【定義】
仏法を見聞することで理解することを、道路に喩えた言葉。
なお、禅宗では分別的理解を否定するため、解路というあり方を批判する場合もある。
仏法を見聞することで理解することを、道路に喩えた言葉。
愚人おもはくは、たとひ聞法おこたらずとも、解路に進歩なく、記持に不敢ならんは、その益あるべからず、人天の身心を挙して、博記多聞ならん、これ至要なるべし、即座に忘記し、退席に茫然とあらん、なにの益かあらん、とおもひ、なにの学功かあらん、といふは、正師にあはず、その人をみざるゆえなり。 『正法眼蔵』「無情説法」巻
なお、禅宗では分別的理解を否定するため、解路というあり方を批判する場合もある。
近来参禅の漢、徒らに声色中に馳走し、見聞の中に求覓して、設ひ仏語祖語を暗誦し、聊か解路葛藤をなし、西天にも亦無く、曹渓にも亦無しと云とも、尚ほ得ることなし。 『伝光録』第三十五祖章
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