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『別れよう』
『……どうしても、そうしなければいけないんですか』

あの夜は、雨が降っていた。

『あなたには、もう私は必要ない。これからは、新しい出会いを大切にするべきよ』
『そんなこと言って、また新しい子ができたんでしょう?』
『それは否定しないわ。でもあなたが私から離れるべきと思っているのは本当』
『相変わらず率直で、図々しいですね』

路肩に停めた車の中で、私はあの人と目を合わせられなかった。
追い抜いていく車のテールライトやビルのネオンが、窓に当たる雨粒で歪んだ私の顔に重なって映っていた。

『そうね。憎まれても仕方ないと思ってる』
『そんな!!……そんなの、卑怯です。
 私が、あなたを憎んだりなんてできないって、分かってる癖に……』
『そうね。卑怯でずるくてどうしようもない。
 私はもう一生こんなままだから、いつかはあなたと離れなきゃいけない。
 それが今、というだけよ』
『いやです!!……いや、です……別れたくない……そんなの嫌!!』

恥もプライドも捨てて懇願する私に、あの人は何と言ったのか。
そこから先が霧の中に溶けてしまったように、思い出せない。
あの後、私は――。

  ※ ※ ※

「ねえ律子ってば。聞いてるの?」
「うん?ああ、ごめん。ちょっと考え事してた。先生が、何だって?」
「もうー。ちゃんと聞いててくれなきゃヤ、なの」
「ごめんごめん。本当にごめん」

膨れる美希に平謝りしながら、見慣れた夜の街並みを歩く。
腕を組んでいるのも、呼び捨てにするのも、プライベートの時間だけ許していること。
だから今はこの子の方を向いてあげないといけないのに、ついうわの空になってしまうのは、
今朝方久しぶりにあの人の、あの時の夢を見たからだろう。

「ここを曲がるの」

そう言いながら美容室の角を左に折れると、100メートル程先に見える12階建てのマンションを、私は指差す。

「あれよ」
「へえー。律子の部屋は一番上なんだよね?」
「そう」

そんなありきたりな会話をしているうちに、私たちはマンションに着いた。
前々から美希は私の部屋に泊まりたがっていて、最近は会うたびにしつこく聞かれるので、
ご両親に許可を取り付けてきたらいいわよと言ったら、翌日すぐに念書までもらってきた。
私は半ば呆れたものの、OKせざるを得なかった。

去年から事務員のバイトに加えてアイドル活動もするようになって、
一年近くはなんとか遣り繰りしてきたものの、どうにも時間が足りないことが多くなり、
事務所から二駅のところに部屋を借りることになった。
一人暮らしに親より学校の方が難色を示したけど、社長自ら説得に赴いてくれたおかげで、なんとか了承を取り付けた。

それとちょうど同じ頃、美希が事務所に入ってきた。
初めは社長もプロデューサーも扱いに難儀して、時間がある時だけでいいからと頼まれ、
たまに面倒を見ることになった私もかなり手を焼いた。

『ほら美希、寝てないで。もうすぐダンスレッスンでしょ』
『あふぅ。そうだっけ』

そんな調子だから、いつの間にか事務所にいる時はほとんどつききりで世話を焼くようになってしまい、
美希のスケジュールまで頭に入れる習慣がついてしまった。
それでも根はいい子だし才能は溢れる程にあったから、根気良くレッスンをさせあの手この手でやる気を出させるようにすると、目覚しく成長しだした。

『ねえ律子、さん。ここって振りだとこうだけど、お客さんの方向いてポーズの方が良くない?』
『今日ボイスレッスンでね、律子、さんの言う通りに歌ってみたら、先生に褒められたよ!すごく良くなったって』

以前よりずっと真面目に仕事に取り組むようになるに従いアイドル活動も軌道に乗ってきて、
そろそろ私の手を離れるかと安心しかけていたら、事は予想外の方向に進み始めた。

美希が私のことを好きだと言うのだ。
最初は生まれて初めてまともに先輩・後輩という関係を体験して、懐いてきたのだろうと思っていたが、
どうやら本人に言わせると真剣に恋愛の意味で好き、ということらしい。

