萩村スズは知らなかった。
 人を好きになるというのがどういうことかを。
 萩村スズは今まで自分は何でも知っている、と思っていた。
 自分に知らないことなんかない。そう信じていた。

 津田タカトシの告白を受け入れてから、それは間違いだったと知った。

 萩村スズは知らなかった。
 恋人にキスされるということがどんな事なのか。
 好きな人に手を握られたり、頭を撫でられたりするとどれほど幸せになれるかという事を知らなかった。
 愛しい人が自分の目を真っ直ぐに見ながら微笑んでくれることの喜びを知らずにいた。
 胸の中から溢れてくる、甘くて切なくて苦しくなる気持ちが全身に広がる感覚があるということを想像すらしたことがなかった。
 夜中にタカトシから「おやすみ」のメールを貰っただけで立っていられない位の幸福に浸れるという事を考えたこともなかった。

 萩村スズは知った。
 大好きな男の子に抱きしめられながら耳元で名前を呼ばれる嬉しさを。
 津田タカトシの腕の中で、その胸元に顔を埋めながら深く息を吸い込む悦びを。
 抱き合ったままタカトシに名前を呼ばれると、その声が触れた身体に直接響いてくるという事を。
 そしてそれがたまらなく心地よいということも。
 世界で一番大切な男の子が、自分の唇を奪ってくれることの幸せを、唇を捧げることができることの喜びを、生まれて初めて知った。

 萩村スズは恋の歌の本当の意味を知った。
「逢ひみての 後の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」
 権中納言藤原敦忠の百人一首の歌。天才のスズは苦もなくそれを暗記し現代語訳も意味も知っていた。
 否。知っている、と思いこんでいた。
 恋がどんなものかを本当に知った今、その歌の意味はとてつもない立体感を持ってスズの心に響く。
「出会って二人きりになって契りを結んだ後の、今のこの恋心に比べたら
 以前の好きだと思っていた心なんて何も思ってないのと同じことだ」
 試験の解答に書いた事のあるその言葉の意味を、スズは得点はしたが本当の意味を判っていなかった。

 古今東西の詩人や歌人や文学者が、なぜかくも多くの恋の詩や歌や物語を紡いできたのかを理解した。
 なぜプラトンがアンドロギュヌスを創造したのかを知った。
 ハイネがなぜ恋と狂気を同一視したのかが判った。
 与謝野晶子がやわ肌の熱さに触れなければ判らない、と詠った意味が腑に落ちた。

 教室や生徒会室で津田タカトシのことをつい目で追ってしまうのが恋。
 津田タカトシが他の女子と仲良く話している光景を見ると胸が締め付けられるように苦しくなるのが恋。
 津田タカトシが遠くで気づいて微笑んでくれるだけでその苦しさが泡のように消え去ってしまうのが恋。
 津田タカトシに後ろから抱かれながらその力強い腕の中で漂うときの無上の感覚が恋。

 夜ベッドの中で目を閉じて浮かんでくるタカトシの顔を思うときの幸福感。
 朝早起きしても、タカトシと一緒に登校できるという興奮だけで眠気なんかどこかに行ってしまう。
 授業中でも、休み時間でもふと気づくとタカトシのことを考えている。
 教師に当てられて上手く回答したとき、タカトシが自分のほうをちらっと見て微笑んでくれると
嬉しくて口元が勝手に緩んでしまう。
 数学の複雑な応用問題を教えているときに「萩村はすごいな」と尊敬の目で見られるときの恍惚。
 帰るときに「おやすみ、萩村」そう言ってキスをしてくれて、キスのあとで頭をくしゃっと撫でられるときの多幸感。


 生まれついての天才だったスズは、その早熟さゆえに人の体の柔らかさを知らない。
 物心ついて以来、家族にもあまり抱きついたりしたことのないスズは、津田タカトシに抱きしめられた瞬間にそれを知った。
 人の肌に触れるのはとても気持ちのよいものだということを。
 心を許した相手の暖かい肌で触れられ、その熱を伝えられることの悦びを初めて知った。



