三葉ムツミは、ピュアである。
ピュアであると周知されているし、彼女自身そう周りに言われ、ああ自分はピュアなんだ、と信じ込む程度には純粋な少女である。
しかし彼女のそのピュアな心を下ネタで蹂躙する少女達もまた、存在する。
同級生、先輩、後輩を問わず変人の多い桜才学園の中に二年通い続け、三葉の頭にもマニアックな下ネタこそ植え付けられているが、肝心の彼女がその意味をあまり理解出来ていなかった。
だからこそ、彼女は今日この日までピュアなままでいられた。
ピュアである事は変人の多い桜才学園において異彩であり、彼女の個性の一つとして認知されていた。
だが、彼女自身はその事に矜持を感じていた訳では無い。
むしろ時折周りの会話に付いていけなくなる自分の無知を悔やむことすらあった。
誰かに意味を尋ねても『ムツミはそのままでいて』と溜め息混じりに返されるばかり。
別にいいや、興味ないし。負け惜しみでもなんでもなく、彼女の真剣な答えだった。
彼女の純粋無垢と言う名の牙城は、一見すれば難攻不落の要塞にも見えたのだった。

………………………………………………………………………………

桜才学園は厳しい校則で知られている。
買い食いやジャージ下校、果ては恋愛に関してまで校則が定められている。
勿論、それらの厳しい校則をかいくぐって学生生活に励む生徒も少なくない。
現代っ子の女子高生(一部男子)達が真面目にそれら全ての校則を遵守できる筈もないのだ。
それこそ生徒会役員等の極一部以外の生徒は。
むしろ強過ぎる軋轢が、反発をより大きなものにする場合すらある。
新聞部部長、畑ランコはその例として取り上げられても仕方のないような女生徒であった。

「……ふむ、これは記事用ね。……ううん、こっちも記事用かしら」

新聞部部室にて、先週一週間分の写真を厳選しながら、畑は一人言を呟く。
彼女は新聞部員達が撮影してきた写真の山を、大きく二つに分けていた。
一つは校内新聞の記事として利用する、いわば健全な表の写真。
もう一つは記事として利用するには際どいカットの写真で、こちらは畑が全て引き取っている、いわば裏の写真。
新聞部部長の権限を利用して、記事として不要な写真を回収し、売り捌くのだ。
顧客は桜才の生徒、外部の人間を問わない。収入の一部は新聞部の部費に還元、多くは畑の懐へ。
勿論盗撮と半ば変わりのない犯罪行為であるのだが、現在の所、その実態は掴まれていない。
写真の厳選を終えた畑は、裏の写真の種類の少なさに溜め息をつく。
まともに売れそうなのは精々、偶然写った女生徒のパンチラくらいだった。

「最近はイベントもないし……」

せめて夏場ならプールがコンスタントにあるのに、と思いつつ畑は四枚しかない裏の写真を手に取った。
太もものアップ、体操着のブラ透け、強風によるパンチラ。


そして最後の一枚は、思わず眉をひそめるようなものだった。

「津田君ねぇ……」

新聞部内に密かに彼を慕う女子がいるらしく、何故か部員から提出された写真に津田の写真が普通に交じっていた。
教室で一人、昼休みに机に伏して昼寝をしている時に撮られたのであろうその一枚。
結構近い距離で撮られているが、当の本人から新聞部に何も苦情がない以上は感づかれていないと考えるのが自然だろう。
腕枕から覗く幸せそうで無防備な表情は、なんとなく母性をくすぐる可愛らしい写真であると、畑も若干は感じる。
しかし、畑はイマイチそれの利用価値を見いだせずにいた。
記事としては勿論使う事は出来ないので、一応こちら側に入れてはいるが……。
どの部員が献上した写真かは分からないので返却する事も出来ない。だが、捨てるのも勿体ない。
畑自身が津田に特別な好意を持っている訳でもないので、畑自身が所持するにも手に余ってしまう。
津田もそこそこ人気があるので多少の需要もあるにはあるが、天草会長の写真の売り上げには及ばない。
せめてここで眠っているのが天草会長なら、焼き増しを約束された優良商品となっていたのに。
畑は叶わぬ願望にさっさと見切りをつけ、今ある写真の有効利用を考える事にした。

「差し当たっては……あそこかしらね」

津田の隠し撮り写真を懐にしまい、畑は席を立った。
あの子自身は隠しているつもりだろうけど、傍目に見ればあの子が津田に好意を持っているのは明白。
会長あたりに売ってもいいけど、公明正大な彼女が買い取る訳なぞある筈もない。
だからピュアなあの子に、ちょっとおませなプレゼント(有料)としゃれこもう。
畑の足は、体育館……柔道部の練習場へと向かっていた。

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その日の夜中。
パジャマ姿の柔道部主将三葉ムツミは、自室の机の上にある二枚の紙切れを眺めつつ、唸りを上げていた。
帰り際、制服に着替えている時に、柔道部の部室の自分のロッカーに放り込まれていた物だ。

「『練習中のようでしたので、こちらにお邪魔しました。お代は後ほど』
 ……って言われてもなぁ」

一枚は写真。同級生の男子生徒、津田タカトシの寝顔の写真だった。
もう一枚は、上記の言葉が書かれた簡素なメモ。一体差出人は誰かと思ってメモを裏返せば、畑ランコと言う署名がされていた。
三葉は不思議だった。何故畑先輩が、私にこんな写真をくれたのだろうか、と。
そして『お代は後ほど』と言う事はつまり……お金をとるのだろうか。勝手に写真を押し付けてきたのに。
畑に文句を言う権利くらいはあるだろうと携帯電話を取り出すが、生憎彼女は畑の電話番号を知らない。

