当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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憎しみと等価な愛のバイアス

 私は、お笑いやテレビゲームの感想で結構キツいことを書きます。「この人は本当はお笑いが嫌いなんじゃないだろうか」と疑われるぐらいキツいことを書きます。「この人に好きな物はないのではなかろうか」という疑念を抱かれている気さえしています。それぐらいの自覚はあります。

 そして、この疑念は半分は当たっています。私はお笑いは嫌いではありませんが、お笑いや芸人に対する「愛」はありません。そしてそれは、良いことだと思っています。
 「恋は盲目」「あばたもえくぼ」という言葉もある通り、愛は人の目を曇らせる感情です。いったんある対象物を好きになってしまうと、人はその対象物の欠点・悪い所に目が行かなくなります。気付きにくくなります。気付いたとしても、それを他者に伝えるのを無意識にも意識的にも避けるようになります。欠点を隠して、美点や良いところだけを伝えるようになります。そしてこの美点や良いところも、できるだけ強調・誇張して伝えるようになります。その結果、対象物の真の姿は霧の中に葬られてしまいます。愛というものは、対象物に対するバイアスを生み出し、本当に客観的な第三者視点からの評価を妨げる感情なのです。

 そういう意味では、憎しみと愛は等価です。憎しみの作用は愛と全く逆です。対象物の美点・良い所を隠し、欠点・悪い所を強調・誇張するという逆方向のバイアスをかけてくるのが憎しみです。ただ、バイアスによって対象物の真に客観的な評価を妨げるという意味では愛と変わりがありません。バイアスをかける方向は違っても、絶対値は一緒です。愛には、そういう負の側面があるのです。

 私には、愛がほとんどありません。それは、一面では冷徹とも言えますが、逆の見方をすれば、好きなものであっても欠点や悪い所を見逃さず、それを抜け目なく見抜くことができるという長所になっています。対象の本質を見抜き、それをストレートに分かりやすく言語化するという作業が私の得意なことですが、これは愛という感情の乏しさに下支えされています。それゆえ私はもう、自分自身の愛の乏しさそれ自体を引け目に思うことはないと開き直っています。

 昔から仮面ライダーを始めとする特撮は見てきましたが、特撮の中には芝居がヘタで見るに堪えない作品がたくさんあります。ジュウレンジャーのボーイとかはひどいですよ。長渕は結構好きでカラオケでも割と歌いますが、「西新宿の親父の唄」という楽曲に「銭にならねえ歌を唄ってた俺に 親父はいつもしわがれ声で 俺を怒鳴ってた」という歌詞が出てくるのが嫌です。「俺に」と「俺を」を重ねるのは文法的にも明らかなミスであり、それもかなりスマートじゃない部類のやつです。松本人志は天才だと思いますが、恐ろしいほど漢字が書けません。ジュウレンジャーのファンや長渕のファンや松本のファンに話を聞いてもこの手の話は多分出てこないと思いますよ。彼らは愛ゆえに、欠点を隠してしまう(あるいは、そもそも目に入っていない)のです。欠点を隠して美点だけを強調するという表現構造は広告と一緒です。広告は通常であれば対象の良いことだけを書いてあるので、それを見て「いいな」と思ったものでも実際に触れてみたら想像と違うことはよくあるんじゃないですか。愛っていうのはこういう誤導を引き起こすんですよ。

 これらの愛や憎しみという感情も、多分「味方とみなした対象を全面的に肯定し、敵とみなした対象を全面的に否定する」という人間の認知のバイアスに根差したものではないかと筆者は考えています。本来、世界はそこまで単純ではないのです。味方にも悪いところはあるし、敵にもいいところはあるのです。もっと細分化して議論をしないと客観的な真理にはたどりつけません。好みだって、細分化していいって言ったじゃないですか。「特撮が好き」なんて大雑把な言い方はしなくていいのです。「仮面ライダークウガは好きだけどジュウレンジャーは嫌い」でいいのです。もっと細かくしていいです。「バンドーラの芝居は好きだけどボーイの芝居は嫌い」でいいのです。「『やるなら今しかねえ』ってサビは好きだけど他のところは嫌い」でいいのです。「廃旅館でビビってた松本は好きだけどたまに出てくるアホには幻滅しちゃう」でいいのです。無理に主語を大きくして人に合わせる必要はありません。「ミスチルが好き」なんて言っているやつもミスチルの全ての楽曲が好きなわけではないはずです。大して好きじゃない曲もあるはずです。少なくとも好きの度合いの優劣はあるはずなんです。

 人間の認知のバイアスを取っ払った先に、真実は見えてきます。それはとても、残酷な物かもしれませんが。

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