 そんな萩村スズは今、桜才学園指定の体育ジャージにその小さくて可愛い鼻を埋めている。

「んっ……ふんっ……すんっ…」

 スズが顔を埋めているのは、今日の勉強会をしたときに津田タカトシが忘れていった体育着。
 体操着を入れたサブバッグを忘れていったことに気づいたスズだが、届けるのではなくて洗濯して
明日渡してあげようと考えたのはさすがにIQ180なことはある。
 でも実際に洗濯しようとバッグから体操服を取り出した瞬間、その匂いに囚われてしまったのも恋する少女らしいと
言えるだろう。

 さっきまであれほど全問正解のご褒美でベタベタいちゃいちゃしていたのに、それはそれで胃袋が別なのか
スズはタカトシの汗のにおいのする体操着を嗅ぎながら、頬を薄桃色に染めている。

 胸いっぱいに息を吸い込むと、そのタカトシの匂いが胸いっぱいに広がる。
 まるでマタタビの粉末を吸い込んだネコみたいに、スズは腰に力が入らなくなり、膝から部屋のじゅうたんの床に崩れ落ちる。
 もう一呼吸。もう一回。もっと。
 鼻から息を吸うたびに、胸の中にタカトシの匂いが充満する。
 タカトシの匂いだけでいっぱいになってしまう。


 スズは17歳の今まで、自慰の習慣を持たなかった。
 そういう性欲の解消法をする人もいる、と知識では知っていた。
 自分にはそういう欲求はない、そう思っていた。


 大間違いだった。

 タカトシと最初のキスをした日の晩、スズは身体が熱くて眠れなかった。
 ベッドに入って目を閉じても、瞼の裏にタカトシの顔が浮かぶ。
 いくら頭を振ってもその顔は消えない。
 むしろより大きくなってしまう。

 やたら腰がふわふわと落ち着かず、丸めた布団を両足ではさみ両手両足で抱きつき、パジャマと下着越しに腰を摩擦してその
どうしようもない熱を紛らわそうとした。
 その熱がそうした行為で昇華すると気づいたスズだが、それはだんだんエスカレートしていった。

 手がパジャマの上着の裾から薄い胸を這うようになり。
 スズの可愛い手がパジャマのズボンの中に入り込み、下着の上からそこをやわやわと刺激するようになり。

 携帯の待ち受け画面のタカトシを見ながら。
 畑ランコから買った隠し撮り写真のタカトシを見ながら。

 徐々にIQ180の天才少女の一人遊びはエスカレートしていった。
 そして今はタカトシの汗臭い体操服に鼻を埋めながら天才少女はその秘裂を愛撫している。

 直接触るには敏感すぎる突起。
 下着のパンツのクロッチ越しにスズはその細い指を這わせる。
 脳内でその指はタカトシのものに変換される。
 この指はタカトシの指。
 胸いっぱいに広がるタカトシの匂いにその幻想は甘く煙っていく。
 優しい恋人が抱きしめてくれる夢。
 裸の自分をタカトシは優しく抱いてくれるという妄想。
 その間にもスズの指は自らの唇に触れ、下の粘膜にも下着越しに刺激を与えていく。


 そして、スズは甘い罪の匂いのする絶頂へと至ってしまう。

 声を殺すためにスズは枕に口元を埋める。
 枕カバーを噛み、爆発しそうな昂ぶりを必死に抑える。
 そしてそれは、堤防が決壊するかのようにスズの全身を襲う。
 白い爆発がスズの全身の神経を駆け巡る。
 腰の中が、胸の奥が、体中の骨の芯が甘く心地いい。
 最後のひと触りが、スズの腰を無意識のうちに跳ねさせる。

 まるで熱病に罹ったみたいに、スズは全身の皮膚を桃色に染めながらその快楽に押し流されていく。
 唇が白くなるまで枕カバーを強く噛みながら、その形のいい眉毛の間に皺を刻み、萩村スズは快楽の坂の頂点を超える。
 じっとりと塗れて重くなってしまったパンツの上から、陰部をまさぐっていた指が止まる。

 背筋を駆け上がってくる快美感の波に漂っているスズ。
 その表情は少女のそれというよりも女のものだった。
 眉根を寄せながら、快楽に甘くほどけた口元。耳まで真っ赤に火照った頬。
 汗で頬に張り付く数本の髪の毛。

