男と女は生物学的には同種の生物であるが、俗説としては全く別の生き物である、と言う意見がある。
身体の構造は違う、力が違う、価値観が違う、etc。
異性が苦手な人間と言うのは、要するにこれらの違いを受け入れがたい者の事だ。
五十嵐カエデの男性恐怖症は、男性へのトラウマに起因するものではない。
五十嵐が男性と価値観を共有出来ない事……否、自分は男性の価値観を共有出来ない、と深く思い込んでしまっている事による。
男は不潔。男はいい加減でだらしない。男はふしだら。……と言った具合に。
逆に、もしその思い込みが消えてなくなってしまえば。

………………………………………………………………………………

「……うむ、中々似合うな」
「やっぱり徹底的にやった甲斐があったわ」

桜才学園生徒会室の中心で先輩二人からの謎の賛辞を浴びつつ、津田タカトシは己の身に降りかかった災難の意味を考えていた。
一体自分が何をした。いや、確かに遅刻しかけたけれども。
ハロウィンの仮装イベントが今日であることも知っているけれども。
それが自分が女装を強要される理由になるのだろうか。いや、ならない。
生徒会室に入室した途端に素早く服を剥がれて、代わりに魔女の衣装を着させられる理由になるだろうか。いや、ならない。
金髪ウィッグを被らされ、脚の毛という毛を剃り尽くされ、付け睫毛に付け爪に青いカラーコンタクト、あげくファンデーションを基礎とした無駄に徹底したお化粧をされる理由になるだろうか。
ならねぇっつってんだろ。津田は毒づいた。

「なんなんです、これ……」
「見ての通り、ハロウィン用の衣装だぞ。魔女っ娘の」
「オレの衣装は吸血鬼だったと思うんですが」

津田は立ち上がり、自分の今の姿を眺める。
黒くて鍔の広い尖り帽子。黒いマントと竹箒。
簡単ではあるが要点を押さえた、まさしく完璧な魔女の衣装であった。
ちなみにマントの下は、どこの店で買ったのか、テカテカのコスプレ用のセーラー服。
購入先が気になったが聞かない方が精神衛生上はよっぽど健康である。
代わりに、よくサイズあったなーと、現実逃避に似た無駄な考えが津田の脳裏によぎった。
怒りを通り越して呆れ、諦めが先立つ。ふふふ、と女々しい津田の薄ら笑いを見て、七条が満足げに頷いた。

「うんうん、津田君、可愛いよ。
 意外とお肌も綺麗だったし、化粧も乗りやすくて助かったわ」
「オレは助かってません……」

七条が全ての元凶であった。
服を剥いて化粧を施したのは、他ならぬ彼女だ。


ちなみに脚の毛を剃ったのは。

「どこからどう見ても完璧な白人美少女だ。写真を撮っておくか」
「勘弁してください」

T字カミソリを手にしている天草は、腕組みして真顔でそう言っていた。
イベント事当日の天草は普段よりもテンションが高く、すぐに羽目を外したがってしまう困った少女であった。
しかしその割には彼女の仕事ぶりは丁寧且つ完璧で、津田は元々毛の薄い男であったが、脚はそれこそ最初から毛なんて生えてなかったかの如く綺麗に剃り尽くされている。
決して会長が毛を剃り慣れている訳ではない。……訳ではないと思う。
津田は人の育毛事情の詮索を早々に切り上げた。今は自分の事情で精一杯だ。

「なんの罰ゲームですか、これ」
「今流行の男の娘だ。
 私としては本格的にふたなりっ娘を目指したかったんだが」
「もう喋らないで下さい」

津田は青筋を額に浮かべながら静かにそう言った。
余興で脚の毛まで剃られた津田としてはここで如何な反駁をしようとも許されるだろうが、彼自身にそんなつもりはなかった。
過ぎた事は仕方がない。
入学当初から周りに流されつつもやってこれた津田にとっては、この事件すら大した問題ではない、と言えた。
この一時だけなら別に良いや。さっさと脱いでしまおう、と帽子の鍔に手をかけた時。
天草がとんでもない事を口にした。

「折角だし、今日は一日その格好をしてもらうか」
「それは良いわね。津田君、結構似合ってるし」
「箒に跨がっても、男は擦れないだろうしな」
「当たり前だ」

先輩二人のとんでもない会話に割って入る金髪の美少女、津田。
ちなみに今の所蚊帳の外である萩村は、どうやら津田の着替えを直接見る勇気がなかったらしい。一部始終そっぽを向きつづけ耳まで真っ赤になっている。
普通の女子はこうやって反応するのにこの二人ときたら……。さしもの津田でも突っ込みどころの多さに頭を抱えていた。

「勘弁して下さいよ、一日このカッコって……」
「君には悪いが、もう時間がない。ちゃんとその格好で来るんだぞ」
「そうだよ。さ、私達も準備しなきゃ」
「え、ちょっと待」

ハロウィンパーティ開始まではまだ三十分程はある筈なのだが、天草と七条は口を尖らせる。
二人ともそんなに着るのに時間がかかるような手の込んだ衣装ではないのだが、これは単なる津田から逃げる口実だった。
津田の返事も聞かずに足早に生徒会室を後にする先輩達二人。
目の前で無情に締まる生徒会室のドアの前で、津田は立ち尽くしていた。


まさか、本当にこの格好で行かなきゃいけないのだろうか。
この格好で、クラスメイトと顔を合わせなきゃならないのだろうか。
暫く呆然とした後、後ろを振り返る。復活したらしいチビッコいジャックランタンが、無機質で邪悪な微笑みをこちらに向けていた。