『なんでまた、私なんか。美希だったらいくらでも素敵な相手がいるでしょうに。
 あ、でもアイドルなんだからあまり羽目を外されても困るけど』
『もー!律子、さんはすぐ仕事の話にしちゃうからずるいよ!
 他の子じゃイヤなの!美希は律子、さんが好きなの!!』

そんないまいち噛み合わないやり取りの末に、結局付き合うことになった。
とは言え、そもそも私は通勤時間を節約したくなるくらい忙しかったのだし、
美希も正式にデビューして人気が登り坂の時期だったから、まあ時々電話したりメールしたりして、
たまのオフには一緒に出かけてもいいかな、というくらいの気持ちだったのだが、美希はそうではなかったらしい。
前以上にベタベタしたがったし、恋人同士の愛情表現――つまりキスとかそれ以上とか――をしたがった。

もちろん付き合うと言った以上、美希の望みは当然なのだ。それは分かっている。
しかし、私が彼女との関係を深くすることに踏み出せないのは、やはりあの人のことがまだ尾を引いているのだろう。

美希のことは可愛いと思うし、愛情も感じている。
だけど、彼女と真剣に恋愛をしているかというと、私の態度は不誠実と謗られても仕方ない。
彼女に対して性的な興味がないわけじゃないのに、いざ二人きりになると、
ねだられてようやくキスに応じる程度で、その先ははぐらかしてばかりだ。

  ※ ※ ※

「律子、しよう?ミキたち恋人なんだもん、しちゃいけないことないよね?」
「まあそうなんだけど……。でも、美希にはまだちょっと早いんじゃ」
「嘘!!」

明日も仕事だからそろそろ寝ようとした頃、もう何度目かになる押し問答が始まった。
私と深い関係になることを求める美希と、はぐらかす私。
いつものことだと思っていたら、急に声を荒げ睨む美希に、どきりとした。

「律子がミキとしないのは、そんな理由じゃないの!」
「どうして、そう思うの?」
「理由なんかないよ!でもミキには分かるの!」

そうだ。この子はこういう子だった。
難しい理屈などすっ飛ばして、一足飛びに本質を掴んでしまう。

「ミキのこと、嫌い?」
「そんな訳ないわ。好きよ」

それが最後の確認だったようだ。
次の瞬間、私はベッドに押し倒され、覆い被さってきた美希の深く激しい口づけを受けていた。

どこでこんなことを覚えたのだろう。
この子のことだから、本能で体得しているのかもしれない。
頭の片隅でぼんやりとそんなことを思い出しながら、私の口の中で暴れ回る美希の舌に応じる。
私の全てを吸い取ろうとしているかのように、唾液が零れるのも構わず歯や頬の裏を舐め、舌を絡め、啜る。
こんなキスをするのは、もう1年ぶりくらいかもしれない。

性急に私のパジャマのボタンを外し、広げる。
現れた胸を揉み、唇を耳や首筋に這わせながら、「律子、好き、好きなの」と荒い息と共に何度も囁く。
ここまで来てしまったら、もう拒んでも無理だろう。
そう諦めると、ぎこちないけれど情熱に溢れた動きに私も感じてきて、片手で美希の頭を抱き、
もう片手をパジャマに滑り込ませて背中を愛撫していると、急に美希の動きが止まった。

「どうしたの?」
「律子、初めてじゃないんだね」

上半身を起こして、泣きそうな顔で見下ろしている。
やはり、分かってしまうだろう。私はベッドの中で演技ができる程器用ではないし。

「そうね。初めてではないわ。それとも、私がそんなにモテないと思ってた?
 まあそう思われてもしょうがないか。私は美希と違って地味だしそれに――」
「そういうこと言ってるんじゃないの!!」

静かな寝室に、美希の叫び声が響く。

「分かってるくせに、ひどいよ……」

綺麗な瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
火が付きかけた体が、急速に冷えていくのを感じる。

