でも思っていなかったような大きな声が出た。「ト、トリエラの髪があの、いいなって
思って……」
「髪?」トリエラはそう言いながらクラエスの顔を覗き込む。
「うん、好きだなって思ったの」
「そっか、ありがとう」
 不意に、柔和な。
 至近距離で見つめられたので少々ひるむ。顔が何センチか後退していた。

「私も好きだよ」

「……」

 クラエスは、別の方を。
 手だけが、つながって。

「好きだよ」

「……もう聞いたわ」

「うん」

 ゆっくりとトリエラが手を離す。
「クラエス、アピールするの下手だよね」
「……そうかも」
「ま、そんなところが一つくらいあったほうがかわいいよ」
 言いながらトリエラが身体を離し、頭の後ろで手を組む。
 彼女は優しくて、気がつく。
 恐らくトーンが変わったことを気にしてくれたのだろう。
 ただ、このときはそうではなかった。
 いつだったか、こんな会話をしたことがあった。
 そこに意識が向いていたのだ。
 長く伸びた影。
 私を見下ろして少し笑った。
 開いた擦りガラスの窓。
 そこから差し込む日差し。
 埃の粒がゆっくりと蘇る。


「クラエスは、指揮官には向かんな」
「どうしてです」
「何故って、ピアノとおなじだ」哀れむような声で言う。「生まれつきの、他人を押し退けたり、引
きつけたりする華が、お前にはない。お前の音は、一人で周囲へアピールするタイプのものじゃなく、
まわりにあわせてつくられるタイプだ。それが悪い傾向だとは言わんし、変えようとしないほうがお
前自身のためだろう。それは多分、クラエスの本質的な性格そのものだろうからな」


 それはとても、鮮やかな記憶だった。まるで今にも、気だるい午後の匂いがしてくるような。
 誰だったろう?
 憶えているのに、顔はおろか声すら憶えていない。
 どうにか手掛かりを見つけようとして、それ以上記憶を探っても無駄なのだ。偶然何かを思い出す
ことがあっても、自発的に探して見つかることはない。
 そして、
 唐突に。
 どうでもよくなる。
 素敵な防衛機能だ。
 罪悪感は全く感じなくなり、
 ウェットな感覚は都合よく遮断され、
 泡のようにはじけ、
 夢のように素早く、
 音のように薄れて、
 面影は消え去る。
 私は冷たい人間ではない。
 人間ですらない、擦り切れた人形(レプリカ)なのだから。


「私、生きてくの下手かも」
 憶えていることを、幻じゃないことを、最後に確かめるようにクラエスが言った。
「切実な問題だなぁ、それ」
 言いながら、やはり、切実な問題だと思った。
 トリエラ以外の、クラエス以外の、誰にとっても。
「あら、ヒルシャーさんと上手くいってる貴方からそんな言葉が出るなんて思わなかったわ」
「そんなことないって、私だって……」言いかけて笑みがストップする。
「思い出したら腹立ってきた……」
 ギャー! と、寝た子が起きる声が聞こえた。ごめんなさいヒルシャーさん。
「これから二人で出掛けない?」
「ヒルシャーさんに言わないつもり?」
「いいのよ、ちょっとくらい困らせてやらないと」
「面白そうではあるけど……やめとくわ。面倒でしょ」
「つまらないの。いいけど。でも」トリエラは腕組みをしたまま振り向いた。「クラエスは気分転換
できる場所に行ったほうがいいと思うな。ずっと公社の中っていうのも、疲れるでしょ」
「疲れる、のかな?」
 クラエスは小首を傾げる。
 確かに、仕事と菜園の手入れをし、気付けば一日が終わっていたという日も多い。しかし不満はな
く、気分転換という行為を望む気持ちが理解できない。
 むしろ、この生き方が合っていると感じる。
 ミルクレープのように薄く積み上げられた日々。
 その縞模様はきっと綺麗だと思うのだ。
「絶対そうだって。たまには好きなところに行くべきよ」
「ふうん」
「昔クラエスさ」思い出したようにトリエラが言う。「湖に行ったって言ってたじゃない? そこな
んてどう?」
「え? そんなこと言ったかしら?」
「言ってたよ。綺麗だったって、喜んでたんだから。忘れてる?」
「忘れてる」
「じゃあ、誰かに相談してみたら? 案外、期待できるかもよ?」
「……なら、そうしてみようかな」

