マサヒコは今日何回目かになる深いため息をついた。
両手が枷でも付けられたように重い。
それもそのはず。
マサヒコの両手には大量の買い物袋が提げられていた。
そして、目の前には自分のバッグだけを持って先を行く女性が一人。
「小久保君遅い!」
「・・・・そんなこと言うなら何か持て」
「私の手が塞がったら買い物できなくなるじゃない。男なんでしょ?」
「若田部、俺が体育会系の男に見えるか?一般的な男にとってこの重さは拷問と一緒だ」
「そんな口叩けたらまだ大丈夫でしょ」
何を言ってもはぐらかされる。アヤナはどうしても荷物を持つ気はないらしい。
「100歩譲ってだ、俺がこれを持つとしよう・・・・・
ならせめて!あの店で休憩しよう!じゃないと俺は近いうちに力尽きる!!」
マサヒコは正面に見えるファーストフード店に視線を向けて懇願した。
マサヒコの言ったことは冗談ではなかった。
極度の空腹と、千切れそうな手の痛みはすでに限界に達しようとしている。
街のど真ん中で往生してしまっては死んでも死にきれない。
「だらしないわね。でも・・・・一通りのものは買ったから・・・いいわ、休憩しましょう」
(まだ買う物あったら休めないのか?)
げっそりするマサヒコを尻目にアヤナは先に歩き出す。
マサヒコはその後姿をうつろな瞳で見つめた。

何故このようなことに至ったか。事の発端は朝のアヤナの訪問にあった。

「で、何の用だ」
テーブルにコーヒーを置き、マサヒコは腰を下ろす。
アヤナはコーヒーに少量の砂糖とミルクを入れる。
スプーンで掻き回すとカップの中が琥珀色へと変わった。
「ちょっとお願いがあってね」
「お願い?」
「私、こっちに来るとき服しか持ってきてなくて。だから生活用品とか全くないのよ」
「まぁそうだな。でここに来たのにどんな関係が?」
「荷物持ち」
「‥‥‥‥はい?」
「一通りのものを買い揃えたいんだけど私一人じゃ持てないから。
こっちで頼める男手ってあなたしかいないのよ」
「俺の都合も考えずに言ってくれるな」
「今日は日曜日だから暇なんでしょ?それに、久しぶりに再会した同級生の頼みも聞いてくれないの?」


「・・・・・・一応聞くけど拒否権は?」
「あると思う?」
「・・・・・・・・」
「それなりのお礼もするわ。悪い話じゃないと思うわよ?」
「・・・・・分かったよ」
マサヒコはとうとう渋々といった感じで承知した。
どちらにしろ行くことになりそうだったし、なにより『お礼』という言葉が引っかかった。
アヤナはマサヒコの返答に嬉しそうに目を細めた。


「くぁ〜〜手がちぎれる〜〜〜〜」
マサヒコは手から荷物を離してテーブルに突っ伏した。アヤナは注文に行っている。
「もうちょっと遠慮して買えよな・・・・」
腕をだらりと下のほうに垂らす。とてもじゃないが腕が上がらないのだ。
今更ながらマサヒコは少々後悔していた。『お礼』という言葉に引かれた自分のなんと愚かしいことか。
「ちょっと、情けない格好しないでよ」
横からの声にマサヒコはテーブルに伏したまま、視線を声が聞こえた方へと向ける。
呆れたような顔をしてトレイを持ったアヤナがそこにいた。
ため息をつきマサヒコの隣の席に腰を下ろす。
「お〜サンキュ〜・・・・」
「ほら、みっともないからシャキッとしなさいよ」
アヤナの言葉にのろのろと身を起こすマサヒコ。すでにアヤナはハンバーガーをパクついている。
「・・・・・・・」
「・・・・・・どうしたの?」
マサヒコが自分のものに手を付けず、じっと自分を見ているのを感じてアヤナは眉をひそめた。
「いや・・・・なんかお前がそーゆーのを食うのを見るのが新鮮だなぁって」
お嬢様なアヤナが所謂ジャンクフードというものを食べるというのは、とても奇妙な光景に見える。
少なくとも中学校時代の頃は見たことがなかった気がした。
「私がどこで暮らしていたか忘れたの?まぁ最初はちょっと抵抗あったけど」
「やっぱそういうの食う機会ってのは自ずと増えるんだろうな」
「スクールの友達とよく食べたからね。知ってる?アメリカではジャンクフードとバーベキューしか食べないのよ」
「・・・・嘘だろ?」
「それに男の人は寝るときは裸にジーンズって決まっているし」
「・・・・・お前、俺を馬鹿にしてるだろ」
ジト目でアヤナを見つめるマサヒコ。アヤナはそれをおかしそうに笑った。