「どんな人だったの?前の……女の人?」
「そうよ。でもこれ以上は、話したくない」
「どうして?もう別れたんなら関係ないよね?」
「どうしても」
「ミキは律子に隠し事なんてないの」
「私は、たとえ美希にでも言いたくない事があるの。分かって」

やっぱり、駄目だ。深い溜息が出た。

「……美希。やっぱり私たちはまだ、こういう関係になるのは早いわ。
 今日はもう寝なさい。ベッド使っていいから」

ベッドを降りると、クローゼットから換えのタオルケットを出し、明かりを消して部屋を出た。
閉めたドアの向こうから、泣き声が聞こえた。

リビングのソファに寝転がり、乱雑に広げたタオルケットをかける。
あるのは自己嫌悪ばかりだ。私はいつになったら、あの人のことを吹っ切れるのだろう。

  ※ ※ ※

あの人は私の初めての相手だった。
そして恋愛以外にも、私の世界を広げてくれた人だった。

『あなたが秋月さん?電話で想像した通りだわ』

雑誌記者だったあの人は、取材で事務所に来た時に、ただのバイト事務員だった私に気さくに話しかけてきた。

『どんな風に想像通りでした?』

お茶を出しながらそう聞いてしまった私は、既に彼女に惹かれていたのかもしれない。

『そうね。勝気で、知識欲旺盛で、しっかり者。でも恋愛は初心者で純情。どう?』
『それ、今見て言ってませんか?』
『さあ、どうかしら』

思えば初対面から不躾な人だった。
それから仕事の電話やメールのついでに雑談をするようになり、そのうち携帯のアドレスを交換すると、
プライベートでも会うようになった。

『明日歌舞伎見に行くから空けといて』
『今から覆面取材で銀座の×××に行くのよ。出てこれない?』

あの人の誘いはいつも唐突だった。
本当に自分勝手。そう呟きながら、あらゆる用事を後回しにして駆けつける私は、
嬉しさに笑みがこぼれるのを抑えることが出来なかった。

立派な劇場で上演されるお芝居、薄暗いライブハウスで聴く一流ミュージシャンのジャズ。
高級レストランで堂々と振る舞い、様々なことを語り合いながら食事を楽しんだ後は、
バーで会話の続き(もちろん私はノンアルコールカクテルだが)。
そんな大人の世界を垣間見せてくれる一方で、アイスクリームを食べれば必ず私の分も味見したがったり、
急にガシャポンに凝り出して何千円も注ぎ込んだりする子供っぽい面も隠さないあの人に、私は夢中だった。

だから『マクベス』を観劇した夜、車を出す前に、

『泊まってく?』

と聞かれた私は、赤い顔でただ頷いた。

あの人にとって、私はただの遊び相手だということは分かっていた。
それに手が早くて、常に複数の相手がいる癖に、長年付き合っている本命の恋人がいることも、
芸能界周辺の噂として耳に入っていた。

だけど私は、あの人の手で次々と魔法のように自分の体から悦びを引き出され、
そして私の拙い愛撫で達した後、あの人が無防備な寝顔を見せてくれるだけで満足してしまっていた。
皮肉や恨み言の一つも言いたいと思うこともあったが、会えるとそんなことは綺麗に吹き飛んでしまう。

恋は盲目とはよく言ったものだわ。
そう苦笑いしながら、隣で眠るあの人にそっとキスする私は、確かに幸せだった。

  ※ ※ ※

浅く眠ってはすぐ目が覚めるというのを一晩中繰り返し、夜が明けた。
これ以上横になっていても眠れそうにないから、体を起こしてタオルケットを無造作に畳む。

熱いシャワーを浴びてもすっきりせず食欲もなかったが、美希には何か食べさせないとと思い、朝食の用意に取り掛かる。
ご飯を炊いている間にお味噌汁を作り鮭を焼き、まだ時間があったから玉子焼きも焼く。
おにぎりを作りながら、昨夜あんなことにならなければ幸せそうにおにぎりを頬張る美希が見られたのにと、
また自己嫌悪が胸に広がるのを感じていると、寝室のドアが開いた。

