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【定義】

江戸元禄期に日本曹洞宗で活躍した僧。卍山(まんざん)は号であり、名は道白(どうはく)。『鷹峯和尚年譜』などによれば「随時子」とも号した。「宗統復古運動」及び初期の「古規復古運動」では中心的役割を果たし、「復古道人(復古老人)」と自称。

生没年:寛永13年(1636)〜正徳5年(1715)
出身地:備後(現・広島県)
俗 姓:藤井氏

【略歴】

備後にて生まれた卍山師は10歳で一線道播に就いて得度し、そのまま随身していたが、17歳になると文春に参じて、昼夜の寝食を忘れて指導を受けていた。或る日の夕方、月を見ながら坐禅をしていたとき、忽然として大悟し「夜深雲断天を洗うが如し、遍界の塵も眼光を礙ること無し」と詠んだという。

43歳の時、初めて月舟宗胡に参じ、機縁契ってその法嗣となった。延宝8年(1680)には月舟の後を受けて、金沢大乗寺住持となり、10年余り道俗接化して退董した。その後は、摂津(現在の大阪府)興禅寺や禅定寺を経て、京都鷹峰の源光庵曹洞宗(元は臨済宗大徳寺派)に改めて隠棲した。

源光庵にいる頃、世の気運が高まり「宗統復古運動」を起こすことになり、最初は独菴玄光と共同歩調を取っていたが、志半ばで独菴が遷化すると、梅峰竺信とともに活動するようになり、元禄13〜16年の間に江戸に上って幕府に直訴するなどして、目的は達せられた。

それ以来、卍山は自らを「復古道人」と称したという。

法嗣は30人余り、卍山本『正法眼蔵』(84+5巻)や、卍山本『永平広録』の編集に功があり、その説法や法語などは『卍山広録?』(全49巻)に収録され、他にも様々な研究書を発刊した学僧でもあった。

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