「……明日返せばいいや」

三葉は早々に思考を、目の前の写真に切り替える事にした。


写真の向こうの津田は無垢な寝顔を惜しげなく三葉に披露してくれている。
思わず写真を凝視してしているうちに、三葉の頭に一つ疑念が湧いた。

「そもそも、タカトシ君は撮られた事知ってるのかな?」

ふと、三葉の頭にそんな疑問が浮かび上がってくる。
もしもタカトシ君が知らないままなら、これは確か、なんだっけ、そう、盗撮だ。盗撮じゃないか。
本当に盗撮だったら、タカトシ君はこんな写真があるのを知らない。
いつのまにか寝顔の写真が人の手に渡ってると知れば、どう思うだろう。
自分に重ねてみれば分かる。見ず知らずの誰かが自分の恥ずかしい写真を見ているのだとしたら……。

「……ちょっと、やだな」

背筋が少し寒くなる。それと同時に、彼女に津田の写真を所持している事への罪悪感が沸き上がってきた。
タカトシ君は今、こんな気分を味わっているんだ……だとしたら、可哀想だ。
彼にそんな思いをさせるくらいなら、こんな写真はない方が良いに決まっている。
畑さんに返すより、今処分して、私がお金を払った方が円満解決するよね。
心優しい三葉は写真を捨てようと、机の上のそれを取り上げて、脇のゴミ箱の上まで運ぶ。
そして、そこで動きが止まってしまった。
捨てなきゃいけないのに、指が離れようとしない。
ダメだよ、早く捨てなきゃ、タカトシ君が可哀想だよ。と心の中は叫んでいる。
でも、一方で、ゴミ箱に写真を捨てる、と言う行為に思わず手が止まってしまう。

「……人の写真をゴミ箱に捨てるのって、なんか気分悪い」

捨てる決意は、己の独り言のせいで急速にしなびていった。
でも、だ。これを所持している訳にはいかない。別の案は何かないだろうか。

「……タカトシ君に言えばいいか」

三葉は閃く。そもそも、この写真が盗撮によって撮られた写真であるのが問題なのだ。
本人から許可が降りれば別に捨てる必要もない。せっかくよく撮れてるんだし、勿体ない。
三葉は携帯電話を開いて、津田の電話番号を呼び出し、コール。
プルルルル……と、無機質な音をバックに、津田に言うべき事をおさらいして……そして慌てふためいた。
考えるより先に手が動いてしまった自分の浅はかさを、三葉は後悔する。
電話をかけて、なんて言えば良い?
タカトシ君の寝顔の写真があるんだけど、どうすればいいかな?
などと言えば、津田は当然、何故そんな写真を持っているか疑問に思うだろう。

『もしかして、三葉が撮ったの?……それって、盗撮だろ』

津田の冷徹なドン引き声が、まるで本当に聞こえてきた気がした。


慌てて電話を切って携帯電話を閉じて、ベッドの上に放り投げる。
ダメだ、タカトシ君に言うのは止めだ。嫌われるのは何が何でもゴメンだ。
……この際、仕方ない。秘密にしてれば、多分バレない。やっぱり明日畑さんに返そう。
畑先輩が渡してきた写真なんだし、彼女からタカトシ君に告げ口されることはまずないだろうし。
三葉はそう考え、心の中で津田に謝りつつ、改めて彼の写真を見つめる。

「……ふふ」

三葉は思わず笑みを零した。
さっき見た時はあまり考えていなかったのだが、よくよく見れば津田の寝顔が全面に写った、三葉にとって至高の一枚であった。
三葉ムツミは津田タカトシに想いを寄せていた。
いつの頃かははっきりせず、初対面の頃か、それより後か、最近になってかは分からない。
しかし今では三葉自身も、津田への好意を明確に自覚していた。
その大好きな津田の寝顔を、こうして好きな時に眺められるのであれば、別に良いか。
写真を捨てる、もしくは返すと言う選択肢は、段々と三葉の中から消滅し始めていた。

「可愛いなぁ、タカトシ君」

そうやってぼうっと津田の写真を眺めているうちに、ムツミは我に返る。
確かに言わなければバレはしないだろうが、だからってこうやって穴が空く程写真を見るのはタカトシ君に申し訳ない。
気を紛らわそう。そういえば、今まで忘れていたが今日は宿題があった筈だ。三葉は鞄を漁り、ノートと筆記用具を取り出す。
……だが、三葉の集中力は十分も続いてくれない。
気がつけばシャーペンもノートの上に打ち捨てられている。教科書は支えを失って閉じっぱなし。
手は無意識的に、机の上の津田の写真に向かっていた。

「…………はっ!」

自分の手を引っ込めて、ニヤつく自分の微笑みに気がつき、三葉は頭を振る。
消えよ煩悩とは思ってはみるものの身体は正直で、油断すれば津田の写真に意識が向いてしまう。
苦手な勉強では煩悩は払えぬと痛感した三葉は、本棚に溜め込んである柔道の雑誌を読む事にした。
柔道家達が熱く戦う写真を見つめれば、自然と心も身体も熱く滾ってくる。煩悩なんていちころだと、三葉は安堵しつつ雑誌を捲る。
確かに熱くなってくる。くるのだが……。