起きてきた美希は、瞼が腫れていた。

「ちょっと、そこに座ってて。目、冷やさないと」

洗面所の棚からタオルを出して、氷を入れた洗面器に漬け、絞る。

リビングに戻ると、美希は俯いてじっとソファに座っていた。

「顔上げて、目閉じて」

大人しく言われた通りにする美希の瞼に、冷たいタオルを押し当てる。
こんなことよりもっと美希のためになることはあるはずだが、今の私にはできない。

「ありがとう。自分でやるよ」

小さな声でそう言って、美希は私の手からタオルを取った。

  ※ ※ ※

それからしばらく、事務所で会っても美希と私の間にはぎこちない空気が漂っていた。
小鳥さんやあずささんは何か察したようで、たまに美希のことを聞いてきたが、

『ちょっと、喧嘩しちゃって』

と曖昧に答えるしかできなかった。

喧嘩なんかじゃない。私が一方的に美希を傷つけただけ。
分かっているのに、これをきっかけに私から離れてくれれば結果的には美希のためになるかもしれないなどと、
卑怯且つ傲慢極まりないことを、その時の私は考えていた。

そんなある日。
事務所でパソコンに向かっていた私の携帯が鳴った。見ると、真からだった。
そういえば今日は美希と一緒にラジオの収録だったな、と思いながら携帯の通話ボタンを押す。
あんなことがあっても、常に美希のスケジュールを把握しておく習慣は抜けてない。

「もしもし?真?今、仕事中じゃ」
『律子、大変だよ!美希が倒れた』
「えっ……」

事前の打ち合わせの時から美希は顔色が悪く、体調が悪そうだったこと。
収録中もいつもより口数が少なく、話を振られても反応が鈍かったこと。
心配した真が収録を中断して休むことを勧めてみたが、『大丈夫。ちょっと眠いだけなの』としか言わなかったこと。
そして、リスナーからのメールを読み上げている時突然、椅子から崩れ落ち、そのまま真が付き添って救急車で運ばれたこと。

私は呆然としながら、電話越しに真の話を聞いた。
そしてはっと我に返り、病院の名前を聞くと財布だけ掴んで表に駆け出した。
大通りまで出るとタクシーを捕まえ、病院の名前を言う。有名な病院だから細かい説明は不要だった。

窓に映る景色も目に入らず、心臓が大きく脈打つ音だけが聞こえる。

――また、失うかもしれない。

タクシーの支払いを済ませて病院の玄関に駆け込むと、受付前のソファに座っていた真が立ち上がるのが見えた。

「律子!」
「真、美希はどうなの!?」
「お、落ち着いてよ。それが」
「何!?どうしたのよ!?」

焦る気持ちから、真の両肩を掴んで揺さ振り問い質す。

「頼むから落ち着いてってば。急性胃炎、らしい。ストレス性のものかもしれないって」
「そ、そう……」
「点滴してもらったのが効いたみたいで、今は意識もはっきりしてるし落ち着いてるよ。
 今日は念のため入院するけど、多分そんなに深刻なものじゃないから、明日検査したら帰れるらしい。
 でもしばらくは仕事も学校も休んで休養した方がいいだろうって」
「そう。それで、病室はどこ?」

当然、美希を見舞っていくつもりだった。
ぎくしゃくしている最中だが、今はそんなこと言ってられない。

「それが、さ。ボクも焦ってすぐ律子に電話しちゃって悪かったんだけど」
「何の話?悪いけど、面会時間もあるだろうし後で」

言い淀む真を遮って、奥のエレベーターに向かって歩こうとしたその時。

「会いたくない、って言ってるんだ」
「え?」

俄には信じられず振り向くと、真は気まずそうに続ける。

「その、美希が。律子に連絡したからすぐ来るよって言ったら、会いたくないって。
 だから、ここで律子を待ってたんだ」
「そん、な……」
「こんな時だから無理させられないし、もうすぐご両親も来るみたいだから、今日のところは帰ろう?
 何があったか知らないけど、仲直りは元気になってからにしようよ」