腕がようやく動かせるようになり、マサヒコも自分のハンバーガーに手を付ける。
包みを取って思い切りかぶりつく。
「・・・・・うまい。流石モ○だ」
マサヒコは財布が心許ない学生の身。いつもは安上がりに済ませているのでたまにする贅沢(?)は至福のひと時だ。
「小久保君ってあまり自炊しないでしょ」
「んぐ・・・・まぁ、そうだな」
もともとズボラなところがあるマサヒコ。
一人暮らしになってからの食事は、ほとんどインスタントか店屋物だ。
「それなら・・・・・」
「あっ!小久保君!!」
アヤナの言葉はどこからか聞こえた能天気な声にかき消された。
マサヒコは周りに視線を向ける。そうすると声の主はすぐ見つかった。
手を振りながらこちらの方に近づいてくる。
「お、久しぶり」
マサヒコもそれに手を軽く上げて返す。
「本当だ。あっ、もしかして・・・・・彼女さんと?」
最初にマサヒコに声をかけた女性の隣にいたもう一人の女性もマサヒコの存在を確認した。
その声を聞いてアヤナは急に俯いた。まるで自分の顔を見られたくないかのように。
「違うって、若田部だよ。わ・か・た・べ」
しかしマサヒコはそれに気付くことなく、ごく普通に答える。
アヤナは驚いて顔を上げる。責めるような眼差しでマサヒコに向けるが彼は気付くわけもない。
アヤナは少し迷う素振りを見せた後、観念したかのように後ろを振り向いた。
「こんにちは。天野さん、的山さん」

ミサキとリンコはマサヒコとアヤナの正面に座った。
二人はハンバーガーには手を付けずに、先ほどからずっとアヤナに質問攻めをしている。
「どうして何も言ってくれなかったの?急に行っちゃうんだもの。
私達、あの時すっごい落ち込んだよ」
「ごめんなさい。あの時は・・・・いろいろゴタゴタしちゃって連絡できなかったのよ」
ばつが悪そうに苦笑いを浮かべるアヤナ。
マサヒコはちらっと横目で彼女を見ながらコーラを口に含んだ。
「でも綺麗になったね若田部さん」
「そうだよね〜。これで家事とか裁縫が得意なんだからホント完璧超人だよね」
「完璧超人?・・・・まぁ、すごいってことだよね。それに・・・・・」
そう言って二人揃って視線をアヤナの顔から少し下のところへと移した。
「「ねぇ〜」」
見事にはもる二人。アヤナは曖昧な顔を浮かべる。
マサヒコは気まずさにあさっての方角を向いた。
そこでマサヒコは少々何かひっかるものを感じた。何か違和感がある。
そしてそれはミサキの言動から感じ取ったものだということに気付いた。
「ミサキ、お前昨日若田部と会ったんだろ?改めてそんなこと言うの変じゃないか?」


「え?」
「そ・・・・それはね、小久保君・・・・」
キョトンとした表情になるミサキ。代わりにアヤナが口を挟んできた。
何故かひどくうろたえているように見える。
「なんでお前が出てくるんだ?」
「それは・・・・その・・・・」
普段の彼女らしくない態度。いろいろと鈍いマサヒコにも、これはひどく不自然に見えた。
更に詰問をしようと口を開こうとした時、ミサキが思い出したように声を上げた。
「あ、昨日若田部さん私がいない時来たんだよね。お母さんが言ってた」
「えっ・・・・・うん、そう・・・・」
「あ、そういうことか」
ミサキがいつも家にいるとは限らない。考えてみれば至極当然なことだ。
「あっ!小久保君。私小久保君に聞こうと思ってたことあったんだ」
ちょっと会話から外れてしまっていたリンコが、脈絡もなく話を切り出した。
「ここじゃ恥ずかしいからちょっと一緒に来てくれない?」
そう言ってすくっと立ち上がるリンコ。
「恥ずかしいならメールとかで聞けばいいだろ」
「早く聞かなくちゃ忘れちゃう〜」
駄々をこねるリンコ。もう18歳になったというのに全く成長していないように見える。
だがマサヒコはリンコの忘れっぽさを思い出した。
それにアヤナとミサキは親友同士。積もる話もあるだろう。
マサヒコは渋々といった感じで腰を上げる。
急かすリンコに腕を引かれマサヒコはテーブルから遠ざかっていった。