「……萩村」
「なに?」
「オレ、どうすればいいかな」

萩村は逡巡した後、津田の脇をすり抜けて扉に手をかけた。

「……似合ってるわよ」

諦観の念を込めて萩村が呟いた。つまりは、そう言う事だった。

………………………………………………………………………………

風紀委員長五十嵐カエデは、その日も校内の見回りを敢行していた。
特に今日は生徒会主催のハロウィンのイベントが開催される。
であれば、生徒会はイベント進行に手を回さざるを得なくなり、校内のパトロールも碌に出来ない。
イベントともなれば、生徒達も気が高揚して、学生としては逸脱した行動をとる可能性も考えられる。
だからこそイベントの間は風紀委員会の出番であると、少なくとも五十嵐カエデは熱意に燃えていた。
見回りは委員長としての義務ではないのだが、使命ではあると五十嵐は信じていた。
風紀委員と言う立場は、ある意味では生徒会以上に身の振りに気をつけなければならない。
例え全校生徒を敵に回そうとも、風紀委員は校則厳守を以て善しとするのだ。それが五十嵐の信念であった。
いつも以上に辺りに気を配る五十嵐の前方から、二人の女生徒が姿を現す。

「なんか、やっぱり落ち着かないなぁ」
「案外誰も気づかないんじゃない?」

一人は背の低いジャックランタン。顔は見えないが、背丈から、彼女が萩村スズである事は明白である。
もう一人は背の高い魔女。青い瞳、色白で金髪。五十嵐にとって見覚えのない人物であった。
黒いマントの下はセーラー服。だが、女性にしては背が高い。
一体誰だろうか。五十嵐は懸命に記憶を辿るが、やはりあの女性の姿は浮かんでこない。

「あ、五十嵐先輩」

五十嵐に気づいた萩村が、声をかけてきた。


五十嵐は笑顔で手を挙げて返し、そして彼女の隣の黒い布の塊を再度見やる。
ステレオタイプの魔女のコスプレに違いはないのだが……この違和感はなんだろう。
モヤモヤした気分を抱えながら、五十嵐は魔女に目をやる。

「そちらはもしかして、萩村さんのお友達かしら?」

五十嵐の意外な反応に、萩村も津田も驚愕した。
どうやら五十嵐は、この魔女がコスプレをしている少女……のコスプレをしている津田だと気づいていないらしかった。
傍目から見れば無理はない。七条謹製のメイクアップにより、津田の外見は完璧に女性のそれである。
更に言えば、青い目に金髪と言う日本人離れした容姿が、上背の高さと化粧による肌の白さに言い訳の余地を与えてしまっていた。
帽子とマントの襟で、顔が少し隠れてしまっている事も勘違いの要因である。
だからこそ五十嵐は、その少女が萩村と親しげに話していたにも関わらず、津田を津田と認識出来ないでいた。
萩村さんは帰国子女だ。遠い海の向こうから彼女の友人が遊びにきているのだろう。
五十嵐は、その自分の結論に疑問すら抱かなかった。

「初めまして、風紀委員長の五十嵐カエデと申します」
「………………」
「あ、もしかしてあんまり日本語がわからないのかしら。Nice to meet you」

何故か笑いを堪えるように肩を震わせる萩村を怪訝に思いつつも、五十嵐は萩村の友人らしき少女に手を差し出す。
握手を求めているようだが、当然津田は躊躇する。
一応気づいてないらしいが、流石に握手すれば手の堅さとかでバレるんじゃないか?
男性恐怖症の五十嵐が、男の自分の手を握れば卒倒するのでは?
そんな懸念なぞどこ吹く風の五十嵐は、未だに手を引っ込める気配はない。
萩村も成り行きを静観している。
どうすればいい、と目で尋ねてみても、カボチャの向こうにある萩村の瞳に津田のアイコンタクトは届かない。
ええい、ままよ。津田は五十嵐の手を握り返した。
五十嵐の手の冷たい感触が返ってくる。普段の五十嵐なら身体を震わせて、津田の手を振り払うだろう。
……しかし五十嵐は平然としている。どうやら、バレてはいないらしいが。

「ど、どうも」

流石に声色でバレる。津田はそう確信していたのだが、五十嵐は津田の声を聞いて微笑みを返した。

「あら、日本語お上手なのね。お名前は?」
「名前って……」

オレは津田ですよ、と言いかけるが、咄嗟にその言葉を飲み込む。
今ここで真実を言えば、五十嵐先輩はどう反応をするだろうか。
取りあえず震えながら手を振り払う。
そして、どうして女装しているのかを問われる。


正確に答えようにも、そもそも五十嵐が信用してくれるかどうかも怪しい。
そのまま変態扱いされるのが関の山ではなかろうか。
だったら、いっそこのまま嘘を突き通してしまった方がいい。
津田は思い直して、口角を上げて微笑みながら、普段より高めの声を出した。

「私、タカコっていいます」
「……!」

隣の萩村が絶句しているのが分かるが、この際そのまま黙っていてもらおう。

「そう、タカコさん……と言う事は、日本の方?」
「父はアメリカ人ですが、母が日本人なんです」

咄嗟に設定を捏造しながら、冷や汗を垂らす津田。
五十嵐が一切疑問を持っていない事が救いであるが、隣の萩村がいつ爆発するかが怖い。

「その格好は……ハロウィンの?」
「はい。今日はイベントがあるとスズちゃんに窺いまして。
 折角誘ってもらったんで、参加させて頂く事になりました」
「そうですか……似合ってますよ」
「ありがとうございます」

