季節は冬へと移ろい、人肌が恋しい時期の真っただ中の頃である。
五十嵐カエデと津田タカトシの交際は継続中であるが、その事実を知る人間は少ない。
相談に乗ってくれた天草、馴れ初めに深く関わる七条は勿論だが、二人を経由して萩村も承知済みである。
津田の妹コトミにも当然バレているが、言ってしまえばその四名にしか知られていない。
幸いにも生徒会からは、学園内でイチャつかなければ良いと申し付けられている。
津田にとっては辛抱するのが大変であったが、五十嵐は風紀委員長を勤めているだけあって自分を律する心は強かった。
そもそも五十嵐は津田と違い、強い信念を持って風紀委員長を勤めている。己の風紀の乱れなぞ認める訳には行かない。
五十嵐にもキツく言い聞かされていたお陰か、津田にも一応は生徒会からのお達しは厳守出来ていた。
お陰で今日まで大したスキャンダルもなく、二人はこの数ヶ月を過ごしている。
あれだけ劇的な始まり方をした付き合いだが、進展そのものの速度は極めて遅く、二人ともキスすら記憶にない。
津田は何となしに始めた五十嵐との馴れ初めの回想を終えて、炬燵机を挟んだ向かいに腰掛ける五十嵐に目をやった。
だが五十嵐の目線の先は津田ではなく、赤本と既に大半が文字で埋まっているノート。
大学受験が彼女に迫っていた。センターを既に終え、本試験は数週間後。
彼女が受験する大学は、ここからそう遠くない国立大だそうだ。

「そろそろ、休憩にしませんか」
「……そうね」

五十嵐が満足げに自己採点を終えたのを見計らって、津田はそう切り出す。
彼も五十嵐に付き合ってテスト勉強をしていたのだが数分前に既に投げ出していた。

「お茶でも入れましょうか?」
「うん。ありがとう」

津田は炬燵から立ち上がり部屋を出る。
二人は津田の自室を会場に、勉強会を開いていた。
津田は二年生最後の定期テストの、五十嵐は来るべき二次試験の為の。
恋人同士でいう勉強会とは往々にして二人で会う為の口実に過ぎないのだが、少なくとも五十嵐にはそんな半端な気持ちはない。
津田としては面白くないが、そこが五十嵐の長所だと割り切って、彼も素直に勉学に励んでいる。
お陰で今回のテストは中々良い点が取れるだろう。
他愛ない事を考えながらキッチンでやかんに火を入れて、茶葉を探して台所を彷徨っていると、リビングでテレビを見ていた妹が顔を覗かせた。

「あれ、タカ兄、なにしてんの?」
「休憩。飲み物でも入れようかなって」
「私にもちょーだい。あ、コーヒー? それとも緑茶? 紅茶?」
「……どれがいいかな」
「お義姉さんは何がいいって?」
「お義姉さんって……お前」

照れながら返すタカトシに、コトミはニヒヒ、と悪戯っぽく微笑んだ。


オヤツを探しに来たらしく、コトミは会話を片手間に冷蔵庫を開けて物色を始めた。

「まぁまぁ、いいじゃんいいじゃん。そのうちそう呼ぶ日が来るかもしれないし。
 それとも、遂にタカ兄も遊び人に」
「んな訳あるか」

少し不機嫌になったタカトシだが、コトミは大して気にせずに続ける。

「そうだよね。エッチどころかキスもまだなのに遊びも何も」
「……ねぇ、そう言う情報ってどっから仕入れてくるの?」

兄の当然の疑問は無視し、コトミは今までとは打って変わって顔付きを改める。

「タカ兄、もう付き合って三ヶ月くらいでしょ? そろそろ良いんじゃない?」
「余計なお世話だ。オレ達にはオレ達のペースがあるし」

兄はどうやら楽観しているらしいが耳年増なコトミにとってはつまらない展開であり、少し危惧を感じていた。
確かに二人で一緒に居る時は適度にイチャついているし、大きな喧嘩も特に無く順風満帆な交際を続けているようにも見える。
だが、先に進展していく様が見受けられない。
五十嵐が大学に進学したら、二人が会う時間は今よりも更に減る。
五十嵐の男性恐怖症もタカトシのお陰で幾分かましになったが、だからこそ大学と言う新しい環境を得れば五十嵐の心変わりだって有り得る。
清い交際と言えば聞こえこそ良いが、それで破局に至ってしまっては元も子もない。
肉体関係と言えば聞こえは最悪だが、愛あるセックスは二人の絆をより強固にする。
そろそろABCくらい済ませてちゃんと繋ぎ止めておくべきだ。
コトミは前から、彼女にしては珍しく真剣にタカトシにそう言っていたのだが、タカトシは溜め息混じりに馬耳東風の様相。
……多分。コトミは考える。
多分、タカ兄もそこそこ頑張っていたのだろうが、カエデ先輩のあの性格だ。
先輩には風紀委員長としての誇りがある。自分がそんなふしだらな事はとても、と考えてるんだろう。
しかし、ひたすらお預けを喰らっているタカ兄が他の女の子に走らない保証もない。
タカ兄は気づいていないが、未だに彼の隣を虎視眈々と狙い続けている女の子は何人もいる。
フィクションではむしろ好物だケド、現実のNTRはこの上なくおぞましい行為だ。
コトミは性知識に通じているだけあり、愛憎の招く悲劇の凄惨さを理解していた。
カエデ先輩は、頼れる良いお義姉さんになりそうで気に入っているし、タカ兄の事は言わずもがな。
何より両想いの筈の二人がすれ違ってしまうのは見たくない。だから、妹の自分が頑張らねば。
コトミはやる気に漲っていた。
で、頑張るとは何をするかだが実はコトミは既に作戦を練って、実行に移す寸前までフェイズを進めていた。
具体的な作戦内容は極めて彼女らしい、繊細さも緻密さも身も蓋も突拍子も無い、大雑把なものであるが。

「……ねぇ、タカ兄」
「ん?」


「お茶、私が入れておくから戻ってて良いよ」

オヤツはプリンに決まったらしいコトミは冷蔵庫を閉めながら、タカトシにそう言った。
タカトシは憚る事なく額を顰める。
兄妹仲が良いが故に、妹がこういう顔をする時は大抵何か妙な企みをしている時だと見当がついてしまった。

「いや、いいよ」
「心配しないでいいって。こんな時にドジっ子アピールしないから」
「その心配はしてない」

中々頑な態度を崩さないタカトシに、コトミは口を尖らせて、次の作戦に移行する。
押してダメなら引いてみろ。
コトミは両手の指先を胸の前で突つき合わせながら、タカトシに潤んだ瞳を向ける。

「……私は、タカ兄とカエデ先輩が少しでも長い時間一緒に居れたらなって思っただけなのに」
「…………いきなりなんだよ」
「カエデ先輩、勉強と委員会で忙しいでしょ? タカ兄も生徒会の引き継ぎとかそろそろ始まるし。
 中々会う時間もないって、愚痴ってたじゃん。
 私も二人の事は応援したいし、少しでも手伝わせてくれると、嬉しいんだケド」

何か企みがあるのは見え見えなのだが、妹の懇願を無碍にするのも可哀想だ。
ついにタカトシは折れて、一つ溜め息を吐く。

「……分かったよ。そこまで言うなら、お前に任せる」
「オッケー!んじゃ、戻った戻った!あ、コーヒーで良いよね?」
「ん、良いけど何で」
「混ぜや……私のオヤツがプリンだから。お茶は合わないでしょ?」