美希が私を拒否するなんて。
信じられない思いに、私はその場に立ち尽くしていた。

  ※ ※ ※

それから事務所に戻るまでのことは、ほとんど記憶にない。
また病院の前で客待ちをしているタクシーに乗って、最寄の駅まで真を送っていったはずだが。

「あ、律子さん」

事務所に入ると、留守番をしていたらしいあずささんが心配そうに歩み寄ってきた。

「どうだった?」
「会いたくない、そうです」
「え……」
「美希に、愛想つかされちゃいました」

努めて軽く言おうとしたが上手く笑えなかったので、手短に美希の病状を話す。

「そう。小鳥さんと社長は、ご両親にお詫びと今後の話をするために出かけたわ。
 しばらく美希ちゃんの仕事は全部キャンセルして、療養に専念してもらうみたい。
 律子さんが戻ったら、今日はもう帰るようにって」
「そうですか」

全身が、鉛のように重い。
どさっと自分の席に座ると、つけっぱなしだったパソコンのスクリーンセーバーが目に入った。
イラストの美希が、色とりどりの衣装で跳ねている。
以前CDの特典に付けたもので、美希に強引にこのスクリーンセーバーに設定させられた。

「どうぞ」

あずささんが温かいお茶を淹れてくれた。

「ありがとうございます」
「あの、差し出がましいようですけど……」
「はい」
「近頃、美希ちゃんと上手くいってなかったのよね?」
「ええ、そうですね。上手くいってなかったというか、あの子にひどいことを言ってしまって。
 その、私が昔付き合ってた人のことで」
「そうだったの……」
「そんなことをしておいて、まだ美希が一番頼りにしてるのは私だなんて思い上がってたんですよ。
 そしたらこんな大変な時にいらないって言われて、今頃ショック受けてるんです。
 お目出度いですよね、私」
「律子さん」

あずささんが私の手を取って、真剣な眼差しで見る。

「美希ちゃんは、律子さんのこといらないだなんて、決して思ってないわ」
「でも」
「美希ちゃんね、いつもとても楽しそうに、律子さんのこと話してたのよ。
 こんなことで叱られたとか、こう言ったら褒めてくれたとか。
 律子さんのこんなところが好きとか、可愛いとか」
「……」
「それなのに最近様子が変だったから、美希ちゃんとレッスンが一緒になった時に聞いてみたの。
 そしたら、『ミキね、好きって気持ちさえあればいいって思ってたけど、そうじゃないみたい』って」
「美希……」
「『ミキは律子のこと大好きだし、律子もミキのこと好きだと思う。なのに、律子の側にミキの
 居場所はないみたいなの。どうしたらいいか分からないの』って、寂しそうに言ってたわ」
「……でも私は、美希に好きになってもらう資格なんかないんですよ。
 あの子がいい子だからこそ、私なんか」
「律子さん」

遮ったあずささんの声は、いつも通り静かだけど、私の小賢しい反論など受け付けない、揺るぎない強さがあった。

「自分の気持ちに、嘘をついては駄目よ」
「あずささん……」
「美希ちゃんは、律子さんの過去にどんなことがあったとしても、受け入れようとしているわ。
 それが好きということだと、あの子は信じているの。
 辛いのは律子さんが前の人を忘れられられないことではなく、過去からも今の美希ちゃんからも、逃げていることだと思うの」

図星なだけに、あずささんの言葉は胸を抉った。
その通りだ。私はあの人のことを思い出すのは辛いと逃げながら、それを言い訳に美希からも逃げていた。
その癖、美希の方から離れることなどないと、思い込んでいた。

「お願い。きちんと、美希ちゃんと向き合ってあげて。それが二人のためだと思うの」
「でも今更、美希が赦してくれるでしょうか」

こんなことしか言えないなんて、情けない。きっと私は今、忘れ物をした小学生のような顔をしているだろう。
結論は、もう出ている。正直に言って先生に叱られるしかない。
それは分かりきっているのに、いつまでも愚図愚図している。