「……あれ、この人なんかタカトシ君に似て」

自分の独り言の意味する所を察知した三葉は、読んでいた雑誌を素早く閉じて本棚に強引に突っ込んだ。
どうしても頭は今日偶然自分の手に転がり込んだ、想い人の寝顔の写真の方に向いてしまう。
このままでは負けちゃう、もう今日は早めに寝よう。宿題は……明日誰かに写させてもらおう。
一体彼女は何と戦っているのかも分からないまま、しかし目の前の敗北から逃げる為に電気を消して、頭から布団を被る。


……言うまでもなく、彼女が就寝する事は叶わない。
頭の中を駆け巡る津田への想いは、布団で押さえつけられるような生易しい物ではなかった。

「………………」

数分後、無言で布団をはぐり、三葉は灯りをつける。手を伸ばした先には津田の写真。
恋する乙女の我慢の限界であった。

「えへへ……」

津田の写真を眺めて、三葉は少し頬を赤くしながらも、嬉しそうに微笑む。
間近で見ると、津田の顔の思わぬ特徴をも知る事が出来た。
ほくろの発見、案外高い鼻、今まで気がつかなかったが奥二重……etc。
仲の良い『友人』の三葉は、ここまで至近距離から津田の顔を見る機会はなかった。
こんなに寄る事なんて、それこそキスでもするんでなければ有り得ない。

「……キスかぁ」

未知の感覚である接吻について想いを馳せた事は過去に何度もある。
柔らかいのにはきっと間違いないんだろうけど、どんな感覚なのだろう。
初キッスはレモンの味がする、と言う迷信を未だに信じている純情な三葉は、自分と津田のキスを妄想してみた。

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理想のシチュエーションは、やっぱり学校からの帰り道。
自分の部活が終わるまで待っていてくれたタカトシ君と肩を並べて下校する。
帰りに寄り道して遊ぶのは校則違反だけど、公園に寄るくらいならば生徒会のタカトシ君も許容するだろう。
二人でベンチに座って、他愛もない会話を繰り広げ、ふとした瞬間に見つめ合って、タカトシ君が言うのだ。

『三葉、キスしても、いいか?』

そして私も彼の目を見つめ返して、少しはにかみながら答える。

『……うん、私も、したい』
『じゃ、目、閉じてて』
『う、うん……』

………………………………………………………………………………


ここでレモン味。なにがなんでも、レモン味。少なくとも三葉の中では、それはもはや確定事項だった。
ほんの少し前のように相手もいないのにキスの感覚を想っていた頃とは違い、今は具体的にキスしたい人がいる。
しかし、その想いは果たして成就するものなのか。
愛しの彼の周りは才色兼備な女の子だらけ。柔道一直線で頭も悪い自分なんかに、彼は振り向いてくれるのか。
そう考えると苦しくなる、不安を何かにぶつけたくなって、どうしようもなくなってしまう。
いつもは腹筋背筋腕立て伏せで心を無に帰すのだが、今の彼女の手の中には例の愛しの彼の写真。
三葉の心臓が大きく跳ね上がった。
……写真の彼にキスをしてみる、と言うアイデアが頭に浮かんでしまった。
不安は多少紛れるかも知れない、でも、いくらなんでもそんなの……。
まるで変態みたいじゃないか、と三葉は誰に見られている訳でもないのに躊躇していた。
躊躇はしていたが、否定はしなかった。キスへの興味、津田への恋が三葉の背中を後押しする。
踏みとどまるのは、自分の中の初心な心がブレーキをかけるからだ。
はしたないから、やってはいけない。それが彼女の好奇心の唯一の障害だった。

「……でも、やっぱり」

ものの数十秒程で、彼女のブレーキは陥落した。
別に誰かに見られる訳じゃない。だったら、大丈夫だよね……。
と、三葉の唇は、ゆっくりと、しかし確実に写真へと向かい、進む。
3cm、2cm、1……そして、0。
口をつけた。三葉は目を瞑り、写真の中の津田と唇を合わせた。
ラミネート加工のツルツルしたフィルムの感触が三葉の唇に返ってきていた。
それは当然だ。瞑っていた目をゆっくりとあける。
目の前にあるのは単なる写真だ。決して生身の津田タカトシではないのだ。

「……やっぱり、違うんだろうなぁ」

三葉は唇を写真から離して、溜め息を吐く。
イメージが湧かない、と言うのが三葉の正直な感想であった。
実際の経験がないのに、キスなんて感触の想像ができない。
三葉は改めて写真を見る。こんなに近いのに、彼がさっきよりも益々遠い存在に思えてきた。
馬鹿らしい。気分も冷めてきた。三葉は欠伸を一つ、部屋の電気を消そうと立ち上がった、その時。

「〜〜♪〜♪」

携帯電話が、着信を知らせていた。
時間は十一時過ぎ。夜分遅いかどうか、高校生にとってはギリギリのラインだ。
ベッドの端に投げ出されていた携帯電話を取り上げ、発信者を確認する。
……津田タカトシ。そう表示されていた。