五十嵐は感心したように津田を上から下まで眺め、一つ頷いた後にようやく津田の手を離した。
いつ感づかれるか背筋が寒くなるような思いだったが、五十嵐が気づく気配は全く無い。
まるで男性恐怖症なんて嘘なんじゃないか、と津田が思うくらいに五十嵐の所作は自然だった。

「桜才学園にようこそ、タカコさん。これから、よろしくね」
「よろしくお願いします」

丁寧におじぎをする五十嵐に、津田は帽子とウィッグを押さえて頭を下げる。
そして顔を上げた先にあった五十嵐の人懐っこい笑みを見て、津田は戸惑いを覚える。
普段見る彼女の表情は大抵脅えた顔もしくは不機嫌そうな仏頂面。
それもそうだ、恐怖の対象である男の自分を見て、彼女が笑う筈がないのだ。
新鮮な五十嵐の側面を見れて、少し得をした気分になる津田であった。

「では、私はこれで。
 ハロウィンパーティの方にも、後で少し顔を出しますので」

五十嵐は二人の脇を抜けて、そのまま階段の踊り場へ消えていく。
その背中が完全に見えなくなった頃。萩村が蚊の鳴くような小声で尋ねてきた。


少し顔が赤いのは、津田の気のせいではない。

「ねぇアンタ今、私の事ス、スズちゃんって……」
「ん?萩村、何か言った?」

あまりに無神経な津田の言動に、萩村は呆れて盛大に長嘆した。
期待したのが間違いだ、と話題を五十嵐に戻す。

「……何で素直に言わないのよ」
「バラしても良い事ないだろ?」

津田は既に声のトーンを戻していた。声色に面倒臭そうな色を添えつつ。
まさかこの時のその場限りの嘘が招く結果なんて、まるで考えもしないまま。

………………………………………………………………………………

ハロウィンパーティの会場は体育館であった。
パーティに参加している生徒達は何かしら怪物のコスプレをしている。
フランケンシュタイン、吸血鬼、狼男にジェイソンまで居る。
しかし大体の生徒は生徒会が用意したジャックランタンか魔女の帽子を身につけている。
七条先輩が大量に持ってきた猫耳を借りている、別の意味で気合いの入った女生徒もそこそこ見受けられた。

「割と人集まったわね」
「カボチャが無駄にならなくて良かったよ」

部室で飽きる程カボチャの顔を彫っていた津田は、満足げに嘆息した。
体育館に並べられた幾つもの長机には、甘い香りを放つクッキーを始めとした菓子類が並んでいる。
参加人数分に十分に行き渡るかどうか不安だが、いざと言う時は焼き足しすれば良い。
仕事の大半が準備段階でのものだったので、津田と萩村がやらねばならない事は精々見回り程度であった。
だからこそ津田は見回りに神経を研ぎすます。具体的には周りの視線に。

「あ、スズちゃん!」

背後から声が聞こえた。隣の萩村が振り返る。津田は咄嗟に萩村から一歩離れた。
頭に猫耳を乗せた轟ネネが二人の背後から駆け寄ってきた。津田は振り向かずにそのまま前を見つめ続ける。

「みんな向こうに居るよ。スズちゃんも来なよ」
「そう。ありがとう、ネネ」
「そう言えば、津田君知ってる? さっきから探してるんだけど見つからなくて」

萩村が隣の魔女を見上げた。魔女は小さく首を横に振る。萩村は小さく頷き、轟に向き直る。

「さぁね。どっかで寝てるんじゃない? 疲れてるって言ってたし」


「ふぅん……大変なんだね、生徒会って」
「アイツが軟弱なのよ。それよりみんな、どんな格好してるの?」
「皆面白いし、可愛いよ。例えばムツミちゃんとかは……」

徐々に遠ざかっていく二人の声。
津田はそれを確認し、嘆息する。萩村の隣に居ればクラスメイトには流石にバレるし、無闇にからかわれるリスクを増やす必要もない。
五十嵐の手前、自分の正体を知る人間は少ない方がいい。今日一日は完全に別人として過ごそう。
津田は決意を新たに、一先ずクッキーでも摘もうと手近な皿に手を伸ばす。

「あ、すみません」

誰かの手に触れた。
振り向いて手の持ち主を見やると、ついさっき別れたばかりの女生徒が立っていた。

「あら、タカコちゃん」
「五十嵐さん……」
「奇遇ね」

行儀のいい事にクッキーを一つ齧って一々飲み込んでから五十嵐は口を開く。
頭に乗っけている黒い三角帽は津田のものと同形であり、対照色だからか、栗色の髪がよく映えていた。
津田は一つ咳払い。少し声の調子を上げて、にこやかに挨拶を返す。

「そうですね、ついさっきぶりです」
「こら、口に物を入れたまま喋らないの」
「す、すみません」

流石は風紀委員長。細かい部分の作法にまで睨みをきかせている。

「五十嵐さんも魔女の格好ですか」
「えぇ。ジャックランタンは肩が凝るもの。
 猫耳は……その、恥ずかしいし」
「そうですね」

確かにそうだ。津田は自分が猫耳を付けた情景を思い浮かべてみる。
……今の外見ならまだしも、元の自分がつける場面は想像しても気持ちのいいものではない。
それを人に見られるとなれば、今のこの格好よりもよっぽど恥ずかしい気さえする。

「でも、五十嵐さんなら、案外似合いそうですけどね」
「そ、そうかしら……?」

津田にそう言われて、案外まんざらでもなさそうな五十嵐。


自分の周りの猫耳少女を見回して、五十嵐は少し口を尖らせて唸る。

「折角だし、借りて……いや、しかし……風紀委員長の私があのような……」
「悩む余地はあるんですね」
「い、いえ! 別にそう言う訳では」
「良いと思いますケド。こんな日じゃなきゃそんな格好出来ないし」
「そ、そうかなぁ……」

