薄暗い部屋の中、少女はベッドの仰向けに寝そべりながら、じっと自分の右手を見ていた。
正確には、右手の手首から先を。
カーテンが窓にはかけられているが、その隙間から薄っすらと月や街灯の灯りが差し込んできており、
部屋の中にあるもの全てを仄かに浮かび上がらせている。
彼女の大きな家は当然庭も広いのだが、
その分囲いである外壁から邸宅までに距離があり、外の光を遮るものが無いのだ。
「……」
 右手を目の前にかざし、指と掌を見る。
そして溜め息をつき、右手を下ろす。
また右手を目の前に……。
この行為を、果たして何度繰り返したか。
少女は回数を意識をしてはいないが、それでもゆうに十回は越えているだろう。
「はぁ……」
 少女は一際大きく息を吐くと、その右の掌で自身の目を覆った。
視界が一気に暗闇になり、掌の温もりが、眉間の奥にしっとりと溶けるように広がっていくのを、少女は感じた。
「小久保君……」
 呟くように少女は、名前を紡いだ。
その響きには、彼女にとってもちろん特別な意味がある。
「……」
 むくり、と少女―――若田部アヤナは身体を起こした。
目をこらし、薄闇の向こうでぼんやりと光っている時計の蛍光針を見る。
「もう……こんな時間」
 針は、一日が終わるまであと二時間をきったことを示していた。

 ◆ ◆ ◆

 時は、今日の昼過ぎに遡る。
参考書を買いに町へ出たアヤナは、偶然マサヒコと出会った。
休日のこと、それ自体は別段おかしなことではない。
ただ、いつもと違っていたのは、マサヒコの側に天野ミサキがいないことだった。
小久保マサヒコと彼の幼馴染である天野ミサキは、
中学卒業と同時に付き合い始め、それから二年以上経った今も関係は良好そのもの。
べったりという程ではないにしろ、中村リョーコが苦笑混じりに冷やかす程度には、仲は着実に進行している。
 ややいぶかしげに思いつつ、アヤナはマサヒコに挨拶をした。
マサヒコも、それに応えた。
そこでそのまま普通に「じゃあ」と別れていれば、何ごとも無かったかもしれない。
 だが、そうはならなかった。
天野ミサキの不在を問うたアヤナに、マサヒコは「いつも一緒にいるわけじゃあないんだけどな」と笑顔で答えたのだが、
アヤナはマサヒコのその表情に、モヤモヤしたものを覚えた、と言うか覚えてしまった。
そして、「そう」とやや乱暴気味に返し、プイと視線を外すと、「それじゃ」と足早にマサヒコの前から立ち去ろうとした。
が、その次の瞬間、アヤナはマサヒコに思い切り右の掌を引っ張られていた。
勢いのまま、マサヒコの胸に背中を預ける格好になったアヤナ。
何を、と苦情を申し立てようとした彼女の目の前を、一台の大きな運送トラックが音を立てて過ぎ去っていった。
狭い十字路の角で、アヤナは道路のミラーを全く確認せずに道に飛び出してしまったのだ。
あのまま足を進めていたら、間違いなくはねられていたところだった。
「大丈夫か、若田部」というマサヒコの声を、アヤナは音声ではなく、背中に伝わる振動で感じた。
マサヒコの左手によって強く握られた、自身の右の掌が、熱くなっていくのも覚えた。
いや、掌だけではない。
図らずも後ろから抱きすくめられる形になって、頬も、胸の奥も、頭の奥も、熱くなっていった。
「気をつけろよ」と、マサヒコの言葉が再度、身体全体に響いてきた。
アヤナは、どうしたらいいかわからなかった。
普通なら、ありがとう、と感謝の意を口に出すべきだったろう。
だが、身体が固まったように動かず、舌も麻痺したような状態になってしまっていた。
どうした若田部、と三度身体の奥にマサヒコの言葉が届いたところで、アヤナはようやく金縛りを解いた。
しかし、ゆっくりと振り返り、斜め上にあるマサヒコの顔を見て、小さく「ありがとう」と呟くのが精一杯だった。
 そこから先の記憶は、曖昧になっている。
気づけば、去りつつあるマサヒコの背中と、マサヒコによって握られた右の掌を交互に見やる自分がいた。
参考書の件は、もう頭には無かった。
残っていたのは、身体の芯に残る熱さだけだった。