何か言いかけたようだが、生憎タカトシの耳には届かなかった。
妹の態度への警戒は崩さないが、タカトシは確信を持てずに言いがかりをつける事は出来ずにいた。
諦めてすごすごと自室へ帰っていくタカトシを見送り、コトミは口角を高く上げる。

………………………………………………………………………………

「失礼しまーす」

にこやかにコトミがタカトシの部屋に入室。
タカトシと五十嵐は机を挟んで、雑談に耽っていた。
机の上には未だに勉強道具が並んでいる。休憩後、まだしばらく勉強を続けるのだろう。
そして勉強が終われば、五十嵐は帰宅する。悲しい事に、この二人にとってはそれが平常なのだ。
でも、今日は果たしてどうなるかな。コトミは自分の顔に浮かぶニヤけを必死で堪えた。


「コーヒー、どうぞ」
「あぁ、ありがとうコトミちゃん」
「タカ兄も」
「サンキュ」

二つのマグカップを……タカトシには彼用の、五十嵐には来客用のカップを差し出す。
どちらがどっちか間違っていないか、コトミはしつこいぐらい視線で確認を取った。
タカトシは妹の所作の違和感を一早く察知していたが、五十嵐は勿論気づかない。
受け取ったコーヒーを一つ啜って、鼻から息を抜き、タカトシを見やる。

「どうしたの、津田君」
「……いえ。何でも」

タカトシは五十嵐の手前、あまり妹に強気に出る事が出来ない。
このコーヒーには何かある気がする。タカトシの勘であった。
恐る恐るコーヒーに顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。至って普通のブラックコーヒーの香り。
もう一度コトミの方を向く。妹は少し不機嫌そうに頬を膨らませていた。
疑うなんて酷いよ、と訴えかける目。タカトシは、完全に突き返すタイミングを失った。
今更要らない等と言えば、コトミよりも先に五十嵐に叱られてしまうだろう。
仕方ない、とタカトシは意を決してコーヒーを口にする。
インスタントの香ばしい薫りが口に広がるだけで、特に妙な味はしない。
単なる考え過ぎだったのかな、とタカトシはコトミに視線で謝罪の意を表する。
別に良いよと兄に返しつつ、二人がコーヒーを口にしたのを確認した後コトミはお盆を手に立ち上がった。

「……じゃ、私ちょっと出掛けてくるから」
「ん?もう夕方だぞ」
「そ、だからお夕飯の買い物。今日、お父さんもお母さんもいないじゃん」
「それならオレが後で」
「いいっていいって。私が行くからさ、ゆっくりしていって下さい、お義姉さん」

そそくさと部屋から立ち去るコトミを見送ってから、五十嵐が問う。

「お義姉さんって……?」
「まぁ、勝手に言ってるだけですから」

ふーん、と然程興味なさげに呟くが、五十嵐はまんざらでもなかった。
実際今は彼以外の相手を考える事は出来ない。彼の事は心底愛している。
そして多少は改善されてきたが、彼以外の男性とは未だに触れ合うのすら躊躇ってしまう。
それに、と五十嵐は緩みっ放しの頬をマグカップで隠しながら妄想を膨らませる。
大学はそれ程遠くないし、少し距離が空くけど交際は続けられる。
今は高校生で、しかも風紀委員会の委員長であるから、不純異性交遊を容認する事は出来ない。


津田君もそれは承知しているのだが、ごく稀に我慢出来なくなったのか、何度か押し切られそうになった事はある。
キスくらいは良いじゃないかとも言われたが、五十嵐はそれすらも断っていた。
キスだけで終わる自信がなかったのだ。もしかしたら私も我慢出来なくなって、自分から求めに行ってしまうのでは、と怖じ気づいていた。
だから肉体的な接触は、精々手を繋ぐ程度という、小学生レベルの恋愛であった。
それでも愛想を尽かさずに恋人でいてくれる彼には申し訳ないとは思うが、それももう少しの辛抱だ。
高校を卒業すれば、風紀委員長の肩書きは意味を失う。校内恋愛禁止の校則を気にする必要がなくなる。
一応世間的にも、未成年ではあるが年少者と見なされる事はないし、異性との交際で誰かに後ろ指を指される事もない。
その時がくれば、彼も私も我慢する必要はなくなる。思う存分愛を確かめ合えば良い。
初めてだらけで少し気後れしそうだけど、彼の事は信頼している。きっと大丈夫だ。
これ程までに春が待ち遠しかったのは、人生で初めての事だった。
憂いない未来を迎える為にも、今は受験に備えなければと五十嵐は気合いを入れ直す。

「さて、もうひと頑張りしましょうか」
「……オレも、そうします」

コーヒーを飲み干した津田も、一度大きく伸びをした後に首を回してそう言った。
空のマグカップ二つが炬燵の上に仲良く並び立った。
そしてここまでは全て、津田コトミの目論見通りだと言う事実を、二人は知らない。

………………………………………………………………………………

初めに異変に気がついたのは五十嵐だった。
妙に暑い。炬燵に長い間入っていたからだろうか。

「炬燵、切ってもらってもいい?」
「そうですね、少し暑いし」

津田が炬燵の電源を切ったのを確認して、津田から見えないように少しロングスカートの裾を上げて、足を出して外気に晒す。
着ていたセーターを脱ぎ、下に着ていたYシャツの袖を捲る。
対面に座る津田も暑いのか、パーカーの襟を掴んでしきりにパタパタと仰いでいる。
暖房でも付いているのかと五十嵐は津田の部屋を見回すが、この部屋にエアコンはない。
暫くすれば冷めるか、と五十嵐はペンを握り直し赤本を眺めるが、問題を解く気が起きない。
と言うよりも、解ける気がしない。
問題を目で追う気力はあるんだが、三文読むと最初の内容を忘れてしまっている。
疲れているのかしら……と目を揉んで大きく伸びをする。
津田もやる気を失ったかのように炬燵のすぐ後ろにあるベッドに寄りかかって、天井を仰ぎ見る。

「……どうしたの?」
「何か、頭がボーッとしちゃって。全然集中出来ないな……」

津田も同じだったらしく、先程から手首を回したり首を捻ったり肩を揉んだりと、落ち着きがない。


彼は疲れを感じている訳では無い様で、身体を動かしたいらしく、しきりに腕を振っている。
津田の野球の仮想フォームを眺めて、五十嵐の口は無意識に開いた。

「そう言えば、津田君って野球やってたんだっけ?」
「はい。小学生の頃に」
「そう……」

普段だったらそのままとりとめもない雑談が交わされるのに五十嵐はそこから句が継げなかった。
信じられないくらい言葉が思い浮かばない。脳が思考を放棄していることに、五十嵐はようやく気づいた。
これ以上の学習は効果無しと判断した五十嵐は、本を閉じて鞄にしまう。

「ダメね。何だか身体がだるい」
「……風邪ですか?」
「多分違うと思うけど……疲れてるのかしら」

五十嵐は溜め息をつきながら、炬燵机に顎を付けた。たまに見せる、緩んだ五十嵐の素の表情であった。
津田はそんな五十嵐をジッと見つめている。
普段の厳格な彼女と違った一面を独占している事が、今の彼に取ってはなにより幸せな事に思えていた。
熱視線に気づいたのか、五十嵐も津田を見上げる。
何秒間見つめ合っただろうか。流石に気恥ずかしかったのか、津田がやがて顔を赤らめて視線を外す。

