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耳が痛くなるほど静かな事務所の中で、キーボードを叩く音だけが響いている。
 美希は律子を見ていた。彼女はパソコンのディスプレイに向かっていて、美希に背中を向けている。美希はオフィスの、別の社員の椅子に座っている。
 時刻は夜の八時。オフィスの窓にはブラインドがかかっていて、外の景色は見えない。それがまるで世界と断絶されているようにも思えた。
 律子と美希。二人だけの世界。
 ……なのに、こんなにもとおい。
 美希は律子に手を伸ばして、途中でやめた。
 なんとなく、触れがたいもののように思えたからだ。
 美希はそのまま顔を俯かせて、足をぷらぷらと揺らす。長い金髪の癖毛をいじりながら、無為に時間を過ごした。
 沈黙が続いている。美希にとって、重く、息苦しい時間。
 はたして律子はどうなのだろうか。
 ――遠いな。
 何度心の中で呟いたか分からない言葉を、再び思う。
 大好きな人との、二人きりの時間。どうしてもオフが不定期になってしまう美希にとって、この時間はとても貴重なはずだった。
 ましてや、律子は他のアイドルをプロデュースしているのだ。空く時間が合うはずもない。
 今この時間ができたのは、奇跡的といってもいい。
 だから、もっと有意義に使わなければいけないのだ。次会えるのは、一体いつになってしまうか分からないから。
 なのに――
 沈黙が続いている。
 律子はまだ終わっていなかった仕事をしており、美希はそれを後ろから見ているだけ。
 ただ、それだけ。
 ――ねぇ。
 美希は律子の背中に、声なき声をかける。
 ――ミキたち、恋人なんだよね?
 返事はない。当然のことだ。声に出していないのだから。
 ――こういうのって、恋人なのかな?
 分からない。ひょっとしたらそういうものなのかもしれない。
 美希は総てが初体験だ。告白をしたのも、それを受け入れられたのも、付き合うことも。
 だから恋とは、ロマンスに満ちあふれたものではなく――本当はこんな風に、微妙な距離を続けるものなのかもしれない。
 どうすればいいのだろうか。手を触れていいのだろうか。抱きついてしまったりしていいのだろうか。それは仕事の邪魔をしてまでするべきなのだろうか。――キスは?
 分からない。
 前は、こんなんじゃなかった気がする。
 律子にプロデュースしてもらっていたときは、もっと普通に接することができていた。自然に肩と肩を触れ合わせたり、後ろから抱きしめることだってできた。
 美希が引退コンサートをして、律子のもとから離れるときに、募っていた想いを打ち明けて……律子も顔を真っ赤にしながらオーケーをしてくれて。
 晴れて美希たちは恋人同士になった。
 なった、のに。
 今は関係を深める前よりも、繋がりが浅くなってしまった気がする。
 前は一体どんな話をしていたのだろうか。どんな顔で笑っていたのだろうか。
 思い出せなくなってきた。
 何故か顔が熱くなってくる。顔というより、目。じわりと視界が歪み、律子の姿が見えなくなり、
「……ぐす」
 無意識に口から嗚咽が漏れて、美希は泣いていることにようやく気づいた。
「み、美希?」
 その声に、律子が驚いた表情で振り返る。
「どうしたの……?」
 続いて心配そうな声になる。椅子のキャスターを転がして、美希へと近づいてくる。
 覗き込まれる。眼鏡の奥の澄んだ瞳が、美希を映す。
「……別に、何でもないの」
 自然と、ぶっきらぼうな口調になってしまった。
 違うのに。言いたいのはこんな言葉じゃないのに。本当は、本当は――
「そんなわけ、ないでしょ。何もないのに泣き出すわけないじゃない。どうかした?」
 気遣うような笑み。
 その優しさが、今はひたすらに辛い。
 律子と素っ気ない関係を続けるのは嫌だった。けれど、自分のワガママのせいで心配をかけさせてしまうのはもっと嫌だった。
 だから美希は首を振った。かたくなに横に振り続け、
「ひょっとして、私のせい?」
 それが逆効果だったことを知る。
 自責の念で律子を見ていられない。美希は深く顔を俯かせて、首を振り続ける。
 違う。そうじゃない。総て美希のワガママで、律子は何一つ悪くない。
 律子を好きになったのだって、きっと、
「もう」
 そう、困惑の色をにじませつつも律子は呟いて。
 そっと。
 美希の頭を抱えこみ、自らの胸元へと引き寄せた。
「私に心配かけたくないからって、一人で抱え込んでちゃ、余計に心配しちゃうわよ。どんなことでもいいから、私には言って欲しいわ」
 律子の体温と、柔らかな匂いを鼻腔に感じる。とくんとくんと、穏やかなリズムを刻む鼓動が聞こえる。
「美希。私たちって、……その」
 律子は少しだけ語尾を濁したあと、
「恋人、なんでしょ。だから――」
 その不意打ちの言葉に、美希は総て抑えられなくなった。
「りつこ……」
「ちょ、ちょっとっ」
 ぐしゃぐしゃの泣き顔を見られたくなくて、美希は律子の腰に手を回して、思い切り抱きついた。
 律子が困惑した声をあげるが、やがてやれやれと呟きながら、優しく美希の頭を撫でてくれた。