照れながら困ったように目を泳がせて口元を緩める五十嵐の姿は、津田にとって一々新鮮であった。
五十嵐は風紀委員長と言う肩書きの意味する通り、もっと固い人物だと思っていた。
彼女が普通の女の子然としている姿を津田は想像した事もなかったせいだろう。
この人はこんな顔も出来るのか……。当たり前の事だが、それでも津田は完全に虚をつかれていた。
惚けて固まってしまった津田を、五十嵐は不思議そうに見る。

「……どうしました?」
「い、いや! なんでも」

津田は慌てて取り繕い、二つ目のクッキーを齧って間を持たせようとする。
五十嵐は誤魔化された事に首を傾げるが、大して気にはかけていないようだった。
だが恥ずかしげに目を逸らしている津田を眺めて、ふと五十嵐は呟く。

「タカコさんって、不思議な人ね」
「不思議って……え、え? どこがですか?」

バレたのか、という不安を抱くが、それは津田の杞憂であった。

「なんだか、初めて会った気がしないわ。
 自分でも不思議だけど……なんででしょうね」
「さぁ……」

だって初めてじゃないし。津田はその言葉を心に留めた。
五十嵐は少し津田に近付いて、帽子の鍔が額に当たる程の至近距離から、目を細めて津田の顔を見つめる。
異様に近くからジッと見つめられる津田は、心臓の動悸が早まるのを感じた。
やばい、流石にここまで近いとバレる。津田は少し身を反らせて、ちょっとでも距離を稼ごうとする。
しかしその分五十嵐は近付いてくるので、結局逃げる術はない。
殆ど身体を密着させるようにしても尚、五十嵐は注視をやめない。

「何処かで……お会いしませんでした? 本当に?」


五十嵐の、クッキーの甘い匂いのする吐息に頭を揺さぶられながら、津田は必死で答える。

「もしかしたら過去に会ったかもしれませんケドどっちも覚えてないんですし」

少し声の裏返った津田は早口で捲し立てた。
五十嵐は胸中の妙なつっかえにケリがつかない事を不満を覚えつつも、一応は津田の意見に納得を示し、顔を遠ざけた。
ようやく安堵できた津田は、未だに激しい心音を抑えつけるように胸に手を置く。

「それもそうね」

五十嵐が満面の笑みを津田に向けた。
まるで慈愛に満ちた母のような、しかし元気溢れる少女のような笑顔。
頬に出来たえくぼを見るのは、津田にとっては紛れもなく初めてであった。
ある意味では初対面と何ら変わりないな。津田はそう結論づける。
女として五十嵐の自然体と接する機会が男の津田にある筈がない。
恐怖症と言う制限を持たない五十嵐とは、津田も初対面であった。

「さてと、そろそろ見回りに戻らなければ……。
 折角日本に来たのですし、楽しんでいって下さいね」
「あ、ありがとうございます」

五十嵐は胸の脇で小さく手を振って、津田に軽く会釈しながら振り返り、人混みの中に消えていく。
あの人の新たな面を知れたのは良かったケド、これは少し心臓に悪いな。
津田は五十嵐の背中を見送って胸を撫で下ろす。
これでようやく一心地つける。そう、津田は思っていた。
なのに、何故。
何でこんなに動悸が激しいんだ。危機は去ったのに、どうしてさっきより心臓がうるさいんだ。
五十嵐の満面の笑みが、瞼に焼き付いて離れない。
……ちょっと驚いただけだ。五十嵐さんがあんな顔する所なんて、初めて見るから。
無理矢理であったが、津田は自分にそう言い聞かせた。
その結論に懐疑的な自分の本心からは、今の所は目を背けつつ。

………………………………………………………………………………

「お疲れ様、津田君」

パーティを終えて生徒会室で先に休んでいた七条は、草臥れた様子で入室した津田に労いの言葉をかける。


帽子をウィッグごと脱ぎ去った津田は、スカートを穿いているにもかかわらず脚を開いたまま椅子の背もたれに寄りかかった。

「何だか疲れてるみたいね」
「本当ですよ……もう金輪際勘弁して下さいね」
「あらそう?意外と楽しそうだったじゃない」

そう言ってお茶を差し出す七条。津田はすみません、と一気に茶の半分程を飲み干した。
気疲れのせいだろうか、適度に熱い茶が身体の芯に染み渡る。
残りの茶も飲み干して、津田はマントの紐を解きつつ言う。

「どう見たら楽しそうに見えたんですか。
 誰かにバレないか戦々恐々でしたよ」
「でも、見ている分には楽しかったよ」

そうそう、七条先輩ってこういう人だよな。津田は既に諦めていた。
セーラー服のスカーフを解くのに躍起になっていた為、次の七条の言葉は完全に不意打ちであった。

「五十嵐さんと仲良くなれたみたいだしね」
「…………え」
「随分楽しそうにお話してたじゃない。タカコちゃん、だっけ?」
「あ、アレはバレたら後が面倒だと思って仕方なくですね……」

