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納豆製造法でも紹介されている成田巻之助のご子孫が書かれたブログ記事です

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2007-10-09 21:28:55
 わたしの好物の第一位が納豆だ。刺身やステーキなど、ベストテンにも入らない。順次、ざる蕎麦、天丼と続く。
 自分でも無類の納豆好きだとは思う。昼も家にいたら、三食は食べているだろう。いまのところ、毎朝毎晩一日二パックずつ食べている。
 人は生まれて初めて口にするものが好物になるというのは本当かもしれない。うちで飼っている猫もそうだが、最初に食べさせた餌しか食べない。人間も最初の味がその人の本当の味になる。生まれたばかりの子猫に小麦粉ばかり食べさせたら、それが主食になったという実験も見たことがある。
 これは音楽でもいえることで、最初に聴いた指揮者のベートーヴェンの交響曲で慣れると、別の解釈で振られた音がおかしく聴こえるのだ。
 わたしの原体験としての納豆は、おそらく歯が生えた赤子のときであったと思う。離乳食が納豆であった。
 両親とも共稼ぎで店をやっていたから、忙しく、わたしが生まれたときは、世話もしていられなかった。それで、祖父の故郷の南部七戸町から遠縁の娘のとし子というあだこを雇ったのだ。あだことは子守娘のことで、まだ中学一年かそこいらであったというが、学校に行かせてもらえず、学校に行きたいとせがんでいたようだ。昭和二十六年頃は、新制中学となり、義務教育のはずが、まだ貧しい田舎では、小学校を出たら働きに出される戦前そのまま続いていたとみえる。
 とし子はわたしのお守りより勉強が面白く、毎日わたしに納豆ご飯に味噌汁をぶっかけて食べさせていたという。そればかり与えていたのも、手がかからないようにしたものだろうか。また、わたしが泣くので、天井裏に猫がいると、脅かして静かにさせていたのをおふくろに見つかり、辞めさせて田舎に帰したという。その話を聞かされるたびに、わたしはとし子が哀れでならない。いま、生きていれば七十近い老婆だろうが、わたしは少女の背中におんぶされて育ったのだ。
 毎日食べていたその納豆ご飯に味噌汁ぶっかけが、いまは最高に美味しい。たとえ、満漢全席であろうが、マキシム・ド・パリのフルコースであろうが、納豆に勝てるご馳走はいまのところない。何がなんでも納豆なのだ。
 この納豆、実は、納豆菌を培養していまのようなパックで売られる元を発見したのが、わたしの祖父であった。
 明治二十五年に五所川原の飯詰で生まれた母方の祖父大久保巻之助は、五所川原農業高校を主席で卒業すると、青森の郊外新城村にあったらい病の療養所、「松が丘保養所」に患者たちの農業指導のために入る。そこで自分も医療と研究をしてみたいと、独学で励んで看護士の資格を取得した。当時は看護は女性の仕事であり、看護士というものがなかった。祖父が看護士第一号といわれていた。その後、エックス線技師もやり、熱心な性格が、園長の中條資俊に認められ、らい病の研究の助手として園長と共に研究室に入ることとなった。
 同じ園内で看護婦をしていた成田サタと大正二年に結婚する。仲人は遠縁で三味線と民謡の大家であった成田雲竹であった。
 祖父は祖母の入り婿となって、それからは成田巻之助として保養園で研究生活に入った。
 らい病は業病とか天刑病と言われ、誤解されていた歴史がある。明治政府が患者をすべて強制収容したいわば病の刑務所のようなところであった。
 特効薬は戦後、アメリカからプロミンが入ってくるまで、らいは不治の病として死ぬに任せていた。なんとか薬の開発と、中條園長と祖父は、松脂に防腐剤の効果があるからと、実験していたり、いまでは汎用されているヒノキから抽出するヒノキチオールというやはり腐らないヒノキの油を患者に投与したりしていた。大風子油というのがそれで、その効果はあまり認められなかった。体が腐るらい病の研究対象として、腐るものの研究、腐らないものの研究がなされていた。その中に納豆があった。納豆は豆が腐るが、日持ちがする。納豆菌はすでに明治の頃に発見されていたが、祖父は、その納豆菌を分離し、培養することに成功した。
 それまで、ツトという藁に入れて自然に納豆にしていたが、製造現場は不潔であった。なんとか清潔な納豆を作りたいと、祖父は納豆菌の培養と納豆を別の容器で製造する方法をらいの研究過程で偶然に発見することとなった。
 それを月刊雑誌『農業世界』のおそらく、大正六年か七年に成田巻之助の名前で発表したと祖母は晩年語っていた。農業世界の雑誌の発表論文を読んで、連絡してきたのが北海道の農学校の先生だという。祖父は別に納豆でひと儲けしようと考えたこともなく、その研究をその先生にすべて渡してしまった。「その近代的な納豆は大正七年に北海道大学応用菌学教授の半沢洵博士が『納豆改良会』を設立し、 純粋培養した納豆菌と管理された環境下でおいしく衛生的な納豆を効率よく作る運動を始めたのがきっかけ」だと調べたら出ていた。また、こうも書かれている。「半沢博士の功績無しには今日の納豆の普及は考えられない。半沢洵博士によって確立された半沢式納豆製造法は、現在の納豆製造法の基礎となるものだった。半沢博士は雑誌『納豆』などで次々と製造法を世に広め、工場の現場に足を運んでは指導した。昭和五年に札幌納豆容器改良会が発行した『納豆製造法並びに納豆に関する知識』では、その衛生管理を重視した製造法が紹介されている。」とある。
 祖父が『農業世界』に研究論文を発表したのは、農業学校を出たからで、半沢博士もまたその雑誌は講読していただろう。現在でも研究論文の捏造、盗用が後を絶たない。助手の研究を教授のものと発表する例も多いと聞く。まして、無名のしかも地方のただの技師の書いたものなど、信憑性はないだろう。それが、北大の教授というと、全国に広まるのだ。
 当時から納豆には、半沢式という製法がパッケージに印刷されていたという。
 論文を発表した後に、それを聞きつけて、青森中の納豆屋が十円という金で納豆菌の株を分けてもらいに来たと、祖母も語っていた。それが何よりの証拠なのだが、いずれも資料として残されていない。
 いま、大正時代の『農業世界』があったら、すべてが明らかになるのだが、いまだに、その雑誌はうちの古本屋にもネットにも出てこないのだ。
 祖父は、昭和十八年に五十二歳で白血病で亡くなった。放射線を浴びすぎて被爆したものだろうか。
 戦争が終わり、昭和二十三年に、占領国日本にアメリカかららい病の特効薬、プロミンが輸入されてくる。いままでは不治の病だった菌が瞬く間に消えて、治る病気になった。それを知ることなく、その五年前に志半ばで亡くなった祖父のことを、戦後生まれのわたしは伝説のように聞くだけだったが、納豆を食うたびに思い出している。

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