* * *

「――で、本当にどうしたの?」
 涙がようやく収まったとき、律子が聞いてきた。まるで赤子をあやすように、体を左右に揺らしながら。
「……本当に」
 美希は鼻をすすりながら、答える。顔は律子の胸元に埋めたまま。
「ミキたち、恋人なのかな、って思っちゃって」
「え、っと、違う、の?」
 律子が少し不安そうに声を出した。美希は彼女の顔を見上げる。
「……違わない」
「なら、いいじゃない。どうして?」
「違わないけど、こんなの、違うの」
「……よく分からないわ」
「恋人っていうのは、たぶん、二人きりなのにずっと黙ってるんじゃない、って思うな」
「…………」
 美希の言葉に、律子は顎に手を当てて口を閉ざした。
「やっぱり、そう?」
 やっぱり? その言葉に美希は引っかかった。だって、それじゃ――
「よく、分からなくて。なんて話しかけていいのか。……仕事の話とか聞くの、事務的すぎるじゃない。もっと違うこと聞いたほうがいいのかとか、色々考えちゃって」
 視線を左右に泳がせながら、律子はそう言った。照れ隠しなのか、美希の金髪を何度も梳きながら。
「……うん」
 同じだったのかな、と美希は思った。律子も、距離感が上手く掴めないだけだったのかな。
 そうだとしたら、とても馬鹿な悩みを抱えていたものだ。
 もし、本当に同じだったのなら。
「律子。お願いが、あります」
「な、なに?」
 言おうか言うまいか一瞬の間躊躇って、美希は勇気を振り絞って言った。
「キス、して」
「―――――」
 自分でも、そう言った唇が震えているのが分かった。まっすぐ律子の目を見つつも、不安で逸らしてしまいそうになる。
 多分これは、美希が思う一番恋人らしい行為だと思うから。
 律子は今、何を思っているのだろう。目を丸くしているが、その次に浮かべる表情は、拒否だろうか、それとも――
「――美希」
 ルージュの引かれた唇が小さく動いて、美希の名前を紡ぐ。
「つまらないこと、考えてるでしょ」
「え……」
 なんだろう。そんなつもりで言ったわけじゃないのに。
「こういうのは、固定観念でするものじゃないわ。恋人じゃなくたって……したいときにするものだと、私は思う」
 だから、と、律子は言って、
「私も、したいわ」
 ゆっくり、律子の顔が近づいてくる。視界が総て愛しい人で埋まる。
 目を閉じる。
 触れる――
 まるで小鳥がついばむようなキスだった。ただ、申し訳程度にちょんと先端に触れただけ。まるで感触も何もない。これじゃ自分の指で唇を触ったのと大差ない。
 だけど。だからこそ、“恋人”という義務から離れた、躊躇いと気遣い、不安と愛情、総てがこもった優しいキスだった。
 静かに律子の顔が離れてゆく。美希はそっと目を開けた。
 律子と目が合った。
 五秒ほど見つめ合ったのち、火山が噴火したかのように律子の顔が真っ赤になった。
「……み、美希」
 あうあう、と口をパクパクさせている。律子も、だいぶ勇気を振り絞っての行動だったのだろうか。
「ミキたちは、こいびと」
 美希は律子の目を見たまま呟いた。
 指を這わせて、首筋をなでて、彼女の頭を抱える。
 律子の顔を美希へ向かせる。
「こいびとで、いいんだよね」
 うう、と目を閉じながら、律子が頷く。
 ――ほんとうは。なんでもないことだったのかもしれない。
 ただ、キスをしようと言えばよかっただけ。
 恋人だからとか、そんな堅苦しい事務的なことじゃなくて。
 美希たちなりに。好きな人との想いを、深めていけばよかったのだ。
「律子。これから、なんでもないときに抱きついてもいい?」
「……もう、抱きついてるじゃない」
「お仕事の邪魔しても?」
「本当にダメなときは、ちゃんと言うわ」
「手、繋いでいい?」
「そ、そんなの、いつだっていいわよ」
「じゃあ、」
 額と額をくっつける。少し上目遣いで、美希は問う。

「今度はミキから、キスしていい?」

 うん、と赤い顔のまま律子は頷いて、
 美希は唇を重ね合わせた。
 今度は長く、深く――
 お互いの唇の柔らかさを感じ合う。
 体を密着させて、体温を分け合う。
 二人とも黙って、目を閉じて。
 唇に意識を集中させて。
 愛しさに胸をいっぱいにしながら。

 二人きりの世界で、時計の針が進んでゆく。
 美希たちの恋人は、始まってゆく。

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