優雅に緑茶を啜る七条は、狼狽える津田に容赦なく言及を続けた。
津田もすぐに我に返る。別にやましい事は何も無い訳だし。必死に言い訳するまでもない。

「向こうは全く気づかなかったみたいですケド。
 今となっては騙しているみたいで悪い気がしてます」
「……今はそれでいいよ」

七条は少し物憂げに、湯呑みを見つめて呟く。
空気が変わった事に気がついた津田は、だらけた格好を正して七条の言葉を待つ。

「五十嵐さんって、男性恐怖症でしょう?」
「そうですね……」

今までの彼女の行動を鑑みれば頷ける。異性と触れ合うだけで身体が震え、近付くだけで脅える程の、正真正銘の男性恐怖症だ。
男性不信が原因ではないらしいのだが、症状は軽いとは到底言えないだろう。

「シノちゃんも前からその相談を受けててね……。
 色々と考えてはいるんだけど、どれも上手くいかないって」


「………………」
「私は、やっぱりちゃんと男の子と触れ合う機会が五十嵐さんには足りないって思ったの。
 だから、きっと一度でもちゃんと誰かに向き合えれば克服出来るんじゃないかって。
 そのためには、やっぱりどんな形であっても、一度男の子と交流出来れば……」
「まさか、七条先輩……」

津田は唾を飲む。まさか、彼女はそこまで見越してオレにこんな女装を……化粧までさせて?

「そのために、オレに魔女のコスプレを」
「それは、単に面白かったからだよ?」

盛大な肩透かしを喰らった津田を見て微笑む七条は、そのまま話を続ける。

「でも、偶然に偶然が重なって、五十嵐さんも今日、津田君と普通に接する事が出来たわ」
「オレと、って言うか架空の女の子と、ですよ」
「それでも、大きな一歩だよ。だからさ」

七条は少し身を乗り出して、津田に微笑みかける。
目に宿る光は、輝きと表現すべきかギラつきと表現すべきか迷うような光り方をしている。

「これからも度々、その格好してみない?」
「……七条先輩、絶対楽しんでますよね」
「私も楽しめて、五十嵐さんの男性恐怖症も直せて、津田君も女装に目覚めて、一石三鳥だわ」
「オレが目覚めるのは利じゃねえ」

しかし、激しいツッコミの割には、津田は案外まんざらな気分ではなかった。
この格好なら、五十嵐先輩と普通に話せる。それは魅力的と言えない事はない。
でもたったそれだけのために色々と犠牲にする必要があるのだろうか。
……津田は少しだけ迷い、結局止めだと結論づける。

「オレは遠慮しま」
「五十嵐さんが男性恐怖症のままでいいの?」
「え」
「学生のうちはまだ良いケド、社会に出たらどうしても男の人と接する機会はあるわ。
 結婚もして、子供を産んだりもするかも知れないでしょう。
 でも、五十嵐さんが今のままじゃ……きっととても苦労するわ。
 治すなら、今が一番良いと思うの。千載一遇のチャンスなのよ」
「………………」
「ね、津田君。人助けだと思って」


「うっ」

まるで天草が乗り移ったかのように真剣に懇願する七条。
津田は悩んでしまった。女装への逃げ道が開けてしまった。
人助け、と言うワードは非常に卑怯だ。ここで断れば悪人扱いされてしまう。
だから津田は曖昧に首を縦に振る事しか出来ない。

「……気が、向いたらって事で」
「うん。よろしくね」

そこで生徒会室の扉が開き、草臥れた様子の天草と萩村がなだれ込んできた。
二人の会話はそれによって中断され、再び騒がしくなる生徒会室に、先程までの真面目な空気は押しのけられてしまった。

………………………………………………………………………………

気が向いたら、と言うのは津田の気が向いたら、の意だと津田は思っていた。
勿論彼はそのつもりで言ったし、普通に言葉の意味を捉えれば間違っていないのだが、短い言葉はいかようにも都合良く解釈出来る。
例えばこの場合の七条の曲解は『私の気が向いたら』であった。

「……どうでしょうか、お嬢様」
「凄いわ、出島さん。とても急ごしらえとは思えない。
 私がやった時よりもよっぽど完璧な女の子だわ」

ハロウィンから丁度一週間後の翌週土曜日。
呼ばれたのが津田一人だけと知った時点で、津田は嫌な予感はしていた。
わざわざ津田家の前に黒塗りのリムジンが止まった時に、津田は確信と諦観を極めていた。
謀られていると気づいてしまった事はある意味幸運だった。
七条家に到着早々に出島に襲いかかられて、あっという間に服(下着含む)を持っていかれた事に、大した驚愕を覚えなかったからだ。
抵抗したし、抵抗が無駄だと言う事も知っていたし、自分はこの際どんな女装でもやってやろうという覚悟もその時には決まっていた。
それでも津田は悲しみに暮れていた。主に出島さんに全裸を見られてしまった事に対して。
一方の出島は特別何の感慨もないらしい。男性慣れしているからだろうが、それはそれで津田は癪であった。

「この服、どうしたんですか?」
「私の私服の中でサイズ一番大きいの物を選びました」

津田の当然の疑問に、出島は丁寧に腰を折り畳んで、平然と言ってのけた。
今津田は七条の部屋の中心に立たされて、女二人に穴が空く程眺められている。
視線を意識しないように、着せられた服を見下ろした。デニムジーンズに白の裾の広いチュニックと言う簡単な格好で、スニーカーに至っては津田の自前の物だ。
女性としては長身の出島の服とは言え、男としてもそこそこの体格がある津田に合うサイズが殆どなかったのだろう。
中性的な服装でありそれだけでは単なる適当な女装だが、七条のそれを遥かに凌駕する出島の化粧技術が、女装独特の違和感を完全に打ち消していた。