「津田君の負けね」
「何の勝負ですか……じゃぁ、もう一戦やりましょうか?」

そう言って、津田は五十嵐に顔を近づけて、間近で両目を見続ける。
受けて立つ五十嵐は瞬きすら堪えて津田に視線を返す。
余裕を見せる五十嵐に、津田は更に顔を近付けて、五十嵐を見返す。

「…………」
「…………」

段々と二人の顔が近付いている事は分かっている。
いつもだったらそろそろ五十嵐が断りを入れてくる。
キスももう少し待って欲しい、と謝るくらいの距離だ。
津田は己の懸念をよそに、恐る恐る前進する。一々五十嵐に確認をとるように、距離を測りながら。
あれ、このまま進んでいいの?と津田は逆に困惑してしまった。
五十嵐は何故かフリーズしたまま。目はちゃんと開いているし、瞬きもしている。
彼女は彼女で、そろそろ津田君を止めないとマズいんじゃないのか、と考えつつも声に出してまで止めるかどうかに疑問すら湧いていた。
あ、あ、もう付く、もう付く、と惚けた頭の中で、五十嵐は何処か遠い世界の出来事のように客観的に実況していた。
津田はほんの数ミリ間を開けて止まる。最後の確認を五十嵐にする。


一方の五十嵐は目を瞑った。その後の結果がどうなるか、まさか分からなかった訳でもないのに。

「…………ん!」

津田は迷う事なく距離を0にする。
ファーストキスにしては些か激し過ぎる、貪るような接吻だった。
まるでこれまで溜まりに溜まった鬱憤を全て晴らすかのような、後退を知らない猛獣のように。

「ん……ん、ぅ」

五十嵐の苦しそうな声が漏れた。津田の聞いた事のない、艶っぽい喘ぎ。
それを糧に、津田の心は更に燃え盛る。
津田は身を乗り出し、炬燵机の上に乗って五十嵐を掻き抱いて距離を詰める。
机の上のマグカップが二つとも音を立てて倒れた。津田のノートがうつ伏せに床に転がる。
二人ともそんなものを見る余裕なく、相手の唇に没頭し、色に溺れていく。
やがて津田の舌が、五十嵐の口内に侵入してきた。

「んん!」

五十嵐は驚いて歯を閉じかけるが、舌を噛んではいけないとギリギリ踏みとどまる。
津田の大きな舌の、ザラザラとした感触が、彼女の口腔全体に染み渡っていく。
歯茎が、舌の裏が、歯の隙間一筋一筋が、愛おしげに舐め犯し尽くされていく。
口の中に突入してきた魔物に為す術無く蹂躙されて、五十嵐は目の前が赤く染まった。

「う、ぁ」
「おっと」

ガクリ、と背筋の力が抜けて、五十嵐は倒れそうになる。津田は咄嗟にそれを支えた。
力が入らないのか、五十嵐は両腕を投げ出しながら、茫洋とした視線を津田に曖昧に向ける。

「……ありがとう」
「いえ……」

机の上から五十嵐側に降り、津田は五十嵐に身体を寄りかからせる。
正面から抱き合って、津田はそのまま五十嵐の背に回した手で、五十嵐を擦る。
Yシャツの固い質感をほぐすように、ゆっくりと優しく手を動かす。

「……ね、ねぇ。津田君、ちょっと、待っ、てよ」

言っている五十嵐は、首の力すら抜けたのか、津田の肩に頭を乗せて、段々と呼吸を深くしていく。
ふぅ、ふぅ、と声に出る程荒く深い呼吸。津田の鼻に仄かにコーヒーの薫りが届いた。


あぁ、待って、止めてと、うわごとのように繰り返す割には、五十嵐は一切抗いの意志を示さない。
津田は少し間を開けて、左手で彼女の胴を支えながら、五十嵐の背にある右手を徐々に彼女の腹に寄せはじめる。
先程から臍の辺りを行ったり来たりしている津田の片手の存在には、五十嵐も気づいている。
このままでは胸への侵略さえ許してしまいかねない。
胸は、性的な接触を想起させる箇所だ。そこに触れてしまえば引き下がれなくなる。
五十嵐はそれだけは、まだ我慢の時だと己を奮い立たせようとするが、身体に力が入らない。
動こうと津田の身体を支えに上体を持ち上げようとするが、僅かに身じろぎが出来るだけだ。それが更なる仇を生む。
津田からしてみれば、恋人が自分に身体を擦り付けてよがっているようにしか見えなかった。
辛抱なんて出来る筈はない。

「五十嵐さん……!」

津田が服の上から五十嵐の胸に触れた。
力を込めすぎないように注意を払いつつ、両胸の頂点を撫で回す。
五十嵐は取り返しがつかない事になったと嘆きつつも、襲い来る背徳感に酔いしれいていた。
自分が打ち砕かれる様を、心の何処かで笑い転げながら見つめているような気分だった。
どことなく悲劇のヒロインぶっている自分が、少し可哀想で可愛らしくさえ思えてしまった。
抵抗する手段どころか抵抗そのものすら考えず、ひたすらに津田の拙い愛撫に振り回されていた。

「きゃぁ!」

ふと、首筋に熱を感じる。津田が五十嵐の白いうなじ吸い付いていた。
悲鳴と嬌声の中間のような声を上げ、五十嵐は津田に為すがままに快楽を享受する。
段々とペースが上がってくる。背中に回された手も再び活動を開始する。
頭痛がした。覚醒した意識が頭の中をピンボールのように飛び回り、脳髄に打ち付けていた。
触れられている胸の奥で心臓が燃える。舐め回されている首筋が融ける。支えられている背中が焼ける。
目に直接光を流し込まれたような、奇怪な感覚を覚えた。

「あ!あ、ああ!ダ、メ!ダメぇ!」

全身を温い炎が焦がし尽くすような、熱い痺れが襲いかかる。
肉体に快楽を叩き付けられ、五十嵐は数秒間呼吸を止めた。
痙攣によって跳ね上がる。二度三度、四度と、津田の膝上で身体が大きく振れる。
そして、まるで眠りにつくかのように脱力した。津田は支え切れずに、五十嵐と一緒に倒れ込んでしまう。

「……大丈夫、ですか?」
「…………あんまり」

五十嵐はかろうじて一言だけ声を発した。
息は整う気配を見せない。視界は定まる様子がない。意識だけは、落ち着きを取り戻していた。


キスとペッティングの初歩で達すると言うのが異常である事には彼女も気づいていた。
人から与えられた快楽と考えても、これはあまりに良過ぎる。
どうしてこうなったのか。
五十嵐は現状を確認する。今日は日曜日。彼の両親は不在。
妹さんはコーヒーを入れて、出掛けていって、不在。
家には二人きりと言う謀ったかのようなシチュエーション。
恋人同士の単なる戯れ合いが、いつの間にやらセックス半歩手前。
一体どこから歯車が狂ったんだと少し考えると、一つだけ気がかりが見つかった。
コトミちゃんの入れたコーヒーに、津田君は何かを懸念している様子だった。
もしかして、コーヒーに本当に妙な物が入っていたのでは?