 そう言ったが、実のところ、クラエス自身全く期待していなかった。
 いつだって、彼女は何も期待していない。
 そういう人間になってしまった。
 望むことがあるとすれば、昨日とは違う風を感じたいと思うこと。
 それだけだ。
 だから、
 誘いに乗ってみたのも、その程度の、ほんの小さな動機だった。



 数日後のこと。


 脚部部品の試験を終えたクラエスは偶然マルコーと行き会った。世間話のように一緒に湖に行って
くれないかと言ったところ、その場で、実にスムーズに事が運んでしまった。以前湖に行ったことが
あるということ、担当官らしき人物がいたのではないかということも、勿論含めてだったのにも関わ
らず。
 クラエスは最初ジョークかと疑った。
 そうではないとわかり、耳を疑った。
 恐らく公社にとってもメリットのある話なのだろうと想像はつくけれども、それにしたって驚いた。
 まさか、本当に行けるとは考えていなかったのだ。
 一体、マルコーは何を考えているのか。
 いや、違う。
 それはいい。
 きっと、ただの気まぐれだろうが、きっかけはなんでもいいのだから。
 問題は、自分のほうにある。
 なぜマルコーに話したのか。
 自分がどうしたいのか。
 何を望んでいるのか。
 笑いたいのか。泣きたいのか。
 どれ一つわからない。
 そんなふうなのに、こうして普通に生きていられる。
 不思議だ。
 多分、
 安心したいのではないと思う。
 知って、満足できるとも思わない。
 知りたいと思うこの状態が全て。
 周囲を見るのでもなく、後ろを振り返るのでもなく。
 僅かに爪先立ちにしてくれる。
 風が一つのところに留まらないように。
 きっと、どこかへ行ける。
 そんな気がする。
 気のせいだと、思うけれど。

 マルコーが何気なく呟いた言葉が記憶に残っていた。

「事情はわかった。だが、記憶を確かめるためじゃない。楽しむためにキャンプに行くんだ。それな
らいい」
「いいです……けど、どうしてですか? 楽しくやるのが目的ならって」
 マルコーは笑った。
「大した理由じゃない。キャンプっていうのは、真面目にやろうとすると、結構しんどいからな。い
や、キャンプだけではなく、世の中ってのは、全部そうなのかもしれないが」