 ◆ ◆ ◆

 小久保マサヒコ。
この少年は、若田部アヤナにとって、形の上では特殊な立場にあるわけではない。
単なる異性の友人、というだけのことである。
中学時代に彼女が一方的に決めつけていたライバルの幼馴染であり、
知り合いになったのもそれがきっかけで、言わば成り行きでしかない。
 だがしかし、ほとんど偶然知人になったこの“小久保マサヒコ”は、
時間が経つにつれ、アヤナに色んな意味で他の異性とは異なる存在になっていった。
元々アヤナは、自身の早熟な身体と生来の潔癖症ゆえに男性とは距離を置きがちで、彼女に好意的な感情を持っている同年代の男子連も、
アヤナが発する“壁”のようなものを感じ取ってか、踏み込んで関わりを持とうとする者は皆無だった。
が、小久保マサヒコは違った。
この、探せばそれこそどこにでもいるような少年は、
壁を乗り越えるというより、元から壁なぞ無かったかのようにアヤナに接してきた。
男も女もない。
欲も気取りもない。
アヤナには、それが新鮮だった。
発育が早かった彼女は、小学生高学年の頃から、異性の目を気にするようになった。
同年代の女の子よりも大きく膨らんだ胸、そして女らしいなだらかな身体つき。
男子だけではなく、教師、果ては道をすれ違う様々な年齢の男性から、性的な欲求を感じさせる視線をアヤナは送られてきた。
顔立ちが美人と言って良い程に整い、スタイルもグラビアアイドル並とくれば、
人目を引くのはある意味当然ではあったのだが、それはアヤナにとっては決していい気持ちではなかった。
ミサキやリンコが羨むその発育状況も、当の本人にとってみれば、悩みの種でしかなかったのだ。
 いつの頃からか、アヤナはマサヒコを意識するようになった。
それが恋と呼べる物なのかどうか、中学生当時の彼女には認識出来なかった。
だが、今は……。