「あの、津田く」

開きかけた口が唇で塞がれる。覆いかぶさっていた津田が、またしても五十嵐に襲いかかった。
かろうじて歯を噛み合わせ、舌の侵入を防ぎ、津田の身体を優しく押し返す。

「ま、待って」
「待てません……!」

津田は据わった目を五十嵐に向けて、少し荒い呼吸をしていた。
我慢の限界はとうの昔に通り越し、その上目の前には津田の望む全てが横たわっている。
今それを掴まずしていつ掴む。ここまで行ったんだ、もう今更歯止めは利かない。
後先を考える津田の冷静さはつい先程、音を立てて崩れ去ったばかりだ。
津田はジリジリと這うように、五十嵐との距離を詰めていく。
思わず五十嵐は身を引くが、狭い室内で逃げ道なんて碌にない。背中に津田のベッドが当たる。
このままでは喰われる。五十嵐は冷や汗を垂らした。
その時、ブーンと言う無機質な音が耳に届いた。藁をも縋る思いで音に向かって手を伸ばす。
掴んだものは津田の携帯電話だった。メールの着信だ。
恋人の携帯だからと構っている余裕なく、五十嵐は思わずその内容に目を通してしまった。
差出人は津田コトミ。内容は……。

「そろそろ媚薬も効いてくると思うから頑張ってね……って」

津田の懸念は現実のものだった。コーヒーには何かが仕込まれていたらしい。
私のものに、いや、もしかしたら津田君のものにも、性的欲求を促進するような何かしらが。
そうか、思えば初めからおかしかったんだ。冬真っ盛りなのに暑い、なんて感じるなんて。
キスどころか胸への愛撫まで許してしまうなんて。
優しい彼が野生の犬のようなケダモノに変身してしまうなんて。
あぁ、良かった。こうなったのは私のせいでも津田君のせいでもなく、コトミちゃんのせいなんだ。
……悪者を一人に押し付ければ、これから先は仕方のない事だと割り切れる。


高校卒業まではと死守してきた貞操を奪われるのもコトミちゃんのせい。
このまま私が津田君に骨の髄までしゃぶり尽くされても、コトミちゃんのせい。
そして彼に呼応するように私までもが興奮してきたのもコトミちゃんのせいだ。
あの子には後でちょっとお説教をしなければならないなぁ、と白々しく心で呟く。
薬を言い訳にすればまだ仕切り直しが出来た事なんて分かり切っていたが、五十嵐は口を噤んだ。
五十嵐も我慢出来なくなっていた。ここから一歩、二歩も三歩も先の世界が見てみたくなってしまった。
仕方ない仕方ないと自分に言い聞かせ、諦めをもってベッドに昇り、津田に向かって背筋を正して正座した後、三つ指をついて深々と頭を下げる。
せめて優しくしてくれるように、と祈りながら。

「……よろしくお願いします」

緊張し切った顔を上げた五十嵐に、津田は力無く微笑み返し、そのまま彼女を押し倒した。

………………………………………………………………………………

興奮によった赤く染まった視界。頭に遡る血流。歓喜に猛り狂う心臓。
津田は自分の中に眠っていた欲望の大きさに驚愕を覚えつつも、それを押さえ込む気はしなかった。
五十嵐の同意を受けて、遠慮というものは完全に消え失せた。
彼女のお願いします、という言葉は耳には届いているし、意味を解する程度の理性も未だに死んではいない。
なにより、自分にとっても未知の領域に足を踏み入れていかなければならない上に、失敗は許されない。
しかしいざ本格的に致すとなると、津田も思わず唾を飲んで躊躇う。
津田の勝手な欲望のままに段階を踏んでいった先程とは違い、今は完全なる和姦。
突き進む己の性欲を制御しながら、自分を頼っている五十嵐をリードしていかなければならないという重責が彼の双肩に課せられる。
戯れ合いではない恋人との交わりに緊張しているらしく、石像のように身を固めて動かない五十嵐を前に、津田は少しだけ頭を悩ませた。
とにかく、先程と同じ要領でやっていこう。
押し倒した五十嵐の顎と首のラインを舌でなぞりながら、震える指でシャツのボタンを外していく。
もう片方の手は、緊張のあまりガチガチに凍り付いている五十嵐を安心させるために、彼女の肩を優しく撫で付ける。
五十嵐は強く目を瞑ったまま、津田の唇から逃げるように首をあちらこちらに振り回す。

「……ん、んん、く」

感度の高まりのせいか、たったこれだけの接触でも皮膚が過敏に反応を示している。
今更恥ずかしがっているのか、五十嵐は声を押し殺しているらしい。
それが煩わしく思えた津田は一旦顔を上げて、塞がっている五十嵐の口を舌でこじ開ける。
閉じた歯を舌でノックすると、おそるおそる顎が開いていく。すかさず津田の舌が中に飛び込んだ。

「んむぅ、ん、ん〜!」

流れ込んでくる唾や舌を上手く受け入れられず、五十嵐の口端から泡立った唾液が零れる。
段々と声を潜める余裕もなくなり始め、五十嵐の硬直も抜けていく。
津田はその間にもボタンを外す指は止めずに、今、最後のボタンを外した。


その手は更に五十嵐の下半身へと向かう。ロングスカートに手がかかるが、そこから手に迷いが出る。
スカートの脱がし方なんて知らないぞ、オレ。
津田は顔を離して下に向けて確認しようとすると、不意に五十嵐に手を掴まれた。
そのまま誘導され、津田の指にファスナーが引っかかる。
思わず津田は、目を開けて至近距離の五十嵐の潤んだ瞳を見やる。

「……」

しっかりしてくれ、と言われた気がした。
すみません、と謝罪を視線に込めて、津田は指にかかったファスナーを一気に下ろす。
五十嵐の口元から離れてスカートを引きずり下ろし、そこで初めて、津田は横たわる五十嵐の全容を見る。
前を全開にしているフリル付きのYシャツが汗で透けており、奥に見える白いブラジャーが意外と大きな胸を包んでいた。
下のショーツも無地の白色で、股の部分がうっすらと濡れて色濃い。
五十嵐の口の周りが二人分の唾液で濡れ、光を反射して艶かしく輝く。
二つの三つ編みが所々ほつれて、ベッドの上に乱れた髪が広がっている。
その姿は、単なる裸よりもよっぽど津田の情欲を掻き立てた。
津田は手の中にあるスカートをベッドの脇にわざわざ折り畳んでから床に置き、五十嵐の背に腕を回して身体を起こさせる。
開いた足の間に五十嵐の座らせて、後ろから抱え込むような体勢をとらせた。
着ていたパーカーを脱ぎ捨て、下のTシャツも放り出し、津田は五十嵐との接触を直に感じ取る。
そして目の前にあった五十嵐の火照った耳にかぶりつく。

「ひぃん!」

可愛らしい鳴き声を上げながら、五十嵐の身体が震える。
……思えば付き合う切っ掛けである女装デートの時も、耳元で囁いた時に先輩は様子が変わっていた。
もしかしたら五十嵐さんって、耳が弱いんだろうか。会長みたいに。と彼が下らない事を考えていると。

「…………」

五十嵐が津田の脚を抓った。津田が他の女性の事を考えていたのは、彼女にはバレてしまっているらしい。
失態続きの津田は、挽回の手段として五十嵐の耳元で囁く。

「……ごめん、カエデさん」

出来るだけ優しく、しかし低い声で。
未だに自分の恋人を名字で呼び合っていた二人は、中々その呼称を変えるタイミングを掴みかねていた。
今津田がそれに先んじて一歩前に進んでくれた事に気を良くしたのか、五十嵐は指を離し、代わりに彼の脚を愛おしげに優しく擦る。

