当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

 2024年2月14日放映の「水曜日のダウンタウン」について、私個人の思うところを記します。

 前半の企画は別にいいのです。「やってはみたけど大して撮れ高のなかった企画」に対するドラスティックで突き放した編集にこの番組の特徴がよく表れていました。

 私が言いたのは後半の「インタレスティングたけし」(以下、「インたけ」と略記します)の企画についてです。見ていない人のために、OAでもまとめていた事の経緯を簡単に記しておきます。
 インたけがこの番組に初めて出たのは約1年半前の企画です。これは先輩芸人のチャンス大城からドッキリにかけられる企画だったのですが、インたけ本人に吃音があり、OAでもそれがほぼ生のままに放映されていたので、放送後に吃音協会から「吃音者への差別や偏見を助長する」として抗議が入ったわけです。
 今回のOAは、その一件に対するこの番組からのアンサーになっていました。

 とはいえこの問題は、小人症の人がレスラーとして活動していたミゼットプロレスの例を挙げるまでもなく、昔からあるものであり、特に目新しい論点ではありません。一般化すると、吃音とか、背が小さいとか、そういった多数派は「欠点」と評価するような個々人の特性を、多くの人が見るメディアで笑いの題材としてよいかという問題です。そういった特性を、笑われたくないという人がいる一方で、せっかく持っているんだからそれを武器にして、他者を笑わせたいという人がいます。ただその芸をやることで、「あの特性は笑ってもいいんだ」というメッセージを(特に子どもなどの未成熟な人たちに対して)植え付けてしまい、ひいては笑われたくない人を笑うことによって排撃する動きを助長してしまう面があるのは否めません。他方ででその芸を封じるのは、今回のOAでホランが言っていたように、その特性を活かしたい人の生きる道を封じることになります。この「笑われたくない人」と「笑わせたい人」というジレンマにどう折り合いをつけるかというのが、問題の本質です。
 まず、今回のOAを映像作品として評論する場合どうなるかという話をしておきます。前回のOA後で吃音協会が持ち出してきた「笑われたくない人」という対立軸に対して、今回のOAではそれと対抗する「笑わせたい人」を持ち出しすぎていて、メッセージが説明的過ぎました。スタジオにいるタレント陣(特に伊集院)がこの「(笑われたくない人を守るのも重要だが)笑わせたい人も守るべきだ」ということを前面に出し過ぎており、その道徳の教科書のようなストレートさがどうにも「水曜日のダウンタウン」っぽくなかったです。最後の最後にはインたけが「ネタが弱い」とイジられていたので何とか番組としての面目は保てていましたが、この番組であればもっと不道徳にやって欲しかったところです。まあ、それをやっても更なる炎上をするだけなので、到底不可能ではあるでしょう。「番組の個性が出ないけどやらざるを得ない回である」ということであれば、視聴者としては我慢するよりないです。あと加えて言うなれば、ナレーションや番組スタッフが直接自身の主張を述べるのではなくて、タレントに番組側の主張を代弁させている構図がどうにも気持ち悪かったです。「タレントが局やテレビという媒体そのものを守ろうと躍起になっている」という風に見えてしまい、松本人志を昨今の週刊誌報道から擁護する子飼い芸人と同じ「テレビ村・芸能村の閉鎖的な構図」が見てとれてしまったことが一因だと思います。

 次に私個人が前期のジレンマにどういう解決策を見出しているかを記します。
 結論から言えば、解決は不可能です。笑いというのは、自分たちとは異なる「異物」をみんなで笑いあうという経験を共有することにより、その「異物」を排撃して、共同体の連帯を高める機能を持っていると私は思っています。自分の近くに笑っている他人がいると笑いが起きやすくなるのは、その機能ゆえだと私は考えています。ゆえに、本質的に笑いというものは笑われる対象に対する攻撃的な性質を内包しているのです。これがある以上、いくら取り繕っても笑いというものは攻撃した側と攻撃された側による対立の火種を生み続けます。
 私も笑いを信奉する人間の端くれであるため、笑いの材料にできるものは多ければ多いほどよいと思っていますが、笑われることを快く思わない人たちが声を上げたことで、その材料はどんどん削られていってるのが現状です。ゆえに私も含めた笑いのクリエイター達は、削られていない山の中から何とか使えるものをサルベージするという宝探しのような知的作業を常に強いられています。この状況を打破して、使えなくなった材料が全てカムバックしてくるのが私としては理想的ですが、その実現は今のところはほとんど不可能です。実現するには、人間の進化を期待するよりありません。この進化というのは、比喩的な意味ではなく、文字通り生物学的な意味での進化です。
 とはいえ上記の宝探しが笑いという文化をどんどん豊かにしていっている面もあるので、悪いことばかりだったわけではありません。もう、私が生きているうちはそれでいいかなとポジティブに思うことにしています。

 ちなみに私も、中・高・大の時分は今よりもっと太っていたので、それを周囲からイジられていましたが、今はもう自分の身体的特徴を人からイジられるのに嫌気が差してしまっています。自分では「武器にしている」とは思っていても裏では少しずつダメージが溜まっていっている場合も多いので、インたけのように自分の特性を一生笑いの武器にしていくには、よほどの覚悟が必要です。まずもって、よほどの超人じゃなければいつか限界が来るので、本当によくよく考えた方がいいですよ(私は、光浦が留学したのも、イジられることで蓄積していった精神的ダメージが限界に達したからではないかと勘繰っています)。

管理人/副管理人のみ編集できます