 車でここへ来る時、匂いで近いことがわかった。
 また、ペトラ達といた時のように、おかしくなってしまうのだろうか。
 そう思ったが、到着すると不思議なほど落ち着いていた。見たことがある光景だと思ったが、心が
乱されることはない。
 湖は、広大な葦原が取り囲むように続き、ベージュの絨毯のように日光を柔らかく受けていた。
 休みもそこそこに、早速二人で釣りを始めた。これをしないことには、夕食が寂しいことになる。
 風がクラエスの襟元をすり抜ける。どこかに群生しているのか、カモミールの微かな香りがした。
「秋だからか、花もなくて殺風景だな」釣竿を持ったままマルコーが言う。
「花はありませんけど、でも植物は色々あって面白いです。クレソンとか、花が咲く頃に来たらかわ
いいでしょうね」クラエスが楽しそうに目を細めた。白いジャケットと黒のジーンズのモノトーンに、
山吹色のマフラーが鮮やかだ。
「クラエスが育ててるのは、全部野菜だったな」
「はい」
「一度聞いてみたかったんだ。なんで野菜なんか育ててるんだ? 育てるにしたって、花の方が簡単
なイメージがあるんだが」
 マルコーの視線の先には、自生するサフランがある。蕾がもうすぐ開きそうな様子だった。
「何か、実のなるものが育てたかったんです」クラエスが笑う。「トマトなんかの蔓を伸ばす野菜は
成長は早いですけど、根元を虫にやられたら一気に枯れてします。花でも密集するようなものは、自
分自身で下の葉に日が当たらなくなったりして、そうすると枯れるしかありません。一概に育てやす
いとは言えませんよ」
 マルコーがほう、と息を漏らす。
「さすがに詳しいじゃないか」
「まあ、これしか取柄がないので」
 背を伸ばすようにして、マルコーがしばし天を仰ぐ。高い空を鳥がゆっくりと旋回するのが見えた。
「俺は駄目だな。ここもそうだが、この時期なんて、公社にも落ち葉がすごいだろう。ああいうのの
掃除って、無駄にしか思えん。放っておけよと思う」
「確かに無駄ですけど」クラエスはしばらく考えて言った。「落ち葉拾いしたことあるんですか?」
「言われてみれば、ないかもな」
「一度してみるのをお勧めします。思いのほか、色々なことがわかりますから」
「へえ…」マルコーの眉が上がる。釣竿の感触を指でもてあそびながら言った。「どんなことが?」
「重いです」
「重い?」
「落ち葉全体の重さが、拾った時に初めてわかります。馬鹿馬鹿しい行為でも、その先に意外な全体
像があったりします」
「…ほう」
 クラエスが控えめに笑って続ける。
「あとは、葉を拾うことで、植物の様子がわかります。空に伸びる枝を眺めるだけでは、気付かない
ことです。それに落ち葉の裏には、それを食べる虫がよくいますから、拾うことで環境が良くなりま
す。環境を整えても犯罪は他に移るだけだという人もいますが、自然を見ているとやはり、そこで生
活できるから仲間が増えるように思えます」
 今二人が立っている岸辺も、落ち葉が敷き詰められている。
 現状を正しく見るには、先端ばかりではなく足許をよく観察し、そこに何が捨てられていくのかを
見定めることが大切かもしれない、ということか。
 一枚一枚の葉を観察しながら、マルコーは言った。
「落ち葉を拾うだけで、よく思いが巡るもんだ」
「ただの勝手な思い込みです」
「いや、俺達のしていることも、意味があるんだと思える。役に立つ考えじゃないか」
「そういう意味で言ったのではありません」クラエスは無表情のまま首を振った。多少つっけんどん
な印象を与えたかもしれない。そう思い視線を逸らす。
「悪かったよ」慣れないことをするもんじゃないとマルコーが苦笑する。「どうもたまにそう思える
んだが、クラエス、仕事、嫌いだろう」
「いえ、そんなことは」
「好きなのか?」
「どちらでも。仕事ですから」
「どちらにしたって、草木のが好きなわけだろう。なら、公社から離れて専念してみたらどうだい?」
「……は?」長い黒髪が風に乱れるのを片手で押さえながら、クラエスが訝しげな声を上げた。
「転職だな。ああ、誰かと一緒にやるなら、同棲とも言えるか。うん」
「冗談はやめてください」
「冗談じゃないよ」マルコーは静かな口調で言った。「あるところに自分の仕事に飽きてきた男がい
てな、素朴な暮らしが好きな少女と一緒にいても、それはそれでいいと考えているんだ。どうだ、双
方うまみのある話だと思うぜ」
 これは、どういうことだ。というか、つまり、そういうことで。
「そんな、普通じゃありません」クラエスが混乱しながら言った。
「うちの連中で、普通のやつがいるか?」
「それはまあ、確かに……」いや同意してどうする。クラエスが首を振って言う。「そもそも誰かと
一緒にって、なんでそんな話に」
「目的が同じなら、互助的に結束したほうがいいだろう」
「だって」クラエスが手元を見つめながら言った。「そういうのは好きな人とじゃないと……」
「乙女が! 乙女がここにいますよ課長!」
「な、なにを言ってるんですか!」クラエスの声が湖畔に響く。これでは釣りをしに来たのか、辱め
られに来たのかわからない。
「まあそれは置いといて」
 いいように遊ばれているのに気付き、クラエスの顔が引きつる。置いとくんですか、という言葉が
思い浮かんだけれど、なんとか堪えた。
「クラエスが思っている以上に、多様な道があるから、勝手に諦めてたらもったいない、というだけ
の話だ」
「まったく…。信じられませんよ。公社が受け入れる理由がありません」
 大きく息を吐くクラエスとは対照的に、マルコーはゆっくりと、クラッシャーハットを被り直しな
がら言う。
「理由など幾らでもある。潜入、諜報に付随する単独での任務遂行能力を測るため、もしくは、任務
ができなくなった義体の心的推移に係るモデルケース。クラエスが持つ条件配置は非常に稀かもしれ
ないが、そのために逆に価値がある。義体の管理運用面からも、次世代の汎用性向上の面からもな」
「でも、パーツの試用などは私が一括して行うのが最適です」
「そんなものどうとでもなる。俺は、お前がどうかと聞いているんだ」マルコーの表情は真剣だった。
先ほどまでの笑みは掻き消え、両目は真っ直ぐにクラエスを見ていた。「第一世代に残された時
間は少ない。公社としても、有効活用したいところだろう」
 抑揚のない声だった。
 視線を固定する。
 その静止のためにクラエスの身体が熱を帯びる。何を考えるべきなのか思案する自分を、また別の
自分が見ている。マルコーも同じように視線を動かさなかった。
 そう、恐らく、彼は。
 そして、きっと、彼女は。