「タカ、トシ君、口が……いい」

顔を津田に向けた五十嵐が、今度は自ら津田にキスをする。


津田のように口の中を唾で塗りつぶすような深い接吻ではなく、軽く唇同士で触れ合う程の可愛らしい口づけを幾度となく繰り返す。
チュッ、チュッ、と規則正しい音が聴覚から性欲を刺激していく。

「そろそろ、脱がしますよ」

付かず離れずの口づけに焦れた津田が、五十嵐の追撃を遮って小さく言った。
五十嵐との間にある薄いYシャツを邪魔に感じ、津田は少々強引に引っ張り上げて五十嵐を剥く。
流石にYシャツを畳んでやる程の精神的余裕も時間的猶予もないので、丸めてベッド脇に放り出し、後ろから五十嵐の胸に指をかける。
ブラジャーの中に左手を突っ込んで、直に感触を楽しむ。

「……あふぅ」

首を少しのけ反らせて、五十嵐は息を吐いた。
胸を揉む一方で、右手を背中の方にも滑り込ませ、少しもたつきながらも静かにホックを外す。
左手にかかっていた圧迫感がなくなり、ブラを指で弾くと、ポトリと五十嵐の膝の上に転がり落ちた。
津田は今まで考えた事はなかったが、五十嵐は着痩せするタイプらしい。主に胸部が。
零れ出てきた乳房が掌に収まり切らない。下から支えると、重みすら感じる。
そうか、女の人の胸ってこんなに重いのか。と、意味不明な感動を覚えていた。
ホックを外した腕も前に回し、津田は自分の胸板を五十嵐の背に密着させる。
そして五十嵐の身体の正面で腕を交差し、右手で左の、左手で右の胸を触る。
張りのある五十嵐の胸の質感を堪能するように、指を親指から小指まで蠕動させた。
指が埋まる柔らかい肉感、撥ね除けんばかりの弾力。矛盾した二つの性質が混在していた。
なるほど確かにこれは男なら誰でも求めたくなる感触だ、と津田は当事者になって初めてそれを実感した。

「あ! ……んぅ!」

乳首を人差し指と中指で挟み込み、少し転がしてやる。やはりそこは特別感度が良いらしく、五十嵐の声の調子が一音上がる。
感じているのがバレたくないのか、五十嵐は自分の口を、津田とのキスで蓋しようとまたしても後ろを向きかける。
しかし、津田はそれに先んじて再び五十嵐の耳に吸い付いていた。

「ひゃぃん!」

耳たぶを甘く噛み、時折舌先を耳の中に這わせて、掻き回す。
ヌチャ、ヌチャという水音が五十嵐の脳に直接響き渡った。

「あぅ!や、やめ、ひあ、やめ、てぇ!き、きた、ないからぁ」

五十嵐の懇願を、津田は聞く耳もたずに無視して行為に没頭し続ける。
止めるつもりは更々ないらしく、少しだけ酸っぱ苦い五十嵐の耳腔を舐め回し続ける。
耳の中を、広義的には脳内すらも揺さぶられて、五十嵐の理性は段々と行き場を失い始める。


「こ、これ、や、やめ、て!お、ねがぃ!が、まんが、でき、ひぃ!」

止めるものか。切なく叫ぶ五十嵐を見て、津田の心の中に眠っていた悪戯心が出しゃばりだす。
むしろ一層いやらしい五十嵐が見たくなり、津田は右手を素早く五十嵐の腹を経由して、更にその下へと向かわせる。
性器に伸びた魔の手に気付き、五十嵐は息を呑む。
既に愛液に濡れぼそり、汚れからの保護と言う下着としての役割を放棄したショーツがそこにある。
イヤイヤと首を振ろうにも、耳を固定されて満足に動く事も出来ない。
ゆっくりと秘所に迫り来る津田の指先を、期待と不安の入り交じった視線で見つめる事しか許されない。
指先が、性器に至る。そこに五十嵐の雌の部分がある事を確かめるように、津田の指は執拗に彼女の陰唇を下着越しになぞる。

「あ!あぁ!だ、ダメ!ダメェ!」

先程達したときと同じように、ダメ、ダメと叫ぶ五十嵐。
どうやらその言葉が絶頂が近いと言う合図らしいと見当をつけた津田は、より一層指に、舌に力を込める。
舌先を耳腔内で細かく振り、乳首を強く抓り上げ、性器に伸ばした指の腹で、陰唇から飛び出た突起を強く擦る。

「ダメ!ダ、ダ……」

五十嵐の視線が段々と蕩け始めた。津田は、素早く下着の中に手を入れる。
そして、直に五十嵐の陰核を親指と人差し指で挟んで押しつぶした。

「ぁぁあ、あ、ああああああぁぁ!」

五十嵐は絹を裂くような叫び声を上げた。
肌が粟立ち、津田に伝播するほどにその身を震わせ、快楽に痺れる。
長く叫んだ後で、喉の奥からか細い息が漏れたのを最後に、五十嵐は津田に寄りかかった。
息を荒げ、汗にまみれた肢体を晒しながら、少しだけ険しい顔で津田を見上げる。

「……やめてって言ったでしょう」
「すみません、つい夢中になっちゃって」

津田は執拗に耳を弄んだ事を言われているのだと思っていたが、五十嵐が口を尖らせる原因はそこではない。
薬のせいか、身体があまりにも敏感になり過ぎている。前戯で時間をかけすぎると体力が保たない。
覚悟を決めた以上、この場で最後までやりたい。だからあんまり責めすぎないで欲しい。
これ以上の体力消耗は危険と判断した五十嵐は、渋々であったが自分から切り出す事にした。

「ねぇ、タカトシ君、もう……」

脚を擦り合わせて誘う五十嵐の淫美な姿に、津田は唾を飲んで頷きを返す。
いよいよ前戯は終了し、本番が始まる。
一線を越えたか否かで、自分達の関係の何かが大きく変わろうとしているのを、二人はしっかりと感じていた。


緊張感に空気が急激に張りつめる。
津田は自分の震えを隠すように、ズボンをパンツと共に素早く脱いで放り捨て、五十嵐のショーツを引く。
陰毛までも湿って糸を引く程に五十嵐は濡れていた。
さぁいつでも来いと言わんばかりに性器が時折、ピクピクと震えている。
津田の陰茎も既に何分も前から準備を完了している。雌を求めて、頼もしくいきり立っている。
こちらも、すぐにでも挿入は可能であった。
しかし、津田はここである一つの問題が浮上した事に頭を悩ませていた。

「……どうしたの?」
「……ゴムが」
「ゴム?」
「コンドームが……無いかもしれません」
「え?」

津田は冷や汗を垂らしながら小さく呟く。五十嵐も驚きに声を上げた。
津田は必死に頭を回転させる。今更後には引けないが、このまま前に進む訳にもいかない。
買いに出るとしても、そんな事を言い出せば五十嵐は勿論、津田のモチベーションも下がる。
そういえば、随分前に妹が寄越したものが部屋の何処かで眠っているかもしれないが、確証はない。
探している間に冷めるのがオチだ。
……仕方ない。用意してないオレが悪いよな。今日はここまでか……。
と津田が諦めかけた時、五十嵐が首を傾げて炬燵机の上を指差す。

「あれって、そうじゃないの?」

指差す先に目を向けると、四角くて薄い袋が倒れた津田のマグカップの外側底部分にテープで貼付けてあった。
……何だアレ。
津田は思わず目を剥いて顔を引き攣らせつつ、それを拾い上げる。紛う事無き避妊具の王道、コンドームが何故かそこにあった。
当然津田が用意した訳ではなく、五十嵐が持ち込んだものでもない。
候補は一人しかいなかった。

