曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

仏道修行することが出来る者。仏法を受ける器を持つ存在のこと。
小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆえに。いま正法にあふ、百千恒沙の身命をすてても、正法を参学すべし。いたづらなる小人と、広大深遠の仏法と、いづれのためにか身命をすつべき。 『正法眼蔵』「行持(下)」巻

なお、瑩山禅師は、あらゆる存在が道器であるとされ、修行すべきであると説かれる。
道うことを見ずや、道は山の如く、登れば益す高し。徳は海の如し、入れば益す深し。深きに入て底を究め、高きに登て頂を極めて、始て真の仏子たらん。身心徒に放捨すること勿れ。人人悉く道器なり。日日是好日なり。只子細に参と不参とに依て、徹人未徹人あり。必ずしも人を択ぶに非ず、時を択ぶに非ざること、今の因縁を以て知るべし。 『伝光録』第10章

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