「え」

当然三葉は平静を保てない。何故、今、よりにもよってこのタイミングで。
眠ろうとしていた頭が、まるでカンフル剤でも投与したように覚醒する。
先程写真が相手とは言え津田に口づけをしていた訳で、頭の中身はタカトシ君一色状態に逆戻りしていた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
慌てた状態で出て、変に思われたくない。でも早く出ないと切れちゃうかもしれない。
混乱に混乱が重なった三葉だが、なにより大事な電話に出るという事だけはできた。

「も、もしもし!?」

微妙に声がうわずってしまったが、電話口の津田が気にした様子はない。

「あ、三葉。さっき電話くれたろ?
 時間も遅いからかけ直そかどうか迷ったんだケド……もしかして、今寝てた?」
「え?……あ!い、いや。起きてたよ……」

先程津田に電話をかけかけた事を、三葉はようやく思い出す。
わざわざ電話をかけ直してきたらしい。
その時ばかりは三葉も、タカトシ君も余計な気遣いをしてくれた、と彼を心の中で非難した。

「悪いね、今まで風呂入ってたんだ。で、三葉、何か用?」
「あ、そ、それはね……ええっと……」

口籠る三葉を、津田は不思議には思うが、不審に思う事はなかった。
今度は三葉の都合が悪かったのだろうか、と津田が心の中で申し訳なく思っているなんて、三葉は毛程も知る事はない。
その一方の三葉は頭の中で言葉を必死に探していた。
電話した理由、理由……まさかさっき電話で言おうとした事を喋る訳にもいかない。
なにか丁度良い用事はないか、と三葉が必死で取り出した案は。

「あの、今日、宿題出たじゃない?」
「宿題……あぁ、英語の」
「私、あんまり英語得意じゃなくって……タカトシ君は、出来た?」

三葉としてはよくやった自分、と褒めたいくらい明確で妥当な用事であった。
自分でやるつもりなんて先程完全に失せてしまったのだが、そこは少し見栄を張る。
三葉が勉強のことで電話してくるなんて、珍しいな……と、津田は相変わらず不思議には思っていたが、一応明確な理由が示された事で納得する事にした。

「出来たよ。量は多いし時間かかるけど、教科書見れば全部分かる」
「そっか。うん、ごめんね、遅い時間に」
「いや、オレこそ。……もしかして、まだ出来てない?」
「……う、うん。まだ、やってないんだ」

貴方の寝顔の写真が気がかりで集中出来ませんでした、なんて口が裂けても言えない。
三葉は津田の、非難と言うよりは心配そうな声に、申し訳なさそうに返した。
呆れられてしまっただろうか……と不安になる三葉に、津田は優しい声をかける。

「まぁ、三葉は毎日柔道部で忙しいしな。仕方ないさ。
 もし分かんない所があったら、また電話してくれ。オレ、まだ寝ないし」


「え、でも……」

三葉は部屋の時計を確認する。十一時過ぎ。遅い時間だ。
明日の朝練を考えれば、三葉はそろそろ眠るべきなのだが、それは津田にも言える事だ。

「タカトシ君、明日朝早いんじゃないの?
 明日は校門で朝、服装チェックするって、教室でスズちゃんと話してなかった?」
「早いけど、それは三葉だって同じだろ?オレは平気だよ」

タカトシ君は優しい人だ。三葉は初めて会った日から今までで一度だってその認識を変えた事はない。
柔道部設立の手伝い、合宿のマネージャー、少しだけ勉強を教えてもらう事もある。
いやな顔一つせずにいつも三葉を助けてくれる。
彼には感謝している。でも、感謝している以上に、彼に恋をしている。だからこそ彼の事も心配だった。

「で、でも、やっぱり早く寝て。
 わざわざ私の都合でタカトシ君に迷惑かけたくないよ」
「……ありがとう。優しいな、三葉は。でも、オレの心配はいいって。
 それより、早く宿題始めろよ?
 人に写させてもらうってのは、オレの立場上、認めちゃいけないし」

津田が笑いながらそう言った。三葉は受話器の向こうの彼が微笑んでいるのが見えるようだった。
津田の一言一言が、三葉の心に染み渡っていく。津田の言葉に暖められ、三葉は思う。
この人を好きになって良かったと、心の底からそう思う。
三葉は自然と満面の笑みを伴って、明朗快活な普段の彼女らしい言葉を返した。

「ありがとう、タカトシ君。私、頑張るよ!」
「その意気だ……でも、あんまり無理するなよ。
 分からない所があったら、遠慮なく電話してくれ。
 終わった時にメールか電話か、くれるとありがたいケド」
「……終わるまで待ってなくてもいいよ。先に寝て」
「それじゃ分からない所があった時、三葉が困るだろ」

津田は何でもない事のように、平然とそう言ってのける。
三葉は感激のあまり涙が出そうであったが、堪える。

「私、結構時間かかっちゃうかもだよ?」
「そうならないように、オレも手伝うからさ」


「……本当に、ありがとう!今すぐやるね!また後で!」
「あぁ」

別れを告げて電話を切って、三葉は一つ大きく深呼吸する。
また一段と彼を好きになって、三葉はすぐさま勉強机に座る。
思えば、こうやって津田と二人っきりで長々会話した事はあまりなかったのではないか、と三葉は回想する。
教室で会う時は、周りにはクラスメイトのみんながいる訳だし、二人で遊んだりする事も当然ない。
夜中に電話で話をするなんて、まるで恋人同士みたいだな。
三葉は照れつつも、津田との約束を果たす為に、机に投げ出されたやりかけの宿題に目を移す。