 もしタカトシが見ていたら、間違いなく抑制が効かなくなるくらいの色っぽいスズがそこにはいた。







 そしてスズの妄想は消える。

 心地よいだるさと、罪悪感。
 そして、スズは自分ではなるべく気がつかないようにしていた絶望感。

 IQ180の天才少女は気づいてしまっていた。
 津田タカトシと付き合い始めてから萩村スズはいろいろな資料を調べた。
 キンゼイ報告から少女向け雑誌のえっち特集まで。
 インターネットのアダルトサイトから厚生労働省の若年の性問題ページまでそれこそくまなく。

 タカトシの妹のコトミが「タカ兄はかなり巨根だよ」と言っていたことから勘案すると、それこそ成人男性の平均値を上回るサイズ。

 そんなサイズの男性器が、自分の膣に入るはずがない。
 当たり前の結論は容赦なく萩村スズの薄い胸に突き刺さる。

 スズは調べた資料を思い出す。天才だから一度読んだら忘れない。

『高校生男子が付き合い始めてからセックスするまでの期間
 一週間以内が23%
 一ヶ月以内が24%(累積47%)
 二ヶ月以内が 9%(累積56%)
 三ヶ月以内が12%(累積68%)』

 スズは津田タカトシと付き合い始めて来週で三ヶ月。
 普通の男女ならもうセックスを経験しているカップルのほうが多い期間だ。

 ……スズはタカトシを信じている。
 たとえセックスができなくても、自分のことを好きだといってくれたタカトシの真摯な瞳を信じている。
 スズは優しくて、思いやりがある最愛の男を信じたい。
 ……信じたい。
 …


 しかしスズは一片の疑念が心の底から沸きあがってくるのを止められない。
 少女雑誌の性体験特集の読者投稿が思い出されてしまう。
「えっちを拒んでいたので彼氏に浮気されて捨てられた私」
「彼とするのが怖くて、彼を失ってしまった初恋」
 その「彼」の姿にタカトシがかぶってしまうのを止められない。

 スズは津田タカトシがそんな男だとは思わない。
 思わないが、それでも生まれて初めて恋を知ってそれを失うことに臆病になってしまっている少女は
疑念を捨て去れないでいる。

シノ会長を見ているときのタカトシの嬉しそうな目を思い出してしまう。
アリア先輩と話しているときのタカトシの視線の先を見て辛くなる。

タカトシが自分から去っていってしまうという想像。
至福の抱擁も、雲の上にいるみたいな幸せなキスも。
優しい瞳も、ステキな声も。
あのいい匂いも、固い胸板や腕も。
すべてなくなり、だれか他の女の子のところに行ってしまう。

それは想像であっても息が出来なくなるくらい、苦しい。
去年までは当たり前だった日常。
津田タカトシがいない生活。

それは今のスズにはとても考えられない。
灰色の、無味無臭な毎日。
鉛色の暗い雲に覆われたどんよりとした日常。

それは間違いなく、自分の心を壊してしまうだろう。
スズにはそれが実感できた。
タカトシが、他の女の子と幸せそうな笑顔で歩いている光景。
誰か自分ではない、他の女の子とベッドの中で抱き合っている情景。
タカトシの硬くて巨大な男根が、破瓜の血に染まりながら睦言を囁いている状況。

魔法みたいにスズを気持ちよくさせてくれるタカトシの大きな手のひらが。
知らないどこかの女の手のひらと繋がれている。

それは想像であってさえもスズの心を切なくさいなんでいく。

――泣いちゃダメ。
泣きはらした目をみて、恋人がどう反応するかということをスズはたやすく思い浮かべることができる。
――泣いたら、明日アイツは心配するから。
泣かないように努力をしても、その想像はスズの鼻の奥を刺激し、タカトシの体操着に涙のしみを作る。


――津田っ
スズは胸の中で大好きな男の子の名前を呼ぶ。
――わたし、つだのこと、だいすきだからっ
届くはずもない告白をしてしまう。

――なんでも、してあげるから……わたしのこと、きらいにならないでっ………

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