「……コトミか」

いつもだったら説教の一つでもくれてやりたいが、今の彼にとっては妹は救世主であった。
妹に心の内で平伏しながらカップに張り付いてた袋を剥がして中身を取り出す。
付け方は知識としては身に付いている。初めての装着には違和感を覚えるが、今はそんな事を言っている場合ではない。
津田がコンドームの扱いに四苦八苦している間、五十嵐は彼の陰茎を目の当たりにしていた。
他の何かを見た訳では無いが、こんな肥大な物を自分の身体に受け入れるのかと思うと若干の目眩を感じざるを得ない。
少し尻込みしている様子の五十嵐がこれ以上冷める前に、と津田は五十嵐に向き直る。

「気を取り直して……ちょっといいですかね」


「う、うん」

身を起こしていた五十嵐を寝かせ、腰の下に枕を敷く。
初体験の際の痛みはこうやって腰を少し上げると多少マシになるらしいと、会長がしたり顔して話していたっけ。
眉唾物の俗説だが、やらないよりは良い筈だ。
下世話な知識を知らぬうちに吸収していた津田は、下ネタへのツッコミを強要される己の境遇にこの時初めて感謝した。

「じゃぁ……挿れますよ」
「うん……」

入れるべき穴を何度も確認し、津田は意を決して陰茎をあてがった。
可能な限り遅く、そして慎重に、ゆっくりと五十嵐の内部へと侵入していく。
鈴口の辺りまでが陰唇に隠れた頃、津田は五十嵐の方を見る。
緊張で呼吸が荒い五十嵐の脇腹の辺りを撫でて彼女を安心させようと試みつつ、津田は再び下半身の方を窺う。ほんの数ミリ進めるのにも、津田は気を配った。
陰唇を通り抜けようやく穴と呼べる部分まで先端が進んだ頃、五十嵐が少しだけ痛みに目を瞑る。

「大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。ありがとう」

半信半疑ながらも、津田はもう数ミリ前進する。

「んっ!」

亀頭の中程まで隠れた頃、思わず五十嵐は声をあげる。
腰を引きかける津田だったが、五十嵐が咄嗟に津田の手を握った。

「だ、大丈夫……続けて」

不安げな津田の顔に、五十嵐は微笑みを取り繕った。
今のは確かに多少痛んだが、ここから先を考えればこんな場所で尻込みしている場合じゃない。
五十嵐は津田の手を一層強く握った。指を絡めて、互いの体温をより強く感じ取る。
津田はそれを握り返し、今一度気を取り直して挿入を再開する。

「…………!」

五十嵐にも意地があったのか、襲い来る痛みに耐えつつも、何とか息を止めて声を押し殺す。
亀頭がようやく五十嵐に収まった。そこで一度前進を止める津田。
五十嵐も胸に支えていた息を吐き出し、途中休憩を挟む。
鈍い痛みが腰の辺りからせり上がってくるのにも段々と慣れ始めて、津田の方を窺うと、彼の表情も険しかった。
津田も必死で耐えていた。痛みだけにではない。今動かすとすぐに出してしまいそうだった。
五十嵐の膣は津田の陰茎を締め潰す程に食いつき、これまで彼の体験した事のない程の快感と結構な痛みを彼に与える。


しばらく呼吸を落ち着けて、肩の力を抜き、ようやく津田は動き始めた。

「ぅいたぁっ!」

全体の三分の一程が埋没し、五十嵐はとうとう耐えかねて首を反らす。
膣壁を無理矢理押し広げられて、筋組織がプチプチと引き千切れて悲鳴を上げている。
巨大な棒に内臓が押しつぶされるような、身体を引き裂くような、先程までとは比べ物にならない未体験の痛みが五十嵐の身体に走った。
津田は心苦しかったが、五十嵐の背中を擦りつつそのまま腰を進める。

「ぐ!ぐ、ぎ!いっ!ひっ!いぅ!」

腰を進める度に訪れる、堪え難い痛みを鈍い呻きで訴える五十嵐。
行き場を失った、空いている方の手は必死に津田のベッドのシーツを握りしめて皺だらけにしている。
逃げるように身を捩らせる彼女の身体を、津田は強引に抱き締めて引き止めた。
眉間に寄る深い皺。強く瞑られた目から零れ落ちる涙。食いしばられた歯。
そして口から吐かれる苦痛の言葉が、五十嵐の現状を如実に表している。
津田はそれらから目を背けて、五十嵐の身体に腰を押し進める。
このままではのは忍びないが、今止めても、どうあっても感じなければならないこの痛みを先延ばしにするだけだ。
だから、ごめんなさい。今は少し強引にいかせてもらいます。津田はそう心の中で頭を下げた。
代わりに、五十嵐の手を一層力強く握ってやる。オレはちゃんとここに居ます、と五十嵐に感じ取らせる為に。
痛みを誤魔化すような効果はないものの、津田の手の温かさに、五十嵐は幾分かは救われた。
タカトシ君が側に居る。私を見ている。だったら、私もしっかりしなければ。
この痛みは、恋人との触れ合いの上で、感じなければならない必要なもの。
タカトシ君と私が恋人である証拠なんだ。
だから大丈夫。頑張れる、と五十嵐は津田の手から、確かに勇気をもらっていた。
……やがて、先行していた亀頭が前進を止める。と言うよりは、それ以上進めなくなった。
先端に何かが当たる。膣を開通し、どうやら子宮口にまで至っているらしい。
二人の恥骨が丁度触れ合う位置で、津田の進撃は停止した。

「全部、入りました。カエデさん」

その一言に安堵を覚えたのか、五十嵐は溜め息をついて、涙を指で拭った。
津田に微笑もうとするが、痛みのせいかその笑みはぎこちない。

「た、大した事なかったわね」
「今更強がらんでも」

強がりではなく、五十嵐は実際に想像していたよりは随分とマシな痛みに驚いていた。
津田が初めての割に上手いのか、薬の効果に痛みを鈍らせる成分でも含まれていたのか、単に痛みに鈍感なのか、腰の下の枕のお陰か。
未だに心脈と同じリズムで刻まれる痛みにも慣れ始め、五十嵐は首を持ち上げた。
結合部を直接目にして、五十嵐は軽く気が遠くなった。


始めて見る、生々しい男女の交わり合いがそこにあった。
少し血で濡れた陰毛同士が絡み合った奥で、津田の陰茎を、自分の膣が飲み込んでいる様がマジマジと観察出来た。
うわぁ、本当にこんな風に入るんだ、と言う幼稚な感想を抱いた。
そしてもう後に引く事が出来ない何よりの証拠でもあった。
自分の処女は高校卒業までは守る、という思惑は完膚なきまでに叩き潰されてしまったのだ。
意志を通せなかった不甲斐なさを悲観するが、もう今更それを振り返っても仕方ないと言う諦観の念を受け入れるのは、意外と容易い事だった。
しかしセックスそのものが終わりを迎えた訳では無いし、むしろ今ようやくスタートしたばかり。
感傷に浸るにはまだ早すぎた。

