曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

外道が説いたという、一切の存在の本体に当たるもの。
しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり、迷妄によりて、しばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすてて本性に帰するなり。これは、外道の本我にかへる、といふ義なり、さらに仏法にあらず。 『正法眼蔵』「大修行」巻

なお、これはおそらく、道元禅師が『正法眼蔵』「即心是仏」巻などで批判した先尼外道による霊知と同じであると思われる。同巻では、霊知の異名を多く紹介しており、そこには入っていないが同じ物であろう。
外道のたぐひとなるといふは、西天竺国外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す。万物にさへられず、諸境にかかはれず。物は去来し、境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。この霊知、ひろく周遍せり。凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空華ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了了として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の、失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭昭霊霊としてある、これを覚者・智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。万法・諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆえには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没するがゆえに。明暗にかかはれず、霊知するがゆえに。これを霊知といふ。また真我?と称し、覚元?といひ、本性と称し、本体?と称す。かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬるといひ、帰真?の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。このほかは真実にあらず。この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。これすなはち先尼外道が見なり。 「即心是仏」巻

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます