暑い。
 夜の九時だというのに、とにかく暑い。
額やうなじに滲んでくる汗は、いくらハンカチで拭いても拭いても追いつかない。
早く帰ってシャワーを浴び、冷たいビールにありつきたいものだ。
それにしても、土曜日の残業というのは事の他疲れる。
まだまだ若い、と思っていても、体は正直だということか。
「……ふぅ」
 あの角を曲がれば、家はもうすぐだ。
やれやれ、今週は、本当に疲れた―――

「ただいまー」
「お帰りー」
 奥から母さんが、パタパタとスリッパの音をたてて出迎えてくれる。
帰ってきて、誰かが待っているというのはいいものだ。
結婚して十年以上が経つが、この嬉しさというものは、少しも薄まらない。
「ご飯はどうする?お茶漬けくらいならすぐ作れるけど」
「いや、いいよ。とりあえず、シャワーを浴びてくる」
 鞄を渡し、ネクタイを外して風呂場へと向かう。
 今日は残業なので、晩御飯はいらないと電話で伝えてある。
それでもこうやって聞いてくれる。それは、義務でも慣れでもない。
妻のちょっとした一言で、夫の疲れは少しずつ癒されていく。
決して単純と言うなかれ。
男という生き物は、そういう風に神様が作ったのだ。

 汗を流すのは、熱めのシャワーに限る。
そうすると、あがった後、熱さに慣れた肌が外気に触れて、
錯覚とはいえ、ヒンヤリとして何とも気持ち良い。
「あら、早かったのね。机の上にビール用意してあるわ」
 夏の夜、残業、シャワーの後、冷たいビール。
いちいちこちらが要求することも、むこうが確認することもない。
“わかってくれている”という事実、ありがたいありがたい。
 さっそくコップに注いで、泡にかぶりつき、グイッと一気に飲む。
「くぅーっ」
 親父臭い、ということは分かっている。
それでも出てしまうものだ。
冷たさが、喉の奥から体の隅々まで染み渡っていくその気持ち良さよ。
「そういえば、マサヒコは?」
「ミサキちゃんや先生達、いつものメンバーで若田部さんちに行ったわ。泊まって勉強会するんだって」
 今年の夏でマサヒコは十五歳になる。
ついこの前小学校を卒業したばかりだと思っていたのに、もう高校受験の年齢だ。
子の歳を数えると、自分が老いたことを認識するとは言うが、確かにそうなんだろう。
もう自分も中年、おっさんということだ。
「…………」
「…………」
「………何?」
「ううん、私も少し、ビール貰っていい?」
「……ああ、いいけど」
 コップに三分の一程、ビールを注いで、母さんに渡す。
「ありがと」
 チビチビ、という感じにビールに口をつける母さん。
「…………」
 自分は確実に歳をとった。
疲れも取れにくくなった。額も後退したし、腹も出た。
しかし、この目の前の人はどうだろうか。
目じりとか肌の張りとか、さすがに出会った頃に比べれば落ちているところは落ちている。
落ちている、のだが。

 夫婦なのだから、一緒に買い物に行くことも、当然ある。
それで最近、店に入る度に、店員が母さんの歳を聞いて驚くのだ。
「いやあ、ご夫婦には見えませんねえ」
「え、奥さんなんですか?お若いなあ」
「お幾つ程離れてらっしゃるんですか?」
「いやいや、旦那さんが羨ましい」
 半分以上は愛想、お世辞が入っているのだろうが、
こうも強調されると、夫としては嬉しいよりも悲しいという感情が先に立つ。
「旦那さんもお若いですね」くらい、ちょっとでもいいから言って欲しいものである。
ついこの前、夏物を二人して見に行った時なんぞはこう言われた。
「妹さんですか?」
 ……まったく、冗談ではない。

 母さんは、相変わらずチビリチビリとビールを飲んでいる。
アルコールが体に入ったことで、頬が薄っすらと赤い。
「……どうしたの?」
「い、いや、何でもない」
 その艶っぽさに、思わず見とれてしまった……とは恥ずかしくてとても言えない。
首を振って、ゴクリとビールを勢いよく流し込む。
「……ぷは」
「……ふふっ」
 突然頷いて、にっこりと笑う母さん。
「?」
「ふふ、うふふ」
 な、何だろう。
「ねえ、あなた?」
「い!?は、はい?」
 来た。突然に来た。
 母さんは、普段は『父さん』と呼ぶ。
それが、『あなた』になる時、それは―――
「今晩、しよっか?」
 そう、所謂夫婦の営みのお伺いというやつなのだ。
「ねぇ?」
「いや、その」
 週末で物凄く疲れてるわけで。
「ねぇねぇ?」
「いや、その、あの」
 今日も残業だったわけで。
「ねぇねぇ、ねぇ?」
「いや、その、あの、どの」
 それに大体、この前から毎晩、アダルトゲームの件で激しくシテいるわけで……。

「ねぇ……せっかくの二人っきりじゃない」
「う……」
 母さんは隣にツツツとやって来ると、猫撫で声で肩を摺り寄せてくる。
いや、だから二人っきりとかそうじゃないとか、関係無いのでは?
そんなこと、気にするような人じゃないくせに。
「……ふぅーっ」
「うわわ、た、頼むから首筋に息を吹きかけないでくれ。ゾクッとするだろう、ゾクッと」
「うぅん……」
 トロンとした瞳、唇からチロリと覗く朱の舌、そして、腕にあたる柔らかい胸のふくらみ。
「ゾクッと、ゾ、クッ、と……」
 ああ、駄目だ駄目だ。
持ってかれる。
完全に持ってかれる。
持ってかれてしまう、ペースを。
「ね……?」
「は、はい」
 ……決して単純と言うなかれ。
求められたら応える。
男って生き物は、そういう風に神様が作ったのだ。
「うふふ、嬉しいわ。じゃ、私もシャワー浴びてくるから、寝室で待ってて、ね?」
 重ねて言う。
男とはこういう生き物なのだ。女には絶対逆らえないように、遺伝子に組み込まれているのだ。
母さんが色っぽ過ぎるとか、結婚した時から主導権は握られっぱなしだとか、
まだまだ自分も現役だとか、そんなことは些細な因子に過ぎない。
きっと。
多分。
おそらく。

「おまたせー」
「……ああ」
 バスタオル一枚を身に纏って、母さんは寝室にやって来た。
ちょっとだけ、ほっとした。
いや、例のアダルトゲームのおかげで、ここのところコスチュームプレイが続いていたものだから、
今夜もとんでもない格好で現れるのとばかり思っていたからだ。
昨日はふりふりが付いたメイド服、一昨日が高校の時の体操着、その前が同じく高校の時の制服、その前がナース服……。
いったい、どこで調達してくるのやら。尋ねても、「ちょっとね」ではぐらかされてしまう。
もしかして、アヤしい店にでも行ってるのではないか。
「ふふっ」
 ニコリと微笑むと、母さんはバスタオル姿のまま、隣に寄り添ってくる。
右の肩と腕が母さんの体に触れる。
シャワーによる若干の湿り気と温かさが伝わってくる。
「ねえ、こっち向いてよ」
「う、うん」
 顔を横に向けた瞬間、唇がふさがれる。
「?」
「むむ、むぅ、ぷはぁ」
「な、ちょ、いきなり」
「えへへ、先制攻撃ってやつよ」
 先制攻撃も何も、ここ最近は母さんに一方的に先に手を出されてるんですが。
「今日は普通にいこうと思って」
「普通?」
「そ、ここいら、ずっとコスプレばっかりだったから。今日は素直に、裸と裸で勝負」
 素直にとか勝負とか言われても、こっちは困るんですが。
「ね、バスタオル……取ってくれない?」
「あ、ああ」
「で、あなたがしたいようにしていいよ?」
「あ、ああ……」
 いや、可愛らしいことをおっしゃってますが、
最終的には母さんのやりたいようにやられるのは分かっているんですが。

「ね、早くぅ」
「あ、ああ……」
 母さんをベッドに寝かせ、バスタオルをゆっくりと取り去っていく。
「……」
「……」
 自分の体は、三十を越えたという証が色んなところに出ている。
が、母さんはまだ十分に二十代で通用しそうなプロポーションだ。
トレーニングやスポーツはまったくしていないのに、不思議なものだ。
掃除洗濯、庭仕事に買い物と、主婦が結構忙しいのは事実だとは思うが……。
「なぁに、そんなにジロジロ見て。きちんと洗ったつもりだけど、まだどこか汚れてる?」
「い、いや、別に」
 太らな体質とは言っても、腰のくびれとか、背中のラインとか、中学生の子どもがいる母親の体には到底見えない。
まあ、だからこそ、店で若い若いと言われるのだろう。
「ん……」
「むぅ」
「ぷふ」
「はふぅ」
 もう一度、今度はこちらからのキス。
母さんの熱い舌が絡まってくる。何だか、鼻の奥がツーンとして少し痛い。
「ぷふ、うふふ」 
「ふぅ……」
 母さんが妖艶に笑う。
見慣れているはずの表情なのに、どうしてもドキリとしてしまう。
「あなた、仰向けになって」
「え?」
「口でシテあげるから、ね」
 ……ほら、したいようにしていいよ、とついさっき言ったくせに、もうこれだ。
いやそりゃ、嬉しくないのかとかして欲しくないのかと聞かれたら、嬉しいしして欲しいと答えざるを得ないが。