ちなみに金髪ウィッグとブルーのカラーコンタクトは既に装着済み。これはデフォルト装備らしい。今回はパッドとブラのオプション付きだ。胸の辺りの違和感が気持ち悪い。
津田の周りをグルグルと回っていた七条が満足げに鼻から息を抜いてガッツポーズ。

「これなら大丈夫だね!」
「何が大丈夫だと……」
「五十嵐さんとのデート」

相変わらず重い言葉も平気で吐く七条。
津田は困惑を隠せないし、隠すつもりもなかった。

「……五十嵐さんと? デート? オレがですか?」
「うん。二人っきりで。
 あ、五十嵐さんにはもう昨日、連絡入れてあるから心配要らないよ」
「そこの心配はしてません」

冗談ではない。この場合の二人っきりと言うのは勿論津田と五十嵐を指す。
実は最初からこうなる予感はしていたが、出来ればそれは夢物語であって欲しかった。

「大体、なんで二人っきりなんですか」
「お嬢様はこれから華道の教室へ行かねばなりません」
「ごめんね。本当は付き添いたかったんだけど……。
 スズちゃんもシノちゃんも用事があるらしくって」

謝る七条からは、ビックリする位誠意が感じられなかった。津田にはそれが分かってしまった。
だったらデートの予定の方を取り下げればいいのに。
そもそも華道教室がある事くらい分かってたでしょうが。これはわざとだろ、絶対。
そんな事を言い出してもどうせ誰も聞きやしないから、津田の口からは溜め息が漏れるばかりだ。

「五十嵐さんとは駅前に待ち合わせております。
 華道教室までの道程ですので、そこまでお送りしましょう」
「頑張ってね、タカコちゃん」

そういう要らん気遣いは出来るんだな、アンタらは。
金髪ウィッグ越しに頭を掻いて、津田は大人しく出島に言に従い、七条家を後にした。

………………………………………………………………………………

七条が来れないと言う連絡を受けたのはついさっき、所謂ドタキャンだ。
携帯電話をポケットに仕舞い込んで五十嵐カエデは駅前で一人、憤慨していた。
一体なんなんだ、これは。
昨日の晩に突然電話で七条から土曜の予定を聞かれて、空いていると答えれば一緒に出掛けようと言う。


彼女とは特別仲良くはないが断る理由もないと、急な誘いではあったが、五十嵐はOKした。
そして今日、少し早めに出て待っていれば、集合時間五分前に『ごめん、他の大事な用事ができちゃった』である。
電話口で『もう一人の子はちゃんと行くから』と言ったのも減点だ。
もう一人居るなら前もって言っておいて欲しい。小五月蝿い姑のような事を考えながら、堅物の五十嵐は苛ついていた。

「あの人は本当に……マイペースというか」

巻き込まれるこっちの身にもなって欲しい。五十嵐の偽らざる本心であった。
いっそ帰ってしまいたかったが、もう一人来るのであればこの場を去る訳には行かない。
時計を気にしながら待っていると、集合時間三分後に、背後から声がかかった。

「すみません、遅れました!」
「あら、貴方は……」

やってきたのは、背の高い金髪青眼で色白の少女。簡素でボーイッシュな服装は中々様になっていた。
そう、この人は確かハロウィンパーティで見た……。

「タカコちゃん、だったわよね」
「はい」

女性にしては少し低めの声で、息を整えながら彼女はそう答えた。
もう一人と言うのはてっきり天草だと考えていた五十嵐は、安堵の溜め息を吐いた。
天草は悪い人ではないが、少々癖が強い。下ネタを堂々と吐く彼女は苦手だった。
ハロウィンの時に知り合ったこの少女は、中々人懐っこく、親しみやすい人だったと記憶している。

「貴方、七条さんともお知り合いだったのね」
「えぇ。本当に、色々と良くして頂いてます……」

何故か尻窄みに呟くタカコに……津田に、五十嵐は妙な影を感じるが、次の瞬間、津田は既に顔を上げていた。

「それよりも、どうします、今日」
「そうね。……どうしようか」

女二人……もとい、男一人と女一人、額を突き合わせて唸る。
七条主催だったせいで、殆ど二人ともノープラン。
味気ないが取りあえずは適当にぶらついて間を持たせよう。先に結論を出したのは津田だった。
しかし、口を開こうとした途端の事である。
グゥ、と音が聞こえた。津田の腹の辺りから。
今朝は早くから七条先輩の家に連れて行かれて、朝食も碌に摂っていない。津田は今更それを思い出した。
時間は正午ちょっと過ぎ。いい加減津田の腹の虫が不機嫌になっていた。


音はしっかりと五十嵐にも届いており、彼女は思わず吹き出して破顔した。

「とりあえず、ご飯にしましょうか」
「………………」

津田は恥ずかしさで顔を赤らめて俯きつつも、黙って首を縦に振った。

………………………………………………………………………………

その後のデート自体は至って普通の過程をなぞった。
ファミレスで食事、駅前をウインドウショッピング、そしてゲームセンターで気の向くまま遊び倒す。
男と女のデートと考えても、ギリギリ及第点程度は取れるような、楽しい時間を過ごせた。
そう。素直に楽しかったと、津田は今日一日のデートに満足していた。
津田は隣でプリクラの画面を興味深げに操作する五十嵐を横目で見つめつつ、今日一日を振り返る。
トイレに中座する際は細心の注意を払い、自分の思う女性らしい仕草を立ち振る舞いの随所にちりばめた。
今日のデートのあらゆる場面で正体がバレないかどうか背筋を寒くしていたが、特に感づかれた様子はない。
猛烈な気苦労とストレスを感じているが、不思議と辛いとは思わなかった。
癒しの要因は、他ならぬ五十嵐の存在であった。
ファミレスで馬鹿な話に花を咲かせ、財布と相談しながら窓の向こうのバッグや服とにらめっこし、喧しい音と光が飛び交うゲームセンターではしゃぐ、五十嵐カエデであった。
真面目一辺倒だった彼女のイメージは、津田の中では完全に過去の物となっていた。
真面目は真面目だが、緩める所は緩められる、オンオフのメリハリが出来る女性。
津田の中の五十嵐像は、それで固まり始めていた。
その隣の五十嵐は、未だにプリクラの画面操作に四苦八苦している。
至近距離で画面を注視しながら渋面を作り、低く唸る五十嵐を見かねて、津田は声をかけた。

