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さや侍

 2024年3月15日に本稿を書いています。『大日本人』の次に見たのが本作です。
 
 前二作と打って変わって、主演が松本人志ではなくなり、また徳川幕府期と思しき時代を舞台とした時代劇になっています。
 主人公のさや侍こと野見勘十郎を演じるのは、野見隆明さんという一般の方です。さや侍は、刀を持たずその鞘だけを腰に佩いた武士であり、脱藩を試みて捕えられます。本来、切腹相当の罪を犯した人間ではあるものの、藩主の意向でひとつだけチャンスが与えられます。母を亡くして以来笑顔を見せることのなくなった若君(藩主の息子)を30日以内に笑わせることができれば、放免されるというのです。さや侍が、己の威信をかけてこの「三十日の業」に挑んでいく、というのがストーリーの大枠です。

 まず主演の野見さんは、前述の通り一般の方です。そのため、だと思われますが、台詞もほとんどありません。確かにたまにしゃべるシーンを見ると「ああ、本当に一般の人だな」という印象しか持ち得ません。一般の方をあまり責めたくはありませんが、当然その演技力は脇を固める芸達者たちには及ぶべくもなく、正直見ているのが辛くなる大根芝居です。しゃべりの芝居だけでなく動きの芝居も同様です。冒頭二丁拳銃の刺客から銃を向けられてそれを避けようとするときの挙動もそうですし、終盤に坊さんとぶつかったときの芝居も、下手すぎて意図が伝わりません(その後の展開を踏まえる限りさや侍がわざと坊さんにぶつかったシーンだとは思われますが、演技がヘタすぎるのがノイズになってこの解釈に自信が持てなくなるということです)。とはいえ、責めるべきは野見さんではなく、野見さんに不必要なしゃべりや演技を求めた演出の不徹底さでしょう。
 さや侍の娘・たえを演じるのは当時10歳の子役・熊田聖亜です。子役もあんまり責めたくはないのですが、特に時代劇調の強い古風な台詞回しでは棒読み感が強くなっていたのは確かです。とはいえ映画が進むに従って全登場人物の台詞からはどんどん時代劇調が除去されていったので、違和感はなくなっていきました。
 ただ映画が進むにつれて台詞が時代劇調でなくなっていったということは、時代劇という設定を守るための演出が不徹底だったことをも意味します。このあたりの緩さは、根っこの設定にも表れています。さや侍は、伊香藩の藩士(=伊香藩主の家臣)であるため、脱藩の罪を咎めるのは本来伊香藩主のはずですが、なぜか捕まった地を治めていた多幸藩主にその生殺与奪を握られてしまっています。現実の江戸時代でそんなことをやったら藩同士の重大な政治問題になったと思われますが、脱藩を試みた家臣にどう対処するかは結構な裁量が藩主にあったようなので、伊香藩主が処分を多幸藩に委ねたのだと解釈すれば一応筋は通ります。ただ、さや侍を狙う刺客が3人もおり、なおかつこの3人は多幸藩主とは関係のありそうな描写が一切ない(刺客のうち2人はこの藩で行われている「三十日の業」のことすら知りませんでした)ので、伊香藩がこの3人を雇ったか、あるいはさや侍の身に懸賞金かなんかを出しているものと思われますが……、まあいいでしょう!

 そのへんは些末な問題です。本作最大の問題は、さや侍の意図や背景がほとんど分からず、感情移入がしづらいことだと思われます。まず、タイトルにもなっている「鞘しか持たない」という設定すら、なぜなのか説明されません。普通に考えると「臆病だ」とか「かつて真剣で刃傷沙汰を起こして怖くなった」とかいう背景や過去がさや侍にあるのだと思われますが、そのあたりは一切描写されません。加えて、脱藩の動機も一切説明がありません。妻を流行り病で亡くしたということは作中に説明があるのですが、それ以上のことは分かりません。前述の通りさや侍にはほとんど台詞がないので、映画が進んでも彼の意図は一切明らかにならず、観客はモヤモヤしたまま置き去りにされます。三十日の業にみっともなくも挑んでいるさや侍を見ていると、生きることそれ自体に何らかの執着はありそうだというのは伝わるのですが、大部分を想像で補うよりありません。そうかと思ったら、終盤にこの推測を裏切ってくる新たな展開があり、余計に混乱します。すなわち、三十日の業に結局失敗したさや侍は、それまでの頑張りに感銘を受けた多幸藩主の温情により生き延びるチャンスを与えられたにもかかわらず、自ら割腹してしまうのです。そうなると、「命に執着があった」という仮説も成り立たなくなります。「さや侍は人を笑わせることにプライドを持っていたので、笑いをとれなかった以上プライドを守るために腹を切った」という新たな仮説も浮かび上がってきますが、中盤の展開を考えると、この最後の仮説にも大きな疑問が残ります。さや侍が三十日の業でどういう出し物をやるかは基本的に門番と娘が考えており、さや侍は受動的にそれをやらされているだけだからです。お笑いにプライドがある人ならネタを自分で積極的に考えていくはずなのに、それもしていないのです。
 なお映画の後半に、娘がわざわざ藩主の城に侵入して、若君に「刀がなくたって人は戦える」という映画のテーマらしき内容を説明するシーンがありますが、その台詞がそもそもとても説明的でわざとらしいので鼻白むうえに、観客はそれまで延々と意図不明のさや侍の言動を見せられているので、それを聞かされても到底腑に落ちません。こちらが知りたいのは、さや侍がなぜ戦っているのかと、なぜわざわざ刀を捨てたかなのです。却って、「城の警備がユルユル過ぎる」というツッコミどころを増やすだけの結果に終わっています。
 結局さや侍については、最初から最後まで「何をやりたかったのか分からない支離滅裂な人」という印象しか残りません。映画が与えてくれるヒントが極端に乏しいので、その人となりが五里霧中なのです。

