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【定義】

修証一等の見解から、学人修行は、既に仏陀が明らかにされている本証の上で行われていることを示す言葉。
それ、修・証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆえに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれ、とをしふ。直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の弁道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。 『弁道話

なお、このように、道元禅師は歴代の仏祖は「証上の修」として、仏法を住持されてきたと強調される。また、現代の修行者も、修行の開始が、そのまま仏陀の本証を明らかにすることを意味する。

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