「よおし、じゃあ今からそれぞれオナニーについて語れ」
 ビールでほんのりと頬を赤くしたリョーコが皆にそう言ったのは、夕食会が始まってから三十分程経った頃だった。
「……何を突然言い出すんですか」
 しばしの沈黙の後、最初に突っ込んだのは天野ミサキだった。
リョーコと同じように顔が朱に染まっているが、これはアルコールのせいではなく、恥じらいの為である。
「んー?」
「食事中に卑猥な発言しないで下さい」
「じゃあ何時しろってのよ」
「何時でも何所でもしないで下さい」
 リョーコのマンションでの夕食会は、定期的に行われている。
主に月に数回、こうしていつもの面子で集まっては、用意した食材を調理して賑やかに卓を囲むのだ。
これを企画したのはリョーコで、師弟関係が切れたら疎遠になるとか自ら言っておきながら、
都合をつけては皆を呼び集める辺り、もしかしたら最も交友というものを大事に思っているのかもしれない。
まあ、マサヒコの「暇つぶしの相手が欲しいだけなんだろ」という意見もあながち的外れではないにしても。
「やだ」
「やだ、って……」
「ミサキ、アンタも学習しなさいよ。今までのこうした集まりで、私がエロトークをしなかったことがあった?」
「うっ」
 こうやって開き直られると、優等生気質のミサキは弱い。
明らかにリョーコの方が無茶な理屈なのだが、
道理を振りかざしてそれを論破出来る程、ミサキは押しの強い性格ではないのだ。
無論、それはアヤナにしてもアイにしてもそうで、リンコはと言えばもともと止めるつもりすらない。
マサヒコだけが暴走を阻止出来る『ツッコミ』技能を持っているが、
残念なことに家庭の事情で今日は遅刻となっており、まだここにはいない。
「そ、そもそも、何でオ……そ、そんなこと言わなきゃならないんですか」
 オナニー、という単語を口にしかけて、ミサキは慌てて言い直した。
よくよく考えれば、性的ではあるものの、卑猥に過ぎるという言葉ではないのだが、
さすがにリョーコのようにホイホイと軽々しく舌の上に乗せられる程、彼女はスレてはいない。
「ふむ、今日は何月何日?」
「……7月21日ですけど」
 ミサキは躊躇いがちに答えた。
いきなり日にちの話になり、リョーコの狙いが読めずに首を傾げる。
そして、アイもアヤナも期せずして同じ所作。
リンコだけが、意味がわかっているのかいないのか、ほわわんとした表情で会話に聞き入っている。
「そう、7月21日。すなわち、ゼロナナニーイチ、0721」
「……?」
「0721、0をオー、7をナ、2をニ、1をイーと読めば……ほら、オナニー」
 リンコ以外の三人が、あまりのしょーもなさにガクッと頭を垂れた。
リンコが一人、「すごーい、暗号だあ」と感心してリョーコに拍手を送ったりなんかしている。
「つーわけだから、この話をしだしたのに全く根拠が無いわけじゃないの」
「お姉さま、コジツケですよ」
 門扉をモーニングスターで打ち砕くが如きの話の持っていき方に、リョーコを尊敬するアヤナも、さすがにあきれ顔。
だが、そんな遠まわしな拒否の素振りで、リョーコが引っ込むわけもない。
「ただ語るだけじゃ面白くないわね、よし、それじゃ初オナニーは何歳の時だったかに絞ろうか」
「先輩、無理矢理進めないで下さい」
「何よアイ、アンタ本当は興味あるんじゃないの?」
「そ、そ、それは全然無いと言ったらウソになるかもしれませんけど、でも」
 リョーコを諌めようとして、あっさり切り返され、しどろもどろになるアイ。
興味があると認めてしまう天然な素直さがある以上、彼女は絶対にリョーコに勝てないだろう。この先もずっと。
「よし、じゃあ仕方がないから私が真っ先に喋ってやるわ」
「はあっ!?」
「あれは初潮があってすぐだったから、小学五年生の秋。学校の帰り道、公園で落ちてるエロ本を……」
「わーっ! わーっ! 先輩、生々し過ぎます!」
「いやあああ、淫猥卑猥破廉恥いい!」
「お姉さまっ、ふ、ふ、風紀が乱れまくりですっ!」
「で、それからどうなんですか? 中村先生」
 楽しい夕食会が一転、性の告白会に変貌。
ツッコミ役のマサヒコがいないと、どこまでもリョーコのペースでズンタカズンタカと進んでしまう。
今、まさにその典型にハマリつつあった。