「よし……やるぞ!」

頬を叩いて気合注入。出来れば一時間くらいで終わらせたい。これは最早自分だけの戦いではないのだ。
明日の朝練のためにも、なによりわざわざ起きていてくれると言ってくれたタカトシ君のためにも。
ベッドから飛び降りた三葉は、シャーペンを握りしめて、苦手な英語の宿題に、正面から勝負を挑んだ。

………………………………………………………………………………

正面から挑んで、敗北を喫した。
厳密には三葉は負けていない。問題そのものが分からない訳ではない。
ただ、宿題をするには彼女の集中力が足りないだけで。

「……ううぅ」

頭を掻いてみた所で、英単語が記憶出来る訳でもない。
集中できぬ原因ははっきりしていた。津田だ。津田の写真だ。電話越しの津田の声だ。
彼の事を想う時間が長く濃密だったのが、最大の要因なのだ。
頭の中が津田タカトシに支配されていて、三葉自身それを嫌だと思っていないのが問題だった。
英単語の一つをノートに書き写す余力すら失った三葉は遂にペンを机に置いてしまう。
そして手が伸びるのは携帯電話。だが、すんでのところで思い留まる。

「ダメだ。分からない所がある訳じゃないのに……」

今電話をかけても、タカトシ君に迷惑をかけるだけだ。
彼の為にも頑張ると誓った筈なのに、どうして私は宿題に集中出来ないのだ。
三葉は苦悩しつつ、再び教科書を覗く。頭から読み始める。三行目で沈む。
津田の顔が思い浮かんでくる。顔がニヤける。頭を抱え、掻きむしる。
これじゃダメだと教科書を読み始める。そして沈む。
そんなサイクルを繰り返しているうちに、三葉は遂に教科書を閉じた。

「タカトシ君……」

口が自然と、彼の名前を紡ぐ。それだけで、頬が綻ぶ。胸の奥が熱くなる。


気分が盛り上がり過ぎていた。
もしも今彼と面と向かってしまえば、三葉は一も二もなく胸の内の想いを曝け出してしまうかもしれなかった。
返事も待たずに自分から抱きついて、キスしてしまうかもしれなかった。
それぐらい今の彼女は、津田を求めていた。
彼と一緒に居たい、彼と話がしたい、彼と触れ合いたい、彼と一緒に……。
トクン、と彼女の身体の中で、彼女自身気づかぬ何かが動き始めていた。

「……なんか、暑い」

運動後の火照りや、夏に感じるような灼熱とは別種の、彼女にとって未知の上気であった。
身体の芯から仄かに広がるような熱は、瞬く間に全身に伝播し、彼女を戸惑わせる。
パタパタと手で顔を仰ぐが、そんなもので身体は冷めてはくれない。
三葉は、誰がいる訳でもないのに、周りを見回す。
……仕方ない。自分の部屋の中なら、別にどんな格好をしても問題はない。
はしたないとは思うけど、別に誰かが見ている訳ではないのだし。
三葉は長袖パジャマの上をボタンを外し、前をはだけて風通しを良くする。
しかし熱は一向に冷める気配を見せない。いや、むしろもっと熱くなっている。
なんで、どうして、と三葉は、熱に浮かされ思考力の低下し始めた頭で考えようとする。
もっと脱げば涼しくなるのかな、と三葉は立ち上がって、下のパジャマも脱ぎ、上に羽織っていたパジャマも脱ぎ捨てた。
上下白の下着を纏うのみとなってすら、低下しない体温を不思議に思う。
別に辛い訳では無い。心の奥は、津田への愛で溢れていて、幸せな気分ですらあった。
なのに胸がキリキリと痛む。身体が切ない悲鳴を上げている。
そのサインの意味する所を、彼女は知らない。
身体が言う事を聞かない。いったいどうすれば収まるのか、ピュアな三葉には分からない。
蕩け始める頭の中に垣間見えるのは、愛しい愛しい津田の顔。
それを頼りに、三葉は机の片隅に伏せてあった津田の写真を手にとった。

「タカトシ……君……」

写真の向こうに呼びかける。津田は何も答えない。
心の中は既に彼の事でいっぱい。足りないと訴えるのは、三葉の身体の方だった。
ほぼ無意識のうちに、写真に唇を寄せてしまう。
先程とは違い、躊躇はなかった。そうするのが自然と言わんばかりに、彼女は写真に口づける。
だが、やはりフェルトの無機質的な感触しか返ってこない。

「タカ……トシ……君……」

足りない。身体が渇望する。もっともっとと、三葉の知らない何かを貪欲に求め続ける。
どれだけ写真にキスをしても、そんなのは自己満足にも足らない虚しい行為だと、頭で分かっている。
自分の身体が一体何に疼いているのかも把握出来ず、三葉の息は徐々に上がっていく。


身体が変になっちゃった、と三葉は本気で不安になり始めていた。

「分かんないよぅ……誰か……」

藁にも縋る思いで助けを求める三葉の頭に浮かぶのは、やはり津田の顔だった。
いつも自分を助けてくれる、優しくて頼れる意中の男子を思い浮かべ、三葉の身体は一層激しく再燃する。

