【心底】―しんそこ、しんてい―
  <名>
   1・心の奥。
     心根。
     本当の気持ち。




 萩村スズは今、キッチンにいた。
何故かと言うと、夕食の準備をする為に。
「……塩は、これくらいでいいかな」
 スズは、料理をすることが別に苦手ではない。
人間として自立する為には習得すべき必須技能と思い、母から色々と教わってきた。
いずれ海外に留学したいという気持ちがあり、現実にそうなった場合、
自炊が出来るか出来ないかは、大きく現地での生活も変わってくる。
観光に行くならまだしも、勉学が主目的であるなら、
体調の自己管理は完璧に行ってしかるべきであり、
留学が『向こうの水が合わないから日本に帰ってきました』などという結末を迎えたのでは、
それこそ情けないの極地である、とスズ自身は考えていた。
「人参は……これくらいの大きさでいいかな」
 で、そんなスズの背後で、彼女の母が笑顔で立っている。
基本、スズは全く家事を手伝わない娘ではない。
先の理由から、自分で出来ることは自分でするといったスタンスで、
料理にしろ洗濯にしろ掃除にしろ、やれる範囲でやってきたし、
母の手伝いをすることも、それに伴って多かった。
「もうちょっと小さい方が、味が染みると思うわ」
「もうちょっと?」
「そう、ほんのもうちょっと」
 スズの母は、家事がそれなりに出来る。
完璧というわけではないが、妻として、そして母として、その技能はまあまあなものを持っている。
一つ一つの技術はともかくとしても、
洗濯が苦手などこぞの良家のメイドよりかは、トータルバランスがとれていると言えようか。
「しかし珍しいわね、スズが食事を作ってくれるなんて」
「そう? 今まででも何度もあったと思うけど」
「そうね、何度もあったわね」
「……やっぱり『珍しい』の意味がよくわからないんだけど」
「うふふ」
「?」
 スズの母は、一見のほほんとした印象を他者に与える。
事実、性格はマイペースであり、几帳面気味なスズはそれに振り回されることが多々ある。
「学校で何かあったのかなー、と思って」
「へ!?」
 が、それ故か、やたらと鋭い一面も持っている。
そして、またそれがスズを振り回すことに繋がったりする。


「べ、別に何もないんだけれど」
「ふーん」
「な、何よ……」
「津田君、かしら?」
「ふえっ!?」
 母の言葉に、思わずスズはおたまを床に落としそうになった。
その動揺ぶりが、母に確信を与えてしまうということことを、当然彼女はわかっていない。
「あら、大当たりー♪」
「なななな、なんでアイツの名前が急に出てくるのよ!」
 母と娘の人生経験の差、と言いきってしまうのは簡単だが、案外スズは、この手の揺さぶりに弱いところがある。
覚られまいと頑張れば頑張る程にボロが出るのが人間というものだが、
結構、スズはそれが表情等に出やすいタチであるのだ。
「だって、帰ってきていきなりだったじゃない? 今日の夕食は私が作る、って言ったの」
 スズの母は、まるで魔法少女のタクトのように、右手の人差指を楽しげに宙に泳がせてみせた。
何となく、教師が生徒に数式の手解きをするかの如くの態度である。
「スズがこんなふうに急に行動を起こす時って、必ず分かりやすい原因があるのよねえ」
「わ、分かりやすい原因……?」
「そう」
 パン、とスズの母は、両手を打ち合わせた。
先程までの笑顔が微笑みの範疇なら、今の笑顔は、満面のそれである。
「ねえ、スズが牛乳を毎日のように飲み始めたのって、いつの頃だったか覚えてる?」
「……」
「私は覚えてるわよ、小学校に入学して、最初の身体測定の日だったわ」
 子供の立場からすれば、何でそんなくだらないことを延々と覚えてるんだ、とツッコミたくなるが、これが母というものである。
本当に、子供からすればどうでもいいことを、『母』はやたら詳しく覚えているものなのだ。
そして、何かにつれて引き合いに出したがる。
これは父は決してやらないことである。
『母』という『人種』の、特性であるかもしれない。
「色んな外国語の勉強をいきなりしはじめた日は?」
「……」
「中学の英語の最初のテストで満点を取った時よね。留学したい、って言いだしたのも確かそれから」
 息子にとって、父はいつの日か、必ず追い越すべき対象であるという。
だが、母は、息子や娘にとって、決して追い抜くことが出来ない大いなる壁であるのかもしれない。
『その身体の中から生まれたのだ』という覆しようのない事実が、
生物的にも、そして精神的にも、母の子に対する優位を決定的なものにしているのだろうか。
「オーダーメイドの服がいい、と言いだしたのはいつ?」
「……」
「お風呂に一人で入る、って言いだしたのはいつ?」
「……」
「買い物に一人で行ける、って言いだしたのは? ……あら、お鍋吹いてるわよ?」
「……え? あ、きゃあ!」
 おたまを放り投げ、慌てて火を落とすスズ。
そして半瞬の後、おたまを投げ出したことに気付き、床を探る。
その挙動一つひとつが、母にとって、実に楽しく、そしてわかりやすい。