「ちょっと、動きますよ」
「うん……ひぐ!」

津田が腰を引くと、痛みがぶり返してきたか、五十嵐が鋭い悲鳴を上げ、身体が大きく跳ねた。
どうやら少し待った方がいいらしい。津田はそう判断し、それ以上下半身を動かさないように気をつけながら身を屈める。
五十嵐の髪の一本一本すら慈しむように頭を撫でながら、何度目になるのか分からないキスをする。
今までのような貪欲なものではない、優しく触れるような、五十嵐が求めてきた口づけ。
空いていた片手は、僅かに逡巡した後、津田自身の欲の為に使う事にした。
即ち、五十嵐の豊満な胸に、である。

「ん……ふ、んぅん」

口端から五十嵐が声を漏らす。
やわやわと、出来るだけ低刺激を意識して、津田は五本ある指の腹で五十嵐の胸を撫で回す。
胸の輪郭を辿るように、左に右に、右から左に上に下に、揉む事もなく指で触れる。

「ふ、んふ、ふ、ふふふ……」

五十嵐の声から艶かしさが影を潜め、代わりに笑い声が交じり始めた。

「く、くすぐったい……!」

五十嵐の、激痛で強張った表情が少しずつ破顔していく。
痛いやらくすぐったいやらで、五十嵐は自分の形作るべき表情が段々と分からなくなってきていた。
全身の凝り固まった筋肉が緩み、笑い声が彼女の不規則だった呼吸を整えていく。
五十嵐の最奥に突き刺さる異形を、彼女の身体が受け入れ始めていた。
痛い程津田を締め付けていた膣壁に、僅かな緩みが生じる。
ヌルリ、と五十嵐の体内で津田の陰茎が蠢いた。

「あん!」

五十嵐の身体が小さく身じろぎ、彼女の喉の奥から可愛らしい声が漏れた。


五十嵐は目を見開いて、自分の口を片手で隠す。
驚くべき出来事だった。痛みの中に、僅かだが快感があった。
津田もきょとんとした顔で五十嵐を見やり、悩んだ挙げ句に耳元に口を寄せる。

「動いてもいいですか?」
「……うん」

五十嵐は深々と頷きを返し、自分の目尻に残る涙を指で掬う。
津田は先程とは逆に、上半身を五十嵐に密着させたまま、少しずつ腰を離していく。
絡み付く粘膜と蠢く膣壁、全身で感じる恋人の体温。耳に飛び込む五十嵐と自分の息づかい。兎に角、興奮する要素には暇がなかった。
津田は今すぐに腰を思う様振りたかった。五十嵐を労るうちに息を潜めていた津田の中のケダモノが再び目覚める。
自分の肉欲、五十嵐への想い、急激に迫り来る射精感を津田は全て御しながら、ゆっくりと腰を引く。
半分程抜いて、同じ速度で五十嵐の中を進む。
たったの一度の注送をようやく終えて、津田はもう一度腰を引き始める。

「痛くないですか?」
「……まだ、ちょっと。でも慣れてきたわ」

心の余裕を取り戻したのか、五十嵐は上気した頬にえくぼを浮かべた。
津田は五十嵐に一度軽いキスをした後、投げ出されていた自分の脚の位置を調節し直す。
より動きやすく、より気持ちの良い角度に体勢を組み直し、津田は再び五十嵐に身体を押し込む。
そして、引く。押し込んで、引き戻す。また進んで、戻る。
次第に動きが速くなり、距離が長くなる。一撃毎に遠慮がなくなっていく。

「ん……はぁ、は、あん! は、あぁ」

快感が苦痛と釣り合い始めた五十嵐の声に嬌声が交じる。
痺れるような痛みが未だに下半身を支配しつつも、ズン、ズンという重低音のような衝撃が彼女の脳を蕩けさせる。
中で膣壁が擦れる度に全身が熱を帯び、もっともっと欲しくなる。
膣液が溢れ出し、肉の棒を包み込むように濡らして潤滑を更に促進し、痛みを和らげていく。
クチャ、クチャと言う水音が、二人の脳内を蝕んでいく。

「ん、ん! あ、う、は」

短い喘ぎが津田を加速させ、五十嵐がそれに呼応して声を上げる。
その循環が、自分が相手を愛し、相手に愛されている事を、二人に共感させる。
天井知らずに相手を求める心が増していき、今の現状すらもどかしく感じる。
これ以上距離が縮まらない事が切なくなる。身体の距離は0も0、もっと近付くにはどうすればいい。
二人に残されていた詰められる距離というは、もう碌な隙間のない心の距離だけであった。

「カエデさん、カエデさん……!」
「タカ、トシ君……タカトシ君!」


どちらともなく恋人の名前を呼び、相手の存在を確認する。
激しく乱れる心を互いに曝け出し、お互いがお互いを抱き込もうと躍起になる。
二人には、もはや性的な快感に酔うことも、痛みに耐えることも頭にはなかった。
互いの心を自分ではない相手に捧げ合っている今の瞬間が愛おしくて、泣きたいくらい嬉しかった。
そんな中でも、津田は次第に頭に上り始めた血の意味を嫌がおうにも理解しなければならなくなる。
一体どれくらいの間、こうしていたのかは分からない。しかし、限界は近い。
もう少し、もう少しとどれだけ思っても、最早止まらない腰の動きは、速度を落とす事すら出来ないでいる。
性欲の本質である子作りを為さんがばかりに、精液が津田の精嚢を突き破るような勢いで溢れかけていた。
必死でせき止めるも、もうあと数秒も保たない。津田はそれを自覚していた。

「カエデさん、もう、イキます!」
「ん、う、ん!いい、よ!もう!」

五十嵐の言葉は最早耳に届いてはいなかったが、津田は自分の忍耐を解放した。
腰が深く埋まる。奥へ奥へと、限界を超えて尚も先に進めとばかりに、陰茎が激しくのたうち回る。
尿道を通る精液が猛烈な摩擦熱を残しながら、亀頭の先から噴射される。

「あ、あう……ううぅぅ」

呻くような声が耳に届くが、五十嵐のものか自分のものか、津田には分からなかった。
津田は背をのけ反らせて、いつまで続くのか分からない強烈な射精を味わっていた。
腕を立てて身体を震わせて、開放感を全身で喜びに還元して、達成感に昇華させる。
あぁ、最後までちゃんと、やれたんだ。
安堵によるものか、腕に力が抜けて、五十嵐の身体にのしかかる。
五十嵐は倒れ込んできた津田の頭を胸の辺りで受け止めて、汗ばんで少し髪の濡れた頭を優しく撫でてやる。

「……どう、だった?」

息も絶え絶えな五十嵐の問いは、どことなく不安げな色を孕んでいた。
津田は直後に自分が情けなく思えた。
今日、一番辛かったのは貴方なのに。何でオレが真っ先にその言葉をかけてやれない。
オレは自分勝手に腰振って、一人で気持ちよくなって、何やってるんだ。
津田は黙々としたまま、五十嵐の手を優しくどけて上体を持ち上げてる。
そして未だに五十嵐の中に収まっていた、激し過ぎる射精で尿道が痛む自分の息子を引き抜く。
まだ硬度が抜けない陰茎に被せられたコンドームが、真っ赤な血に染まっている。
見れば、五十嵐の局部からは鮮血が滴り、腰の下の枕に赤い斑点が飛び散っていた。
津田は炬燵の上に置いてあったティッシュをとって、五十嵐の股を拭う。