不意に、あずささんの胸に抱き締められた。

「いつだって、やり直せないことなんかないのよ」

さっきとは打って変わって、優しい声が耳に響いてくる。

「美希ちゃんは、ずっと律子さんのことを待ってるわ。
 だからほんの少し、勇気を出して迎えに行ってあげて?」
「あずささん」
「なあに?」
「少し、泣いてもいいですか」
「ええ。どうぞ」

終わらせなければ。あの人に本当にさよならを言わなければ。
どうして、痛みを感じずに乗り越えられるなんて思っていたんだろう。
私よりずっと、大きな痛みに耐えていた大切な人がいたのに。
美希に、赦されたい。あの子の側にいたい。初めてそう強く思った。

  ※ ※ ※

初めての駅に降り立ち、あらかじめ調べてきた道順のメモを見ながら歩いて行く。
例年にない猛暑もようやく収まり、穏やかな秋晴れの空が広がっている。

しばらくして大きなマンションに着く。
玄関のインターホンで部屋番号を押すと、『はい』と女性の声がした。

「先ほどお電話させて頂いた、秋月です」
『まあまあ、いらっしゃい。どうぞお入りになって』

オートロックの扉が開錠される音がした。

「いつも美希がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。それに今日は急にお邪魔しまして。
 これ、ほんの気持ちですが」

来る途中に洋菓子店で買った、フルーツゼリーの詰め合わせが入った紙袋を差し出す。

「まあ、すみません。ご迷惑をおかけした上に気遣って頂いて」
「あの、それで今日は、もしよろしければ少し美希さんと出かけたいのですが」
「ええ、構いませんよ。もうすっかりいいのに、念のために学校も休んでるから退屈なのか我侭ばかり言って、
 私も上の子も手を焼いていたとこなんですよ。どうぞ連れ出してやって下さい」

そう言ってお母さんが朗らかに笑うと、やはりどことなく美希に似ていた。
そんな風に言っていても、美希のことが可愛くて仕方ないのが、雰囲気からよく分かった。

「美希、秋月さんがみえたわよ」

お母さんに連れられて美希の部屋に行くと、ベッドの上に体育座りをしてテレビを見ていたらしい。
ビクっとしたように、こちらを見ている。

「なんでも、どこかへ連れてってくれるんですって。ご迷惑かけないようにしなさいよ」

そう言ってお母さんは部屋を出てゆき、美希と二人きりになった。
美希は俯いて目を合わせようとせず、予想はしていたが、気まずい空気が流れる。
だけど今日はどうしても、美希と話をするために来たんだから。
そう自分を奮い立たせて、美希の前に跪いて話しかける。

「ねえ、美希。色々、言いたいことはあると思うけど。
 後で全部聞くから、今日は少し私に付き合ってくれない?
 美希と一緒に、行きたいところがあるの。それに、美希が知りたがっていたこと、話したいから」

はっとしたように、美希が顔を上げた。

  ※ ※ ※

まだアイドルランクはそれ程上じゃないとは言え、一応公式には病気療養中の芸能人なのだから、
なるべく目立たないように地味めの私服に着替えさせた美希と、郊外に向かう電車に乗る。
平日の昼間だから、あまり人は多くなく、並んで座ることができた。
美希は大人しく着いてきたものの、ほとんど喋らない。

意を決して美希の手に自分の手を重ねると、緩くではあるけど握り返してきた。
拒まれなかったことに心底安堵し、そんな自分がつくづく格好悪いなと少し苦笑した。

周りはほとんど住宅街の駅で降りる。
見慣れない景色にきょろきょろしている美希を待たせて、駅前の花屋に入り、
店員さんに目的を告げて適当に見繕ってもらう。
店を出ると、美希が私が持っている花束を見て、少し驚いた表情になる。

もうすぐ、全部分かるから。
目でそう言うと、駅前に止まっていたタクシーに声をかけて、乗り込んだ。
私が告げた行き先に、美希が目を見張る。

やがて車は、とある霊園の入口に止まった。
支払いをして、中へ続く道を歩きながら、ふと空を見上げた。
本当に、いい天気。思えば、あの人と会うのはいつも夜だった気がする。
一度くらい、こんな青空の下で会いたかったですね。
美希は、黙って私の少し後ろをついて来ていた。