「五十嵐さんは、プリクラはあんまり撮らないんですか?」
「え、えぇ。結構前に撮って、それきりです。
 その時も操作は友人に任せっきりでしたし……。
 なんだか、最近のは色々と面倒ですね」
「……ちょっといいですかね」

面倒と言うよりはバリエーションが増えただけだが、確かに要求される操作は増えている。
津田は五十嵐の背後から手を伸ばして、代わりにプリクラを操作してやる。
津田も到底慣れているとは言えなかったが、飲み込み自体は早く操作の方法はすぐに理解出来た。

「フレームは……これなんかどうでしょうか。
 あぁ、でも後で落書きするんならあんまりゴテゴテしてない方が……。
 そうだ、明るさはどうしましょう。ちょっと明るめの方がいいのかな。
 撮影モードって……なんだこれ。五十嵐さん、わかります?」

津田は五十嵐に尋ねようと、目の前で背中を向けている五十嵐に声をかける。


しかし、暫く待ってみても返事はない。

「……五十嵐さん?」

流石に怪訝に思った津田が五十嵐の顔を横から窺う。
すぐ目の前、目と鼻の先に五十嵐がいた。彼女の凛々しい横顔が間近にある筈だった。
しかし、津田の目に映った五十嵐の顔はどういう訳か惚けたような表情。
頬が桃色に染まっていて、彼女は胸に手を当てて肩を窄めていた。
急に縮こまってどうしたんだろう。津田はその理由を考え、すぐに正解を見つける。
今の自分の体勢を考えてみればわかる。津田は五十嵐の背中から、殆ど抱きついているような格好だ。
彼女の肩の辺りに顔を置いているような、身体をくっつけた状態なのだ。
擬似的な密室空間での密着。それが今の現状であった。津田はようやくその事実に気がついた。

「す、すみません!」

津田は慌てて身を引く。
平時の津田だったら到底そんな事はしなかった筈なのだが、今の津田は女装中と言う特殊な状態であった。
普通に仲の良い友達の距離で接してしまった。でも、オレ……と言うか『私』は五十嵐さんの友達、って事で良いんだよな。
もしかしてバレたのか?あんだけ近い所から声を聞けばバレて当然だけど、彼女の様子を見る限り、オレに脅えている訳ではないらしい。
じゃ、バレてないのか?だったらくっついても別に何とも思わないだろう。
なのに五十嵐さんはどうしてこんな顔をしてるんだ。ああもう何が何だか分からない。
頭の中で疑心と焦燥がせめぎあう混乱の極地の中、津田は頭を抱えてしゃがみ込んでしまいたい衝動を必死で押さえていた。

「……別に、謝る必要はありません」

五十嵐は津田に振り返り、冷静な声を取り繕ってそう言った。
顔にはまだ少し朱が差しているが、そこに津田を拒否する顔色は浮かんでいない。
それだけで津田は心の底から安堵を覚える。

「そう、ですね」
「はい。……兎に角、一度撮ってみましょう」

口調が少々固くなった五十嵐は、何かに急かされるように画面上を適当に操作して、早々に撮影までこぎつけた。
プリクラの可愛らしいアナウンスがカウントダウンしているが、津田の耳にはその言葉が入ってこなかった。
隣の五十嵐もそれは同じなのだが、津田がそれに気がつく事はとうとうないまま、撮影は終了した。

………………………………………………………………………………


外はいつの間にやら夕暮れを過ぎ、濃紺の空に一番星と月が並んで輝いていた。
津田と五十嵐は、少し距離をおいてゲームセンターを後にする。
気まずい。少なくとも津田はそう感じていた。
先程のアレ以降、五十嵐は口を閉ざしたままだし、声をかけようにも話題が思い浮かばない。
兎に角、この空気を一刻も早く打開しなければ。
頭は依然として明瞭ではないが、津田は二歩前の五十嵐の肩に手を置こうと脚を速める。
しかし五十嵐は背中に目でも付いているかのように津田の手を躱し、振り返った。
顔色はすっかり元に戻っている。
それどころか、今日の楽しかった思い出すらも何処かに置き忘れたかのような仏頂面で、津田を見た。

「時間も遅いですし、そろそろ帰りますよ」
「……はい」
「学生の身分で夜遊びは厳禁です。
 特にゲームセンター等への入場は制限されますのでタカコさんも、まっすぐ家に帰って下さいね」
「わかりました……」

津田の返事で満足したのか、五十嵐は津田に背を向けて、そのまま町の雑踏へ消えていく。別れの挨拶もなしに。
津田は追いかけようかとも考えたが、すぐに足を止めた。かける言葉がなかった。
諦めよう。今日はもう、帰ろう。疲れたし、さっさと寝よう。
津田は自宅へ足を向けるが、そこで携帯電話が唸りを上げる。
……七条からのメールであった。華道教室終わったからいつ服取りに来ても大丈夫だよ、とある。
人質に取られている私服の回収と、今着ている女装の返却。これだけは最低限やらなければならない事だ。
携帯電話に八つ当たりしたい気分を押し殺して、津田はトボトボと七条家へと方向転換した。
まるで証明写真でも撮ったかのような、無表情の二人の美少女の映るプリクラを握りしめながら。