「そうねー、私のピンク色のヒダヒダの脳が推理するに」
「やけに卑猥な脳ね……」
「津田君が何らかの理由でお弁当を持って来てなくて」
「あ」
「他の女の子が、じゃあ私が作ってあげようかって言って」
「い」
「で、彼にもっと近づきたくて、そして大人っぽいところをアピールしたくて」
「う」
「思わず彼に好きな食べ物が何か聞いちゃって」
「え」
「微妙にかわされちゃって、ちょっと悔しくなっちゃって―――ってところかしら? 今日の夕食作りの理由」
「おおおおおおおおおお!?」
 スズは愕然、という様子で立ち尽くした。
ここまで完璧に当てられて、それで平然を装っていることの出来る彼女ではない。
「うふふ、今日はまた新しく、私の記憶に刻まれるべき記念日になりそうね?」
「ちちち、違うわ! べべべ、別に津田なんて関係ない! わわ、私が作りたいから作るだけで、そんなりりり理由なんて!」
「あらあら、そんなにおたまを振り回して力説しなくても、私にはよくわかってるわよ?」
「わかってなーい! 全然わかってない!」
 今更スズがどう足掻こうと、最早手遅れ。
ここまで態度に表わしてしまっては、もうそれら全てが、母にとっての『調味料』になるだけである。
「でもねえ、スズ」
「ななな、何よ!?」
「多分、ライバルは多いわよ?」
「ななななな、なにぬね」
「単に好きな物を作ってあげるだけじゃあ駄目だと思うわ、さらにそこにプラス一枚、いいえ二枚も三枚も上乗せされるものがないと」
「のののののの」
「何だか津田君、すっごく鈍感そうじゃない? オンナゴコロに。嫌でも気づくようにしてあげないと」
「ののののノー、NO! 津田は、津田は関係ないってば!」
「うふふふ、ほら、お料理の続きをしないと、お父さん帰ってきちゃう」
 母にしてみれば、推理も何も、娘の心底はハナから見えていたのだ。
今日のことではない、それよりもずっと前から。
娘が初めて、津田タカトシという少年を、家に連れてきた時から。
「おたまはいいけど、包丁は振り回さないでね?」
「わわわ、わかってるわよ!」
 その意味では、今日が母の記憶に刻まれる記念日ではない。
津田タカトシと娘が出会った、その日が真の記念日になるのであろう。
いずれ、娘と津田タカトシが結ばれた時に、もしくは恋破れ、また別の良い男性と結ばれた時に、『引き合い』に出すべき―――。


「料理は欲情……じゃない、愛情よ。それが一番の奥にあるの。大丈夫、いつか機会が来るから」
「来ない! 来るわけない! 来ちゃだめえ! つつつ、津田は関係ない! 絶対に、ぜーったいに!」
「はいはい。ほら、そこはお砂糖じゃないわよ」
「わかってる! わかってるう!」
「私はスズを応援するわよ、心から、ね」
「わかってる、わかってるう!」
「あら、わかってくれて何よりね」
「!? わ、わ、わかってない! 私はわかってないー!」
「指、切っちゃ駄目よ?」
「わかってるっ!」
「アナタの為にお弁当作ったけど慣れないから指を包丁で切っちゃったてへっ、何てのは彼には通じないとおもうし」
「わかってなーい!」
「津田君なら、多分本気で心配しちゃうんじゃないかしら」
「わかってるーっ!」
「ふふふ」
 娘の慌てぶりを、母は笑った。
心の底から、嬉しそうに。



 【心底/真底】―しんそこ、しんてい―
  <名>
   2:物事の最も奥。
     一番深いところ。
  <副>
    心から。
    本当に。




 F  I  N

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