「やっぱり、痛かったですよね……すみません」


コンドームを取り外して、ティッシュに包んでゴミ箱に放り捨てる。
津田は五十嵐に頭を垂れて、後悔の念を露にした。もっと色々やりようがあったんじゃないか、と疑心が生ずる。
五十嵐の辛そうな声がフラッシュバックして、津田は完全に賢者タイムを通り越して、自己嫌悪に陥りかけていた。
そんな津田を見て、五十嵐は身体を起こして目の端を釣り上げた。

「タカトシ君。今は私が質問したのよ?で、どうだったの?」
「ごめんなさい……気持ち、良かったです」

一言一言に謝罪を込める、平謝りする子供のように肩を窄める津田。
五十嵐はそれを見て、少し呆れたように口を尖らせる。

「一々謝らなくていいわ……最初からそう言ってよ。
 不安になったわ。気を使わせ過ぎてないかなって」
「そんなの……それより、カエデさんは大丈夫ですか?」

おずおず問いかける津田に、カエデはやれやれと首を振った。
いつもは年下の割には頼りになるのに、こういう時はやっぱり後輩に見えちゃうな。
それもまた彼の可愛い所か、と内心ほくそ笑みながら、五十嵐は津田に答える。

「そんな顔しないの……確かに痛かったけど、それでいいんだから。
 最後の方は……その、ちょっと……気持ち、よかったし」

全てを終えて羞恥心が顔を出したのか、五十嵐は尻窄みに、囁くように言った。
それを聞き届けて、津田は五十嵐を抱き寄せる。

「今日は……色々とすみませんでした。
 カエデさんばっかりに辛い思いさせて」
「それは、追々でいいじゃない。まだまだ先は長いわ」
「それと、ありがとうございました。オレの我が儘に付き合わせちゃって」
「……私の方こそ。優しくしてくれてありがとう」

互いが互いを褒め讃えるような抱擁。
大層な苦難であったが、二人で一緒に乗り越えた事でしか得られない喜びがそこにあった。
津田は、妹の言い聞かせが間違っていなかった事を再認識する。
一線を越えてより深くなった恋人との絆を、二人は確かに感じ取っていた。
いつまでも、いつまでもこうしていたい。
二人は目を閉じて、静かに相手の鼓動を感じ取っ「たっだいまー!」……玄関から響き渡った声に、二人の身体は一気に氷点下に投げ出されたかのように冷める。

「まさか……」
「……このタイミングで!」


誰の声かなんて考えるまでもない。
津田コトミ。この事態の主犯にして、下手すれば二人以上にこの瞬間を待ちわびていた変態、もとい可憐なる乙女。
随分と気を遣ったのだろう、夕飯の買い物に相当な時間をかけて、彼女が今ようやく帰宅した。
コトミにしてみれば、この二人が事に及んでいるのは想定の範囲内と言うよりは完全に思惑通りであるが、だからと言ってこの事実を知られる訳にはいかなかった。
生徒会副会長と風紀委員長が勢いに任せて激しく愛し合ったと言うスキャンダラスなニュースの漏洩が僅かでも考えられる事態になってはならない。
流石にデリカシーくらいはあると信じたいが、今彼女がこの部屋に突入してくる可能性さえある。

「……ヤバい。取りあえず隠さなきゃ」

津田の行動は早かった。
一早く立ち上がった津田は、ベッドから未だに上手く動けない五十嵐を抱え上げて床に下ろし、ベッドに毛布を被せて破瓜の血を隠す。
投げ出されていた衣服を分けて、五十嵐の分は彼女に投げて寄越し、自分の分を身につける。

「すみません。服、急いで着て下さい。窓開けるんで」
「え、えぇ」

津田の行動の迅速ぶりに呆気にとられつつも、五十嵐は自分の身体に何とか力を込めて衣服を身に着け始める。
彼が妹対策に慣れているのは、つまり過去に勝手に入られた事があるのだろう。ソロ活動の時とかに。
……五十嵐は自然に浮かんだソロ活動と言う言葉に少し頭を痛めた。あの人達から移ったんだ……多分。
五十嵐が人知れず落ち込んでいる間にも、津田は既に服を身につけ、窓を開けて枯風を室内に招く。
炬燵布団、カーペット、その他諸々に消臭剤をかけて、匂いを誤魔化す。
そして、ゴミ箱の中に大量の丸めたティッシュを詰め込んで、それを更に炬燵の中にしまって隠す。
そこまでする必要あるの?五十嵐は視線で尋ねる。
あります。津田も目で即答した。

「やっほー、タカ兄、はかどってるー?」

ノックせずに元気に飛び込んできたコトミの挨拶と、二人が再び炬燵に脚を潜らせて学習道具を机に並べたのは、全く同時のタイミングだった。
二人とも冷静を繕って、真剣な目をノートに向ける。勿論内容なんて読んでいない。
コトミはそれを見て首を傾げる。

「……あれ、あんまりはかどってない?」
「いや、結構出来たぞ、勉強」
「そうね、流石に疲れたわ」
「そっちじゃなくって、アッチのほうなんだケドな……」

バクバクと踊る心臓を押さえ込みつつ、タカトシは眉を顰めて声色を厳しくする。

「それよりお前、要らんものコップの底に仕込むんじゃない」
「いやいや、要るでしょ。アレがなきゃ危険だよ」
「それ以前の話だ」


タカトシは、内心では感謝している事をお首にも出さずに苦言を呈する。
コトミはうぐ、と少し身を引いた。
兄の真面目くさった説教は苦手らしく、コトミはすぐ逃げられるようにドアを背にしたまま質問を続ける。

「タカ兄、メール見てないの?」
「メール? ……見てないぞ。何か送ったのか?」

タカトシは、コトミからのメールには本当に気がついていない。
その時はタカトシは理性が吹っ飛びかける寸前で、携帯電話を構う余裕はなかった。
メールを勝手に見た五十嵐だけがコトミの質問の意味を解していたが、五十嵐は無言でノートにペンを走らせる。
タカトシの演技ではない素のとぼけっぷりに、コトミはあっちゃぁと額に手を押さえた。

「……全く、タカ兄ときたら……」
「何だよその目は」

コトミの哀れなものを見る視線に、タカトシは半ば本気で怒りを露にしていた。
それを躱すように、コトミは早々に後ろを振り向いて、部屋を後にする。
が、もう一度部屋の中に顔を覗かせて、小さな声で尋ねた。
不安げに、不満げに、私の欲は何一つ充足していない、と言いたげに口を尖らせながら。

「ねぇ、二人とも……本当に、何にもなかったの?」
「なんにもなかったよ」

タカトシはカモフラージュが成功した事に安心しながら、妹に朗らかに返す。
そして五十嵐に向き直って、微笑みかける。

「ねぇ、カエデさん」
「そうね、タカトシ君」

五十嵐は未だにノートから顔を上げていなかったが、口元は緩んでいるのがコトミからですらよく見える。
二人の息のあった掛け合いを効いて、コトミは頷いた。
二度三度と頷いて、嬉しそうに微笑んで、少し頬を赤らめて二人に手を振って部屋を出ていく。

「お疲れ様、そんで、ご馳走様!」

名前で呼び合う程の仲に進展するような、何かしらはあったんだね。
コトミは深い詮索は無粋だと思い直して、意気揚々と兄の部屋を後にした。

………………………………………………………………………………

「そうだタカ兄、なんにもなかったんならアレ、返してよ」
「え」

このページへのコメント

私が思っているだけかもしれませんが、コトミってアクビちゃんのキャラに似ている気がします。

0
Posted by よかったよさん 2017年02月05日(日) 17:25:15 返信

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