「やっぱりできません」クラエスは何度目かわからないキャスティングをしながら言った。
「そうか。悪い話じゃないと思ったんだがなぁ」
「仲間がいますから。落ち葉のあるうちは、私もそこにいたいんです」
「……」
 マルコーは予想していたのか、頷いただけでそれ以上何も言わなかった。
 おかしな話だと思う。植物を育てるのが好きなのに、一方では踏み込み踏みにじり踏み倒す、残忍
性の切先に立っている。
 昔見た、サーカスのようだ。命がけの演技をジェラートを食べながら眺めていられる、その、物凄
さ。
 きっと人間は、幾らだって残酷になれるのだ。私だって、例外なく。
 あれ?
 でも、いつ見たのだろう?



 釣りの後、薪にする枯れ木を集め終えると、もう日が沈むところだった。
 マルコーが焚き火を起こし、それで焼いた魚と携帯食という夕食を終える。クラエスはふと釣りの
許可証は取ったのだろうかと疑問に思ったけれど、黙っていた。
 水際で火を囲むことになったので、星が出ていることはわかったが、反対側の土地は傾斜していて、
遠くの景色は全く見えない。
 雲もなく、月もない。こんな条件の夜には、湖が空の沈殿物のように見える。
「温かいものでも飲むか?」
「あ、はい」椅子に座り、唇の前で祈るように組んでいた両手を解き、クラエスが応える。
「それでは、コーヒーを」
「ホットで?」
 クラエスは頷く。
 即時にできたインスタントのそれを渡しながら、マルコーが言う。
「どうして彼が、クラエスを置いていったのか、わかるか?」
 夕食の感想でも聞くようにすごく自然に聞くので、クラエスも思っていることをそのまま口にした。
「あの人は、亡くなったのではないんですか?」
「死んださ。しかし、その直前にクラエスから、何も言わずに離れようとしていた」
 マルコーが嘘を言っている様子はない。クラエスは思い付くままに応えた。
「わかりません。でもなんとなく、出来の悪い義体が、嫌になったのだと思います」
「違うよ」マルコーが言う。「あの人はクラエスを気に入っていた。それは間違いない」
「わかりません。では、なんでですか?」クラエスが首を振った。
「遠慮」
「え?」
「一方的に与えることが嫌になったんだ。君に厚かましい男だと思われたくなかったんだろう」
「またふざけてますよね」
「そんなことはない」マルコーは笑った。「義体の監督をする立場に疑問を感じた、と言えばいいの
か? どちらも同じことだろう。クラエスはもっと、男心を理解したほうがいいぜ」
 幾つかのヴィジョンがクラエスの脳裏を巡ったが、どれも明確な形をとらない。水彩絵の具をつけ
た筆を最初に水に浸けたときのように、筋をつくり、広がり、捩れ、流れるように、沈んでいく。
 言葉になるものがなかった。ちょうど、その色の水を紙につけても、全然薄いように。
「私は、どこへ行こうとしているんでしょうか」
「さあな。少なくとも、前進はしているんじゃないか」
「本当にこれが、前進だと思いますか?」
「到着するためには前でも後ろでも、進まなければいけない」
「どこに到着するためですか?」
「さあ。でも今度は、クラエスの番なんだよ」
「私の?」マルコーを見る。
「そうだろう。彼はきっとやるべき、それ以上のことを、クラエスにしたんだ。順当に考えたなら、
きっと」
 マルコーはそこで言葉を切った。
 クラエスの視線が湖の白く浮き立ったエッジに向く。浪はほとんどないようだった。
 あの人がクラエスに生きるために必要なあらゆることを教えてくれたこと、それはわかる。
 ここまで連れてきてくれたこと、それもわかる。
 では、これからどこへ行けばいいのか。
 どうするべきなのか。
 しかも、一人で。
 答えの出ない問いに閉じられかけた双眸が、そのとき、ある一点に吸い込まれる。