………………………………………………………………………………

走るような早さで自宅の玄関に飛び込み、ただいまも言わずに自室へのドアを開け、電気も付けずにそのまま床に寝転がる。
薄暗い自室の中で、五十嵐は自分の顔の熱さの原因を考察する。
原因は分からない訳では無い。プリクラ機の中で起こった、事件とも呼べぬ事件のせい。
一体どうしてしまったんだ、私は。
気さくで気遣いの出来る気だてのいい娘。五十嵐はタカコをそう評価していたし、今でもそれは変わらない。
早々に彼女と別れたのは、あの子に原因があるのではない。私のせいだ。
プリクラの狭い空間の中で身体を寄せて、耳元で何でもない言葉を囁かれた時、何故か思考が停止した。
茫洋とした状態で彼女の顔を見た時、何故か心臓が暴れ出した。
そう、まるで……恋煩いでもしたかの様に。

「……そんなの」

そんなのおかしい。五十嵐は首を振って、その考えを必死に追い出す。
私は女。タカコちゃんも女だ。


確かに私は男性と接するのは苦手だけど、それは同性愛に端を発するものではない。
男性が嫌いだから女性に走ったりした訳でもない。
女性を恋愛の対象として考えた事なんて、人生でたったの一度だってない。
理想とする男性像だって漠然としているがあるにはあるし、将来的にはまだ見ぬ誰かと結婚するつもりだってある。
女の子に恋をするなんて、五十嵐にとっては有り得ない状態であった。
有り得ない、有り得ない。そう心の奥で呟けば呟く程、五十嵐はタカコの事を意識せざるを得ない。
思い出される彼女の声、顔、仕草。
女性としては大きい身体。少し低い声。頼りがいのある言動。
中性的な女性だとは思っていたが、それが自分が恋をする理由になるのだろうか。
いや、ならない。即座に五十嵐は自己否定した。
どれだけ男前に感じても、彼女は女性なんだ。だからきっと自分のこの気持ちも、一時の気紛れだ。
男性恐怖症がたたって、自分も段々訳が分からない状態になっているんだろう。
この性分は早めに治したいものだ。五十嵐は一心地ついて安堵の溜め息を吐く。
身体を起こすと、暗い部屋の一点から光が放たれている。
携帯電話が鳴っていた。相手は七条アリア。今の事態の遠因とも言える学友からの着信である。

「もしもし」
「あ、もしもし?ゴメンね、今日行けなくて」

声色こそ申し訳なさそうであるが、あまり反省している様子はない。
五十嵐は持ち前の洞察力でそれを察するが、今はそれに言及しても詮無いことだ。

「それはもう良いです。それで、何か用が?」
「用って程でもないんだけど、今日どうだったかなぁって。
 楽しかった?」
「えぇ」

楽しかった事に間違いはない。五十嵐は素直にそう返した。しかし七条の方は首を傾げる。

「そう?でも津……タカコちゃん、何か辛そうだったよ?」
「……辛そう?」
「うん。帰り際、家に服を取り……じゃなくて、ちょっと用事があってね。
 話聞いたんだけど、五十嵐さんを怒らせちゃったみたいだって」
「別に怒ったりは……」

全く記憶にない、とは言えなかった。
今日の別れ際を思い出して、五十嵐は深く反省した。
今にして思えば、あの時は自分の気持ちの整理も碌に出来ないで、ただただ普段通りの自分の行動を思い出して実行する事で精一杯だった。
別れの挨拶をした覚えもない。風紀委員長が聞いて呆れるような無礼な振る舞いだった。
まるで八つ当たりで照れ隠しをする幼い子供じゃないか。五十嵐は自分に呆れた。


「別に怒っていたのではありません。
 ですが……タカコさんには悪い事をしました。
 申し訳ありませんが、代わりに謝ってもらっても」
「……代わりに?」

七条が鸚鵡返しに問う。不満点を取り上げて再び五十嵐にぶつけるかのように。

「私が代わりに謝っていいの?」
「……」

遠回しに非難されているのは当然分かるし、七条の言いたい事も頷ける。
自分で蒔いた種くらい、自分でどうにかしろ。
五十嵐はごもっともだと反省した。
直接彼女と口を聞くには少しばかり勇気が要るが、臆している場合ではない。
折角出来た友達が、自分のせいで苦しんでいる。それは真面目に生きてきた五十嵐にとって目を背けて良い事ではなかった。

「いえ、今の話はなかった事にして下さい。
 その代わりと言っては何ですが、タカコさんの電話番号を聞いても?」
「勿論いいよ」

七条は嬉々として番号を告げ、何度も確認した上でにこやかに電話を切った。
何だか踊らされているような気がしてならないけれど、今すべき事はタカコへの連絡である。
今日の事をちゃんと謝って仲直りを果たして、それから……。
日付を確認する。明日は日曜日。今日から続けて休日である。
出来れば……。五十嵐は心の内に決意を固める。
出来るのであれば、今日の私の行動の原因をちゃんと確認したい。
彼女に感じてしまったときめきが、偽であると証明したい。
五十嵐は貰ったばかりの番号に電話をかける。
そして、彼女の事を飽くまでも友人として好いていると言う事を、他ならぬ自分自身に示してやろう。

「あ、もしもし。五十嵐カエデですが」

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