「何だよー、女同士だから話易いじゃん」
「女同士も何でもイヤです」
「なら、マサが来てからにしよっか」
「もっとイヤですっ!」
 興味津々のリンコを除き、ミサキ、アヤナ、アイは羞恥心という名の盾をかざして徹底抗戦の構え。
「うーん……じゃあ、ガクジュツテキな方から切り込んでやる」
 ここで無理を通すとより一層頑なになられる恐れがある、と踏んだのか、
それとも正面から盾を貫けぬなら横からかわして突いてやれ、と思ったのか。
リョーコはアプローチの変更を図った。
「ガクジュツテキ?」
「そ、学術的」
 リョーコは箸を一本取り上げると、ヒュッと振ってみせた。
教鞭の代わりとして使うつもりらしいが、お行儀悪いことこの上ない。
「ある研究所が自慰経験について調べたところ、およそ六割超が『ある』と答えたらしいわ」
「……それが学術的な話なんですか?」
「いいから黙って聞きなさい。あ、これは男性じゃなくて女性の話ね、対象は10代と20代」
「……」
 マサヒコなら、ここで「学術が聞いてあきれますからやめて下さい」と厳しく突っ込んだだろう。
しかし遺憾ながら、先程も言ったようにミサキではそうはいかない。
そもそも、「〜ですか?」という柔らか目のツッコミでは、リョーコを止めることなど不可能である。
「初めてはだいたい12〜14歳、丁度異性を意識し始める年頃かしら」
 ここでミサキとアヤナの肩がピクリと動いたのを、リョーコは見逃さなかった。
反応したということは、自身に覚えがあるということであり、かつ、場の流れに飲まれてきているという証でもある。
「ふふん」
 リョーコはテーブルから缶ビールを取ると、ぐびりと一口、喉の奥に流し込んだ。
その反応をもって、ここで二人をいじくり倒すことも可能だが、リョーコはそれをしなかった。
理由は簡単、この程度で馬脚を現すようなら、この先話がエスカレートするにつれ、
もっと面白いものが見られること間違いなしだったからだ。
「で、頻度なんだけど、最も多い回答が『不定期』というものなのよ。ぶっちゃけた話、シタくなった時にスルってことね」
 今度はリンコ以外の全員が反応した。
どこか後ろめたいような表情になり、俯き加減になる三人。
「『定期的にする』と答えた人の中では、週に一回、つまり月に数回するというのが一番多い割合みたい」
 リョーコは笑いだしたいのを堪えて、話を先に進めた。
「まぁ毎日スルという女の子もいるらしいけど……アンタたちはどうかしら」
「!」
 全力で顔を左右に振るミサキ、アヤナ、アイ。
まるでコントをやっているかのように、同じ動きになっている。
「シタくなる理由だけど、『気持ちよくなりたいから』ってのが正直なところみたいね。ま、これは男性も女性も違いなしってところかしら」
 最後に「私もそーだし」とリョーコは付け加えた。
口調が幾分挑発的になっているのは、「アンタらもそうだわよね?」と暗に問いかけているからでもある。
「で、やり方なんだけど、これがビックリ、90%近くが『指でする』って答えたそうよ」
 ここら辺、リョーコの話術の妙である。
これがビックリも何も、手淫という言葉がある通り、オナニーは普通手で行うもの。
つまり90%は当たり前のことをしているに過ぎないのだが、
それを大袈裟に表現することで、残りの10%への興味、同時に不安を引き起こそうとしているのだ。
「……バイブやローターなどのオモチャを使うのが、5%」
 意地の悪い笑顔でリョーコは皆を見回したが、さすがに、これは誰も反応しなかった。
まあ、この面子の中でそれを堂々と所持し使用しているのは、リョーコしかいないわけだが。
「それ以外は少数回答になるけど、まずシャワー」
 ビクッ、とミサキとアイが身体を震わせた。
「そして枕やクッション、ぬいぐるみ」
 アヤナも続いて肩を揺らせる。
「あと、キュウリとかナスとか、電動ハブラシとか携帯電話とか、ボールペンとか……」
 どよんとした空気の中、唯一人、リンコだけがリョーコの話に目を輝かせている。
単純に興味があるだけなのだろうが、天然もここまで来るといっそ潔いとしか言いようがないのも事実である。
ミサキやアイ、アヤナのリアクションこそが、本当は正常に近いのだ。