もうすっかり覚えてしまった道を行き、あるお墓の前に着く。
墓前に花を供え、バッグから取り出したお線香を上げる。
手を合わせた後、しゃがんだままで私は美希に言った。

「前に話した、昔付き合ってた人ね、ここに眠ってるの」
「う、そ……」
「好きだなんて一度も言ってもらえなかったけどね。
 結局振られちゃったし。そのすぐ後、事故であっさり逝ってしまった」

家で食事をしながら何気なく見ていた交通事故のニュースがあの人の最期だったと知ったのは、何日か経った後だった。
既に実家でお葬式も済んでいて、私はお別れを言うこともできなかった。
風の便りに、告別式には長年の恋人だと噂される大手芸能誌の編集長も来ていたと聞いた。
それからなけなしの伝手を辿ってこのお墓の場所を知り、何度も来ては時に泣いたりもした。

「遊び人で、自分勝手で、我侭な人でね。いつも振り回されて。でも、好きだった」

『十年経ったら、また会おうよ。その時は、大人の女になった律子に惚れ直すかもしれない』

ああ。そういえば。
あの雨の夜、あの人はそんなことを言ってたっけ。

『そしたら、今日私を振ったこと、後悔してくれますか』
『後悔させてほしいね。
 そうそう、社長にアイドル勧められてるって言ってたよね。やってみたら?
 あなたは、自分が思ってるより才能あるよ』
『もう。振った相手にお世辞なんてやめて下さい』
『お世辞じゃないって。人気アイドルになるの、楽しみにしてる。
 律子のことは、ずっとどこかで見てるから』

あんなこと言ってた癖に、勝手にそっちに行ってしまって。
約束破った罰として美希と一緒にいるところ、ずっと見せつけてあげますから。
せいぜい天国で悔しがって下さいね。
ここへはしばらく来れないと思いますけど、あなたのことだから退屈はしてないんでしょ?
そっちには絶世の美女が沢山いるでしょうし。でもあまり調子に乗ると、痛い目に遭いますよ。

「さあ、行こっか」

駅前まで戻って喫茶店に入り、私は美希にあの人とのことを話した。
それから、一番大事なことを言わなければ。

「ごめんね、隠してて。
 あなたに人の死なんて重いものを背負わせたくない、だから言わないのは美希のためだなんて、
 自分を誤魔化していたの。本当は、私があの人のことを吹っ切れてなかっただけ。
 新しい恋をして、あの人のことを忘れてしまうのが怖かった」
「律子、ミキも、ミキもごめんね。律子、こんなに辛い思いしてたのに、ミキ、自分勝手なことばかり言って、
 困らせちゃったの」

涙ぐむ美希は、とても可愛いと思った。

「だってそれは、真剣に私のことを想ってくれてたからだもの。
 私はそんな美希に、とても失礼なことをしていたと、やっと気づいたの。本当に、ごめんなさい。
 ……それでね、美希。
 私はこんな臆病で駄目な人間だけど、これからは、あなたとちゃんと向き合うことだけは約束する。
 あなたが必要だし、側にいさせてほしい。
 だから、よければその、改めて私と、付き合ってくれますか……?」

俯いてごしごしと涙を拭ってから、美希は顔を上げて言った。

「律子はやっぱりずるいの」
「え」
「そんなこと言ったって、ミキが断れないの分かってるくせに」
「あ、いや。その、嫌なら断っていいのよ?」
「バカ!」

美希の声に、周りのお客さんの視線が集まる。

「律子はほんとーにバカなの!おバカさんなの!」
「ちょ、ちょっと、美希」

慌てて美希の隣の席に移動して宥めようとしたら、思い切り抱きつかれた。

「イヤなわけないの!そんなことも分からないから、律子はダメダメなの!
 ……大好き……」

美希の言葉が、私の胸の奥に静かに降りて染みこんでいく。

「ミキね、絶対、絶対、律子のこと、幸せにする」
「ありがとう。私も、大好きよ」

  ※ ※ ※

布団から腕を伸ばして、枕元の時計のアラームを解除する。
いつもより少し早く目が覚めて良かった。
隣ですやすや眠っているお姫様は、けたたましい音で目覚めるのなんか嫌いだろうから。