                   ◆                          ◆

「んふっ、ああ、んっ、くぅっ!」
 母さんの体が、腰の上で跳ねる。
最初にキスをしてから、どれくらい時間が経ったのだろうか。
口と胸で固くさせられ、体を重ねてからは、後背位で一回、側背位で一回、それぞれお互いにイッている。
ぶっちゃけた話、もう精力と体力が限界に近いのだが、母さんの責めは終わらない。
「ふはあぁ、ああ、んああ」
 腰の回転が変わる。上下から、今度は左右に意識した動きになる。
「うふ、ふふっ、ねえ、気持ちいい?」
 疲れた、などとは口に出せない。男として、夫として。
「ああ……いいよ」
「あは、嬉しい。くぅ、わ、私も、気持ちいいよ……ぅ、ね、胸、揉んで、あふぅっ」
「くっ……うん、わかった」
 何度でも言う。
 決して単純と言うなかれ。
求められたら応える。
男って生き物は、そういう風に神様が作ったのだ。
ましてや、若々しくて美しい妻が望んでいるのに、それを蹴るような愚かな旦那がどこの世界にいるというのか。

「ひゃぁ……ッ、ちく、さ、先のほ、方、お願い、お願いぃ」
 きゅ、と乳首をつまむ指に力を入れる。
尻と腰がぶつかる、ぱぁんぱぁんという卑猥な音が、部屋の天井にあたって跳ね返ってくる。
「は、くはっ、あな、たぁ、私、も、イキそ、うぅぅあはっ」
 それはこちらも同様だ。三回目のダム決壊が近づいている。
「くるぅ、くるぅ、きちゃうぅ」
「くぅっ……!」
タイミングを合わせ、下から思い切り母さんの体を突き上げていく。
「あ、ダメ、ダメ、い、きゅ、う、うう、うううううーっ!」
 ふわり、と糸の切れた人形のように、母さんが胸元へと倒れてくる。
それを受け止めながら、とても三度目を思えないような勢いで、コンドームの中へと精を放つ。
「くふ、う、ぅぅ、うん……ん」
「はぁ、はぁはぁ」
「ふひゅ、う、ふう、ふぅ」
「はぁ、はぁ、はぁ」
 繋がったままで、共にしばし息を整える。
肺の奥の方から、急激に疲労と眠気が沸いてくる。
「はぁ……ふはぁ」
 後始末が残っているが、いっそ、母さんを抱き締めたこの格好で、
夢の世界へ行っても、
いいかなと、
おも、
……う……。
……ぅ。
……。

                   ◆                          ◆

 眠い。
 昼の十一時だというのに、とにかく眠い。それに暑い。
額やうなじに滲んでくる汗は、いくらハンカチで拭いても拭いても追いつかない。
早く帰ってシャワーを浴び、涼しい部屋で冷たいお茶にありつきたいものだ。
それにしても、日曜日の町内会行事というのは事の外疲れる。
まだまだ若い、と思っていても、体は正直だということか。
「……ふぅ」
 あの溝を掃除すれば、残りはもうちょっとだ。
やれやれ、今日は、というより昨晩は本当に疲れた。
……と言うか、母さんも次の日が町内会一斉ドブ掃除だと知っているのなら、
少しは加減してくれても良かったと思うのだが。
後背位、側背位、騎乗位、そして最後に正常位。
今朝は六時に叩き起こされたので、四時間も寝ていない計算になる。
一週間仕事の疲れを溜め込んで、さらに精力を搾り取られ、
ゆっくり休めず体力仕事とは、まったくもって辛いという他無い。

「ただいまー」
「お帰りー」
 奥から母さんが、パタパタとスリッパの音をたてて出迎えてくれる。
帰ってきて、誰かが待っているというのはいいものだ。
結婚して十年以上が経つが、この嬉しさというものは、少しも薄まらない。
「ご飯はどうする?ソーメンくらいならすぐ作れるけど」
「いや、後でいいよ。とりあえず、シャワーを浴びてくる」
 軍手を渡し、タオルを首から外して風呂場へと向かう。
「ふぅぅ」
 汗と疲労、眠気を流すのは、熱めのシャワーに限る。
たっぷり十数分は浴びて、体と精神に渇を入れてからあがる。
「あら、長かったのね。机の上に麦茶用意してあるわ」
 夏の昼、町内会の行事、シャワーの後、冷たい麦茶。そして―――
「お疲れ様、父さん」
 妻の優しい一言。
それで、夫の疲れは少しずつ、しかし確実に癒されていく。
決して単純と言うなかれ。
男という生き物、夫という生き物は、そういう風に神様が作ったのだ。
女の、妻の温もりで、体と心の力が回復する。そう遺伝子に組み込まれているのだ。
何と幸せなことか。

「ありがとう、母さん」
「うふふ、どういたしまして」

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