「リンちゃん、気を利かせてくれたみたい」
遠ざかる二人の背中を見てミサキは微笑んだ。その顔のままアヤナに顔を向ける。
「改めて久しぶり、若田部さん」
「・・・・・久しぶり」
「なぜか昨日家に来たってことになってるからびっくりしちゃった」
「ごめんなさい・・・・」
「事情があって私の家に来たって言ったのかな?あ、別にそのことを責めてるわけじゃないよ」
ばつが悪そうに視線をそらすアヤナを見て、ミサキは手を振りながら訂正した。
「若田部さんはどうして日本に戻ってきたの?」
場の空気を変えようとミサキは違う話題を口にした。
といっても実際それはミサキが一番聞きたかった事だったのだが。
「そ、それは・・・・保育士になりたかったから」
「それだけ?そうだったらあっちの方でも大丈夫だったんじゃない?」
「そんなの・・・・・・」
何かを言わなければならないというのに言葉が出てこない。
ミサキはじっとアヤナを見つめている。その瞳からは彼女の意図は全く読み取れない。
言葉も交わさずただ対峙する二人。先ほどまでの昔を懐かしむ空気はすでに雲散している。
しばらく見つめ合っていると、アヤナはとうとう諦めたように息をついた。
とてもじゃないがこの場で彼女に勝つ自信がなかった。


「そうよ、他にも目的があるわ。というよりそっちの理由が大きいかも」
もう一つの目的は敢えて言わなかった。
会話からミサキはもう察しているようだし、やはり口にするのは恥ずかしさが立った。
しかしミサキの前で自分の気持ちを認めた以上、アヤナは自分の決意を述べずにはいられなかった。
「一緒にいた時間では勝ちようがないけど。この勝負、あなたに負けるつもりはないわ」
「はぁ・・・・・」
高らかに宣言するアヤナ。燻っていた闘志がめらめらと燃え上がった。
ある意味アヤナがアヤナである所以とも言える。
店内の和やかな雰囲気とは明らかに異質な空気が場を包んだ。
が、それもほんの数秒の事。
アヤナは自分の目を疑った。
驚きから立ち直ったミサキの顔に表れたのは、穏やかな微笑だった。
「そんなの私に断る必要ないよ」
「? ど、どういうことよ」
「だって私はもうフラれちゃったから」
「え・・・・・」
それはアヤナが全く予想していなかった返答だった。頭がその言葉を理解しない。
振られた?誰が?誰に?
「高校に入って私から告白して付き合ったんだけどね。二か月くらい経ってからかな。
やっぱりお前とは付き合えない、って。それなら最初から断れってね」
なんでもない昔話をするようにたんたんと言葉を紡ぐミサキ。
あまりに何気ない口調だったので、マサヒコとミサキのことを話しているという実感が全く湧かなかった。
大体彼女に振られる理由などないではないか。
マサヒコを一番理解していて、マサヒコを一番大事に思っていた彼女が。
「若田部さん?」
「・・・・あ、ごめんなさい。ちょっと考え事していて・・・」
ミサキの言葉で店内の喧騒が耳に戻ってくる。ミサキはまた優しげに微笑んで話を続けた。
「でも私も本当のところ、やっぱりなって思った。マサ君そういう気持ち、我慢してられる人じゃないし。
そんな気持ちで付き合い続けるのが私に対して失礼だと思ったんだと思う。それに・・・・・」
「・・・・それに?」
「ある人のことが忘れられないって。名前は・・・・敢えて言わないよ?」
「っ!」
アヤナは鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。目の前が暗くなる。
『ある人のことが忘れられない』
彼女の話からすると、自惚れかもしれないがミサキは自分のせいで振られたということになる。
もしかしたら去り際にした自分の行動が彼女たちの関係を壊してしまったのかもしれないのだ。
えもいわれぬ罪悪感に心が押しつぶされそうになった。
「ごめんなさい・・・・・ごめんなさいっ・・・・」
アヤナは真っ青になった顔をミサキに対して下げた。
卑怯といわれるかもしれないが、とてもじゃないがミサキの顔を見ていられなかった。
「ごめんなさい、私が・・・・!」
「若田部さん、顔を上げて」