「ふふふ」
 右手に缶ビール、左手に教鞭代わりの箸を持ち、
リョーコは勝ち誇った目線で、ミサキたちの顔を撫でまわす。
ここまでの様子を見れば、最早無理に聞きだす必要もない。
皆の反応こそが、雄弁過ぎる程に語っている。
「ミサキ、シャワーは気持ちいい?」
「はぁう!」
「アイ、奥手なアンタでもやっぱりオナってるのね?」
「ひゃう!」
「アヤナ、もしかして手作りのぬいぐるみを使ってるのかしら?」
「ふぇう!」
「リンコ、アンタは……ま、いいや」
「えへへー♪」
 まさに圧勝。
まんまと望みの展開に持ち込み、リョーコ、喜色満面。
「ま、そんなに暗くならないように。あのね、アンタらは何も悪くないし、落ち込む必要もないの」
「……」
「オナニーしたり、そのために色んな方法使ったりってのは、極めて人間として当然のことなんだから」
 一転、イジメモードから優しい姉貴モードに入るリョーコ。
アメとムチの使い分けである。
「まったくしないって奴の方がおかしいのよ。ね?」
 少なくとも、リョーコの言っていることは、間違ってはいない。
思春期を迎え、性に興味を持つようになれば、誰だって必ず通る道。
覚えるのに遅い早いの違いはあれど、行為そのものは、悪いことでも何でもないのだ。
「ま、それはそれとして、ミサキ」
「はい……?」
 リョーコは立ち上がると、ミサキの横に行き、その肩をそっと抱き寄せた。
そして、アルコールで火照った頬を、ミサキの栗色の髪にぐいっと押しつける。
「アンタと私と、そして向こうの三人。この間には深くて広い川がある。それが何かわかる?」
「……?」
「すなわち経験の川。こっちは非処女、あっちは処女」
「ふぐっ!」
 訂正、アメとムチではなく、アメとムチとムチとムチ。
「こっちはオトコで発散出来るけど、向こうはサビシイわけよ一人でオナるしかなくて」
 まさに悪女、エロ道において中村リョーコ、一片の手加減なし。
「しかもミサキ、アンタの彼氏を脳内セックスフレンド、つまりオカズにしてね」
「ふわあーっ!」
 訂正、悪女ではなく、大悪女。


「ヤバイな、こんな時間じゃ、もしかして何も残ってないかも」
 アスファルトの道路の上を、小久保マサヒコは一人、急ぎ足で歩いていた。
行先は中村リョーコのマンションで、目的は夕飯を食べるためだ。
「家でちょっとでもつまんできたら良かったかな。いや、でもそうすると出れなくなったかもしれないし……」
 今日から夏休みのスタートということもあり、本当なら、時間通りにリョーコのマンションに行けるはずだった。
だが、いざ出発しようとしたその矢先に、まるで不意打ちのように従妹が田舎から遊びにやってきた。
電車で片道三時間はかかるはずなので、終業式が済んで即こっちに来た計算になるが、
一本の電話もなく、マサヒコにとってはまさに晴天の霹靂だった。
「しかし、そんなに遊びに来たかったのか? アイツ」
 笑顔でマサ兄マサ兄とひっついてくる従妹をようやくひっぺがしたのが、集合時間を三十分は過ぎた頃。
なおもついて来ようとする彼女を押し留め、靴をはいて家を飛び出したはいいが、もうどう足掻いても間に合うはずもなし。
「濱中先生がいるんだもんな、絶対にオカズ、無くなってるよな……」
 念の為にケン○ッキーでフライドチキンを人数分買いはしたが、
下手をすればこれも、自分が食べる前にあっさり食欲魔人アイのお腹の中に吸い込まれてしまうかもしれない。
「ミサキが何か取っておいてくれるのを期待するしかないか……」
 ようやくマンションに着くと、マサヒコはエレベーターに飛び乗り、リョーコの部屋がある階のボタンを押した。
その動作に、腹の虫が重なる。
「オカズになるもの、もう少し買ってくれば良かったかも」
 チン、とベルが鳴り、エレベーターのドアが開いた。
溜め息を一つつき、空腹を堪えて、マサヒコは足を踏み出した。