その時。
クチュ、と静かに、粘着質な水音が、どこからともなく三葉の耳に幽かに、しかし確かに届いた。

「……なに?」

今聞こえた音は何か。
自室に音のする物は何も無い。携帯電話も鳴っていない。部屋を見渡そうと、三葉は立ち上がる。
クチュ。また聞こえた。僅かに耳に聞こえた音の発生源は、下の方。
音の導くままに三葉は首を下に向ける。そして、見る。
自分の下着の股に、水染みが広がっているのを見てしまった。

「あ、あ……」

三葉は慌てふためく。しかし、仕方のないことだった。彼女には初めての事だった。
性的な興奮に応じて性器から愛液が溢れ出した経験なんて、彼女にはなかったのだ。
知らない間に小の方を漏らしてしまったのだろうか。見当違いな懸念が彼女の脳裏をよぎる。
状況を確認するように、三葉は自分の性器に手をやる。

「ん!」

短い悲鳴とともに、身体が跳ねる。
痺れた足に触れたような鋭敏な触覚に、三葉は己の身体の事ながら驚愕する。
しかし三葉はそこに……性器に触れるのを止めなかった。
明確にそこを触ろうとする意志はない。しかし、触るのを止める意志もない。殆ど無意識的に、彼女は手を伸ばす。
今度はもっとゆっくりと、優しく触れてみる。
指に粘つく液が絡み付いた。下着と指の間に透明な糸を引く。どうやら尿ではないらしい。
それに安堵しつつ、指の方は液の噴出源を撫で回す。

「う……ん」

理由はともかくとして、癖になるような感覚だった。
凝った肩を揉むような、蚊に食われた部分を掻くような、数百倍に痛みを薄めたような不思議な快感。
癖になるが故に止まらない。三葉の指は、段々と動きの調子を良くしていく。


意味も分からず指を動かす事に不安を覚えつつも、彼女の理性のタガはとうの昔に外れてしまっている。
下着が汚れる事を気にする余裕は既に無く、三葉は布一枚を挟んで自分の性器を優しく撫でる。

「あ……は、ぁ……」

喉の奥から、自然と甘い溜め息が漏れ始める。
触れれば触れる程に増していく感度。未知の快感に抗える訳もなく、彼女はますます深みにはまる。

「タカトシ君、タカ、トシ、く、ん!」

津田の名前を噛み締めるように呟く。名前を口に出して、頭に思い浮かべて、声を思い出す。
白かった筈の下着は既に透け始め、自己主張するように陰唇がうっすらと下着に輪郭を現し始める。
広がり始めた陰唇に沿って指を動かす。優しい刺激では足りなくなってきて、三葉は指に力を込める。

「ふ、あ、あ……あああ!」

思わず声が漏れた。軽く達してしまった。
身体の内奥で火花が散り、全身の皮膚が軽く弾けたような感覚を覚える。
いつの間にか白んでいた視界が戻り、身体の熱の上昇が止まった。三葉は溜め息をつきつつ、驚愕する。
今のは一体、なんだったのか。決して不快ではなく、むしろ良い気持ちだったけど……。
ふと身体を少し捻った時、腕がブラジャーを擦る。

「うわ!」

上ずった声を上げて、三葉は自分の胸を見る。
ブラジャーの向こうの自分の乳首が、鋭く尖り上がっている事に、今更気がつく。
そして今少し腕が触れただけだったのに……何故か先程と似たような刺激を身体に感じた。
後ろのホックを外して、ブラジャーを外す。
胸の形が綺麗だ、と同級生が評する通り、歪みのない半球状の乳房を露にする。
どうしてブラを外したのか。三葉は自分の行為すら把握出来ぬまま、乳首に左手を伸ばす。
摘むに丁度良いその場所を、を人差し指と親指で挟み込む。
性器に手を伸ばした時程ではなかったが、こちらも心地よかった。
不安を覚えるような、勢いのある激しい快楽ではなく、包み込むような優しい刺激。
その刺激に慣れてくると、もっと強い刺激が欲しくなる。
少し力を入れてつまみ上げると、ドクン、と心臓が再び大きく動悸を始める。

「ん……う、ん……う、あぁ、あ」

止まった筈の体温上昇はまたも加速を始め、先程以上に三葉の身体は火照っていた。
乳首を弄っていた右手は、再び下半身の、女性器の方へと向かって行く。
下着越しに陰唇と陰核を、爪で優しく引っ掻くように擦り始める。
指の運動は加速していくが、段々と感覚に慣れが出始める。


だめだ、もうこれじゃ足りない。下着が邪魔だ。
三葉は何の躊躇もなくショーツを脱ぎ捨てて、再び没頭する。

「う、うぅ……ぁ……うぅぅぅ……」

三葉は低い唸りを上げる。
直接触れると、先程とは桁の違う快楽が襲いかかってきた。
グチャグチャと水音を立てて陰核を掻き回す。そこを中心に全身が痺れるような、初めての衝撃を彼女にもたらす。
でもまだだ、もう一押しが足りない。何が足りない、何が足りない。
三葉は指を止めずに、部屋を見回す。足りないものをひたすら求め、三葉は定まらぬ視点を必死で動かす。
そして一点で目が止まる。机の上に投げ出された津田の写真。
その写真はパズルの欠けたピースのように、三葉の心の隙間にぴったりと収まった。