アヤナがまさに全てを打ち明けようとした時、ミサキがそっと声をかけた。
アヤナはハッとして言葉を飲み込んだ。
今まで聞いたどんな響きより、ミサキの言葉は優しかった。
「私、なんとなく分かってたの。私たちが中学の頃、マサ君と若田部さんが惹かれ合っていたことが。
本人たちは気付いてなかったと思うけど・・・私はマサ君のこと、ずっと見てたから。
若田部さんが戻ってきてくれて私、ほっとしてるんだよ。これでマサ君もまた人を好きになれるんだなって」
アヤナはゆっくり顔を上げる。ミサキの顔は、どこまでも穏やかだった。
同性のアヤナでも思わず見とれてしまうような微笑。
この笑顔を手に入れるまで、一体どれだけの涙を流し、どれだけの悲しみを乗り越えたというのだろうか。
「強いわね、天野さん」
口から自然に出た言葉だった。心からそう思った。
「もう大分時間が経ったからね」
「・・・・そうね。むしろ3年前から一歩も進めない私がおかしいのよね」
自嘲気味に呟くアヤナに、ミサキは静かに首を振った。
「それは違うよ。私は終わった恋の気持ちの整理をつけただけ。
若田部さんはまだちゃんと気持ち伝えてないもん。全然違う。
それに私なんて告白するのに10年以上かかったんだよ。3年なんて」
「天野さん・・・・」
「若田部さんなら・・・違うね、若田部さんじゃなくちゃ駄目。ガンバってね」
「・・・・・うん。ありがとう」
アヤナは自分の一番の友人に微笑みで答えた。今日ミサキに見せた笑顔の中で一番自然な微笑だった。


「お礼ってやっぱそーいうのだよな」
「え?何か言った?」
夕暮れ時、マサヒコは自分の家の台所で調理をしているアヤナに目をやり軽く息をついた。

あれからマサヒコは席に戻ってまもなくして店をアヤナと出た。
マサヒコはこれからみんなでいろいろと回らないかと提案したが、ミサキとリンコにやんわりと却下された。
曰く『二人のデートを邪魔できない』だとか。
それからアヤナはマサヒコをスーパーに連れて行った。
アヤナは一人でスーパーに入っていき、マサヒコはわけがわからぬままスーパーの前で待たされた。
十数分後、アヤナがスーパーの中から出てきた。彼女の手には買い物袋が提げられていた。


改めて考えるとお礼が料理というのは別に不思議でもなんでもない。
違うことを想像していた自分が今更ながら恥ずかしく感じられた。
「なんでもない‥‥」出来るだけぶっきらぼうに言葉を返す。
アヤナは怪訝そうな顔を浮かべたが、また正面に視線を戻した。
「なぁ」
「何?」
今度は振り返らず調理を続けたままアヤナは答えた。
「これからお前どうするんだ?」
「どうするって料理作って食べたら帰るわよ」
「じゃなくて。将来のことについてだよ」
突発的にこっちに日本に来たのなら、おそらくこれからのことでいろいろ悩むことがあるだろう。
マサヒコはそんなアヤナの力になりたいと思った。
が、アヤナはさも当然のようにマサヒコの質問に答えた。
「まず保育士資格が取れる大学の試験受けなくちゃいけないから・・・・
取りあえず早めにアパート探して。今は勉強しながらバイトってとこかしらね」
「・・・・すごいよな、お前」
「はぁ?何でよ」
「俺もバイトしてるけど親からも仕送りしてもらってるし。
それに比べてお前は自分のことは全部自分で、って感じで。なんか逞しいよ」
「全部自分で出来るわけないでしょう。学費として勝手に貯金持ってきちゃったし。
それよりも、普通年頃の女に逞しいとか言うかしら?」
「結構適切な表現だと思うぞ。いろんな意味で・・・・・・・ごめんなさい、アヤナ様は美しくお淑やかな女性です」
包丁片手に振り返るアヤナを見てマサヒコはすぐさまに態度を一変させた。土下座をして降伏の意を示す。
アメリカ帰りの彼女はあらゆる面でパワーアップしているので下手したら本当に刺され兼ねない。
アヤナは呆れたように溜め息をついてまた正面に向き直った。

マサヒコはそれから台所に立つ女性の後ろ姿をただぼんやりと眺めていた。
素人目から見ても手際よく調理していることがよく分かる。
マサヒコはそれに感心すると同時に、何か奇妙な光景だな、と思った。
昔、思いを寄せていた―――今はどうなのか敢えて考えないが―――女性が自分のために料理の腕を振るっている。
それはマサヒコに嬉しくもこそばゆい、今まで感じた事のない新鮮な思いを感じさせた。
マサヒコはアヤナの調理が終わるまで、飽きること無く台所に立つ彼女の後ろ姿を見つめていた。