「そ、そ、そんな、アイ先生、若田部さん、マ、マ、マサちゃんを……?」
 ミサキの大きな瞳が、ゆらゆらと涙で揺れる。
目蓋の堤防は決壊寸前の状態だ。
「違う、違うよミサキちゃん! そんな、そんなことないない!」
「そ、そうよ天野さん! こ、こ、小久保君を、こ、小久保君なんか!」
 リョーコの「マサヒコ、想像セックスの相手説」を必死に否定しようとするアイとアヤナ。
しかし、これもまたリョーコの張った罠だったり。
「ホントに……?」
「先輩の口車に乗っちゃダメ! マサヒコ君を想ってなんて、何度もヤッてない!」
「お姉さまの出任せよ! 私もぬいぐるみまで使って小久保君としてない!」
 アイは天然故に、アヤナは高いプライド故に、慌てるとボロが出る。
見事なまでに、リョーコの悪辣な誘導トラップに引っかかる二人。
「……ふーん、『何度も』に『まで』ねぇ」
「あ!」
「ああ!」
 愕然とするアイとアヤナだが、最早手遅れ。
衝撃の事実を知り、ミサキの涙腺は大崩壊。
「う、う、う……うわーん!」
「ち、ち、違うわ! いまいまいま、今のは! いいまちまち間違い!」
「そそそそうよ! 私、小久保君なんか好き、好きじゃないんだから!」
 炎上する三人に、さらにリョーコは油を注ぐ。
「まあまあ、どうせマサだって、アイやアヤナをオカズにしたことあるって。ね、リン?」
「アイ先生やアヤナちゃん、おいしそうですもんね」
 大爆発―――

「ん、何だ?」
 マサヒコは呼び鈴を押そうとして、ドアの向こうから響いてきた大声に一瞬驚いた。
そして、心の奥でムクムクと湧き上がる、悪い予感に、身を震わせた。
「……」
 フライドチキンの包みを下に置き、腕を組んでマサヒコは考える。
特に理由はない。ないが、直感が「今すぐ引き返せ」と理性に忠告している。
数多の経験を得て、強化された危機回避能力という名の警報機が、バリバリにアラームを鳴らしまくっている。
「……ぐ」
 だが、マサヒコは敢えてピンポンをプッシュした。
直感を疑うわけではない、むしろ信じているが故に、彼は前に進む。
このドアの向こうで、自らを危機に陥れる何かが待っているのは間違いない。
だが、マサヒコはそれを避けない。
避けることが出来ないということを、いや、逃げきれないということを知っている。
それもまた、経験によって身に染みついた悲しき習性だ。
「……こんばんわ」
 尻は捲れない。
なら、突っ込むしかない。
火中に飛び込み、ツッコミという消火剤で鎮火させるか、それとも。
「おそくなりまし―――」

「マサちゃあああん! マサちゃんは自慰なんかしないよね! 私で満足してるよね!」
「マサヒコくぅううん! 違うからね、マサヒコ君をオカズになんかしてないからね!」
「小久保くぅぅぅん! 私はっ、あなたのことなんか、あなたなんか、好きじゃないし、使ってないし!」
「小久保くーん、ミサキちゃんとアイ先生とアヤナちゃんと私、おいしかった?」
「ミサキ!? お前何を言って、濱中先生、オカズなら買ってきてあります、フライドチキ、って若田部! 泣きつくんじゃない! 的山! 何だぁーっ!」
 鎮火させるか、それとも、虚しく。
「よーマサ、遅かったわね」
「なっ中村先生!? これはいったい、わっ、抱きつくなミサキ! 濱中先生も落ち着いて!」
「マサ、今日は何の日?」
「はあ? 今日は7月21日で、夏休みの、痛っ! 何でビンタするんだ若田部! ってこら、笑うな的山あ!」
「そ、今日はゼロナナニーイチの日」
「ゼロナナ、つうかこれ、絶対アンタが何か吹き込んだんだろ! また!」
 虚しく、巻き込まれて焼かれるか。

「こらメガネー! 何を皆に言ったんだあ!」
「ん? 0721……オナニーよ」


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