「タカトシ、君……!」

足りないのは津田だった。津田が欲しかった。
写真を見ながら津田の事を思い浮かべると、三葉の身体は尚も感度を増していく。
あぁ、もしもタカトシ君が触ってくれていたら、と三葉は妄想する。
こうして私の身体を嬲り、弄び、弄り倒すこの指がもしもタカトシ君のものだったら。

「あ、あ!う!ぅ、あ!」

具体性を増した妄想が、段々現実との境を失っていく。
今三葉の身体に触れているのは、少なくとも彼女にとっては、紛れもなく津田の指だった。
猛烈に恥ずかしいが、それ以上に三葉は嬉しかった。
タカトシ君が触れてくれている。こんな恥ずかしい私を見て、微笑んでくれる。
行為を肯定されている喜びに、三葉の指は完全に遠慮を失って、三葉の身体に暴力的な快感を巻き起こす。

「ひ!あ!あ、ぁ!」

それが逆に彼女を不安にさせる。この未知の快楽に身を任せ続けても、大丈夫なのだろうか。
身体の歯止めが利かなくなってしまうのではないか、自分は元に戻れるのだろうか。
不安だから、彼女は叫ぶ。
タカトシ君、タカトシ君、タカトシ君、と心の中で三葉は何度も津田を呼ぶ。
その魔法の言葉は彼女の心を高ぶらせ、身体を尚も快楽で塗りつぶす。
止まらない衝動に身を任せるうちに、視界が段々と霞んでいく。
意識が白と黒に塗りつぶされる。今自分の身体が何処にあるのか分からない。
空を飛ぶような浮遊感を覚える。
何か、とんでもなく大きな何かが身体の内から飛び出ようとしている。
さっき全身に走った刺激とは全くレベルの違う何かが、目前まで迫ってきている。


あぁ、もうすぐなんだ。と、三葉は本能的に絶頂の前触れを感じ取っていた。
このまま先に進んでも、先にいってもいいものか。三葉は最後に自分に問う。
いってもいいよ。津田が、優しく三葉にそう答えた。

「タカ、トシ、君!」

絶頂は、三葉自身の予想とは違い、あっさりと、そして静かに訪れた。
最後に彼の名前を、一際大きく叫び、三葉は全身の快楽に打ち震える。

「あ……は、ああ……か……はぁ」

喉の奥から言葉にならない断末魔がまろび出てきた。
あまりに強烈な刺激に思わず目を瞑ったのに、眩しさを感じる。
身体がガクガクと痙攣する。
脚に、腕に、胸に腹に腰に首に頭に、まるで電流を流したかのような衝撃が駆け巡る。
電流の後には、身体の芯から魂が抜けていくような心地よい気怠さが身体を包み込む。
身体の奥で燻っていた何かが、嘘のように引いていく。
胸の空くような清々しさを最後に、彼女は緊張状態にあった身体から力を抜いた。

「はぁ!……はぁ、はぁ……」

起きていられず、三葉は身体を床のカーペットに横たえる。
呼吸を整える力もなく、ただただ三葉は意識を漂わせる。
自慰行為の余韻を感じる前に、全ての行為を終えた三葉は冷静に今の行為に疑問を抱いていた。
一体自分はなにをしているんだろう、と。
いくら三葉とて、高校二年生。保健体育の授業はちゃんと受けている。
だが、保健の授業の内容が、彼女の所持する性知識の全てであった。
月一の生理だってある。男女の身体の違いは知っている。子供の作り方だって習っている。
だが、授業で自慰行為の方法を詳しく教えたりはしない。
性行為の際の、具体的な手順を教えたりもしない。
好きな人を思い浮かべて、自分の女性器を弄んで、自分はどうして悦んでいるのか。
もしかして、とんでもなく異常な行為をしているのではないか、と彼女は危惧していた。
しかし同時に、そのとんでもないと感じるその行為から生じる背徳感を、彼女は受け入れつつあった。
初めて経験する、巨大で抗えぬ快感に、彼女の中の羞恥で幼稚な心は押しつぶされてしまっていた。
未だに力の入らない身体を何とか起こして、ティッシュで濡れた性器を拭いてから、先程自分が脱ぎ去った下着達を探す。
目的の物どちらも、ベッドの上に裏返しで打ち捨てられていた。
拾い上げてみると、ブラはともかく、下の下着の方が酷い目に遭っていた。
股に当たる部分が冷たく濡れている。少し匂いもする。当然履く訳には行かない。
ブラの方も汗で濡れているし、そのまま身につければ風邪を引いてしまうかもしれない。
こちらも取り替える方がいいだろう。

「……どうすればいいのかな」

三葉は下着の処分法を模索する。


当然洗濯しなければならないが、今は深夜。洗濯機を回せば、親が起きてしまうかもしれない。
黙って明日、他の洗濯物と一緒に出すのが一番いいが、一日分で二枚組の下着だけがあれば、親も不思議に思うかもしれない。
しかし、他に案はない。何か聞かれても、言い訳くらい思いつく。
心配事が一つ消え、三葉はふと机の上の携帯電話に目をやった。
携帯電話が光っている。着信ではなく、メールが届いているのを知らせている。

「タカトシ君だ……」

携帯電話を拾い上げて開く。メールの内容は以下の通りだった。

『ごめん、流石に眠くなってきたから、先に寝る。
 連絡なかったし、宿題終わってもう寝たのかな?
 もしこのメールで起こしちゃったら、本当にごめんな』

時計を確認すると、既に深夜午前一時。
メールの着信はついさっき。つまり彼はこの時間まで、三葉の為に起きていてくれたのだ。
電話の最後に津田が『終わったら連絡するように』と言っていたのを、三葉は思い出す。
三葉は目を剥く。そして慌てて身体を起こす。