「ふぅ〜〜〜ごちそうさん」
そう言いながらマサヒコは両手を合わせる。テーブルの上の皿にはもう料理は残っていない。
「お粗末様でした。すごいわね、結構作ったのに全部食べるなんて」
「故人曰く、空腹は最高の調味料とか」
「あら、言ってくれるわね」
「冗談だよ。マジで美味かった。普段ならこんなに食わないけど自然と箸が進んだよ」
「・・・・・褒めても何も出ないわよ」
料理に随分と満足したマサヒコの顔を見て、アヤナは恥ずかしそうに視線は彼から外した。
面と向かって褒められるのには言われるのは慣れてないらしい。
「・・・・じゃ、そろそろ帰るわね」
「え、もう?」
「食べたら帰るって言ったでしょ。他に何していくっていうのよ?」
それはあんなことやらそんなことやら、と思ったが口には出さなかった。
確かに魅力的ではあるが、命の方が惜しい。
自分のバッグを持って玄関に向かおうとするアヤナ。
そこでマサヒコは部屋の隅に置かれた本日購入した品々たちがあるのに気付いた。
「おい、忘れ物」そう言って買い物袋を指差す。
「何言ってるの?置いていくに決まってるでしょう」
「なっ・・・・持って行けよ!お前のものだろ!」
「私一人でこれを持って行けるわけないでしょ。アパートが決まったらそれ取りに来るわ」
あまりの横暴さに絶句するマサヒコ。
「まぁ部屋も綺麗だから別に置く場所には困らないわよね」
「・・・・そのために昨日掃除したのか」
まさか、と首を振るアヤナ。が、彼女の顔には得意げな笑顔が張り付いていた。
マサヒコは隠す様子も見せず大仰にため息をついた。
アヤナはそんなマサヒコを尻目に、靴を履いている。マサヒコも見送りのために玄関の前に立った。
「なるべく早く来いよ。俺はこの部屋を2週間もしないうちに元の状態に戻す自信がある」
「自信満々に言うことじゃないでしょ・・・・心配しなくても埋もれる前には来るわよ」
あからさまに溜息をつくアヤナ。呆れる様子を隠すつもりはないらしい。
しかしその顔はすぐに微笑みに変わった。
「今日はありがとう。それじゃあね」
その言葉の後にマサヒコは唇に温かいものが触れるのを感じた。
唇に何かが当たっていたのは2,3秒で。しかし自分のものではない温度はそこにまだ残っていた。


「お前な・・・・」
内心は心穏やかではなかったが、これは昨夜にも体験したことだ。
視線は向けられないがせめて格好だけでもと思い、なるべく落ち着いているように振舞った。
「誰にでもやってんのか?その・・・・アメリカ風さよなら、とかいうヤツを」
言ってみて嫉妬してるみたいだなとマサヒコは感じた。いや、事実嫉妬しているのだ。
クスッと笑う声が聞こえた。視線を正面にやる。
アヤナは腕を組みながらいつもの得意げな笑みを浮かべていた。
「冗談。私がそんな軽い女に見えるって言いたいの?」
「いや、そういうわけじゃ・・・・」
「言ってみれば親愛の証ってとこかしら。どう?嬉しい?」
そう言って再び笑みを浮かべるアヤナ。彼女には珍しい、意地の悪い笑みだった。
「バーカ」
マサヒコはそれを軽くあしらう。が、内心ではほっと息をついていた。
アヤナはそれに不満そうな顔をしたが、すぐにまたそれは笑みに変わった。
「フフフ、じゃあ今度こそさよならね」
「ああ、気をつけて帰れよ」

「疲れた・・・・」
アヤナを見送った後、マサヒコはすぐさまベッドに倒れこんだ。
一人になると改めて今日の疲労が一気に乗りかかってきた。おそらく明日は筋肉痛だ。
しかし、嫌な気分ではない。こき使われただけだというのにそれは心地よい疲労感であった。
「やっぱ・・・・・ああいう態度って使う人によるんだな」
普通はあんな傲慢な態度というのは人に好まれるものではないだろうが、彼女がやると何故かきまるのだ。
横目で部屋の隅を見る。いくつもの買い物袋が無造作に置かれている。
今更ながらよく一人でここまで持ってきたものだ。思わず苦笑いが浮かぶ。
仰向けになっていると、瞼に重みを感じてきた。
寝るには早すぎるし、食器の片付けもしていない。
しかしマサヒコは起きるつもりはなかった。このまま寝たらいい夢が見られそうだ。
静かに瞼を閉じる。暗闇に、今日自分を引っ張りまわした女性の姿が浮かぶ。
(ホント・・・・好き勝手・・・して・・・・くれる・・・・)
意識は気付かないうちにぷっつり途絶えた。
疲れきって眠るマサヒコの寝顔は、とても穏やかだった。

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