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無題(雪歩×千早 百合23スレ728)の千早視点



 そんなにすぐに答えを出さないでいいって思うよ


 いつの頃だったか、萩原さんが私に言った言葉だ。

 深夜の街中はすっかり眠り込んでいて、耳に入ってくるのは目の前の道路を走る車のエンジン音だけだった。
 少し足を止めて、私は深い紫にかすむ空を見上げた。

 春香に自分の気持ちを拒絶されてから、どれ位の時間が過ぎていったのだろう。
 幾千年もの間ずっと牢獄に閉じ込められていたようにも思えたし、流れ星の如く本当に一瞬のことのようにも思える。
 結局はたった一人の人間の、たいして大人でもない自分の、よく分からない何かに突き動かされた過ちだったのかもしれない。
 

 でも、それでも

 私が今いるこの場所は、泣きそうになる位に優しくて、そして静かだった。
  


   ※ ※ ※ ※



 深夜のロータリーからはバスなど出るはずもなく、私はぽつんと佇むタクシーに乗り込んだ。
 バックミラーを確認した運転手は、一瞬驚いた顔をしたものの、淡々とした口調で私に行き先を尋ねてくる。
 少しは変装とかした方がいいと思うよ、そう言って苦笑していた春香の姿がちらりと脳裏をかすめる。
 あぁ、私はまだ彼女との思い出を覚えているのか。そんなことに軽い驚きを覚えながらも、私は運転手に行き先を伝える。

 向かう場所は、彼女の住む場所ではない。
 車のクラッチが動き、窓から見える景色がゆっくりと流れ出していった。
 駅の電光掲示板が遠ざかっていくのを眺めていると、埋火のような記憶がしくしくと心を締め付けていく。
 私は大きく息を吸い込んで、胸の奥に広がっていく何かをゆっくりと吐き出した。何度も何度も、それこそ条件反射のように繰り返した行為。
 今でもまだこの想いに苛まれるけれど、それでも昔に比べればだいぶ落ち着いたように感じる。

 たぶんこれはきっと、砂浜に深く刻みつけた想いの痕を、小さな波で時間をかけて掻き消していくようなものなのだろう。

 カーステレオからはゆったりとした洋楽が流れていた。
 Eric Benetの "Still With You" だなんて、深夜のラジオも悪くない。私は瞳を薄く閉じて、流れる音景に心を委ねた。




 『ごめんね、千早ちゃん』

 あの時も今みたいに静かな夜だった。
 身体を離した春香は酷く申し訳なさそうな顔で、いくら慰めてもその瞳から涙が止まることはなかった。
 泣きたいのはこっちなのに、そんなに泣かれたら泣くに泣けないじゃない。振ったのは春香なのに、どうしてあなたが泣いてしまうの?
 
 『だって、千早ちゃんのことが大好きなんだもん』

 まるで子供のように泣きじゃくる春香を見て、結局伝えたかった想いの半分も伝えられなかったような気がして。
 そんな彼女の泣き顔が、まるでストロボのように私の記憶に焼き付いて離れない。


  ねぇ春香。私は悲しいけれど、それでも色んなことをあなたからもらってるわ、今でもそうなのよ。
  歌って人の心をこんなに震わせるものなんだとか、笑顔って人の心をこんなに穏やかにさせるものなんだとか。
  春香に出会えなかったら、今の私はきっといないと思うの。それってとても素敵なことだと思わない?

  だから、ねぇ、笑って?




「お客さん、着きましたよ」

 夢と記憶の間をたゆたっていると、不意に運転手の声が聞こえた。
 ゆっくりと意識を持ち上げて窓の外を見ると、いつの間にか目的の場所に着いていたことが分かった。
 もう覚えてしまったタクシー代を支払う。タクシーのテールランプは黒猫の瞳のような光をたたえていて、静かに闇の中に消えていった。

 徐々に小さくなる赤い光をぼんやりと見送っていると、鞄の奥でチカチカと携帯が光っているのに気付く。
 薄暗く点滅する街灯の光を頼りに、鞄から携帯を取り出すと光の送り主が雪歩だということが分かった。


 『 お仕事お疲れ様です。雪歩です。
   真面目なのはいいことだけど、無理は禁物だよ?』


 メールを受信した時間を確認する。2時間前、もう少し早く気付けばよかったのにと今更ながら後悔する。
 どう返事をすればいいだろう。いつもありがとう、とか、雪歩こそ無理しないで、とか、そんなことを書いた方がいいのだろうか。 
 さんざん文章を考えたあげく、出来たのは私らしい不器用な文章だった。
 まぁ、それでも返事をするにこしたことはない。未だ相変わらずの自分に苦笑しながらも、私は送信ボタンを押した。





 『そんなにすぐに答えを出さないでいいって思うよ』

 いつの頃だったか、萩原さんが私に言った言葉だ。
 あの頃の私は、春香への想いをまだ断ち切れなくて、萩原さんと春香と重ね合わせて、その優しさに甘えていた。
 今から思えば、あの頃の私は本当に危なっかしくて、まるで針の先につま先立ちでバランスをとる人形のようだった。
 こんな関係、もう止めてしまいましょう。そう言ってベッドの上で縮こまる私の身体を、萩原さんは何もとがめることなく優しく抱きしめてくれた。