カーテンの隙間から差し込んでいる朝日が、美希の柔らかな金髪と、あどけない寝顔を照らしている。
可愛いな。しみじみ、そう思う。
とても数時間前に、あんなことをした相手とは思えないくらい。

いやいや。そんなことを考えるとまた体が熱くなってしまいそうだ。
美希が倒れてから約一ヶ月。体調は完全に回復し、仕事もほぼ以前の量に戻ったのを見計らって、
私から美希を泊まりに来ないか誘った。
そして昨夜、私たちは初めて結ばれた。

前髪をそっと持ち上げて、軽くキスをする。

「ん……」
「おはよ、お姫様」
「んー、……おはよう……」
「ちょ、ちょっと、いきなり」

まだ半分寝ぼけた顔で、その中学生とは思えない豊満な胸に私を抱き寄せるから、焦ってしまう。

「律子、起きてたの……?」
「少し前にね。でもまだ早いから、もっと寝てていいわよ」
「よかった」
「何が?」
「ちゃんと、律子がいて」
「どこにも行くわけないじゃない。ここは私の家なんだし」
「でももしかして、もしかすると朝起きたら、いなくなっちゃうんじゃないかと思ってたの」
「そんなことしないわよ。私には美希が必要だもの」
「ほんとに?」
「本当よ。それに、幸せにしてくれるんでしょ?」
「うん。……ね、律子?」
「何?」

美希は私を抱きしめたままで、話を続ける。

「昨夜、よかった?」
「よかったって、つまりその、アレが?」
「うん」
「よかったわよ。美希が愛してくれて、嬉しかった」
「でもそれって、何て言うんだっけ……アイジョーホセー?ていうの入ってるんだよね?」
「それはあるけど、愛情と切り離して考えられる程私はスレてないわよ」
「それは嬉しいけど、ミキがもっと上手になれば、律子はもっともっと気持ち良くなれるってことだよね?」
「まあそう言えなくもないけど、別に無理しなくてもいいのよ?
 私は美希と、えーとその、愛し合えるだけで、満足なんだから」

なんだか美希と付き合うようになってから、恥ずかしいことを言わされる機会が多くなってる気がする。

「それじゃダメなの。もっと向上心を持たないとって、いつも律子言ってるの」
「あんた、こんな時だけ……」
「ミキね」

少し体を引きかけた私をまたしっかり抱きしめて、美希は私の髪に指を入れて梳く。
そうされるのは、とても気持ちいい。

「前のカノジョさんのことも込みで律子のこと好きだけど、やっぱりちょっとジェラシー感じちゃうの。
 だから、すぐにその人とした回数超えて、本当にミキとする方が気持ちいいって、
 律子に思ってもらえるように頑張るね」
「うん。あ、ありがと。でもさっきも言ったけど、あまり無理しなくても」
「無理じゃないの。今までだってずっと、ミキの気持ちもっともっと伝えたいって思ってたのに、
 律子がさせてくれなかったんだから、その分これからいっぱいするの」

そう言いながら体を反転させて、私はたちまち組み敷かれてしまった。
とても昨日初体験したばかりとは思えないスムーズさだ。
この子の飲み込みの早さが、こんなことにまで生かされるとは。

「いや、あのね美希?もうそろそろ起きなきゃいけない時間だし」
「まだ大丈夫だよ?ここから事務所近いし。
 これからは毎日朝と夜、少なくとも2回はしようね。キスはそうだな……20回はするの!」
「いやいやいや。いくらなんでもそれは」

焦る私の声は、熱い口づけで遮られた。
まあ、抵抗したって無駄だろう。色んな意味で、この子には敵わない。

「律子、大好き」

ほら。一言囁かれるだけで、私はその気になってしまう。
遅刻の言い訳は後で考えよう。そう思いながら、今度は私からキスをした。

<了>

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