 『―ませんか?』

 わざとらしく声をひそめて。
 折れそうな手。
 よろよろしながら進んでいく。
 でも大丈夫。
 後ろにはちゃんと。

 指の間からすり抜ける。
 失われたものが。
 今度こそはっきりと、
 見えるだろうか?
 今度こそ――。


「マルコーさん」
「うん?」
「カヌーに乗りませんか?」
「カヌー? なんでまた」マルコーが岸辺に揚げられているそれを不可解そうに見遣る。「まあ、乗
りたいって言うんなら止めはしないが…」
「乗りたい。乗りましょう」
 二人乗りのカヌーは車に積んで持ってきたもので、予定では翌日の昼間に使うはずだった。
 クラエス達が乗り込むと、パドルの動きにあわせてゆっくりと動き出す。このあたりは対岸との幅
が狭く、一見川のように見える。もう少し広いところへ行こう。そう思った。
 カヌーを漕ぎながら、クラエスは手を伸ばし水面に触れた。光が濾されて、青白い冷たさだけが残
ったようにひんやりとしていた。

 それから長いこと、クラエスもマルコーも黙り込んでいた。
 湖の色は紫。目印に置いてきた懐中電灯の光も既に見えない。鳥のシルエットも曖昧になった。
 両側に茂っていた葦が途切れ、広々とした湖面に出る。
「このあたりです」
「え?」
 クラエスがそれ以上言わずに、漕いでいたパドルを水面から揚げたので、マルコーもそれに倣った。
カヌーが湖面の中央で静止する。そこから同心円状に広がる波が徐々に細く、小さくなっていき、や
がて波のない、平らな水面となる。
「これは……」
 後ろでマルコーが声を失う。クラエスにはもう、その声も、どんな音も届いていない。
 肌がひりつくようになった。
 指先から、少しずつ痺れたような感じが拡がった。
 散りばめられた、無数の。
 どうして、こんなことを忘れていたのだろう。
 どうして――。



「すごい……」
 クラエスが思わず声を漏らす。
 暗闇の中で数え切れないくらい幾つもの星が、瞬くこともなく光っていた。
 ■■■がパドルを水中から引き揚げて少しして、その光が水面に映し出された。
 水平線が消え失せ、船が空に浮いているような錯覚を受ける。
「俺が一番好きな景色だ」彼が言う。
 クラエスはただ、光景に圧倒されるばかりだった。
 星が溢れる水面は、光る糸で織られたように滑らかだった。
 まるで宇宙を進んでいるようだと思った。
 この世のものとは思えない調和。
 言葉は出ない。
 涙。
 涙はこんなときにも出るということを知った。
「ありがとう、ございます。■■■■■」頬を拭いながら言った。「私、このことを、絶対忘れませ
んから。一生、忘れませんから――」



 あのときと同じように、知らずに涙を流していた。
 彼も泣いたのだろうか?
 人間は、どうして泣くのだろう。
 けれど、涙を見てくれる人がいる。
 疑問を受け止めてくれる人がいる。
 それだけで、充分ではないか。
 彼女は目を瞑って息を吸った。
 静かに。
 自分が泣くことを許すように。

 長く生きた。
 本当に、
 本当に、
 そう思う。
 意味もなく。希望もなく。
 よくここまで生きてこられた。
 このまま星に飲まれて死ぬのも、悪くない。
 だが、すぐにまた、目を開けた。
 彼が私を生かしてくれた。
 次は私の番なのだ。

 私は、生きなければならない。

 強い突風を顔に受けたが、もう目は閉じなかった。涙が後方へ吹き飛ばされていく。
 ゆっくりと、星が流れていく。
 まだ昔の続きであるかのように、ゆっくりと。
(了)

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