 『忘れられないってことは、それだけ大切な思い出だってことなんだよ。きっと』


 ダウンライトがおぼろげに床を照らす部屋の中、私は萩原さんに抱き締められたまま、ただ「ありがとう」と涙を流し続けた。






 マンションのロビーは眠りを拒絶するかのように煌々と光を灯していた。夜道を歩いてきた私には眩しくて、思わず目を細める。
 白いストライプの跡がついたカードをセキュリティに通し、エレベーターのパネルの数字を眺め、萩原さんがいるであろう部屋の鍵を開けた。
 これからもずっと同じことを私は何度も繰り返すのだろう。舞い落ちる火の粉がいつか消えてなくなるまで、ただ黙々とそれを埋め続けるのだ。

 もうすっかり夜も更けてしまった。萩原さんを起こさないよう、私はそっと扉を開く。
 シャワーを浴びた後、喉を潤そうと思って冷蔵庫の方に向かうと、テーブルの上には萩原さんが作ったのだろう料理が置かれてあった。


 < 温めてから食べて下さい >


「萩原さんてばもう……、こんなにいっぱい作っちゃって……」

 皿の影にひっそりと隠れるように添えてあるメモ書きは、とても萩原さんらしくて、知らず知らずのうちに口元が緩んでしまった。
 こんな曖昧な関係を拒むことなく受け入れてくれて、その上こんなことまでしてくれる人がいる。
 自分にはもったいない位の居場所だ、と思う。レンジの音で彼女の眠りを妨げるのは何だかはばかられて、私は料理をそっと冷蔵庫にしまった。

 ボトルの水を飲んで、音をたてないように寝室の扉を開く。扉の先には萩原さんが眠っていた。
 開けた扉から洩れる光が彼女の姿を映し出す。吐息とともに揺れる睫毛はとてもつややかで、儚げで、美しかった。
 まるで眠り姫だ。そして私は彼女の王子様ではおそらくないのだろう。

 でも、それでも、


「萩原さん、ありがとう……」

 気がつけば彼女の身体に腕を回して、唇を近づけていた。
 別にやましい気持ちなどこれっぽっちもなくて、ただ感謝を伝えるために、たとえるなら条件反射のように。
 吐息が絡む距離、触れてしまうまであとわずか。すっと息をひそめて最後の距離を詰めようとしたとき、萩原さんと目が逢った。

「……?萩原さん?もしかして起こしちゃった?」 私は限りなくゼロに近くなった距離をもとに戻す。
「千早ちゃん……いきなりキスするなんてずるいよぉ」
「ご、ごめんなさい……ついいつもの癖で……」

 キスしたくなった。だなんて、これじゃまるで本当に犬みたいじゃない。私は言葉をつぐむ。

「いつもの癖?」
「な、なんでもないわ!夜も遅いし、早く寝ましょう!」

 幼子をあやすかのように萩原さんはやんわりと微笑んで、私に尋ねる。
 そんなこと恥ずかしくて言えたものじゃない。私は自分の気持ちを隠すように布団の中に潜り込んだ。

「……待って、千早ちゃん」

 萩原さんは私の手をぎゅっと掴んだ。それに驚いた私は彼女がいる方を振り向く。

「……?萩原さん?」
「私からもお返し」

 ちゅ、と軽い音が鼓膜に響く。頬に感じたのは、彼女の柔らかい唇。
 それがキスだと分かるには、少し時間がかかってしまって。気付いた時には顔が熱く火照り上がってしまっていた。

「……!」
「えへへ……千早ちゃん♪」

 それは不意打ちすぎるわ、萩原さん。そう反論したかったけれど、萩原さんの嬉しそうな顔に言葉を忘れてしまう。
 ああもう、これじゃまるで本当に犬みたいじゃない。火照った顔の熱が、じわじわと頭の奥に伝わっていく。

「ゆk……萩原さん……」

 やっとのことで絞り出した言葉は、およそ反論ともいえないような言葉だった。





 それからさんざん萩原さんにからかわれて、萩原さんは満足そうな顔で眠りの淵についていった。
 薄暗い部屋の中。壁掛け時計を見遣ると、満月がうたたねをするような時間になっていることに気付く。
 意識がやわらかい何かに沈み込んでいくのをぼんやりと感じる。私もそろそろ眠らなければいけない。

 時計の秒針が刻む音の隙間から聞こえる萩原さんの寝息を聞きながら、私は再び彼女の顔を見つめ直した。

 ここはとても優しくて静かな場所で、たぶんあの頃の火傷が癒えるまでここにいることになるのだろう。
 少しずつ慣れ始めた感情の突沸を、ひりひりと痛みを訴えるあの埋火のような記憶を、笑えるときがくればいいと見えない星に願った。
 いつか、それができたときは。


「おやすみ、雪歩」


 私は隣で眠る彼女のまぶたにそっと唇を添えた。









 <了>

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