「こんな事してる場合じゃなかった……!」

三葉は快楽に身を任せ、こんな時間まで結局宿題に一切手をつけていない事を激しく後悔する。
慌ててタンスから取り出した下着と、部屋の片隅に投げ出されていたパジャマを身に着けて、三葉は机に向かう。
ふと、机の片隅に、津田の寝顔の写真があるのを見た。それを見てしまった。
表面が唾液で少し濡れていた。
妙に官能的で色っぽく感じてしまうのは、彼を好いている三葉ならではの感想であった。
必然的に先程の絶頂が想起される。心臓がまたしても脈を早める。
股間から液が分泌されているのが、自分でもよく分かる。
身体の中の、消えかけていた情欲の炎に、再び油が注がれていく。
いけない、ダメだ。もう見ちゃダメなんだ。タカトシ君に申し訳ないと思わないのか、私!
自分の両頬を抓り上げる。無我夢中で抓り上げる。
あまりの痛みに涙が出始めた頃、三葉は両頬を解放してやった。
……そして肝心の煩悩は、性欲は、解放されないままだった。

「……ごめん、タカトシ君!」

机の上の教科書を閉じ、三葉は再び服を脱ぐ。
頭の中で津田に謝りながら、わざわざ自分の為に睡眠時間を削ってくれた優しい優しい彼を想いながら、三葉は夜遅くまで自慰に耽っていった。

………………………………………………………………………………


それから暫く後の話。ある日の昼休みの事であった。
新聞部の部室に二つの影があった。
新聞部部長の畑ランコ。そしてもう一人は柔道部部長、三葉ムツミ。
二人は黙って相対する。暫しの間を開けて、畑が三葉の方に一枚の紙を差し出す。
裏返した三葉は写真の向こうで弁当を笑顔で食す津田の姿に、少し頬を緩めた後、畑に向き直った。

「私、もう今月、あんまりお金ないんですケド……」
「あら、大変ね……でも、気にする事はありません。
 そもそも津田君の写真は」

席を立ち上がって、畑の口を三葉が手で塞いだ。もう片方の手は人差し指を立てて自分の口に持っていく。
別に周りに誰かいる訳でも聞いている訳でもないのだし、口を塞ぐ必要なんてないのに。
もうそろそろ慣れてほしいものだが、彼女がその境地に到達するのはまだまだ先の事なんだろう。
畑はそう思い、呆れながらも三葉の要求に応える事にした。

「失礼……そもそもその類いの写真は、あまり買い手がいないから。
 今日の分は……このくらいかしらね」

領収書と呼ぶにはあまりにチンケなメモの切れ端を三葉に差し出す。
三葉はそれを受け取って頷き、財布を取り出した。
畑は満足げに鼻から息を抜いて、差し出された硬貨を数える。
支払いを確認した畑は、写真を懐にしまって早々に部室を去ろうとする三葉の背中に声をかけた。

「でも、意外だったわ。
 最初の津田君の寝顔の写真も、貴方なら突き返してくると思ってたのに」

三葉は新聞部の部室の入り口で立ち止まり、振り向く事なく、しかし声を低くして言う。

「…………何が言いたいんですか?」
「いえ、別に」

殺気を感じ取った畑は、慌てて取り繕う。
ピュアで純情な貴方が、まさか常連さんになるなんてね。
畑は心の中ではそう言いながら、こちらに一瞥もくれない三葉の背中を黙って見送る。
初めて彼女に写真を押し付けたあの日から既に一月余りが経過しようとしている。
今までに彼女に売った津田の写真は何枚だったか、畑には興味が無いので数えてはいないが、数十枚に上っているのは確かだ。
期待せずに押し付けた写真は、思わぬ金づるを畑の元に招き寄せてくれた。
毎度毎度写真を買いにくるたびに、津田への罪悪感で顔を暗くする三葉なのだが、未だに購入を止める気配はない。


「桜才一のピュア少女三葉ムツミ、遂に陥落す……か」

新聞の見出しとしては面白そうだが、無論表に出せるないようではないので、畑はさっさと頭から仮想の新聞を消去する。
一体どうしてこうなってしまったのか。あのピュアな娘が、どうしてこう、堕ちてしまったのか。
畑は少しだけ残念に思う。自分のせいだというのに、だ。
畑にとって重要なのは三葉の清純さではなく、あの困った常連のための仕入れだ。
この一月で需要がうなぎ上りになった、津田の新たな写真が必要なのだ。
畑はカメラを手に立ち上がる。生徒会室に赴くために。
記事用の写真、と言えば生徒会役員共の写真を手に入れるのは、実に容易い事である。

「かわいそうね、津田君も」

自分が元凶である事を棚に上げて、畑は今頃生徒会室で昼食を摂っているであろう副会長に同情した。

このページへのコメント

朗らかではないですが、とても面白かったです
ф(。。)
罪悪感を持ちながら、それを制することのできない生々しい感情描写がすばらしいです
(´∀`)
各キャラの設定・性格が忠実な感じがして、すごく引き込まれました
ф(。。)

0
Posted by しがない 2012年10月11日(木) 01:06:40 返信

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