 個々の出し物に着目しても、あまり感心できる内容ではありません。さや侍が若君の前で披露していたのは、基本的には体を張る芸です。前半はひたすらスベっているだけなのですが、後半に行くにつれて使われる道具が大掛かりになっていき、観客として周囲で見守る町人がだんだん味方に付いていきます。ただ基本的な中身は、人間大砲やロデオのような、「ガキの使い」で見られたリアクション芸の焼き直しです。大砲みたいな大掛かりな道具は多幸藩がマンパワー面と財政面でかなりの協力をしないと用意できないでしょうが、ずっとスベっているさや侍にそこまで目をかける藩主の胸中もよく分かりません。「そんなもの用意できるか!」と突っぱねる藩主に娘が食い下がれば、ベタながら立派なドラマが生まれたと思いますが、そういうシーンは一切ありません。ただ、そこは些細な問題です。
 問題は、野見さんが基本的にこれらのリアクション芸を淡々とこなしているだけであり、ヘイポーや方正のようなおもしろいリアクションをできていないことです。それゆえ、劇中の町人たちが熱狂していくのも白々しく思えてしまいます。実際にあの時代の人たちがああいう大掛かりな仕掛けを見たときにどういう反応をするかは、やってみないと分かりませんが、少なくとも「ガキ」で同じようなものを見ている我々は、「(ガキで見たものよりおもしろくないのに)そんなに騒ぐほどか?」と感じてしまいます。出し物がテレビ的なリアクション芸の焼き直しであるがゆえに、テレビのものと比較できてしまうのが問題でしょう。気持ちよく笑えないものを、それを生で見ている観客の笑い声や歓声といった押しつけがましい演出で無理やり笑えるように仕上げるのは、松本本人が良く思っていないはずのラフトラックと一緒です。前作『しんぼる』と同じように、松本本人がブレているせいで本人の強みが死んでしまっているのです。

 最後の最後に、それまで何回か意味ありげに画面内に映り込んでいた坊さんが、切腹したさや侍から娘に伝える思いを歌い上げるというシーンがあります。坊さんがいきなり歌い出すというこの展開は、人によっては不自然に思うでしょうが、ミュージカルなんかは全編そんな展開の連続なので、私はそんなに気になりませんでした。そしてこの歌自体はいい出来なので、グッと来ないこともないのですが、前述の通りさや侍の人物描写が支離滅裂で何がしたいのか分からないので、「今更そんなことを言われても」というポカーン感の方が勝ってきます。歌のパワーでストーリーの様々な粗を誤魔化し始めたらアナ雪と一緒です。
 ひとつ言えることは、終盤のこの唐突なミュージカル展開にも、監督・松本人志の一貫性のなさが表れているということです。前述のように嫌っていたはずのラフトラック的演出を入れ込んだのも彼のブレの証左でしょう。加えて、冒頭の三人の刺客が逃げるさや侍を襲撃するシーンも彼のブレの証拠として挙げることができます。このシーンは、それ以後の画作りと比べると、「途中で監督が代わったのかな」と思えてくるぐらいに演出の雰囲気が異なるからです。そのうえ、映画全体の展開を考えた時の必要性も分かりません(しかも3人ともあとちょっとでさや侍を仕留められそうだったのに、みすみす逃がしてしまっていたのが不自然です)。
 要は、シーンごとに個別に「いい」「おもしろい」と判断した展開を前後の整合性をよく考えずに脈絡なく入れ込んでいったために、全体的な一貫性がなくなっているのではないか、というのが私の指摘したいことです。さや侍が最後急に切腹したのも、そのせいかもしれません。前二作にもこういった傾向は見られましたが、それはとりもなおさず、松本人志が長編映画というひとつの一貫性あるストーリーを作り出すことに興味がないということなのではないでしょうか。その場その場でアドリブでおもしろいことを言う瞬発力と発想力は彼の唯一無二の才能ですが、映画制作でもそれをやってしまうと、悲惨なことになります。制作現場でアドリブで思い付いた段階では確かにおもしろいことなのかもしれません。周りにいるスタッフにもウケるかもしれません。でも、その思い付きをつなぎ合わせて一本の映画として仕上げてしまうと、見る方は映画を見にきている以上、どうしても「練りに練った脚本」だと解釈してそれを見ることになります。制作側と観客の間に生じるその齟齬が、松本が映画制作に向かないと言われる所以なのではないでしょうか。

 向いていないことを、無理にやらなくてもいいでしょう。

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