「小久保君の、手」
 呟きながら、アヤナはそっと、右手の人差し指と中指を唇に当てた。
そして、ゆっくりとそれを、自身の下腹部へと移動させていった。
その指先は、まだマサヒコに握られた時の熱を残している。
いや、実際にはそんなことは無いのだが、アヤナ自身は、熱さを覚えたままだった。
「……ッ!」
 スカートの中に右手を潜り込ませ、ショーツの上からそっと指先でクレバスをなぞる。
瞬間、アヤナの身体は、電撃を浴びたようにぶるりと細かく波を打つ。
「あ、あ……」
 行為を、二度、三度と繰り返すアヤナ。
局部が潤み、薄い布地が湿っていくのが、アヤナにはわかった。
「ダメ……こんなこと……」
 行為の否定を口では行うが、手はそれに反して止まることはない。
逆に、速度と強さを増していく。
「う、う……っ」
 アヤナが自慰を覚えたのは、中学の半ば頃のこと。
性に対して拒否に近い感情を持っていた彼女は、その行為を嫌悪すらしていた。
健全な少年少女なら、間違いなく通る道であり、悪いことでは無いのだが、アヤナはそれを認めることが出来なかったのだ。
しかし、アヤナの思いとは裏腹に、早熟な肉体は、同じく感覚も早熟だった。
早熟と言うより、敏感と言うべきか。
豊かな乳房の先の、薄紅色のつぼみ。
淡い陰毛の奥の、真珠と秘唇。
一度それに触れれば、頂点は、あっけないくらいに近かった。
「小久保君の手、手が……」
 アヤナの自慰の頻度は、以前は決して多くはなかった。
他の同年代の女の子の状況をアヤナは知らないが、進んで毎日自らを慰めるようなことはしなかった。
知識としてオナニーが悪ではないと知っていても、感情がセーブしてしまっている部分もあった。
だが、最近はそうではない。
自らを慰める日が、確実に増えてきていた。
「あ、んんっ!」
 アヤナはゴロリと体勢を変え、仰向けになった。
左手は上着の裾から中へと潜り、ブラジャーを外し、直に乳房を。
右手はショーツの上から、秘所を。
まさぐる手はもう、止まらない。
「くうっ、小久保くぅん、こくぼ……くん」
 太股はいつの間にかだらしなく開かれている。
普段の彼女からは、想像も出来ない痴態と言えた。
「だめっ……もうっ」
 マサヒコに握られた掌で、自身の淫らな場所を弄る。
背徳感にも似た感覚は、だが行為を加速させる燃料にしかならない。
頭の中で、色々な思いが渦を巻く。
今日握ってきた小久保マサヒコのあの手は、天野ミサキの身体を這いまわったのだろうか。
もし自分が本当に小久保マサヒコに秘所を触られたら、どうなってしまうのだろうか。
何故、小久保マサヒコは、自分のモノではないのだろうか。
「ああっ……!」
 身体を大きく反らせ、アヤナは達した。
ショーツの股の部分は、トロトロに濡れて、陰毛が透けて見える程になっている。
「はあ、はあ、はあ……」
 マサヒコを思って自慰をするようになったのは何時からだったか、アヤナは覚えていない。
最初は単純に、人間なら誰もが覚える性的衝動によるものだったが、
そこにマサヒコが脳内に介在するようになったのは、果たしてどの頃が初めてだっただろうか?
「……ごめんなさい、小久保君……天野さん……」
 アヤナの両の目尻から、透明な液体がすっと零れ落ちる。
終わった後の解放感と罪悪感。
マサヒコを思ってしてしまったこと、天野ミサキを裏切ってしまったという思い、そして虚しさ。
それらによって、アヤナは自慰の後、必ず泣く。
「う、ううっ」
 しかし、行為をやめることは出来ない。
歪んだ快楽と知っても、なお止めることは出来ない。
「私は、私は……」
 自分の想いが限界にきつつあるのを、アヤナはまさに今知った。
小久保マサヒコの気持ちは、天野ミサキに向けられている。
天野ミサキは、大切な友達である。
二人を祝福してあげるべきだ、マサヒコへの想いは、ずっと隠しておくべきだ。
アメリカから帰ってきて以降、ずっとアヤナはそう考えて、実際に以前と変わらぬように二人に接してきた。
だが今日、心のダムが決壊を始めた。
マサヒコの温もりを、改めて身体が知ってしまった。
そして、自分の想いが大きく、強くなってしまっていることに気付いた。
「どうしたらいいの……? 小久保君……」
 想いを告げれば、全てが壊れてしまうかもしれない。
それに、小久保マサヒコは、アヤナを恋愛の対象としては見てくれていない。
あくまで、マサヒコが異性として愛しむのは、ミサキのみ。
思えば、そういった爽やかな部分にこそ、アヤナは惹かれたのだが……。
「わたし、は……」
 お別れパーティの時は、まだマサヒコに対する恋心を自覚出来ていなかった。
全ては、それが原因だったのだ。
あの時に既にマサヒコのことが好きだとはっきりわかっていれば、
天野ミサキに改めて勝負を挑めたはずだった。
当時はまだマサヒコも、ミサキを幼馴染以上には思っていなかったのだから。
 しかし、今となっては遅い。
マサヒコとミサキは恋人同士として幸せな関係を築き、そこにアヤナが割って入る余地は欠片も無い。
自分だけに都合の良い恋愛など、あるわけがない。
想いを爆発させても、アヤナにも、マサヒコにも、ミサキにも、決して良い未来は待ってはいないだろう。

「う、うっ」
 アヤナは、泣いた。
いつもより多く涙を流し、泣いた。
その涙は、彼女が今まで堰き止めて、小出しにしていたマサヒコへの想いそのものだった。
「小久保君……小久保君っ……、天野さん……」
 明日から今まで通りに二人に接することが出来るか、自信が無かった。
そうするのが一番いいのだ、とわかってはいるが、それを実行出来るかどうかわからなかった。

 ポン、ポンと、時計が11回鳴いた。
無情の明日は、あと一時間後に迫っている―――


 F   I   N

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